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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
向き合うこと
 呆然としている山科さまに対して――僕は静かに語りかける。

「そもそも、僕に裁く資格なんてありません。だって――記憶が無いのですから」

 話を聞いていても、頭痛が酷くなるばかりで、何一つ思い出せない。
 幼い頃の記憶だから?
 失ってしまったものは取り戻せない?
 理屈は分からないけど、そういうことなのだろう。

「受けた仕打ちも分からないのに、酷いことをされた自覚も無いのに、山科さまを裁くなど、できないです」
「し、しかし――わしは、君に裁かれる覚悟で」
「ええ。あなたに罪があるとしたら、そこでしょうね」

 一呼吸置いて。僕は山科さまに言う。

「僕はあなたを許せない。とてもじゃないけど、許容することはできない。どうして、巴さんを――死なせてしまったのか。そこだけが悔やまれる」

 記憶の断片。僕を殺そうとするところしか思い出せないけど、それでも僕の母親だ。
 愛情はない。むしろ恐怖の対象だった。
 それでも――情けはある。

「心に傷を負った巴さんに寄り添うことすら、あなたはできなかった。罪があるとするのならそこです。良秀との関係に気づけなかったとか。襲われてしまったとか。起きてしまったことは仕方ないけど、慰めることや向き合うことはできたはずです」

 山科さまは僕から目線を外した。その姿は疲れきった老人そのものだった。
 腰が曲がっているのも、目の下の隈が酷いのも――長年の勤めではなく、罪の意識からだと、今更ながら気づいた。罪の重荷を背負い、夜も眠れないほど悩んでいるからだ。

「過去のことを今更言っても、仕方がありません。それは僕も理屈では分かっています」

 突き刺した刀を引き抜き、捨てた鞘を拾って納める。

「でも――許せない。正直、怒りを感じている僕も居ます」

 小刻みに震えている山科さまに僕は言い放った。

「一生、向き合ってください。罪悪を感じながら生きてください。巴さんの成仏を祈ってください。毎日ずっと。死ぬまでずっと。それがあなたの贖罪になる」

 気がつくと、僕は泣いていた。悲しくて泣いているのだろうか。
 それとも――

「僕はあなたを祖父とは思わない。母も母とは思えない。父親なんて論外です。記憶を失くしただけじゃない。家族というつながりも、今日で失くしてしまった」
「…………」
「だけど淋しくない。僕には志乃が居る。晴太郎もかすみも居る」

 僕は座って泣いている志乃に近づいて、背中から抱きしめた。

「記憶を失くしたことで得たものもある。それで帳消しになるわけじゃないですけどね」

 強く抱きしめる。離れないようにずっと。志乃が振り返って、僕の顔を覗きこむ。

「志乃。これで良いんだよね……いや、これで良いんだ」
「……あなたがそう思えれば、それでいいのよ」

 その言葉に、安心を覚えた。
 いつの間にか、頭痛は消え去っていた。

 
◆◇◆◇

 
 良秀は何者なのか。何の目的があって巴さんに近づいたのか。今生きているのか。どうしてそんな仕打ちをしたのか。
 尽きることのない疑問を解決するのは、難しいだろう。月日が流れすぎた――

 意気消沈している山科さまを残して、僕たちは屋敷から去った。
 別れの言葉はなかった。もう再会することもないんだろう。

「ねえ雲之介。どうして刀を抜いたの?」

 雪が道端に積もっている。とても寒い。
 寄り添うように傍を歩く志乃が不思議そうに僕に訊ねる。

「あなた、本当は怒ってなかったんでしょう?」
「うん? 怒ってたよ。でも殺すつもりなんてなかった」
「じゃあなんで――もしかして、私が詰め寄ったから?」

 僕は頬をぽりぽり掻きながら「山科さまを黙らせようとしただけだよ」と答えた。

「口が達者な人だから、一回脅すことで、何も言えなくしたんだ」
「ふうん。よく分からないけど」
「はっきり言えば、なんで刀を抜いたのか。僕にも分かってない」

 志乃は「なによそれ」と言ってくすりと笑った。僕の一番好きな表情だった。

「でもあなたがあの決断をしたのは、嬉しかったわ」

 志乃がしんみりと言う。

「殺さないとは分かっていたけど、もしかして許しちゃうんじゃないかって冷や冷やしたわ」
「そんな甘くないよ僕は」
「でも、山科さまを自害に追い込まなかった。あなたならできたはずなのに」

 確かにそうだった。あの場で弾劾できたと思う。自害に追い込むほど責め立てることもできたはずだ。
 でもそれはしなかった。いや、できなかった。

「それはどうして?」
「……あれでも祖父だから。ここで殺してしまったら、晴太郎やかすみに顔向けできないと思って」

 何の取り繕うこともない、本音だった。
 志乃は嬉しそうに「それでこそ、雲之介よ」と言ってくれた。

「さて。これからどうするの?」
「秀吉から休みをもらったから、三日間はゆっくり過ごせるよ」
「家族水入らずね」
「それから、友人に会いに行く」

 僕は問わないといけない。
 山科さまとはまた違う緊張感があった。

「ふうん。その後は?」
「秀吉と一緒に軍備を整えて、朝倉家攻めかな。またしばらく会えなくなるかも」

 志乃は「そっか」と言って頭を僕の肩にくっつけた。

「なら、淋しくないように、一緒に居たいな」

 僕はそんな志乃が愛おしくてたまらなかった。
 これが、愛情なんだろうなと、志乃の肩を抱き寄せながら、思った。

 
◆◇◆◇

 
 それから三日の間、とても楽しく過ごせた。
 晴太郎が言葉を言った。それは「おとー」だった。志乃は悔しがってかすみに「おかあって呼ぶのよ」と教え始めた。
 お馬さんになって屋敷中を歩いたり。
 秀長殿からいただいたでんでん太鼓を鳴らしてあやしたり。
 志乃と一緒に雪見酒をしたり。
 四人で京の町を歩いたり。
 楽しい三日間は矢のように早く過ぎ去っていく。

 そして二条城に向かおうとしたとき。
 屋敷の前に輿が止まっているのが見えた。

「ねえ、雲之介。あれは――」

 見送りで外に出ていた志乃も気づいたようだった。
 輿が下りて、中から出てきたのは――

「久しいな。雲之介」

 今から会いに行くはずだった、義昭殿だった。

「よ、義昭殿!? どうしてここに――」
「そなたに会いに来た。いや、そなたに殴られに来たんだ」

 お供の者に「ここで待つように」と言い残して、屋敷に入る。

「まずは茶を出してくれ。あのときと同じように」

 
◆◇◆◇

 
 茶室なんて上等なものはない。だけど茶道具だけは一式ある。
 僕は薄茶を点てて、義昭殿に差し出した。
 志乃は離れて、その様子を見ていた。相手が将軍であると知って、とても緊張しているようだった。

「――美味いな。監禁されていても、衰えていなかったか」

 茶碗を置いて、僕を真っ直ぐ見る義昭殿。

「明智から、話は聞いているか」
「ええ。対価もいただきました」
「そうか……本当にすまない」

 義昭殿は。
 第十五代将軍である義昭殿は。
 織田家陪臣の僕に対して。
 ――土下座をした。
 僕は――何も言わずに見ていた。

「ちょっと! 何をなさっているんですか!? 雲之介、何ぼうっとしているのよ!」

 志乃が焦った様子で僕に言う。

「良いのだ奥方。私はそれだけのことをした」

 頭を上げて。義昭殿は僕に言う。

「謝らなければ、そなたと向き合うことなど、できやしない」
「……どうして、僕を監禁したのですか?」

 僕の言葉に最も驚いたのは、志乃だった。

「えっ? く、雲之介? 何言っているのよ? あなたは三好家との交渉に失敗して……」
「それは偽りだ。実はあれは仕組まれたことなのだ」

 義昭殿は僕に向かって言う。

「浅井家先代当主、久政の死。本願寺の蜂起。武田家の侵攻。そなたの監禁。これら一連の動きを仕組んだ者。そして織田包囲網を画策した者。その首謀者を、今ここで明かそうと思う」
「…………」

 僕は何も言わずに義昭殿の言葉を待った。

「……私もその首謀者に協力してしまった。その罪は消えん」

 そう前置きして、義昭殿は話した。
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