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作者: 尾久沖 千尋
残酷な描写あり R-15
#0 召喚
 ある真夜中の事だった。

 他に誰も居ない暗闇の中で、私は不意に目を覚ました。

 畳に敷かれた質素な布団から出て、鉄の格子と強化ガラスに隔てられた窓の向こうを仰ぎ見る。
 朝から降り続いていた雨はいつの間にか止んでおり、雲のカーテンから覗いた真円の月が、濡れた大地を緩やかに照らし出す。

 この拘置所に入れられてどのくらいの月日が経ったのか、寝起き直後で思い出せないが、窮屈な独房生活にも慣れてきた。

 そもそも二十年の人生の中で、私が真に「自由」を手にした時期が一度でもあっただろうか。
 裁判が行われて刑が確定するのはまだ先の話だが、恐らくこれまでの人生と同じかそれ以上の歳月を、私は刑務所で送る事になるのだろう。

 月は日によって位相が変わり、それに合わせて『朔』『上弦』『望』『下弦』という風に呼び名も変わる。
 怪我や病気が治れば患者は患者ではなくなり、健常者として周りは接してくれるが、刑期を終えても犯罪者は依然、犯罪者として白い目で見られる。
 万引き程度の軽犯罪ならともかく、殺人者となれば猶更だ。

 死んだ者は生き返らない。
 故にその罪も汚名も消えない。

 月と違って、遺族の心も私の人生も、再び満ちる時は来ない。

 それを意識する度に、私は一体何の為に生まれてきたのだろう、私の人生に何の意味があったのだろう、と自問してきた。
 面会に訪れるのは弁護士や警察、マスコミ関係者がほとんどで、後は新作の構想を練る小説家だったり、私を「英雄」などと讃える、いずれも私とは無縁の人々ばかり。
 縁者は誰一人訪れず、また来て欲しいとも思わない。

 仮に明日死刑を宣告されたとしても、私の心には細波さざなみ一つ立たないだろう。

 私にはもう、過去も現在も未来も無い。
 太陽も月も星々も消えた宇宙の如き闇一色、永劫の虚無だけが漠然と広がっているのだから。

 また虚しくなった私はそれ以上の思考を棄て、寝床に戻ろうとする。
 しかし、どんなに深い眠りに堕ちようが、どんなに安らかな夢を見ようが、私の明日は今日と何一つ変わりの無いものになる。

 ――なるはずだった。

「え……?」

 足元から立ち昇る奇妙な光に気付き、私は動きを止めた。

 何故畳が光っているのか――という当然の疑問を抱く暇も無く、まるで掃除機に吸い込まれる小石のように、ヒュン、と私の体はその中に落ちた。

 後はもう、伸ばした腕の先が見えなくなるような暗闇の中を、ただただ真っ逆様に下るだけ。

 どのくらいの距離、どのくらいの時間を落ちただろうか。
 何十キロか、何百キロか、或いは何千キロか。
 一時間か、五時間か、それとも丸一日か。

 地球の中心まで落ちて行っているのではないかと思う程、途方も無く長い落下だった。
 初めこそ、これは一体何なのか、夢なのか、それとも幻なのかと戸惑ったが、時間が経つとどうでも良くなった。

 今度こそ、ようやく、私の命は終わるのか――。

 そんな風に諦め、この非現実を受け入れた頃、意識が私の元を去った。

 それからどのくらいの時間が経ったのか、私は地面の上に居た。
 落下の衝撃や感触は一切無かった。

 目覚めた時には、明らかに拘置所の独房ではない、高校の体育館を想わせる広々とした空間の中央に横たわっていた。
 石で出来た地面は畳と違ってひんやりと冷たく、私を囲むように描かれた奇妙な紋様が、蛍光塗料にも似たぼんやりとした光を放っている。

 どうやら私が居るのは相撲の土俵のように大きな壇の上らしく、その下の外周からは多くの視線が私に注がれていた。

 妙に肌寒いと思って体を見ると、拘置所で着ていたはずの地味なスウェットは無く、あろう事か使い古した靴下や下着すら無い。
 つまり、今の私は生まれたままの姿――全裸だった。

「え……っ」

 生の執着を失った私でも性の羞恥は残っていたようで、咄嗟に腕で体を覆った。

 壇上の私をぐるりと取り囲む形で、大勢の人々が一糸纏わぬ私を、好奇の眼差しで眺めているというのは、例え夢や幻だったとしても良い気分ではない。

「おお……成功だ!」
「何と、まさか本当に召喚するとは……」
「奇跡だ……」

 眺めていた人々が何やら湧き立っていたが、私の体に卑しい感情を抱いているからではなさそうだ。

「な、何よここ……私、渋谷に居たはずなのに……って、きゃあッ!? 何なのよこれぇ!?」

 何が起きたか分からず、辺りを見回してから衣服が無くなっている事に気付いて恥じらう声が、私の背後から上がった。

 聞き覚えのある、どこか懐かしく感じられる声。
 まさか、と思ってそちらを見遣ると――彼女と眼が合った。

「あなたは……照朝テルサ……!?」
輝夜カグヤ……な、何でここに……!?」

 私達は互いの名を呼び合う。
 全く同じ顔、同じ表情で。

 思いがけない再会に呆然とする私達の元へ、誰かがやって来た。
 教会の修道女シスターを彷彿とさせる、純白のローブに身を包んだ女性が綺麗なローブを被せてくれた。

 ただし――私ではなく、照朝テルサの方だけに。

 まるで私達が裸にされてこの場所へ現れる事が最初から分かっていたような準備の良さだが、用意されていたのが一人分という点が気になる。

 そしてまた一人、登壇してくる人物。

「お初にお目に掛かる。私は栄耀教会えいようきょうかいの教皇、ラモン・エルハ・ズンダルクと申します」

 教皇と名乗ったこの老人といい、先程毛布を掛けてくれた女性達や周囲の観衆といい、全員が西洋風の容姿で、着ている衣服も小綺麗なものばかりだ。
 彼らが喋っている言語も明らかに日本語ではないというのに、不思議な事にその意味は明瞭に理解できる。

 ここはどこなのか。
 彼らは何者なのか。
 一体何が起きたのか。

 私達が当然の疑問を投げ掛けるより先に、教皇の方が訊ねた。

「失礼ですが、どちらが『聖女』様でいらっしゃいますかな……?」

 理解の及ばない事が次々に起きて、頭がパニックに陥っていた私だったが、一つだけ確信できた事があった。

 虚ろな闇のまま終わるはずだった私――明智輝夜あけちカグヤの運命は、この瞬間から大きく変わったのだと。
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