残酷な描写あり
とんでもない主命
お市さまが輿入れして、三ヶ月経った。
その日突然、行雲さまが清洲城にやってきて、僕の仕事場にふらりと顔を出した。なんでもお屋形様に呼ばれたという。しかしお屋形様は美濃国攻めの軍議をしていて、行雲さまは待たされていた。だから、僕と話そうと会いに来てくれたのだ。
正直話したいことが山ほどあったので、良い機会だった。仕事を同僚に任せて行雲さまと一緒に茶室に向かった。
茶室で茶を点てて、行雲さまに差し出す。流石に作法を心得ていて、出家した身でありながらも優雅に飲み干した。
「雲之介――いや、雨竜殿と言ったほうがいいか?」
「雲之介でいいですよ。行雲さま」
「私は僧でおぬしは武士だ。弁えなければ」
「それでも雲之介で大丈夫です」
茶碗を僕に返す行雲さま。そしてしばらく黙ってしまう。僕は手入れをしながら次の言葉を待った。
「浅井長政殿のことを聞かせてくれ」
意外に思ったけど、僕は行雲さまに全てを話した。器量人であることも喧嘩したことも、そして約束してくれたことも。
話し終えると感慨深そうに頷いた。
「そうか。お市は良き夫に恵まれたな」
「ええ。本当にそう思います」
行雲さまは「おぬしは苦しい思いをしたな」と率直に言ってくれた。
誤魔化すことなく、真っ直ぐに。
「ええ。苦しくて悲しくて、胸が張り裂けそうでした」
「よく業に打ち勝ったな。素晴らしい」
手放しに褒められて少しだけ照れくさかった。
僕が行雲さまに近況を訊ねようとしたときだった。
がらりと障子が開いた。
「うん? なんだ雲と行兄じゃないか。何をしているんだ?」
長益さまだった。僕が姿勢を正して頭を下げると「そんな仰々しくするな」と笑われた。
「源五郎――いや長益か」
「ああ。行兄、元気そうだな」
「おぬし、大きくなったな。だが女癖が悪いと聞く。気をつけろよ」
「会っていきなりなんだよ。兄上みたいなことを言わないでくれ」
そういえば二人が会話しているのは見たことなかったな。
なんだか気の置けない仲の兄弟の会話だ。
「そうだ。兄上が二人を探していたぞ。俺と一緒に来るようにと」
「……私は分かるが、雲之介とおぬし? 一体何の用だ?」
僕たちは顔を見合わせるけど、見当がまったくつかない。
まあ主命であるから、行くしかないだろう。
そういうことで僕たち三人は一緒に評定の間へと向かった。
「行兄の坊主頭はいつ見ても笑えるな」
「うるさいな。そんなこと言って、長益もいずれ出家するかもしれんぞ?」
「あっはっは。やだね。そしたら女遊びができなくなる。俺は一生! 僧にはならないね!」
なんか長益様がいずれ出家しそうな会話だった。
評定の間には誰も居なかった。とりあえず行雲さまが真ん中で右に長益さま、左に僕が座った。
襖が開いて出てきたのは藤吉郎だった。
「藤吉郎! どうしてここに?」
「うん? 雲之介……ああ、そうだった。おぬしの話題が出たのだった」
藤吉郎は行雲さまと長益さまにお辞儀して、僕たちに向かって言う。
「雲之介と行雲さまと長益さまに命令が下されます。本来は美濃三人衆の調略の打ち合わせだったのですが……」
そして藤吉郎は「とんでもない命令です」と小声で言った。
「ほう。どんな命令だ? 木藤」
「き、木藤? いや、わしからは言えませぬ。お屋形様から――」
長益さまの問いに藤吉郎が濁すようなことを言ったとき、再び襖が開いてお屋形様と森可成さまが入ってきた。
僕たちは平伏してお屋形様の言葉を待つ。
「面を上げよ……さっそくだが、お前たち三人と可成にやってもらいたいことがある」
行雲さまが代表して「なんでございましょう」と言う。
「まだ市井の噂が尾張国まで広まっていないので、この場に居る者は知らぬと思うが、京の都でとんでもないことが起きた」
京の都? なんだろうか……
「十三代将軍、足利義輝公を知っているな」
全員が頷いた。その名は武士であれば誰でも知っている。
皆の反応を見て、お屋形様は何の感情を込めずに言った。
「三好三人衆と松永久通に御所を襲われて、弑逆された」
誰も驚きのあまり反応できなかった。
まさか、将軍が殺されるなんて……驚くしかできなかった。
行雲さまと長益さまの二人は驚き過ぎて動揺している。
「ま、真にございますか……?」
「行雲、冗談で俺はそのようなことは言わぬ」
いち早く冷静になったのは、意外にも長益さまだった。
「そうか……それで、兄上はどうするつもりなんだ? まさか逆賊を討つつもりなのか?」
その言葉に「まだ時期尚早だ」と短く答えるお屋形様。
「しかし大義名分は手に入れたい。いずれ上洛するためにな」
「……どういうおつもりですか?」
行雲さまの問いにお屋形様はあっさりと答えた。
「決まっておろう。足利家の正統を継ぐ方を保護するのだ」
足利家の正統を継ぐ……?
「雲之介。長益から聞いたが、興福寺に居られる覚慶殿と親しいそうだな」
「ええ。一度しかお会いしたことはありませんが……」
「そのお方は将軍の弟君だ」
お屋形様の意図が分かりかけてきた。
そして次の言葉で確信に変わる。
それはとんでもない主命だった。
「興福寺に行って、覚慶殿を連れて参れ。今ならまだ間に合う」
その日突然、行雲さまが清洲城にやってきて、僕の仕事場にふらりと顔を出した。なんでもお屋形様に呼ばれたという。しかしお屋形様は美濃国攻めの軍議をしていて、行雲さまは待たされていた。だから、僕と話そうと会いに来てくれたのだ。
正直話したいことが山ほどあったので、良い機会だった。仕事を同僚に任せて行雲さまと一緒に茶室に向かった。
茶室で茶を点てて、行雲さまに差し出す。流石に作法を心得ていて、出家した身でありながらも優雅に飲み干した。
「雲之介――いや、雨竜殿と言ったほうがいいか?」
「雲之介でいいですよ。行雲さま」
「私は僧でおぬしは武士だ。弁えなければ」
「それでも雲之介で大丈夫です」
茶碗を僕に返す行雲さま。そしてしばらく黙ってしまう。僕は手入れをしながら次の言葉を待った。
「浅井長政殿のことを聞かせてくれ」
意外に思ったけど、僕は行雲さまに全てを話した。器量人であることも喧嘩したことも、そして約束してくれたことも。
話し終えると感慨深そうに頷いた。
「そうか。お市は良き夫に恵まれたな」
「ええ。本当にそう思います」
行雲さまは「おぬしは苦しい思いをしたな」と率直に言ってくれた。
誤魔化すことなく、真っ直ぐに。
「ええ。苦しくて悲しくて、胸が張り裂けそうでした」
「よく業に打ち勝ったな。素晴らしい」
手放しに褒められて少しだけ照れくさかった。
僕が行雲さまに近況を訊ねようとしたときだった。
がらりと障子が開いた。
「うん? なんだ雲と行兄じゃないか。何をしているんだ?」
長益さまだった。僕が姿勢を正して頭を下げると「そんな仰々しくするな」と笑われた。
「源五郎――いや長益か」
「ああ。行兄、元気そうだな」
「おぬし、大きくなったな。だが女癖が悪いと聞く。気をつけろよ」
「会っていきなりなんだよ。兄上みたいなことを言わないでくれ」
そういえば二人が会話しているのは見たことなかったな。
なんだか気の置けない仲の兄弟の会話だ。
「そうだ。兄上が二人を探していたぞ。俺と一緒に来るようにと」
「……私は分かるが、雲之介とおぬし? 一体何の用だ?」
僕たちは顔を見合わせるけど、見当がまったくつかない。
まあ主命であるから、行くしかないだろう。
そういうことで僕たち三人は一緒に評定の間へと向かった。
「行兄の坊主頭はいつ見ても笑えるな」
「うるさいな。そんなこと言って、長益もいずれ出家するかもしれんぞ?」
「あっはっは。やだね。そしたら女遊びができなくなる。俺は一生! 僧にはならないね!」
なんか長益様がいずれ出家しそうな会話だった。
評定の間には誰も居なかった。とりあえず行雲さまが真ん中で右に長益さま、左に僕が座った。
襖が開いて出てきたのは藤吉郎だった。
「藤吉郎! どうしてここに?」
「うん? 雲之介……ああ、そうだった。おぬしの話題が出たのだった」
藤吉郎は行雲さまと長益さまにお辞儀して、僕たちに向かって言う。
「雲之介と行雲さまと長益さまに命令が下されます。本来は美濃三人衆の調略の打ち合わせだったのですが……」
そして藤吉郎は「とんでもない命令です」と小声で言った。
「ほう。どんな命令だ? 木藤」
「き、木藤? いや、わしからは言えませぬ。お屋形様から――」
長益さまの問いに藤吉郎が濁すようなことを言ったとき、再び襖が開いてお屋形様と森可成さまが入ってきた。
僕たちは平伏してお屋形様の言葉を待つ。
「面を上げよ……さっそくだが、お前たち三人と可成にやってもらいたいことがある」
行雲さまが代表して「なんでございましょう」と言う。
「まだ市井の噂が尾張国まで広まっていないので、この場に居る者は知らぬと思うが、京の都でとんでもないことが起きた」
京の都? なんだろうか……
「十三代将軍、足利義輝公を知っているな」
全員が頷いた。その名は武士であれば誰でも知っている。
皆の反応を見て、お屋形様は何の感情を込めずに言った。
「三好三人衆と松永久通に御所を襲われて、弑逆された」
誰も驚きのあまり反応できなかった。
まさか、将軍が殺されるなんて……驚くしかできなかった。
行雲さまと長益さまの二人は驚き過ぎて動揺している。
「ま、真にございますか……?」
「行雲、冗談で俺はそのようなことは言わぬ」
いち早く冷静になったのは、意外にも長益さまだった。
「そうか……それで、兄上はどうするつもりなんだ? まさか逆賊を討つつもりなのか?」
その言葉に「まだ時期尚早だ」と短く答えるお屋形様。
「しかし大義名分は手に入れたい。いずれ上洛するためにな」
「……どういうおつもりですか?」
行雲さまの問いにお屋形様はあっさりと答えた。
「決まっておろう。足利家の正統を継ぐ方を保護するのだ」
足利家の正統を継ぐ……?
「雲之介。長益から聞いたが、興福寺に居られる覚慶殿と親しいそうだな」
「ええ。一度しかお会いしたことはありませんが……」
「そのお方は将軍の弟君だ」
お屋形様の意図が分かりかけてきた。
そして次の言葉で確信に変わる。
それはとんでもない主命だった。
「興福寺に行って、覚慶殿を連れて参れ。今ならまだ間に合う」