残酷な描写あり
二つの問題
能登国の大名、畠山家を守るために上様は秀吉に柴田さまへの援軍を命じられた。
主命である以上、従わなければならない。堺から戻った直後であるが、僕たちは出陣した。
はるはそれを聞いて不満そうな顔をしたが、お土産の金平糖を渡すと渋々納得してくれた。ちなみにはるが「お前さまも食べよ!」と金平糖一粒を僕に渡してくれた。とても甘くて美味しかった。
さて。出陣する面々は秀吉、秀長殿、正勝、半兵衛さん、正則、吉継、そして僕だった。長政を城代とし、他の武将たちは留守をすることとなった。
「上杉謙信は戦上手と聞きます。だからどうも私は嫌な予感がします……」
越前に向かう行軍の途中、隣で馬に乗っている吉継が不安そうな顔をする。
僕はなるべく気遣うように「戦の前は相手が強そうに思えるものだよ」と言う。
「まあこれは慣れるしかないね」
「雲之介さんは、いつから恐怖を覚えなくなりましたか?」
「ううん。毎回恐ろしいよ。でも将の恐れは兵士に伝わるからね」
僕はわざとおどけるように言った。
「虚勢でも繰り返せば本当になるさ。まずは自分を偽ることだね。そうすれば、周りも自然と騙せる」
「……難しいことをさらりと言いますね」
まあ今回の戦が不安なのは僕も一緒だ。
雪隆、島、頼廉を引き連れているのはそのためだ。それと念のためになつめを含めた五人の忍びを連れてきている。
「改めて訊くけど、嫌な予感ってなんだい?」
僕の問いに吉継はやや緊張の面持ちで答えた。
「戦の前に言うのも縁起が悪いのですが、どうも負ける予感がします」
臆病風に吹かれたわけではないだろう。
戦の経験が薄いけど、吉継は危険を予知する感覚に優れていた。それは半兵衛さんも認めている。
「……ま、それでも戦うしかないね」
負けると分かっていても戦う。
それが武士のつらいところでもある。
◆◇◆◇
越前に集結したのは秀吉と柴田さまだけではない。
丹羽さま、滝川さま、そして前田さまなど織田家においても歴戦の将が援軍で来た。
総勢五万は超える大軍勢。相手が軍神上杉謙信であるのを差し引いても、容易く大敗しない軍団である。
その五万の兵は加賀国を通り、能登国に向かう。
進軍は途中まで順調だったが、ここで問題が発生した。
「川が問題ね……」
「そうだな。川が問題だ」
加賀国で敷かれた陣の中で、半兵衛さんと秀吉が困ったように呟く。
二人が言っているのは、手取川のことである。
もし畠山家の居城、七尾城が落城していて、僕たちの軍が手取川を渡っていたとしたら、川を背に戦わなければいけない。つまり退路のない状態で戦わなければいけないのだ。
しかし七尾城が今も落ちていなければ、逆に包囲している上杉家の背を狙う好機でもある。
ずばり問題は二つで、七尾城の安否の確認と手取川の渡河の是非である。
もちろん、二人以外の皆にも問題は分かっていた。
正勝なんかは難しそうな顔をしている。
「上杉謙信が能登国の七尾城を落としていないのは、こっちが手取川を渡っていないからね」
「……だけどよ。畠山家を見捨てるわけにもいかねえんだよな」
正勝の言葉に秀吉が頷いた。
「兄者は柴田さまにどう進言するつもりだ?」
「無念だが、ここは退くしかないと思っている」
秀長殿の問いに苦渋に満ちた表情で答える秀吉。
すると正則が「七尾城を見捨てるんですか!?」と喚いた。
「上杉家とやり合っていないのですよ!?」
「やり合っていないからこそ、退く好機だろうが」
血の気の多い正勝が冷静に言ったので、正則は何も言えずに下を向いてしまう。
「兄弟。お前はどう思う?」
沈黙が続く中、正勝が僕に問う。
「僕も退くべきだと思う。しかし決めるのは北陸方面の軍団長であり、今回の戦の総大将である柴田さまだ」
「いや、それは分かっているけどよ」
「だから羽柴家の方針として退却を提案するしかないよ」
すると秀吉は「柴田さまは頑固だからな……」と面倒な風に言う。
「雲之介。おぬしも一緒に来てくれ」
「柴田さまの陣に? 良いけど僕だけでいいのか?」
「おぬしは行雲さまの件で柴田さまに好かれておるからな。秀長は先の篭城戦で手柄を立てすぎた。半兵衛は口調が荒いし、正勝はそれ以上に荒い。正則と吉継は歳が若すぎる」
なんだか消去法で選ばれたようだった。
僕は秀吉の後に続いて柴田さまの陣に入る。
既に他の諸将は集まっていた。中には秀吉を毛嫌いしている佐々さまも居た。
「秀吉。お前の意見が聞きたい」
柴田さまがさっそく訊ねてきた。
「上杉謙信とどう戦う?」
どうやら柴田さまは手取川を渡り、上杉謙信と戦うつもりだ。
対して秀吉は、真っ直ぐにそれを否定する。
「申し上げます。わしは――退くべきと存じます」
それを聞いた秀吉と折り合いの悪い佐々さまが「なんと下らぬことを!」と怒鳴りつけた。
「織田家の重臣とは思えぬ! 戦う前に退くだと? この臆病者めが!」
あまりに無礼な言葉に思わず席を立ち上がろうとするが、秀吉に肩を押さえられる。
「……納得のいく理由を教えてくれるか?」
柴田さまは冷静に問うけど、自身の方針を反対されたせいで、あまり好意的ではなかった。
秀吉は堂々と考えを述べる。
「七尾城は既に風前の灯。加えて渡河をすれば川を背に戦うしかない状況に、上杉家は追い込んでくるでしょう」
「……だから退くのか? その結果、上杉家の勢いが増し、大々的な進攻をするとは考えないのか?」
これは互いの立場の違いによる見解だった。秀吉は援軍の将。はっきり言えばこの戦さえどうにかすれば良いだけの話だ。
一方、柴田さまはこの戦だけではなく、以降も北陸方面軍団長として戦わなければならないのだ。
局地的な見解の秀吉と大局的な見解の柴田さま。
考えが合うわけがなかった。
「しかし無理に渡河すれば、みすみす兵を無駄死にさせますぞ」
「ではこのまま一戦も交えず、おめおめと退けと言うのか!」
二人の言葉が荒くなってくる。
他の諸将は何も口出しせず、二人のやりとりを見ていた。
まあどちらの主張も正しいし、同じくらい間違っているからだ。
「……秀吉、貴様もしかして、わしが手柄を立てるのを防ぐために反対しているのではないか?」
場が熱くなり始めたとき、柴田さまが言ってはいけないことを口に出してしまった。
流石に秀吉も怒りを覚えたようで「戯言を言わんでください!」と怒鳴った。
「わしを説得できぬからと、言いがかりをつけるのは止してもらいたい!」
「なんだと! 貴様――」
これは不味いな。そう思ったので僕は「お二人とも。冷静になってください!」と大声を発した。
すると佐々さまが「陪臣ごときが何を言うか!」と喚いた。
苛立った僕は意地の悪い言葉で返す。
「上様の娘婿である僕に対して『ごとき』とは失礼ではありませんか?」
「う、むう……」
「柴田さまも秀吉も落ち着いてください。仲間割れこそ上杉家の思う壺ですよ」
少し頭を冷やしたのか、秀吉は「柴田さま。申し訳ござらぬ」と頭を下げて詫びた。
柴田さまは少し躊躇した後「こちらこそ悪かった……」と言う。
「一つ提案ですが、どうすれば不利な状況を覆すのか。それを考えませんか?」
僕が馬鹿げたことを言うと、前田さまが乗ってきた。
「不利な状況……まあ手取川を背にすることだな」
「では手取川を背にするとどうして不利なのか。それはすぐに退却できないからですね」
当たり前のことを言うと、今度は丹羽さまが「船を徴収するのはどうだろうか」と提案する。
「この時期、手取川は氾濫しやすいと聞く。船さえあれば……」
それに滝川さまが反論する。
「五万の兵を渡すほどの船はないだろう。それに洪水であれば船でも渡れない」
そのとき、秀吉が何か閃いたように立ち上がった。
「手取川の水位を下げるのはいかがか?」
一瞬、誰も分からないようだったが、丹羽さまがいち早く気づいた。
「堤防を作るのか? それで水の流れを抑える……」
「そのとおりです。水位を下げれば容易に撤退できます。不利ではなくなりますぞ!」
ざわめく諸将。
柴田さまは「良き案だ」と素直に言う。
「では秀吉。おぬしに堤防を任せる。利家。おぬしも手伝ってやれ」
「分かりました」
こうして作戦も決まり、軍議は終わった。
帰る途中、秀吉は僕にこっそりと耳打ちした。
「ありがとうな。もしあれ以上口論になったら、わしたちだけで撤退することになっておった」
「そしたら軍令違反で切腹だよ。まったく、危ないなあ」
でも秀吉の役に立って良かった。
それは素直に思えた。
主命である以上、従わなければならない。堺から戻った直後であるが、僕たちは出陣した。
はるはそれを聞いて不満そうな顔をしたが、お土産の金平糖を渡すと渋々納得してくれた。ちなみにはるが「お前さまも食べよ!」と金平糖一粒を僕に渡してくれた。とても甘くて美味しかった。
さて。出陣する面々は秀吉、秀長殿、正勝、半兵衛さん、正則、吉継、そして僕だった。長政を城代とし、他の武将たちは留守をすることとなった。
「上杉謙信は戦上手と聞きます。だからどうも私は嫌な予感がします……」
越前に向かう行軍の途中、隣で馬に乗っている吉継が不安そうな顔をする。
僕はなるべく気遣うように「戦の前は相手が強そうに思えるものだよ」と言う。
「まあこれは慣れるしかないね」
「雲之介さんは、いつから恐怖を覚えなくなりましたか?」
「ううん。毎回恐ろしいよ。でも将の恐れは兵士に伝わるからね」
僕はわざとおどけるように言った。
「虚勢でも繰り返せば本当になるさ。まずは自分を偽ることだね。そうすれば、周りも自然と騙せる」
「……難しいことをさらりと言いますね」
まあ今回の戦が不安なのは僕も一緒だ。
雪隆、島、頼廉を引き連れているのはそのためだ。それと念のためになつめを含めた五人の忍びを連れてきている。
「改めて訊くけど、嫌な予感ってなんだい?」
僕の問いに吉継はやや緊張の面持ちで答えた。
「戦の前に言うのも縁起が悪いのですが、どうも負ける予感がします」
臆病風に吹かれたわけではないだろう。
戦の経験が薄いけど、吉継は危険を予知する感覚に優れていた。それは半兵衛さんも認めている。
「……ま、それでも戦うしかないね」
負けると分かっていても戦う。
それが武士のつらいところでもある。
◆◇◆◇
越前に集結したのは秀吉と柴田さまだけではない。
丹羽さま、滝川さま、そして前田さまなど織田家においても歴戦の将が援軍で来た。
総勢五万は超える大軍勢。相手が軍神上杉謙信であるのを差し引いても、容易く大敗しない軍団である。
その五万の兵は加賀国を通り、能登国に向かう。
進軍は途中まで順調だったが、ここで問題が発生した。
「川が問題ね……」
「そうだな。川が問題だ」
加賀国で敷かれた陣の中で、半兵衛さんと秀吉が困ったように呟く。
二人が言っているのは、手取川のことである。
もし畠山家の居城、七尾城が落城していて、僕たちの軍が手取川を渡っていたとしたら、川を背に戦わなければいけない。つまり退路のない状態で戦わなければいけないのだ。
しかし七尾城が今も落ちていなければ、逆に包囲している上杉家の背を狙う好機でもある。
ずばり問題は二つで、七尾城の安否の確認と手取川の渡河の是非である。
もちろん、二人以外の皆にも問題は分かっていた。
正勝なんかは難しそうな顔をしている。
「上杉謙信が能登国の七尾城を落としていないのは、こっちが手取川を渡っていないからね」
「……だけどよ。畠山家を見捨てるわけにもいかねえんだよな」
正勝の言葉に秀吉が頷いた。
「兄者は柴田さまにどう進言するつもりだ?」
「無念だが、ここは退くしかないと思っている」
秀長殿の問いに苦渋に満ちた表情で答える秀吉。
すると正則が「七尾城を見捨てるんですか!?」と喚いた。
「上杉家とやり合っていないのですよ!?」
「やり合っていないからこそ、退く好機だろうが」
血の気の多い正勝が冷静に言ったので、正則は何も言えずに下を向いてしまう。
「兄弟。お前はどう思う?」
沈黙が続く中、正勝が僕に問う。
「僕も退くべきだと思う。しかし決めるのは北陸方面の軍団長であり、今回の戦の総大将である柴田さまだ」
「いや、それは分かっているけどよ」
「だから羽柴家の方針として退却を提案するしかないよ」
すると秀吉は「柴田さまは頑固だからな……」と面倒な風に言う。
「雲之介。おぬしも一緒に来てくれ」
「柴田さまの陣に? 良いけど僕だけでいいのか?」
「おぬしは行雲さまの件で柴田さまに好かれておるからな。秀長は先の篭城戦で手柄を立てすぎた。半兵衛は口調が荒いし、正勝はそれ以上に荒い。正則と吉継は歳が若すぎる」
なんだか消去法で選ばれたようだった。
僕は秀吉の後に続いて柴田さまの陣に入る。
既に他の諸将は集まっていた。中には秀吉を毛嫌いしている佐々さまも居た。
「秀吉。お前の意見が聞きたい」
柴田さまがさっそく訊ねてきた。
「上杉謙信とどう戦う?」
どうやら柴田さまは手取川を渡り、上杉謙信と戦うつもりだ。
対して秀吉は、真っ直ぐにそれを否定する。
「申し上げます。わしは――退くべきと存じます」
それを聞いた秀吉と折り合いの悪い佐々さまが「なんと下らぬことを!」と怒鳴りつけた。
「織田家の重臣とは思えぬ! 戦う前に退くだと? この臆病者めが!」
あまりに無礼な言葉に思わず席を立ち上がろうとするが、秀吉に肩を押さえられる。
「……納得のいく理由を教えてくれるか?」
柴田さまは冷静に問うけど、自身の方針を反対されたせいで、あまり好意的ではなかった。
秀吉は堂々と考えを述べる。
「七尾城は既に風前の灯。加えて渡河をすれば川を背に戦うしかない状況に、上杉家は追い込んでくるでしょう」
「……だから退くのか? その結果、上杉家の勢いが増し、大々的な進攻をするとは考えないのか?」
これは互いの立場の違いによる見解だった。秀吉は援軍の将。はっきり言えばこの戦さえどうにかすれば良いだけの話だ。
一方、柴田さまはこの戦だけではなく、以降も北陸方面軍団長として戦わなければならないのだ。
局地的な見解の秀吉と大局的な見解の柴田さま。
考えが合うわけがなかった。
「しかし無理に渡河すれば、みすみす兵を無駄死にさせますぞ」
「ではこのまま一戦も交えず、おめおめと退けと言うのか!」
二人の言葉が荒くなってくる。
他の諸将は何も口出しせず、二人のやりとりを見ていた。
まあどちらの主張も正しいし、同じくらい間違っているからだ。
「……秀吉、貴様もしかして、わしが手柄を立てるのを防ぐために反対しているのではないか?」
場が熱くなり始めたとき、柴田さまが言ってはいけないことを口に出してしまった。
流石に秀吉も怒りを覚えたようで「戯言を言わんでください!」と怒鳴った。
「わしを説得できぬからと、言いがかりをつけるのは止してもらいたい!」
「なんだと! 貴様――」
これは不味いな。そう思ったので僕は「お二人とも。冷静になってください!」と大声を発した。
すると佐々さまが「陪臣ごときが何を言うか!」と喚いた。
苛立った僕は意地の悪い言葉で返す。
「上様の娘婿である僕に対して『ごとき』とは失礼ではありませんか?」
「う、むう……」
「柴田さまも秀吉も落ち着いてください。仲間割れこそ上杉家の思う壺ですよ」
少し頭を冷やしたのか、秀吉は「柴田さま。申し訳ござらぬ」と頭を下げて詫びた。
柴田さまは少し躊躇した後「こちらこそ悪かった……」と言う。
「一つ提案ですが、どうすれば不利な状況を覆すのか。それを考えませんか?」
僕が馬鹿げたことを言うと、前田さまが乗ってきた。
「不利な状況……まあ手取川を背にすることだな」
「では手取川を背にするとどうして不利なのか。それはすぐに退却できないからですね」
当たり前のことを言うと、今度は丹羽さまが「船を徴収するのはどうだろうか」と提案する。
「この時期、手取川は氾濫しやすいと聞く。船さえあれば……」
それに滝川さまが反論する。
「五万の兵を渡すほどの船はないだろう。それに洪水であれば船でも渡れない」
そのとき、秀吉が何か閃いたように立ち上がった。
「手取川の水位を下げるのはいかがか?」
一瞬、誰も分からないようだったが、丹羽さまがいち早く気づいた。
「堤防を作るのか? それで水の流れを抑える……」
「そのとおりです。水位を下げれば容易に撤退できます。不利ではなくなりますぞ!」
ざわめく諸将。
柴田さまは「良き案だ」と素直に言う。
「では秀吉。おぬしに堤防を任せる。利家。おぬしも手伝ってやれ」
「分かりました」
こうして作戦も決まり、軍議は終わった。
帰る途中、秀吉は僕にこっそりと耳打ちした。
「ありがとうな。もしあれ以上口論になったら、わしたちだけで撤退することになっておった」
「そしたら軍令違反で切腹だよ。まったく、危ないなあ」
でも秀吉の役に立って良かった。
それは素直に思えた。