残酷な描写あり
悪人再び
六日後、大和国――
「いや、懐かしい。あのときの若者……確か雨竜殿だったな。息災そうで何よりだ」
まるで十年来の知己に会ったかのように僕に頭を下げたのは、稀代の大悪人、松永久秀だった。
筒井家の居城、筒井城を包囲している陣中で挨拶に来た松永を、僕たちはあまり歓迎しなかった。一緒に出陣していた総大将の秀長殿、半兵衛さん、そして正勝と初陣となる雪之丞はあからさまに嫌な顔をした。
しかしここで邪険にするのは織田家と松永家の関係にひびが入ってしまうかもしれない。だから表面上は取り繕う必要があった。
「お久しぶりですね。本圀寺以来でしたか?」
「ふふ。あの時と比べてすっかり武士になられましたな」
まるで孫に話しかける祖父のような口調だった。
秀長殿は「それで何のご用ですか?」と訊ねた。
暗にこちらには用はないと言っている。
「雨竜殿をお借りしたい。何でも千宗易殿の弟子だとか。是非茶を点てていただきたい」
「雲之介を? いえ、これから合戦が――」
「今日の合戦はないでしょう。夜襲があるやもしれませんが、それまでにはお返ししますよ」
ここで断ることもできたが、そうすると負けた気になってしまうので「参りましょう」と言う。
「しかし茶道具の持ち合わせがありません。お貸しいただけますか?」
「もちろん。名物を揃えておりますゆえ」
僕は秀長殿に頭を下げて「行って参ります」と告げて松永の後に続いて出ようとする。
「雲之介さん。俺も連れてってくれ」
雪之丞が真剣な眼差しで僕を見た。おそらく僕が殺されると警戒しているのだろう。
十中八九それはないけど、心配させるよりはマシかな。
「いいよ。松永殿も異存ありませんね?」
「構わないが、そこの少年は? 何者ですかな?」
「僕の家臣の雪之丞です」
松永は顎に手を置いて「なるほど。分かりました」とさっさと陣から出る。
度胸があるのか、それとも興味がないのか分からないけど、決断が早い人だ。
松永の陣には既に茶道具などが揃えてあった。どれも名物どころか大名物と言うべき名器ばかりだった。
中には松永の他に誰も居ない。人払いしているようだ。
僕は目の前の悪人をもてなすことを考えた。天候は晴れ。霜月に近づいているので少々寒い。地面には赤い敷物が敷かれている。
ふむ……
「松永殿。傘はありますか? できれば朱に塗られているものが良いのですが」
「……ああ。用意させよう」
僕の意図を汲んだのか、すぐさま外に控えていた者に伝える。茶の湯の心得がない雪之丞はよく分からないようだった。
朱色の傘を赤い敷物の上に置き、空間を作る。用いる茶碗は華やかな赤茶碗だ。
作法に則り、松永に茶を点てる。
「ふむ。赤を基調とした空間とそれに見合った茶碗。暖かさを感じられて、素晴らしいもてなしだ」
差し出した茶を飲み干した松永。傍に控えている雪之丞にも茶を出そうとしたが「遠慮する」と断られてしまった。戦が終わったら彼に茶を教えようと思う。
「結構なお手前ですな」
「お褒めいただき感謝いたします」
「実を言うと、雨竜殿と話がしたかったのだ」
松永が僕と話を? まさか興福寺のことだろうか?
「羽柴秀吉。その弟の秀長。蜂須賀正勝や竹中半兵衛。織田家家中でも随一の軍団だ。しかし彼らの中で最もわしが注目しているのは貴殿である」
「……見る目がないんじゃないですか? 今挙げた四人のほうが凄いと思いますけど」
北近江国の大名にそれを補佐する筆頭。歴戦の猛将に天才軍師よりも、僕に注目するのか?
「謙遜は美徳ですが欠点にもなりえますぞ。猿の内政官殿。あなたの力で足利家は今も存続していますし、長浜の町も栄えている」
殊更に褒めているような口調ではなかった。ただ事実を述べているような言い方だった。
「わしもあなたのような家臣が欲しかったですな。ま、詮のないことですが」
「……何が目的ですか? 暗に言われても困ります」
松永は――ここで本気かどうか分からないことを言う。
「今後の織田家について語りたいと思いましてな」
「松永家ではなく、織田家の?」
「もはや松永家は織田家がなければ存続できませんからな」
悪人は溜息を吐いた。
「来年の武田家攻めはおそらく織田家が勝つでしょう。しかし快勝ではなく辛勝になると予想しております。その後、織田家の力はかなり弱まる」
「……まさか、その隙を」
「それこそまさかですな。武田家が破れ、頼りになるのは本願寺という状況で、謀反しても勝ち目はない。わしは分のない賭けはしません」
裏を返せば、織田家に勝てると思ったのなら謀反をする……そう言っているようなものだったけど、明言していなかったので、責められなかった。
「おそらく太平の世を導けるのは、織田弾正忠さまのような英雄なのでしょうな。わしは太平の世のためなら、骨身を惜しまないつもりですぞ」
「……なら何故、筒井家を挑発するような真似を? 今回の戦は筒井家が松永殿に仕掛けたものですが、経緯を知ればあなたが挑発したように思える」
事実、筒井家は松永久秀に恨みを持っていた。彼らにとって、織田家に一緒に臣従しているのも屈辱なはずだ。
この指摘に松永は「時勢の見えぬ者は滅ぶべきだ」と返した。
「わしを滅ぼすのであれば、武田家攻めをしている最中にするべきだ。一気呵成に滅ぼして大和国を掌握してしまえば、いくら弾正忠殿も支配を認めざるを得ない」
「…………」
「その機を逃し、今まさに滅び行く者に対しては自業自得としか言いようがありませんな」
するとそれまで黙っていた雪之丞が「天下の大悪人とは良く言ったものだ」とわざと松永に聞こえるように言う。
「仁義礼智信忠孝悌。八つの徳を持たない悪人だ」
「ふふふ。まるで女郎屋のようだ。しかしはたしてお前に『忠』があるのか甚だ疑問だな」
「……なんだと?」
思わず刀に手をかけようとするので「こらえろ雪之丞!」と叱責した。
「失礼をしました。ご勘弁願いたい」
すっと頭を下げると松永は「子どもの戯言に本気にはならんよ」と余裕で返した。
一方の雪之丞は何か言いたげだったけど、僕の手前、何も言えずにそっぽを向いてしまった。
しかし松永はどうして雪之丞に『忠』が無いと言ったのだろうか?
「さて。雨竜殿はもしも織田家が天下を取ったなら、いかがするおつもりか?」
「当然、これまでと変わりなく織田家のため、羽柴家のために頑張るつもりです」
「貴殿は大名になりたいと思わないのですかな?」
思わぬ問いに僕は戸惑った。考えたこともなかったからだ。
「いいえ。考えたこともありません」
「惜しいな。貴殿ならば一廉の大名になれる。名君として後世に尊ばれるようになるでしょう」
「そこまでの器はありませんよ」
「謙遜なさるな。わしは貴殿を高く買っているのだ」
何故松永は僕を評価しているんだろうか?
義昭殿との関係を知っているからだろうか?
「まあそれとは別に、貴殿に問いたいことがある」
「……なんでしょうか?」
松永は明日の天気を訊ねるかのような気軽さで僕に問う。
「雨竜雲之介秀昭殿はお優しいと評判だが、その優しさだけで戦国乱世を乗り切れると、自分で思っているのですかな?」
思わず息を飲む。刃物を喉元に突きつけられている感覚がした。
さらに松永は問う。
僕の心を暴くように。
僕の心を開くように。
悪人らしからぬ真っ直ぐな問いを言う。
「その優しさは自己満足ではないのですかな? そして優しさで傷つけられた人はいないと言い切れますかな?」
さあお答えくだされと目の前の老人は僕に水を向けた。
なんて答えれば良いのか、判然としなかった――
「いや、懐かしい。あのときの若者……確か雨竜殿だったな。息災そうで何よりだ」
まるで十年来の知己に会ったかのように僕に頭を下げたのは、稀代の大悪人、松永久秀だった。
筒井家の居城、筒井城を包囲している陣中で挨拶に来た松永を、僕たちはあまり歓迎しなかった。一緒に出陣していた総大将の秀長殿、半兵衛さん、そして正勝と初陣となる雪之丞はあからさまに嫌な顔をした。
しかしここで邪険にするのは織田家と松永家の関係にひびが入ってしまうかもしれない。だから表面上は取り繕う必要があった。
「お久しぶりですね。本圀寺以来でしたか?」
「ふふ。あの時と比べてすっかり武士になられましたな」
まるで孫に話しかける祖父のような口調だった。
秀長殿は「それで何のご用ですか?」と訊ねた。
暗にこちらには用はないと言っている。
「雨竜殿をお借りしたい。何でも千宗易殿の弟子だとか。是非茶を点てていただきたい」
「雲之介を? いえ、これから合戦が――」
「今日の合戦はないでしょう。夜襲があるやもしれませんが、それまでにはお返ししますよ」
ここで断ることもできたが、そうすると負けた気になってしまうので「参りましょう」と言う。
「しかし茶道具の持ち合わせがありません。お貸しいただけますか?」
「もちろん。名物を揃えておりますゆえ」
僕は秀長殿に頭を下げて「行って参ります」と告げて松永の後に続いて出ようとする。
「雲之介さん。俺も連れてってくれ」
雪之丞が真剣な眼差しで僕を見た。おそらく僕が殺されると警戒しているのだろう。
十中八九それはないけど、心配させるよりはマシかな。
「いいよ。松永殿も異存ありませんね?」
「構わないが、そこの少年は? 何者ですかな?」
「僕の家臣の雪之丞です」
松永は顎に手を置いて「なるほど。分かりました」とさっさと陣から出る。
度胸があるのか、それとも興味がないのか分からないけど、決断が早い人だ。
松永の陣には既に茶道具などが揃えてあった。どれも名物どころか大名物と言うべき名器ばかりだった。
中には松永の他に誰も居ない。人払いしているようだ。
僕は目の前の悪人をもてなすことを考えた。天候は晴れ。霜月に近づいているので少々寒い。地面には赤い敷物が敷かれている。
ふむ……
「松永殿。傘はありますか? できれば朱に塗られているものが良いのですが」
「……ああ。用意させよう」
僕の意図を汲んだのか、すぐさま外に控えていた者に伝える。茶の湯の心得がない雪之丞はよく分からないようだった。
朱色の傘を赤い敷物の上に置き、空間を作る。用いる茶碗は華やかな赤茶碗だ。
作法に則り、松永に茶を点てる。
「ふむ。赤を基調とした空間とそれに見合った茶碗。暖かさを感じられて、素晴らしいもてなしだ」
差し出した茶を飲み干した松永。傍に控えている雪之丞にも茶を出そうとしたが「遠慮する」と断られてしまった。戦が終わったら彼に茶を教えようと思う。
「結構なお手前ですな」
「お褒めいただき感謝いたします」
「実を言うと、雨竜殿と話がしたかったのだ」
松永が僕と話を? まさか興福寺のことだろうか?
「羽柴秀吉。その弟の秀長。蜂須賀正勝や竹中半兵衛。織田家家中でも随一の軍団だ。しかし彼らの中で最もわしが注目しているのは貴殿である」
「……見る目がないんじゃないですか? 今挙げた四人のほうが凄いと思いますけど」
北近江国の大名にそれを補佐する筆頭。歴戦の猛将に天才軍師よりも、僕に注目するのか?
「謙遜は美徳ですが欠点にもなりえますぞ。猿の内政官殿。あなたの力で足利家は今も存続していますし、長浜の町も栄えている」
殊更に褒めているような口調ではなかった。ただ事実を述べているような言い方だった。
「わしもあなたのような家臣が欲しかったですな。ま、詮のないことですが」
「……何が目的ですか? 暗に言われても困ります」
松永は――ここで本気かどうか分からないことを言う。
「今後の織田家について語りたいと思いましてな」
「松永家ではなく、織田家の?」
「もはや松永家は織田家がなければ存続できませんからな」
悪人は溜息を吐いた。
「来年の武田家攻めはおそらく織田家が勝つでしょう。しかし快勝ではなく辛勝になると予想しております。その後、織田家の力はかなり弱まる」
「……まさか、その隙を」
「それこそまさかですな。武田家が破れ、頼りになるのは本願寺という状況で、謀反しても勝ち目はない。わしは分のない賭けはしません」
裏を返せば、織田家に勝てると思ったのなら謀反をする……そう言っているようなものだったけど、明言していなかったので、責められなかった。
「おそらく太平の世を導けるのは、織田弾正忠さまのような英雄なのでしょうな。わしは太平の世のためなら、骨身を惜しまないつもりですぞ」
「……なら何故、筒井家を挑発するような真似を? 今回の戦は筒井家が松永殿に仕掛けたものですが、経緯を知ればあなたが挑発したように思える」
事実、筒井家は松永久秀に恨みを持っていた。彼らにとって、織田家に一緒に臣従しているのも屈辱なはずだ。
この指摘に松永は「時勢の見えぬ者は滅ぶべきだ」と返した。
「わしを滅ぼすのであれば、武田家攻めをしている最中にするべきだ。一気呵成に滅ぼして大和国を掌握してしまえば、いくら弾正忠殿も支配を認めざるを得ない」
「…………」
「その機を逃し、今まさに滅び行く者に対しては自業自得としか言いようがありませんな」
するとそれまで黙っていた雪之丞が「天下の大悪人とは良く言ったものだ」とわざと松永に聞こえるように言う。
「仁義礼智信忠孝悌。八つの徳を持たない悪人だ」
「ふふふ。まるで女郎屋のようだ。しかしはたしてお前に『忠』があるのか甚だ疑問だな」
「……なんだと?」
思わず刀に手をかけようとするので「こらえろ雪之丞!」と叱責した。
「失礼をしました。ご勘弁願いたい」
すっと頭を下げると松永は「子どもの戯言に本気にはならんよ」と余裕で返した。
一方の雪之丞は何か言いたげだったけど、僕の手前、何も言えずにそっぽを向いてしまった。
しかし松永はどうして雪之丞に『忠』が無いと言ったのだろうか?
「さて。雨竜殿はもしも織田家が天下を取ったなら、いかがするおつもりか?」
「当然、これまでと変わりなく織田家のため、羽柴家のために頑張るつもりです」
「貴殿は大名になりたいと思わないのですかな?」
思わぬ問いに僕は戸惑った。考えたこともなかったからだ。
「いいえ。考えたこともありません」
「惜しいな。貴殿ならば一廉の大名になれる。名君として後世に尊ばれるようになるでしょう」
「そこまでの器はありませんよ」
「謙遜なさるな。わしは貴殿を高く買っているのだ」
何故松永は僕を評価しているんだろうか?
義昭殿との関係を知っているからだろうか?
「まあそれとは別に、貴殿に問いたいことがある」
「……なんでしょうか?」
松永は明日の天気を訊ねるかのような気軽さで僕に問う。
「雨竜雲之介秀昭殿はお優しいと評判だが、その優しさだけで戦国乱世を乗り切れると、自分で思っているのですかな?」
思わず息を飲む。刃物を喉元に突きつけられている感覚がした。
さらに松永は問う。
僕の心を暴くように。
僕の心を開くように。
悪人らしからぬ真っ直ぐな問いを言う。
「その優しさは自己満足ではないのですかな? そして優しさで傷つけられた人はいないと言い切れますかな?」
さあお答えくだされと目の前の老人は僕に水を向けた。
なんて答えれば良いのか、判然としなかった――