残酷な描写あり
浅井との同盟
「それで、美濃国攻略の段取りはできているの?」
「うーん、どうだろう。墨俣城が築城できても斉藤家は強いからなあ」
墨俣築城から四日後。
やっと言葉を交わしてくれるようになった志乃と朝ご飯を食べていた。それまではご飯を作ってくれなかったから、久しぶりに食べる志乃の手料理は美味しかった。
「お屋形様は墨俣を拠点にまた次々と城を建てるつもりらしい。稲葉山城をぐるりと囲むように」
「へえ。城をねえ……」
「お屋形様が行雲さまと考えたらしい。なんでも付城というみたいだ」
白飯を一気にかきこんで「ごちそうさま」とお盆に茶碗を乗せた。
「あら。もう行くの?」
「うん。城勤めで今日も米の支出の計算だよ」
「ふうん。頑張ってね。それと今日は遅くなる?」
「いいや。いつも通りに帰れるよ」
出仕の準備を志乃に手伝ってもらって、長屋を出て清洲城に向かうと、道中で蜂須賀小六と遭遇した。
「おう兄弟。お前も出仕か?」
「ああ、小六の兄さん。あんたは兵の訓練を任されたんだっけ」
小六は「ああ。そうだ」と頷いた。そして隣を歩く。
「奥方……志乃さんと言ったか。仲直りできたのか?」
「うん。藤吉郎の言ったとおりにしたらなんとかね」
「しかし若いのに美人の奥さんをもらってるなんて羨ましい話だ」
「何を言っているんだ。あんただって奥さんどころか子供も居るじゃないか」
「松とせがれか。まあな。あいつらには苦労をかけた。藤吉郎さんに仕えられて幸運だったよ」
そんな会話をしつつ、清洲城に着くと僕たちは別れた。織田家の仕事は武官と文官で分かれているから同じ仕事場でしたことはなかった。
「おお、雨竜殿。お屋形様がお呼びですぞ」
年貢米の計算をしていると、同僚から言われた。
「お屋形様が? なんだろう……ありがとうございます。行ってきます」
同僚に礼を言って僕はお屋形様が居る評定の間に向かった。
向かっている間、すれ違う人々の視線を受ける。墨俣城を建ててから、畏怖もしくは羨望の目を向けられることが多くなった。城で炊きだされる昼飯の量も心なしか増えた気もする。
「雨竜雲之介、参りました」
評定の間の襖の前で言うと「おう。入れ」とお屋形様の声がした。僕は失礼しますと言って中に入る。
そこにはお屋形様の他に藤吉郎も居た。何故か僕を哀れむような、この場に居たくなさそうな顔をしていた。なんだろう。少し不安になる。
「最近の調子はどうだ?」
「調子、ですか? まあ、普通ですけど……」
「そうか。勘定方での働きが見事であると報告が入っている。これからも励めよ」
お屋形様が手放しに褒めるのは珍しい。僕は平伏して「ありがたき幸せ」と言った。
「ああ、それでだ。木下藤吉郎を始めとする家臣団に命令を下すのだが」
お屋形様はなんだか言いにくそうな感じを醸し出している。そして藤吉郎に目線を送った。
「猿。お前から言え」
「……拙者が言うのですか?」
「命令だ」
藤吉郎はふうっと息を吐いて、そして僕に言った。
「墨俣築城で美濃国攻略の足がかりができたことは知っているな」
「うん。まあ知っているけど」
「それでな。北近江国の浅井家と同盟を結ぶことになった」
僕は頭の中で地図を思い浮かべた。北近江国は尾張国の北西に位置しているはずだ。つまり美濃国の斉藤家を挟み撃ちにできる。
「ああ。それは良いな」
「だろう? でもな、その条件が、その……」
僕はここで嫌な予感がした。
そしてそれは的中することになる。
「お屋形様、わしにはとても……」
「……よく聞け、雲之介」
お屋形様は息を吐き、覚悟を決めたように言う。
「お市を浅井家当主、浅井長政に嫁がせることにした」
足元が崩れて世界が崩壊したような感覚を覚えた。
「い、今、なんと……?」
聞きたくないことなのに、訊き返してしまった。
「言葉どおりだ。お市を輿入れさせる」
「…………」
「もう決まったことだ。お前が何を言おうと変えられない」
僕は「そう、ですか……」と呟くことしかできなかった。
「雲之介、お前はお市と親しかったな」
「……はい」
「輿入れの護衛を猿に任せる。お前を含めた家臣団で、北近江国の小谷城までお市を連れて行け」
「…………」
言葉がまるで出なかった。
「分かったのか? 分からんのか?」
そう促されて、僕はなんとか答えた。
「……藤吉郎が了承したことなら、僕が拒む理由も道理もございません」
「……そうか」
お屋形様は立ち上がり僕に近づいた。
そして顔を近づけて耳元で囁く。
「お前がお市を好いていたことは知っていた」
「……はい」
「だがお前は別の女と婚約した。それはお市を諦めたと見なして良かったんだな?」
「……はい」
お屋形様は僕から離れて、慈悲もなく、容赦もない声で言う。
「もしもお市に未練があったのなら、ここで斬り捨てるつもりだった」
「…………」
「何故なら、お市もお前のことを好いていたからだ」
涙が出そうになるのを、グッと堪える。
拳を強く握り締めた。
「下手な考えを起こすなよ。俺はお前を殺したくない。猿も同様だ」
「…………」
「……許せ」
お屋形様は言い残して、その場を去ってしまった。
「雲之介……」
藤吉郎が立ち上がり、僕の肩に手をかけた。
「藤吉郎が、志乃との婚約を薦めたのは、僕を守るためだったのか?」
何故か、今までのことがよぎって、勘が鋭くなっていた。
藤吉郎は黙って頷いた。
「輿入れは五日後になる。それまで仕事は休んでいい」
そして藤吉郎は言う。
「おぬしにとって、何が大切なのか。それを深く見つめ直す時間を過ごせ」
◆◇◆◇
それから長屋に帰るまでの記憶はない。
気がついたら、長屋の前に立っていた。
「あら。今日は早かったのね」
中に入ると志乃が家事をしていた。
そしてにっこりと微笑んで僕を出迎えてくれた。
「今日はメザシが安かったから……どうしたの?」
「えっ? どうしたって……」
「なんだか、悲しそうよ?」
僕は、志乃の心配そうな顔を見て、自分が薄汚い気がした。
「本当に、どうしたの――」
志乃の言葉は、途中で止まった。
僕が抱きしめたからだ。
「……雲之介?」
「しばらく、こうしていたいんだ」
それだけしか、言えなかった。
それ以上言ってしまうと泣きそうだったから。
志乃は黙って抱きしめ返してくれた。
何も聞かずに、優しく包み込んでくれたんだ。
それが、何よりもありがたかった。
「うーん、どうだろう。墨俣城が築城できても斉藤家は強いからなあ」
墨俣築城から四日後。
やっと言葉を交わしてくれるようになった志乃と朝ご飯を食べていた。それまではご飯を作ってくれなかったから、久しぶりに食べる志乃の手料理は美味しかった。
「お屋形様は墨俣を拠点にまた次々と城を建てるつもりらしい。稲葉山城をぐるりと囲むように」
「へえ。城をねえ……」
「お屋形様が行雲さまと考えたらしい。なんでも付城というみたいだ」
白飯を一気にかきこんで「ごちそうさま」とお盆に茶碗を乗せた。
「あら。もう行くの?」
「うん。城勤めで今日も米の支出の計算だよ」
「ふうん。頑張ってね。それと今日は遅くなる?」
「いいや。いつも通りに帰れるよ」
出仕の準備を志乃に手伝ってもらって、長屋を出て清洲城に向かうと、道中で蜂須賀小六と遭遇した。
「おう兄弟。お前も出仕か?」
「ああ、小六の兄さん。あんたは兵の訓練を任されたんだっけ」
小六は「ああ。そうだ」と頷いた。そして隣を歩く。
「奥方……志乃さんと言ったか。仲直りできたのか?」
「うん。藤吉郎の言ったとおりにしたらなんとかね」
「しかし若いのに美人の奥さんをもらってるなんて羨ましい話だ」
「何を言っているんだ。あんただって奥さんどころか子供も居るじゃないか」
「松とせがれか。まあな。あいつらには苦労をかけた。藤吉郎さんに仕えられて幸運だったよ」
そんな会話をしつつ、清洲城に着くと僕たちは別れた。織田家の仕事は武官と文官で分かれているから同じ仕事場でしたことはなかった。
「おお、雨竜殿。お屋形様がお呼びですぞ」
年貢米の計算をしていると、同僚から言われた。
「お屋形様が? なんだろう……ありがとうございます。行ってきます」
同僚に礼を言って僕はお屋形様が居る評定の間に向かった。
向かっている間、すれ違う人々の視線を受ける。墨俣城を建ててから、畏怖もしくは羨望の目を向けられることが多くなった。城で炊きだされる昼飯の量も心なしか増えた気もする。
「雨竜雲之介、参りました」
評定の間の襖の前で言うと「おう。入れ」とお屋形様の声がした。僕は失礼しますと言って中に入る。
そこにはお屋形様の他に藤吉郎も居た。何故か僕を哀れむような、この場に居たくなさそうな顔をしていた。なんだろう。少し不安になる。
「最近の調子はどうだ?」
「調子、ですか? まあ、普通ですけど……」
「そうか。勘定方での働きが見事であると報告が入っている。これからも励めよ」
お屋形様が手放しに褒めるのは珍しい。僕は平伏して「ありがたき幸せ」と言った。
「ああ、それでだ。木下藤吉郎を始めとする家臣団に命令を下すのだが」
お屋形様はなんだか言いにくそうな感じを醸し出している。そして藤吉郎に目線を送った。
「猿。お前から言え」
「……拙者が言うのですか?」
「命令だ」
藤吉郎はふうっと息を吐いて、そして僕に言った。
「墨俣築城で美濃国攻略の足がかりができたことは知っているな」
「うん。まあ知っているけど」
「それでな。北近江国の浅井家と同盟を結ぶことになった」
僕は頭の中で地図を思い浮かべた。北近江国は尾張国の北西に位置しているはずだ。つまり美濃国の斉藤家を挟み撃ちにできる。
「ああ。それは良いな」
「だろう? でもな、その条件が、その……」
僕はここで嫌な予感がした。
そしてそれは的中することになる。
「お屋形様、わしにはとても……」
「……よく聞け、雲之介」
お屋形様は息を吐き、覚悟を決めたように言う。
「お市を浅井家当主、浅井長政に嫁がせることにした」
足元が崩れて世界が崩壊したような感覚を覚えた。
「い、今、なんと……?」
聞きたくないことなのに、訊き返してしまった。
「言葉どおりだ。お市を輿入れさせる」
「…………」
「もう決まったことだ。お前が何を言おうと変えられない」
僕は「そう、ですか……」と呟くことしかできなかった。
「雲之介、お前はお市と親しかったな」
「……はい」
「輿入れの護衛を猿に任せる。お前を含めた家臣団で、北近江国の小谷城までお市を連れて行け」
「…………」
言葉がまるで出なかった。
「分かったのか? 分からんのか?」
そう促されて、僕はなんとか答えた。
「……藤吉郎が了承したことなら、僕が拒む理由も道理もございません」
「……そうか」
お屋形様は立ち上がり僕に近づいた。
そして顔を近づけて耳元で囁く。
「お前がお市を好いていたことは知っていた」
「……はい」
「だがお前は別の女と婚約した。それはお市を諦めたと見なして良かったんだな?」
「……はい」
お屋形様は僕から離れて、慈悲もなく、容赦もない声で言う。
「もしもお市に未練があったのなら、ここで斬り捨てるつもりだった」
「…………」
「何故なら、お市もお前のことを好いていたからだ」
涙が出そうになるのを、グッと堪える。
拳を強く握り締めた。
「下手な考えを起こすなよ。俺はお前を殺したくない。猿も同様だ」
「…………」
「……許せ」
お屋形様は言い残して、その場を去ってしまった。
「雲之介……」
藤吉郎が立ち上がり、僕の肩に手をかけた。
「藤吉郎が、志乃との婚約を薦めたのは、僕を守るためだったのか?」
何故か、今までのことがよぎって、勘が鋭くなっていた。
藤吉郎は黙って頷いた。
「輿入れは五日後になる。それまで仕事は休んでいい」
そして藤吉郎は言う。
「おぬしにとって、何が大切なのか。それを深く見つめ直す時間を過ごせ」
◆◇◆◇
それから長屋に帰るまでの記憶はない。
気がついたら、長屋の前に立っていた。
「あら。今日は早かったのね」
中に入ると志乃が家事をしていた。
そしてにっこりと微笑んで僕を出迎えてくれた。
「今日はメザシが安かったから……どうしたの?」
「えっ? どうしたって……」
「なんだか、悲しそうよ?」
僕は、志乃の心配そうな顔を見て、自分が薄汚い気がした。
「本当に、どうしたの――」
志乃の言葉は、途中で止まった。
僕が抱きしめたからだ。
「……雲之介?」
「しばらく、こうしていたいんだ」
それだけしか、言えなかった。
それ以上言ってしまうと泣きそうだったから。
志乃は黙って抱きしめ返してくれた。
何も聞かずに、優しく包み込んでくれたんだ。
それが、何よりもありがたかった。