R-15
図書委員
ガタンと体が揺れて、車内に到着駅のアナウンスが流れる。
いつの間にか新幹線の中で眠ってしまっていたようだ。
私は慌てて車両を降りると、新幹線ホームの階段を下っていく。そうすると、熱気と低いざわめきの流れる見慣れた駅の構内になる。それだけで地元に戻ってきたようで、少し安心する。
やっと着いた・・・
時間は四時前で、家に帰る学生の姿も見え始めるころだ。
私はいつもの通り、人気のないホームの端まで行き、そこで電車を待とうとする。
でもそこで、すれ違いざまに声を掛けられる。
「奥只見さん?」
もちろん私には、声を掛けてくるような友人など一人もいない。
無言で振り返れば、同じ高校の制服を着た女の子だった。見た感じ、同学年だろうか。
「今日、何か用事あったの? 図書委員の先輩が探してたよ」
「え・・・」
知らない人間に話しかけられ、私は咄嗟に返事をすることもできなくなる。馴れ馴れしく話しかけられたことには、腹立たしさまで感じる。
見たことのない顔だけど、私のサボりを知らないということは、少なくとも同じクラスではないはずだ。
それにしても今更、図書委員とは。
確かに私は図書委員になった、らしい。サボっている間にクジか何かで決められたのだ。押し付けられたようなものだけど、断るのも面倒だったので、適当に頷いておいた。
もちろん、一度も委員会には出席していない。いつどこでやっているのか、そもそも委員会の集まりがあるのかさえ知らないのだ。今まで声を掛けられたことすらないのだから、とっくに委員会からは除外されていると思っていた。
「休むんだったら、加茂先生に言っておいたほうがいいよ。後で何言われるか分かんないから」
誰だよそれ。第一、お前は何者だよ。勝手に話しかけてくるな!
そう思いながら、私は無言で頷くと、さっさと歩きだす。
ちらっと振り返ってみるけど、その子はもうどこかに行っていた。
よし、ついて来ないな。今日は疲れていて、早く帰りたいんだ。家に帰ってやることもあるし。
ホームの端の定位置まで行くと、電車はすぐに到着した。
そうして電車の隅に乗り込み、今度は無事、誰にも会わずに家まで辿り着く。
無言で玄関のドアを開け、自室に入ると、待っていたように私Bが姿を現す。
「おかえりー」
「うん、ただいま」
私は自分の幻覚、妄想相手に慣れない挨拶を返す。
「何かあったの? 情報の更新?」
カバンを置き、スカートとブラウスを脱ぎながら尋ねる。まぁ、それ以外で出てくることはないのだから、尋ねる必要もないことだろうけど。
「そうね。迷路の攻略も三回目だからね。いろいろと分かってきたよ」
私Bはそう言うけど、正確には私自身が意識下で感じ取っていることを、代弁しているだけらしい。その辺はまだよく分からないんだけど。
私はショートパンツを履き、大きめのTシャツを被って、ベッドの端に腰を下ろす。
「まず、この世界の禍の濃度はますます高くなっていってる。そのせいで禍の集積体ができやすくなってる」
「あの迷路でしょ? 今日なんか入ってから目玉の所まで、一時間以上かかったと思うんだけど」
「それだけ迷路の難易度が上がってるんだよね。迷路を作り出している禍の集積体が強力になってるからだよ」
「そう? 目玉自体は変わってないみたいだったけど」
「それはあなたが禍の影響を無効化してるからだよ。他の人間なら致命的な結果になるはず」
「具体的なことは分かるの?」
「迷路に入れば息苦しさや筋力低下とかかな。直接、集積体の範囲内に入れば、心停止、呼吸停止とかもあるかも。それとも、その前に精神をやられて廃人、昏睡状態になるかな」
私Bはすらすらと答える。前に聞いたときは情報不足と言っていたから、確かに情報が更新されている。
「どうして私は影響を受けないの?」
「あなたが修復機構の中でも、禍寄りの人間だからかな。でも周りの禍がどんどん強くなっていけば、そのうちあなたも禍の影響を受けるようになるかもしれないよ」
「・・・禍寄りって、なんか悪者みたいじゃない?」
「お似合いでしょ」
私が冗談っぽく言うと、私Bもそう返してくる。
「おい」
「まぁ、真面目に答えると禍福は便宜上そう呼んでるだけで、別に善悪でも何でもないんだけどね。あなたは特別に禍へ適性が高いから今まで何の影響も受けていないわけだし。大体あなた、寄って来る禍をぱっぱって払ってるでしょ? 普通、修復機構の一部でもあんなことできないんだよ」
「そうなの?」
いつの間にか寄って来てたりするから、かわいいとか思っていたんだけど・・・
「あれ、禍をコントロールしてるってことだからね。まぁ、修復機構の中でも、特別に防御特化ってとこかな。でもその分、福への適性が低いのがネックになるかな」
「福ってあれでしょ、目玉を壊すハンマー」
「形はハンマーに限らないんだけど。あれは自前の福を消費して禍を中和してるわけだから、適性が低いと蓄えておける福の総量も少なくなるし、それを効率的に使うことも苦手ってことになるわけ」
「攻撃力不足?」
「そうそう。今まで通り、目玉を壊すことにしか使わないんだったら、まだ何とかなると思うけど」
その言い方に、私は少し引っ掛かる。
「・・・目玉を壊すほかにも福の使い道があるってこと?」
「情報不足」
私Bは急に事務的に言う。
「でたよ・・・ そんな言い方して情報不足はおかしくない?」
「おかしくないよ。あなた自身が、他にも使えるんじゃないかって、感じてるんだから。そこまではまだ情報が更新されてないの」
「はいはい、そうですか」
私は多少呆れながら、話を切り上げる。
「あと最後に、消費した福の回復方法だけど、自然回復でもいいけど、それで大分早くなるから、どんどんしていいよ」
「はぁ?」
私Bは思わせぶりにカバンを指差す。
「カバンで何すんのよ」
「大丈夫だって。お仕事のためにも必要なことだし。邪魔しないからさ」
そう言って、私Bは口元を隠してクスクス笑いながら消える。
何なんだと思いながら、カバンの中身を整理しようとして、ハッと気づく。
もしかして、これのこと・・・?
カバンの中にはコンビニで買った、フィルムで包まれたイラスト満載の雑誌がある。確かに、帰ったらすぐにヤリたいとは思っていたけど・・・
福って、その、そういう行為で回復するものだったのか・・・
次の日、私は珍しくサボることもなく、放課後まで学校にいた。
家での作業が一段落着いたということもあるし、途中の授業で嫌な気分になることがなかったというのもある。
居眠りをしたり、ノートに落書きをしたり、文庫本を読んだりしていたけど、この私が放課後まできちんと学校にいたのだ。
これは褒められてしかるべきだろう。
でも、その仕打ちがこれだ。
「奥只見さん?」
その女子生徒は、どことなく不満そうな顔つきで、私を呼び止めた。
放課後すぐの教室の外。これから帰ろうという時に呼び止められ、不満があるのはこちらだというのに。
その緑色の靴紐は三年生だ。髪は真っ黒で、ブラウスのボタンはきっちり上まで留めているし、スカート丈も膝上程度。こんな真面目ちゃんが何の用だ。
「今日も何か用事があるの?」
先輩は問い詰めるような口調で言う。
今日も、と聞いて、昨日の誰かの話を思い出す。図書委員の先輩が探していたと言っていたっけ。
私が黙っていると、彼女は少し笑って見せた。
先輩に問い詰められて怖がっているとでも思ったのだろう。そんなかわいい顔の女の子を怖がる人間がいるものか。
「・・・別に」
「じゃあ、委員会、出られるよね?」
先輩がぱぁっと笑う。
「・・・はい」
私は集中すれば相手の本心がはっきりと聞くことができる。その力を使えば、相手の先手を打って嘘を吐くことなど容易い。
でも私はそんな言葉のやり取りがめんどくさくて、あっさりと引き下がる。こんな人間と意味のない会話を続けるなど、時間の無駄だ。
「じゃ、図書室、行こ」
そういって先導するようにすたすたと歩いていく。その後ろから俯いて歩いていく私は、連行されているようにも見えたかもしれない。
湖陵高の図書室の場所は知っているけど、来たのは数えるほどだ。
本は好きだけど、市の図書館行けば、もっといい環境で蔵書の数も桁違いだ。わざわざこんな図書室に来る理由はない。
とにかく、場所が悪い。図書室があるのは、建て替えが行われていない特別棟の三階。建て替えが行われたばかりの教室棟から来ると、そのぼろさは半端ない。その上、一階に降りてから三階まで登らなければならないので、非常に遠い。空調だけはしっかりと管理されているので、静かに本を読む環境としてはいいかもしれないけど、わざわざこんな所まで足を運ぶ人間はいないのではと思う。
それに蔵書の内容にも問題があるように思う。辞書や各教科の参考書的なものが多いのは分かるけど、その中でも古文の資料がやたらと多いのだ。一度、でかくてすごそうな本があるなと思って、手に取ってみたのだけど、中身はさっぱり読めなかった。そんな本を読む生徒がいるとは思えないほどだ。
そして私の予想を裏付けるように、放課後だというのに図書室は静まり返り、人の気配はなかった。
「あの、カウンター係の人は?」
「あ、今日は来ないよ。どうせ利用者も少ないから、私たちだけでいいって言っちゃった」
そうか。これであとから人が増えたらどうしようかと思ったけど、一安心といったところか。
「荷物は適当に置いて、こっち来て」
そう案内された机に行くと、先輩は奥の部屋から小さな道具箱を持って来た。中にはスティック状の固形のりが数本と小さなカッター、ボールペン、あとは大量の貸出カードと小さなポチ袋のようなものが入っていた。
「奥只見さん、委員会に出るの初めてだよね。私は三年の諏訪。奥只見さんと一緒の修繕係なんだけど、いつ行ってもいないんだもの。やっと捕まえたわ」
そう言いながら先輩は、今度は本屋さんで見るような図書運搬用のカートを出してきた。
「修繕係は、本の貸出カードとそれを差しておく袋があるでしょ? あれが破れたりしてないか確認して、直していくの」
先輩は手近な本を取って裏表紙を開くと、これね、と貸出カードの入った茶色い袋を見せてくる。
たまに行く市の図書館では、全部バーコード管理だから、貸出カードというのは初めて見る。今時、こんなことをしていることからも、どれだけ利用者が少ないかが分かるというものだ。
「そっからそこまでは一人でやったんだけど、今日からはちゃんと手伝ってよね。休み前までに全部チェックするんだから」
「はぁ・・・」
先輩は書架の一部分を指差して言う。一人でこんなにやった、とドヤ顔だけど、図書室全体からすれば、ごくわずかな量だ。
半月以内に、この図書室の本、ほぼ全てをチェックすると言っているのか? いや、破れたりしていなければ何もしなくていいわけだから、可能か?
私が目算を付けようとしていると、先輩は一冊の本を選んで持ってくる。
「こんなふうに古くなってるやつは簡単に剝がれるから。剥がれなかったら、そのままでいいよ」
そう言って、図書カードを抜いて、茶色い袋をペリッと剥がす。
「そして新しい袋の上の部分にだけのりを付けて、同じところに貼る。のりは付けすぎないようにね。あと貸出カードがボロボロになってたら、それも書き直してね」
先輩は台紙の上でポチ袋を裏返すと、色つきの固形のりを滑らせ、本にぺたりと貼り、貸出カードを差す。
「分かった?」
私は無言で頷く。
「じゃあ、私が確認して、直す本を持ってくるから、奥只見さんはここで貼り替えて。どの程度で直しが必要か分かってきたら、交代しましょ」
「はい・・・」
そうして先輩はカートを押して書架の方に行き、数冊ずつ本を持ってくる。
最初の二冊くらいは、きちんと直せているか確認していたけど、すぐに大丈夫だと思ったのだろう、それからは確認もせずに持って行くという流れ作業になった。
静かな図書室の中で、袋を付け替える音と貸出カードを書き直す音、そして本を出し入れする音だけがする。
こういう、何も考えずに無心になれる作業は苦ではない。それに、こんな本もあるんだという発見もある。
私はこの時間に居心地の良さを感じていた。
でもそこに先輩の声が水を差す。
「奥只見さん、器用だし仕事が丁寧だよね」
私の作業スピードが上がっているのを見て、先輩が感心した様子で言った。
いや、こんなの誰がやったって同じだと思うけど。
「私は細かい作業とかはちょっとねー。どちらかと言うと、体を動かす方が好きかな」
だから何だというんだ。こっちは作業に集中したいんだから、話しかけてくるな。
そう思うけど、先輩はカートを押してくる度に何かと話題を振ってくる。
「図書委員は立候補?」
「・・・」
「まぁ、立候補なんてしないか。でも私、二年の時も図書委員やったんだよ」
試しに黙っていたらどうするかと思ったけど、先輩はそのまま話し続けていた。
「その時はカウンター係でさ。図書室なんてこんな所にあるから誰も来ないでしょ? ほとんどカウンター係の自習室でさ、おかげで成績上がっちゃったよ」
そう言って先輩は笑う。
今のは自虐というやつだろうか。
確かに自習目的なら、教室棟に自販機のそろった自習室があるから、図書室には来ないだろう。
「今年はじゃんけんで負けちゃったから修繕係になったけど、一通りチェックしてしまえば暇になるし、カウンター係のヘルプってことで入り浸ってもいいかもね」
いや、そんなにこの図書室が好きなの? それにカウンター係って一番の閑職でしょ?
「さて、そろそろどの程度で直すか分かってきた? 本運ぶのと交代する?」
「いえ・・・」
「そう? なんか細かい事させて悪いね。飽きてきたら言ってね。交代するから」
細かい作業をしたくないのなら、そのまま黙って後輩にやらせていればいいのに。変なところで気を遣う人だな。
それに私はろくな返事をしていないのに、ずっと話しかけてくるし、返事を求めているふうでもない。話しかけても無駄だ、とか思わないんだろうか。
今まで、どのクラスにも、私が話しかけてあげなきゃ、みたいな義務感で話しかけてくる人間はいた。
でも、先輩はそれとは違う気がする。
どことなく、私の性格を受け入れた上で、友好的に、そして無理をさせないように接してくれているような気がする。
・・・いや、私の思い込みだろう。
その後も先輩はどうでもいいようなことをしゃべり続け、私は気が向いたときにだけ、返事を返した。
普段なら話しかけられただけで気が動転してしまうこともあるけど、先輩の場合はそんなこともなく、とても穏やかな時間だった。
「じゃあ、今日はこれくらいにしておこうか」
時刻は午後六時に差し掛かった頃、先輩がそう言った。季節柄、外はまだ明るいけど、他の部活もそろそろ終わるような時間だ。
「だいぶいいペースだし、この分なら間に合うかな。一人だけじゃ、とても終わらなかったよ」
先輩は、今日の作業分を見て、満足そうに頷いている。
私が貸出カードやポチ袋を輪ゴムで留めて箱に戻すと、先輩はそれを片付けてくれる。
そうして先輩は戸締りをして、鍵を掛ける。私は何となくそれを待って、先輩の後ろに続いて階段を降りて行く。
そして特別棟から渡り廊下を通り、職員室のある管理棟の前で先輩が振り返る。
「さっと鍵置いてくるから、途中まで一緒に帰らない?」
いきなり何を言い出すんだ。そういうのは嫌いなのが分からないのか? 第一、ろくに返事もしないような後輩と一緒に帰って、何が楽しいんだ。
「いえ・・・」
私は感情を抑え、そう返すのが精一杯だった。
「そっか。明日も委員会、お願いできる?」
その問いに対しては黙って頷いておく。
今日は、二人っきりでも特に不快ではなかったけど、それはたまたまかもしれない。
早くも私はサボるための算段を始めていた。
そんなことを知らない先輩は笑顔を浮かべ、お疲れ様と言って帰って行った。
私はそれを見送り、先輩とは逆方向、体育館側の出入り口へと歩いて行く。
翌日の放課後、特に委員会に出る意味もないのでサボるつもりにしていたけど、教室から出たところを先輩に見つかってしまう。
目が合ってしまい、先輩がにっこりと笑う。
自分の授業が終わるとすぐに、こちらに来たのだろう。そうまでして逃がしたくないのだろうか。
私としてもそこまで帰りたいわけではないので、昨日のように、先輩の後について図書室に向かう。
やはり図書室には私たちの他には誰も、カウンター係さえいなかった。
昨日も結局人が来ることはなかったし、ここまで人がいないと、本当に開館日なのかと疑ってしまう。
まぁ、作業を進めるのにはいい環境だ。
先輩は今日も事あるごとに話しかけてくるけど、私はそのほとんどを聞き流していた。先輩もそのことには気付いているはずだけど、気にする様子もなく、一人でしゃべり続けている。特に返事を求められているわけではないと分かると、気は楽になる。
それに、先輩の声は気分が落ち着く。
「それで、バド部でそこそこ頑張ってたんだけど、うちのバド部って、そもそも弱小でしょ? 早々に予選敗退して、私も引退ってわけ。おかげでこっちの方に集中できるんだけどね」
何か部活の話をしていたと思ったら、引退したって話か。そんなに委員会の仕事好きなのかな。でも責任感は強そうだし、遅れを取り戻そうとしてるんだろうな。
その遅れが誰のせいかは知らないけど。
「委員会の方も、一学期中に全部チェックしてから引退って考えてたから、間に合いそうで良かったよ」
ん? 今、委員会引退って言った?
「引退、ですか?」
思わず、そう確認してしまう。
「そ。一通りやってしまえば後は暇になるのが修繕係のいいところだよね。まぁ、私は作業が終わった後も自習室として使わせてもらうつもりだけどね。ここの図書室の雰囲気、好きだし」
なんだ・・・
私は内心、安堵の溜息を吐く。
あれ、私は何に安心してるんだ? 早く終わらせれば、委員会なんて余計な仕事をしなくて済むようになるからか? まぁ、きっとそうだろう。
でも私も、図書室の雰囲気は嫌いじゃない。ひっそりとした、本の匂いがして、先輩の声が聞こえてくる、この空間が。
「あ、あと明日は委員会、休みにしてもらったから。私、ちょっと用事が入っちゃってさ。奥只見さん一人でやってもらうのもなんだしね」
いや、別に好きでやってるわけじゃないんで、休みは大歓迎ですけど。
「明後日は大丈夫?」
私は無言で頷く。
「じゃあ、今度は明後日、よろしくね」
そう言って先輩は片付けと戸締りをする。
私はその様子を眺めながら、先輩の後に続いて図書室を出た。
そして一階の渡り廊下の所で、職員室に鍵を返しに行く先輩に軽く頭を下げ、そのまま帰った。
次の日、私はなぜか朝からソワソワしていた。
休み時間の度に廊下に目をやってしまう。
先輩が来て、『ごめん。用事なくなっちゃった。今日、委員会お願いできる?』などと言ってくるのではないかと考えてしまうのだ。
でも、それでどうして私がソワソワしなければならないのか。めんどくさい仕事をやらなくて済んで、丁度いいはずなのに・・・
多分、予定外の仕事が増えるんじゃないかと、警戒していたんだろう・・・
休み時間中だけでなく、昼休み中も先輩に呼ばれたような気がして、廊下に視線をやることが何度もあった。
でも結局、先輩は教室を訪ねてくることはなく、校内で偶然出会うこともなかった。
最後の授業の後も、だらだらと帰り支度をしていたのだけど、先輩の姿はない。
私は久しぶりに、何の用事もなく、早々に家に帰れたのだった。
次の放課後、私は廊下に先輩の姿を見つけると、その後について図書室へと向かう。
先輩は今まで通りに作業の続きに入る。
それはごく当たり前のことで、先輩にとっては昨日一日委員会を休んだというだけなのだろう。
それは私にとっても同じことだけど、私の昨日の気持ちに対して、何か釈明して欲しかった。
自分でも意味不明で理不尽だとは分かっているけど、平然と作業を再開しようとする先輩の態度にイライラがつのってくる。
「先輩」
「ん? なぁに?」
私が意を決して話しかけたというのに、先輩はお気楽な様子だ。
「昨日の用事って、委員会より大切なことだったんですか?」
そう口に出してしまってから、自分でも違和感に気付く。
あれ、これって何か聞き方おかしくない? 口調も怒ってるみたいになってるし・・・
「あ、ごめんね。昨日は歯医者に行ってきたの」
いや、別に先輩が謝るようなことじゃないし。私も別に委員会なんてやりたいわけじゃないんだし。
いつも通りに無言で流そうとするけど、それではいつまでも怒っていると勘違いされるのでは、と思い至る。
でももう空白の時間が出来てしまった。
今更、なんて言えばいいんだ・・・
そう迷っていると先輩が口を開いた。
「奥只見さんにはきちんと理由まで言えばよかったね。ごめん」
「別に。いいですけど」
その先輩の一言のおかげで、きちんと『怒っていない』と否定することができた。やっぱり先輩は私のこと、よく分かってくれてるのかもしれない。
ありがとうございます、と言いかけて、止める。
いきなりお礼を言われても何のことか分からないだろうし、私だってそこまで親しくなりたいわけじゃない。
明るく爽やかな先輩と、暗く一人きりの私とでは住む世界が違う。下手なことをしてリスクを負うより、無難に今の状態を維持する方がずっといい。
私は先輩の近くで、先輩の声を聞いて、たまに先輩の後姿を眺めるだけでいいんだ。
「ここの司書の加茂先生って言えば、前はどこかの大学院で、古典の研究やってたって知ってる? なんかその道では結構有名で、だから国語の北浦先生とも話が合うんだって。県の図書館でもなかったような本がうちにあるのって、そのせいなんだってさ」
先輩はいつも通り、一人でしゃべっている。
内容はうちの教師陣の噂話らしい。私にとってはどれも初耳だ。いつもだったらそんな話には全く興味はないけど、先輩の声は自然と耳に入って来る。
私は先輩の声をBGMに、淡々と作業を進める。
心を落ち着かせれば、いつも通りの時間が過ぎていく。
そして今日の作業も終わり、連れ立って図書室から出て、いつもの渡り廊下に差し掛かった時だった。
「あの、奥只見さん。今日は一緒に帰れる?」
「え?」
不意の先輩の誘いに、思わず声が漏れる。
二度目の誘いだった。
また先輩が誘ってくれた。私は自分の鼓動が速くなり、顔が熱を帯びてくるのを感じた。
ダメだ、欲を出すな!
私は精一杯の自制心を働かせて、俯いた。
「いえ、ちょっと教室に忘れ物をしたので・・・」
一緒に帰るという誘いを断るには弱い理由だとは思ったけど、それで先輩は察してくれたようだ。
「そっか・・・ じゃあ、また明日お願いね」
そう言ってにっこり笑うと、先輩は職員室に鍵を返しに行く。
そして私はああ言った手前、教室棟へと向かう。
まぁ、少し時間を潰して出ればいいか。私は裏門から出るから、先輩と生徒玄関で鉢合わせすることもないだろう。
私は売店前の自販機で乳酸菌飲料を買って、出しっぱなしのイスに腰を下ろして一息つく。
先輩の誘いを断ったことには、後悔はない。
そう自分に言い聞かせる。
先輩は何の気なしに言ってくるけど、それが多大なストレスになっていることが、どうして分からないんだろう。
私は今のままがいいんだ。
いざとなったらいつでも離れられる、今のままが。
いつの間にか新幹線の中で眠ってしまっていたようだ。
私は慌てて車両を降りると、新幹線ホームの階段を下っていく。そうすると、熱気と低いざわめきの流れる見慣れた駅の構内になる。それだけで地元に戻ってきたようで、少し安心する。
やっと着いた・・・
時間は四時前で、家に帰る学生の姿も見え始めるころだ。
私はいつもの通り、人気のないホームの端まで行き、そこで電車を待とうとする。
でもそこで、すれ違いざまに声を掛けられる。
「奥只見さん?」
もちろん私には、声を掛けてくるような友人など一人もいない。
無言で振り返れば、同じ高校の制服を着た女の子だった。見た感じ、同学年だろうか。
「今日、何か用事あったの? 図書委員の先輩が探してたよ」
「え・・・」
知らない人間に話しかけられ、私は咄嗟に返事をすることもできなくなる。馴れ馴れしく話しかけられたことには、腹立たしさまで感じる。
見たことのない顔だけど、私のサボりを知らないということは、少なくとも同じクラスではないはずだ。
それにしても今更、図書委員とは。
確かに私は図書委員になった、らしい。サボっている間にクジか何かで決められたのだ。押し付けられたようなものだけど、断るのも面倒だったので、適当に頷いておいた。
もちろん、一度も委員会には出席していない。いつどこでやっているのか、そもそも委員会の集まりがあるのかさえ知らないのだ。今まで声を掛けられたことすらないのだから、とっくに委員会からは除外されていると思っていた。
「休むんだったら、加茂先生に言っておいたほうがいいよ。後で何言われるか分かんないから」
誰だよそれ。第一、お前は何者だよ。勝手に話しかけてくるな!
そう思いながら、私は無言で頷くと、さっさと歩きだす。
ちらっと振り返ってみるけど、その子はもうどこかに行っていた。
よし、ついて来ないな。今日は疲れていて、早く帰りたいんだ。家に帰ってやることもあるし。
ホームの端の定位置まで行くと、電車はすぐに到着した。
そうして電車の隅に乗り込み、今度は無事、誰にも会わずに家まで辿り着く。
無言で玄関のドアを開け、自室に入ると、待っていたように私Bが姿を現す。
「おかえりー」
「うん、ただいま」
私は自分の幻覚、妄想相手に慣れない挨拶を返す。
「何かあったの? 情報の更新?」
カバンを置き、スカートとブラウスを脱ぎながら尋ねる。まぁ、それ以外で出てくることはないのだから、尋ねる必要もないことだろうけど。
「そうね。迷路の攻略も三回目だからね。いろいろと分かってきたよ」
私Bはそう言うけど、正確には私自身が意識下で感じ取っていることを、代弁しているだけらしい。その辺はまだよく分からないんだけど。
私はショートパンツを履き、大きめのTシャツを被って、ベッドの端に腰を下ろす。
「まず、この世界の禍の濃度はますます高くなっていってる。そのせいで禍の集積体ができやすくなってる」
「あの迷路でしょ? 今日なんか入ってから目玉の所まで、一時間以上かかったと思うんだけど」
「それだけ迷路の難易度が上がってるんだよね。迷路を作り出している禍の集積体が強力になってるからだよ」
「そう? 目玉自体は変わってないみたいだったけど」
「それはあなたが禍の影響を無効化してるからだよ。他の人間なら致命的な結果になるはず」
「具体的なことは分かるの?」
「迷路に入れば息苦しさや筋力低下とかかな。直接、集積体の範囲内に入れば、心停止、呼吸停止とかもあるかも。それとも、その前に精神をやられて廃人、昏睡状態になるかな」
私Bはすらすらと答える。前に聞いたときは情報不足と言っていたから、確かに情報が更新されている。
「どうして私は影響を受けないの?」
「あなたが修復機構の中でも、禍寄りの人間だからかな。でも周りの禍がどんどん強くなっていけば、そのうちあなたも禍の影響を受けるようになるかもしれないよ」
「・・・禍寄りって、なんか悪者みたいじゃない?」
「お似合いでしょ」
私が冗談っぽく言うと、私Bもそう返してくる。
「おい」
「まぁ、真面目に答えると禍福は便宜上そう呼んでるだけで、別に善悪でも何でもないんだけどね。あなたは特別に禍へ適性が高いから今まで何の影響も受けていないわけだし。大体あなた、寄って来る禍をぱっぱって払ってるでしょ? 普通、修復機構の一部でもあんなことできないんだよ」
「そうなの?」
いつの間にか寄って来てたりするから、かわいいとか思っていたんだけど・・・
「あれ、禍をコントロールしてるってことだからね。まぁ、修復機構の中でも、特別に防御特化ってとこかな。でもその分、福への適性が低いのがネックになるかな」
「福ってあれでしょ、目玉を壊すハンマー」
「形はハンマーに限らないんだけど。あれは自前の福を消費して禍を中和してるわけだから、適性が低いと蓄えておける福の総量も少なくなるし、それを効率的に使うことも苦手ってことになるわけ」
「攻撃力不足?」
「そうそう。今まで通り、目玉を壊すことにしか使わないんだったら、まだ何とかなると思うけど」
その言い方に、私は少し引っ掛かる。
「・・・目玉を壊すほかにも福の使い道があるってこと?」
「情報不足」
私Bは急に事務的に言う。
「でたよ・・・ そんな言い方して情報不足はおかしくない?」
「おかしくないよ。あなた自身が、他にも使えるんじゃないかって、感じてるんだから。そこまではまだ情報が更新されてないの」
「はいはい、そうですか」
私は多少呆れながら、話を切り上げる。
「あと最後に、消費した福の回復方法だけど、自然回復でもいいけど、それで大分早くなるから、どんどんしていいよ」
「はぁ?」
私Bは思わせぶりにカバンを指差す。
「カバンで何すんのよ」
「大丈夫だって。お仕事のためにも必要なことだし。邪魔しないからさ」
そう言って、私Bは口元を隠してクスクス笑いながら消える。
何なんだと思いながら、カバンの中身を整理しようとして、ハッと気づく。
もしかして、これのこと・・・?
カバンの中にはコンビニで買った、フィルムで包まれたイラスト満載の雑誌がある。確かに、帰ったらすぐにヤリたいとは思っていたけど・・・
福って、その、そういう行為で回復するものだったのか・・・
次の日、私は珍しくサボることもなく、放課後まで学校にいた。
家での作業が一段落着いたということもあるし、途中の授業で嫌な気分になることがなかったというのもある。
居眠りをしたり、ノートに落書きをしたり、文庫本を読んだりしていたけど、この私が放課後まできちんと学校にいたのだ。
これは褒められてしかるべきだろう。
でも、その仕打ちがこれだ。
「奥只見さん?」
その女子生徒は、どことなく不満そうな顔つきで、私を呼び止めた。
放課後すぐの教室の外。これから帰ろうという時に呼び止められ、不満があるのはこちらだというのに。
その緑色の靴紐は三年生だ。髪は真っ黒で、ブラウスのボタンはきっちり上まで留めているし、スカート丈も膝上程度。こんな真面目ちゃんが何の用だ。
「今日も何か用事があるの?」
先輩は問い詰めるような口調で言う。
今日も、と聞いて、昨日の誰かの話を思い出す。図書委員の先輩が探していたと言っていたっけ。
私が黙っていると、彼女は少し笑って見せた。
先輩に問い詰められて怖がっているとでも思ったのだろう。そんなかわいい顔の女の子を怖がる人間がいるものか。
「・・・別に」
「じゃあ、委員会、出られるよね?」
先輩がぱぁっと笑う。
「・・・はい」
私は集中すれば相手の本心がはっきりと聞くことができる。その力を使えば、相手の先手を打って嘘を吐くことなど容易い。
でも私はそんな言葉のやり取りがめんどくさくて、あっさりと引き下がる。こんな人間と意味のない会話を続けるなど、時間の無駄だ。
「じゃ、図書室、行こ」
そういって先導するようにすたすたと歩いていく。その後ろから俯いて歩いていく私は、連行されているようにも見えたかもしれない。
湖陵高の図書室の場所は知っているけど、来たのは数えるほどだ。
本は好きだけど、市の図書館行けば、もっといい環境で蔵書の数も桁違いだ。わざわざこんな図書室に来る理由はない。
とにかく、場所が悪い。図書室があるのは、建て替えが行われていない特別棟の三階。建て替えが行われたばかりの教室棟から来ると、そのぼろさは半端ない。その上、一階に降りてから三階まで登らなければならないので、非常に遠い。空調だけはしっかりと管理されているので、静かに本を読む環境としてはいいかもしれないけど、わざわざこんな所まで足を運ぶ人間はいないのではと思う。
それに蔵書の内容にも問題があるように思う。辞書や各教科の参考書的なものが多いのは分かるけど、その中でも古文の資料がやたらと多いのだ。一度、でかくてすごそうな本があるなと思って、手に取ってみたのだけど、中身はさっぱり読めなかった。そんな本を読む生徒がいるとは思えないほどだ。
そして私の予想を裏付けるように、放課後だというのに図書室は静まり返り、人の気配はなかった。
「あの、カウンター係の人は?」
「あ、今日は来ないよ。どうせ利用者も少ないから、私たちだけでいいって言っちゃった」
そうか。これであとから人が増えたらどうしようかと思ったけど、一安心といったところか。
「荷物は適当に置いて、こっち来て」
そう案内された机に行くと、先輩は奥の部屋から小さな道具箱を持って来た。中にはスティック状の固形のりが数本と小さなカッター、ボールペン、あとは大量の貸出カードと小さなポチ袋のようなものが入っていた。
「奥只見さん、委員会に出るの初めてだよね。私は三年の諏訪。奥只見さんと一緒の修繕係なんだけど、いつ行ってもいないんだもの。やっと捕まえたわ」
そう言いながら先輩は、今度は本屋さんで見るような図書運搬用のカートを出してきた。
「修繕係は、本の貸出カードとそれを差しておく袋があるでしょ? あれが破れたりしてないか確認して、直していくの」
先輩は手近な本を取って裏表紙を開くと、これね、と貸出カードの入った茶色い袋を見せてくる。
たまに行く市の図書館では、全部バーコード管理だから、貸出カードというのは初めて見る。今時、こんなことをしていることからも、どれだけ利用者が少ないかが分かるというものだ。
「そっからそこまでは一人でやったんだけど、今日からはちゃんと手伝ってよね。休み前までに全部チェックするんだから」
「はぁ・・・」
先輩は書架の一部分を指差して言う。一人でこんなにやった、とドヤ顔だけど、図書室全体からすれば、ごくわずかな量だ。
半月以内に、この図書室の本、ほぼ全てをチェックすると言っているのか? いや、破れたりしていなければ何もしなくていいわけだから、可能か?
私が目算を付けようとしていると、先輩は一冊の本を選んで持ってくる。
「こんなふうに古くなってるやつは簡単に剝がれるから。剥がれなかったら、そのままでいいよ」
そう言って、図書カードを抜いて、茶色い袋をペリッと剥がす。
「そして新しい袋の上の部分にだけのりを付けて、同じところに貼る。のりは付けすぎないようにね。あと貸出カードがボロボロになってたら、それも書き直してね」
先輩は台紙の上でポチ袋を裏返すと、色つきの固形のりを滑らせ、本にぺたりと貼り、貸出カードを差す。
「分かった?」
私は無言で頷く。
「じゃあ、私が確認して、直す本を持ってくるから、奥只見さんはここで貼り替えて。どの程度で直しが必要か分かってきたら、交代しましょ」
「はい・・・」
そうして先輩はカートを押して書架の方に行き、数冊ずつ本を持ってくる。
最初の二冊くらいは、きちんと直せているか確認していたけど、すぐに大丈夫だと思ったのだろう、それからは確認もせずに持って行くという流れ作業になった。
静かな図書室の中で、袋を付け替える音と貸出カードを書き直す音、そして本を出し入れする音だけがする。
こういう、何も考えずに無心になれる作業は苦ではない。それに、こんな本もあるんだという発見もある。
私はこの時間に居心地の良さを感じていた。
でもそこに先輩の声が水を差す。
「奥只見さん、器用だし仕事が丁寧だよね」
私の作業スピードが上がっているのを見て、先輩が感心した様子で言った。
いや、こんなの誰がやったって同じだと思うけど。
「私は細かい作業とかはちょっとねー。どちらかと言うと、体を動かす方が好きかな」
だから何だというんだ。こっちは作業に集中したいんだから、話しかけてくるな。
そう思うけど、先輩はカートを押してくる度に何かと話題を振ってくる。
「図書委員は立候補?」
「・・・」
「まぁ、立候補なんてしないか。でも私、二年の時も図書委員やったんだよ」
試しに黙っていたらどうするかと思ったけど、先輩はそのまま話し続けていた。
「その時はカウンター係でさ。図書室なんてこんな所にあるから誰も来ないでしょ? ほとんどカウンター係の自習室でさ、おかげで成績上がっちゃったよ」
そう言って先輩は笑う。
今のは自虐というやつだろうか。
確かに自習目的なら、教室棟に自販機のそろった自習室があるから、図書室には来ないだろう。
「今年はじゃんけんで負けちゃったから修繕係になったけど、一通りチェックしてしまえば暇になるし、カウンター係のヘルプってことで入り浸ってもいいかもね」
いや、そんなにこの図書室が好きなの? それにカウンター係って一番の閑職でしょ?
「さて、そろそろどの程度で直すか分かってきた? 本運ぶのと交代する?」
「いえ・・・」
「そう? なんか細かい事させて悪いね。飽きてきたら言ってね。交代するから」
細かい作業をしたくないのなら、そのまま黙って後輩にやらせていればいいのに。変なところで気を遣う人だな。
それに私はろくな返事をしていないのに、ずっと話しかけてくるし、返事を求めているふうでもない。話しかけても無駄だ、とか思わないんだろうか。
今まで、どのクラスにも、私が話しかけてあげなきゃ、みたいな義務感で話しかけてくる人間はいた。
でも、先輩はそれとは違う気がする。
どことなく、私の性格を受け入れた上で、友好的に、そして無理をさせないように接してくれているような気がする。
・・・いや、私の思い込みだろう。
その後も先輩はどうでもいいようなことをしゃべり続け、私は気が向いたときにだけ、返事を返した。
普段なら話しかけられただけで気が動転してしまうこともあるけど、先輩の場合はそんなこともなく、とても穏やかな時間だった。
「じゃあ、今日はこれくらいにしておこうか」
時刻は午後六時に差し掛かった頃、先輩がそう言った。季節柄、外はまだ明るいけど、他の部活もそろそろ終わるような時間だ。
「だいぶいいペースだし、この分なら間に合うかな。一人だけじゃ、とても終わらなかったよ」
先輩は、今日の作業分を見て、満足そうに頷いている。
私が貸出カードやポチ袋を輪ゴムで留めて箱に戻すと、先輩はそれを片付けてくれる。
そうして先輩は戸締りをして、鍵を掛ける。私は何となくそれを待って、先輩の後ろに続いて階段を降りて行く。
そして特別棟から渡り廊下を通り、職員室のある管理棟の前で先輩が振り返る。
「さっと鍵置いてくるから、途中まで一緒に帰らない?」
いきなり何を言い出すんだ。そういうのは嫌いなのが分からないのか? 第一、ろくに返事もしないような後輩と一緒に帰って、何が楽しいんだ。
「いえ・・・」
私は感情を抑え、そう返すのが精一杯だった。
「そっか。明日も委員会、お願いできる?」
その問いに対しては黙って頷いておく。
今日は、二人っきりでも特に不快ではなかったけど、それはたまたまかもしれない。
早くも私はサボるための算段を始めていた。
そんなことを知らない先輩は笑顔を浮かべ、お疲れ様と言って帰って行った。
私はそれを見送り、先輩とは逆方向、体育館側の出入り口へと歩いて行く。
翌日の放課後、特に委員会に出る意味もないのでサボるつもりにしていたけど、教室から出たところを先輩に見つかってしまう。
目が合ってしまい、先輩がにっこりと笑う。
自分の授業が終わるとすぐに、こちらに来たのだろう。そうまでして逃がしたくないのだろうか。
私としてもそこまで帰りたいわけではないので、昨日のように、先輩の後について図書室に向かう。
やはり図書室には私たちの他には誰も、カウンター係さえいなかった。
昨日も結局人が来ることはなかったし、ここまで人がいないと、本当に開館日なのかと疑ってしまう。
まぁ、作業を進めるのにはいい環境だ。
先輩は今日も事あるごとに話しかけてくるけど、私はそのほとんどを聞き流していた。先輩もそのことには気付いているはずだけど、気にする様子もなく、一人でしゃべり続けている。特に返事を求められているわけではないと分かると、気は楽になる。
それに、先輩の声は気分が落ち着く。
「それで、バド部でそこそこ頑張ってたんだけど、うちのバド部って、そもそも弱小でしょ? 早々に予選敗退して、私も引退ってわけ。おかげでこっちの方に集中できるんだけどね」
何か部活の話をしていたと思ったら、引退したって話か。そんなに委員会の仕事好きなのかな。でも責任感は強そうだし、遅れを取り戻そうとしてるんだろうな。
その遅れが誰のせいかは知らないけど。
「委員会の方も、一学期中に全部チェックしてから引退って考えてたから、間に合いそうで良かったよ」
ん? 今、委員会引退って言った?
「引退、ですか?」
思わず、そう確認してしまう。
「そ。一通りやってしまえば後は暇になるのが修繕係のいいところだよね。まぁ、私は作業が終わった後も自習室として使わせてもらうつもりだけどね。ここの図書室の雰囲気、好きだし」
なんだ・・・
私は内心、安堵の溜息を吐く。
あれ、私は何に安心してるんだ? 早く終わらせれば、委員会なんて余計な仕事をしなくて済むようになるからか? まぁ、きっとそうだろう。
でも私も、図書室の雰囲気は嫌いじゃない。ひっそりとした、本の匂いがして、先輩の声が聞こえてくる、この空間が。
「あ、あと明日は委員会、休みにしてもらったから。私、ちょっと用事が入っちゃってさ。奥只見さん一人でやってもらうのもなんだしね」
いや、別に好きでやってるわけじゃないんで、休みは大歓迎ですけど。
「明後日は大丈夫?」
私は無言で頷く。
「じゃあ、今度は明後日、よろしくね」
そう言って先輩は片付けと戸締りをする。
私はその様子を眺めながら、先輩の後に続いて図書室を出た。
そして一階の渡り廊下の所で、職員室に鍵を返しに行く先輩に軽く頭を下げ、そのまま帰った。
次の日、私はなぜか朝からソワソワしていた。
休み時間の度に廊下に目をやってしまう。
先輩が来て、『ごめん。用事なくなっちゃった。今日、委員会お願いできる?』などと言ってくるのではないかと考えてしまうのだ。
でも、それでどうして私がソワソワしなければならないのか。めんどくさい仕事をやらなくて済んで、丁度いいはずなのに・・・
多分、予定外の仕事が増えるんじゃないかと、警戒していたんだろう・・・
休み時間中だけでなく、昼休み中も先輩に呼ばれたような気がして、廊下に視線をやることが何度もあった。
でも結局、先輩は教室を訪ねてくることはなく、校内で偶然出会うこともなかった。
最後の授業の後も、だらだらと帰り支度をしていたのだけど、先輩の姿はない。
私は久しぶりに、何の用事もなく、早々に家に帰れたのだった。
次の放課後、私は廊下に先輩の姿を見つけると、その後について図書室へと向かう。
先輩は今まで通りに作業の続きに入る。
それはごく当たり前のことで、先輩にとっては昨日一日委員会を休んだというだけなのだろう。
それは私にとっても同じことだけど、私の昨日の気持ちに対して、何か釈明して欲しかった。
自分でも意味不明で理不尽だとは分かっているけど、平然と作業を再開しようとする先輩の態度にイライラがつのってくる。
「先輩」
「ん? なぁに?」
私が意を決して話しかけたというのに、先輩はお気楽な様子だ。
「昨日の用事って、委員会より大切なことだったんですか?」
そう口に出してしまってから、自分でも違和感に気付く。
あれ、これって何か聞き方おかしくない? 口調も怒ってるみたいになってるし・・・
「あ、ごめんね。昨日は歯医者に行ってきたの」
いや、別に先輩が謝るようなことじゃないし。私も別に委員会なんてやりたいわけじゃないんだし。
いつも通りに無言で流そうとするけど、それではいつまでも怒っていると勘違いされるのでは、と思い至る。
でももう空白の時間が出来てしまった。
今更、なんて言えばいいんだ・・・
そう迷っていると先輩が口を開いた。
「奥只見さんにはきちんと理由まで言えばよかったね。ごめん」
「別に。いいですけど」
その先輩の一言のおかげで、きちんと『怒っていない』と否定することができた。やっぱり先輩は私のこと、よく分かってくれてるのかもしれない。
ありがとうございます、と言いかけて、止める。
いきなりお礼を言われても何のことか分からないだろうし、私だってそこまで親しくなりたいわけじゃない。
明るく爽やかな先輩と、暗く一人きりの私とでは住む世界が違う。下手なことをしてリスクを負うより、無難に今の状態を維持する方がずっといい。
私は先輩の近くで、先輩の声を聞いて、たまに先輩の後姿を眺めるだけでいいんだ。
「ここの司書の加茂先生って言えば、前はどこかの大学院で、古典の研究やってたって知ってる? なんかその道では結構有名で、だから国語の北浦先生とも話が合うんだって。県の図書館でもなかったような本がうちにあるのって、そのせいなんだってさ」
先輩はいつも通り、一人でしゃべっている。
内容はうちの教師陣の噂話らしい。私にとってはどれも初耳だ。いつもだったらそんな話には全く興味はないけど、先輩の声は自然と耳に入って来る。
私は先輩の声をBGMに、淡々と作業を進める。
心を落ち着かせれば、いつも通りの時間が過ぎていく。
そして今日の作業も終わり、連れ立って図書室から出て、いつもの渡り廊下に差し掛かった時だった。
「あの、奥只見さん。今日は一緒に帰れる?」
「え?」
不意の先輩の誘いに、思わず声が漏れる。
二度目の誘いだった。
また先輩が誘ってくれた。私は自分の鼓動が速くなり、顔が熱を帯びてくるのを感じた。
ダメだ、欲を出すな!
私は精一杯の自制心を働かせて、俯いた。
「いえ、ちょっと教室に忘れ物をしたので・・・」
一緒に帰るという誘いを断るには弱い理由だとは思ったけど、それで先輩は察してくれたようだ。
「そっか・・・ じゃあ、また明日お願いね」
そう言ってにっこり笑うと、先輩は職員室に鍵を返しに行く。
そして私はああ言った手前、教室棟へと向かう。
まぁ、少し時間を潰して出ればいいか。私は裏門から出るから、先輩と生徒玄関で鉢合わせすることもないだろう。
私は売店前の自販機で乳酸菌飲料を買って、出しっぱなしのイスに腰を下ろして一息つく。
先輩の誘いを断ったことには、後悔はない。
そう自分に言い聞かせる。
先輩は何の気なしに言ってくるけど、それが多大なストレスになっていることが、どうして分からないんだろう。
私は今のままがいいんだ。
いざとなったらいつでも離れられる、今のままが。