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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
語り継ぐ
 官兵衛の策は見事に嵌った。先陣の佐久間盛政――清洲会議のときに柴田さまと一緒に居た武将だ――を深追いさせることに成功した。大返しした秀吉の軍勢の多さに彼は退却を選んだが、流石に歴戦の将である秀吉はそれを読み切って、追撃を始めた。

 どうして佐久間盛政は深追いしたのか。理由は消極的な柴田さまに焦れたからとか、佐久間家の栄光を取り戻したかったからとか色々あるのだろう。もしも深追いしなければ勝機はあったかもしれない。

 何にしても決着が長引くことはなかった。地の利はなく、人数差のある中で佐久間盛政が勝つ方法は周りの武将に助力してもらうことだったが、それは叶わなかった。何故なら――前田さまが戦うことなく退却してしまったからだ。

 元々、前田さまは秀吉と親しかった。僕が子どもの頃、二人は何度も酒を酌み交わしていた。それでも柴田さまに付いたのは、与力であり長年の上役だったからということもあるけど。秀吉と柴田さま、どちらも親しい前田さまはどちらの味方もできなかったのが真実だろう。

 前田さまの退却で金森や不破も退却し、柴田さまの陣営の兵の逃亡が始まってしまった。これでは戦にならない。長年の戦の経験でそれを悟ったであろう柴田さまは――越前国の北ノ庄城へと退却を開始した。これによって、秀吉の勝利が確定した。
 戦が終わった後、府中城で降伏した前田さまと秀吉は対面した。

「おー、前田殿。久しぶりだな」

 城の大広間で平伏している前田さまに秀吉は気軽に声をかけた。
 そして何の躊躇もなく、前田さまに近づいて肩を叩いた。

「そのようにかしこまるな。わしとおぬしの仲ではないか」
「……俺はお前ではなく、柴田殿に付いた身。いわば敵だった」

 あくまで平伏したままの前田さまに秀吉は「だが、最後は味方になってくれた」と笑った。

「おぬしは律儀者だ。相当に苦しんだであろう。楽になれ」
「しかし……」
「おぬしに協力してもらいたいことが山ほどある。わしを助けてくれ」

 秀吉は降将である前田さまに対して頭を下げた。
 そんなこと、誰もできないし真似もできないだろう。
 そこが秀吉の度量の深さというか、器量の大きさなのだ。

「……お前のそういうところはずるいよな」

 前田さまは苦笑しながら、背筋を正して、秀吉に頭を下げた――臣下の礼である。

「この前田利家、身命をとして、羽柴さまに仕えます」

 秀吉は猿みたいな顔を日輪のように明るくさせて笑った。

「そうか! よう言ってくれた!」

 秀吉は手を叩いて「宴会の用意を整えよ!」と命じた。

「久方ぶりに酒を酌み交わそう! 利家!」
 
 
◆◇◆◇
 
 
 諸将が各々楽しんでいるのを余所に、僕は少しだけ思案していた。
 考えることはもちろん柴田さまのことである。

「雲之介。酒が進んでおらぬな。どうした? 下戸とは言わせぬぞ」

 秀吉が赤い顔になって僕の隣に座った。前田さまも僕の隣に座る。
 なんだか、本当に昔を思い出すようだった。

「なあ秀吉。柴田さまのことなんだけど」
「……おぬしの優しさは、本物なのだな」

 秀吉は溜息を吐いた。そして困ったように「柴田殿をおぬしはどうしたい?」と訊ねてきた。

「……それが、自分でも分からないんだ」
「分からない?」
「助けたいという気持ちとこのまま死なせてあげたいという気持ち。それから殺さないといけないという気持ちが入り混じっている」

 僕は酒を飲み干した。少しでも酔いたかった。

「昔の僕なら、助けたいと思うだけだったのにな。でも、死なせてあげたいという気持ちが多く占めている」
「……おぬしは本当に変わらぬな」

 秀吉はにやにや笑っている。
 前田さまは複雑そうな顔をしている。

「柴田殿を助けても、あのお方は自害なさるだろうよ」
「分かっているよ、秀吉」
「だからこそ、立派に死なせてやろうとするのだな」
「……秀吉は何でも分かるんだね」
「当たり前だ。わしはおぬし以上におぬしのことを知り尽くしている」

 本当にずるいな、秀吉は。

「それなら、北ノ庄城で柴田殿と話したらどうだ?」

 秀吉はわざと明るくそんなことを言い出した。

「交渉はおぬしに任せる」
「そんなこと言ったら、柴田さまを助けてしまうかもしれない」
「別に良いだろう。出家でもさせてしまえばいい」

 秀吉は前田さまに「それでよかろう?」と訊ねた。

「わしは柴田殿――いや、柴田さまに恩義がいくらかあるからな」
「……優しい家臣と甘やかす主君。二人は良い主従だな」

 前田さまは苦笑いで言う。
 だけど声音はどこか安心した雰囲気があった。
 
 
◆◇◆◇
 
 
 夜が明けて、前田さまを先陣として、北ノ庄城へと向かう。
 城攻めが始まる前、僕は使者として柴田さまと会見する。秀長殿は「大丈夫かい?」と訊ねたけど、それに対しては「大丈夫です」としか言えなかった。

 城内の小さな一室へと案内され、中に入るとそこは茶室だった。
 そして目の前には柴田さまが居た――白装束だった。

「信行さまを助けた小僧が丹波国の大名となり、そして今、わしを降そうと交渉に来た……分からないものだな、巡り合わせというものは」

 目を閉じて上座に着いている柴田さまに対して、僕は茶席に座る。既に湯が沸いているようだったので、茶入から抹茶を茶杓で掬って青井戸茶碗に入れる。
 無言のまま、僕は茶筅で薄茶を点てた。

「そういえば、二回目ですね。僕が柴田さまに茶を点てるのは」
「うむ。確か……桶狭間の直前だったな」

 僕はそっと柴田さまに茶碗を差し出した。
 柴田さまの茶道具は茶碗以外、ほとんど名物ではなかったけど、使い込まれているものばかりだった。なんというか質実剛健というか、武士らしいものと評したほうが良かった。
 柴田さまは差し出された茶をじっと眺めて、一言言う。

「もし切腹したら、腹から茶がだらりと流れないだろうか」
「……嫌なことを言わないでください」

 想像するだけで気分が悪くなる。

「その量でしたら、血のほうが多いので大丈夫だと思います」
「そうか。まあそうだろうな」

 柴田さまは作法通りに飲んだ。なんというか所作は美しいというより逞しいと言ったほうが適している気がする。

「おぬしは、わしを説得しに来たのか?」

 柴田さまは不敵に笑って本題を切り出した。

「……よく分かりません。助けたいのか、死なせてあげたいのか」
「ほう? それは不思議なことだな」
「だから、秀吉に進められて、ここに来ています」

 僕は柴田さまの目を見た。
 真っ直ぐな目。清々しいほど綺麗だった。恐ろしいものは混じっていない。

「自分の気持ちを柴田さまに決めてもらおうと思っている愚か者です。蔑んでもらっても構いません」
「ふふ。軟弱者と罵るのは簡単だがな。しかしお前のおかげで、信行さま――行雲さまは生きていると思えば、罵倒などできぬよ」

 僕は「昔の話ですよ」と恩なんて感じる必要はないと暗に言う。
 しかし柴田さまは「一生の話だ」と正面から言い放った。

「わしは死ぬ気でいるが、もしもお前が生きてほしいのなら、生きてやってもいい……いや、卑怯な言い方だったな」
「…………」
「わしは、潔く切腹する」

 柴田さまは「将兵の命の保証だけ頼む」と軽く頭を下げた。

「柴田さまは、本当に死にたいのですか?」

 声が震えるのを止められなかった。

「もし生きたいと言えば、出家を条件に生きることも――」
「行雲さまのようにか? それは無理だ。わしは鷹狩りが好きなのだからな」

 嘘だと分かっていた。
 これは柴田さまの意地であり、抵抗でもあるんだ。

「わしは織田家のために生きている。だがもはや織田家は死んでいる。上様と若様が死んだときに死んだのだ」
「……新しい時代に生きたいとも思わないんですか?」
「老兵は去るのみだ」

 柴田さまは「その茶道具で一番価値のあるものはなんだ?」と唐突に言った。

「それは――この青井戸茶碗です」
「上様から賜った茶器だ。それはお前にくれてやる。茶の礼だ」

 柴田さまは「さてと。わしも行くか」と立ち上がった。

「秀吉の元へ降る。切腹をしにな」
「……柴田さま、お待ちください」

 僕は青井戸茶碗を手に取った。

「この茶碗の銘を『柴田』とします」
「うん? 別に良いが……」
「雨竜家で子々孫々まで大切に守ります」

 僕は柴田さまに平伏して言う。

「子に託すときは、柴田勝家という武将の話をします。強くて格好良い男だったと語ります。僕の子はそれを知り、僕の孫へと伝え行くでしょう。雨竜家が続く限り、絶対にあなたという男は語り継がれます」

 柴田さまは黙って聞いて――それから豪快に笑った。

「あっはっは! それは痛快な話だ! わしのことを後の世まで語ってくれる者が居るとは!」

 柴田さまは笑い続けて、その後僕に言う。

「感謝いたす。雨竜雲之介秀昭殿。上様に聞かせる良い土産話ができた」

 そして柴田さまは僕に言った。

「おぬしと出会えて、本当に良かった」

 柴田さまは見事に切腹した。見事な最期だった。
 それから信孝さまと滝川さまは程なく降伏して。
 秀吉に対抗できる勢力はほぼ無くなった。
 羽柴家は畿内、いや日の本において随一の大名家へとなったのだ。
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