残酷な描写あり
裏をかく
信吉率いる二万の軍勢が出陣した後、秀吉の元へ行かせた丈吉が息を切らしながら、僕たちの居る陣へ戻ってきた。
このとき、僕たち雨竜家は長篠城を包囲しているように見せかけていた。
「はあ、はあ、殿、一大事です!」
「どうした? 何があった?」
僕の問いに丈吉は「徳川軍三万六千がこちらへ進軍しております!」と報告してきた。
「な、なんだと!?」
思いも寄らなかった事態に「くそ! 裏をかかれた!」と島が叫んだ。
「家康め、二万より一万のほうが容易いと踏んだか!」
島の言葉で理解したのか「窮地となるのは俺たちのほうか」と秀晴は呟いた。
「丈吉。徳川軍はどのくらいでここに来る?」
「およそ一刻ほど! 早いこそあれ、遅くはないでしょう!」
雪隆は「すぐに羽柴信吉さまの軍を呼び戻しましょう」と進言した。
「間に合うか微妙ですが――」
「いや。間に合わないと思う。既に信吉たちは出陣して二刻ほど経っている」
努めて冷静に言うと「ではどうしますか?」と秀晴は問う。
「退却するにも時間がかかります。また無事に脱しても、今度は羽柴信吉さまの軍勢に狙いを変えられるでしょう」
「うん。だから退却するわけにはいかない」
「じゃあどうすれば――」
秀晴が額に汗を流しながら、厳しく僕に問う。
僕は「長篠城の城兵は?」と訊ねる。
「さほど兵は居りません。どうやら今回の戦では積極的に用いないようです」
島が素早く答えた。
僕はそれを聞いて閃いたことがあった。
「まあ家康は野戦で勝負を着けたいようだから、城を重視していないみたいだな」
「……殿。もしかして、長篠城で篭城するつもりですか?」
雪隆は僕の正気を疑っているようだった。
「ああ。長篠城は堅城だ。援軍が来るまで守り切れるだろう」
「そんな無茶な!? あの武田勝頼でさえ、長篠城を落とせなかったのですよ!」
秀晴が悲鳴を上げた。
しかし島が「いや、案外いけるかもしれません」と顎に手を置いた。
「長篠城は三百余り。それに城主はあの奥平ではなく凡百の将。一気呵成に攻めて、一刻の間に守りを固めれば、あるいは――」
「本当にできるのか……?」
雪隆の疑問も分かるけど、これしか僕たちの助かる道は無かった。
「丈吉。秀吉には伝えたか?」
傍に控えていた丈吉に問うと「確かに伝えました」と答えた。
「よし。なつめを呼んできてくれ。流石にこれから走るのは無理だろう?」
「……はっきり言って遅くなるでしょう」
「うん。こんなに早く知らせてくれただけでも大金星だ。休んでくれ」
丈吉は一礼して下がった。
「島、雪隆。二人は長篠城を攻めてくれ。おそらく大した抵抗もないだろう」
「承知しました。行くぞ真柄」
島と雪隆は直ちに戦準備に向かった。
「秀晴。お前は僕の跡継ぎだ。早くこの場から――」
「そりゃあないですよ、父さま」
秀晴は余裕を取り戻したのか、肩を竦めた。
「手柄を立てる好機だって言うのに、俺だけ逃げろだなんて。これじゃ大返しのときと一緒だ」
「しかし――」
「俺なりに戦功を立てないといけない理由があります。だから残らせてください」
僕はしばらく秀晴の顔をじっと見つめて――溜息を吐いた。
「まったく。頑固なところは志乃似だな」
「ふふ。それは嬉しいですね」
親子二人で笑い合っていると、なつめが陣の中に入ってきた。
「あら。お邪魔だったかしら」
「気を使わなくていい。それより信吉に伝言を頼む。『秀吉の軍と合流して長篠城に向かってくれ。僕たちはそこで篭城している』と」
なつめは「よく分からないけど、伝えるわ」と応じた。
「そうか。羽柴さまの軍勢では返り討ちにあいますからね」
「それもあるけど、確実に徳川家を倒すにはそれしかないんだ」
秀晴の指摘に曖昧な言葉で返す僕。
僕たちは陣の外に出る。
兵たちが長篠城を攻める準備をしていた。
「さてと。もうほとんど時間が無い。もしも長篠城を素早く落とせなかったら……」
「俺たちは死にますか?」
「まあね。野戦築城する時間もないし」
秀晴は「いつも父さまは危機的状況に置かれますね」と溜息を吐いた。
「お祓いにでも行ったほうがいいんじゃないですか?」
「うーん……そうしようかな」
のん気に思えるけど、将は兵に余裕を見せないといけないんだ。
雪隆と島の大声が聞こえる。
間に合ってくれよ?
◆◇◆◇
長篠城は拍子抜けするくらい簡単に落ちた。
というより篭城の準備はほとんどしていなかったらしい。はっきり言えば物資がほとんど無かった。まさか堅城の長篠城を落とそうと考える者など居ないと高をくくったのだろう。守将も兵たちも怖気づいて、我先に逃げてしまった。
しかし落としたからといって、そこで終わりではない。すぐに長篠城の補修と補強、物資の運搬、兵の配置を行なわねばならなかった。
もしも長篠城に二千ほどの兵が居たら、徳川家康の思う壺というか思い通りになっていたはずだ。でもそうはならなかった。これは推測だが兵を動員しなければ、羽柴家の軍勢に数で劣ると考えたのかもしれない。
「兵糧は何日保つ?」
「二日か三日というところですね」
雪隆の報告に「ぎりぎりだな」と僕は答えた。
「信吉のほうに兵糧を多く持たせすぎたか」
「後悔しても始まりません……あ、徳川家の軍勢が見えましたよ」
片手を筒状に丸めて、その穴を覗きこむ雪隆。真似して覗き込むと、葵の紋の旗が多く翻っているのが見えた。
「本当に三万六千ぐらい居るな……」
「兵の配置を急がせます」
雪隆が素早く走って、兵たちに指示を飛ばす。
「徳川家康……どう攻めてくるか……」
相手は太原和尚の弟子で武田信玄などの強敵と戦い続けた男だ。
油断はしていないけど、少しだけ臆してしまう。
「厄介な病の『臆病』に罹ったみたいだ。しかしまあ……」
やるしかないと僕は笑った。
引きつった笑みだが、絶望の表情は浮かべない。
僕の笑みを見て、勇気が湧く兵が居るかもしれないから。
そして一刻後の夕暮れ。
徳川軍は雨竜家が長篠城を降伏させて占拠しているのが予想外だったらしい。
退却するでもなく、城攻めをするでもなく、そのまま包囲を始めた。
こちらとしては願ったり叶ったり……とは完全には言えなかった。
兵糧の備蓄がもたない可能性があるのだ。
また包囲されていることで戦意も下がってしまう。
「父さま。城から突出して攻撃するのはどうですか?」
城の大広間で秀晴に問われた。
島と雪隆は兵の指揮をしている。
「相手はそれを望んでいるかもしれない」
僕は首を縦に振らなかった。
「でも、いつ羽柴さまの軍勢が援軍に来るのか、分からないじゃないですか」
そう反論する秀晴に「家康が最も嫌がることはなんだ?」と逆に質問した。
「それは――援軍の到着ですか?」
「それもそうだけど、一番厄介なのはこのまま膠着状態になることだよ」
僕は秀晴に「焦ることはないよ」と告げた。
「それに夜襲は向こうも警戒している。下手に城を出たら袋叩きに遭ってしまう」
「そういう、ものですか?」
秀晴の怪訝な表情に自信満々に「ああそうだ」と答えた。
「それに援軍が来てから攻勢に回っても遅くはない」
秀晴は納得いっていないようだった。
それでも僕は許可できなかった。
夜が明けると、徳川家が総攻撃をかけてきた。
しかし堅城と名高い長篠城で守るのは難しくなかった。
問題は兵の逃亡だけど、大返しで生き残った足軽大将たちのおかげで、何とか防げることができている。
「殿。羽柴家の軍がこちらに来ます!」
島の大声。彼が指差すほうを見ると、羽柴家の旗印がはためいていた。
「徳川家が退却しています。追撃しましょう!」
雪隆はやや興奮していた。
秀晴も頷く。
「よし。兵を二千ほど残して出撃する」
だが、徳川家の対応は素早かった。羽柴家の軍と雨竜家の軍で挟撃する前に、戦線離脱をし始めた。
しかも、しんがりを残していた。
それは――かなり厄介な相手だった。
「殿。俺にやらせてください」
雪隆の声が強張っていた。
それもそのはず、彼にとって因縁のある男だったからだ。
その男は名槍、蜻蛉切を馬上で構えている。
そして数万の大軍相手に見得を切った。
「――本多平八郎忠勝! ここは一歩も通さんぞ!」
このとき、僕たち雨竜家は長篠城を包囲しているように見せかけていた。
「はあ、はあ、殿、一大事です!」
「どうした? 何があった?」
僕の問いに丈吉は「徳川軍三万六千がこちらへ進軍しております!」と報告してきた。
「な、なんだと!?」
思いも寄らなかった事態に「くそ! 裏をかかれた!」と島が叫んだ。
「家康め、二万より一万のほうが容易いと踏んだか!」
島の言葉で理解したのか「窮地となるのは俺たちのほうか」と秀晴は呟いた。
「丈吉。徳川軍はどのくらいでここに来る?」
「およそ一刻ほど! 早いこそあれ、遅くはないでしょう!」
雪隆は「すぐに羽柴信吉さまの軍を呼び戻しましょう」と進言した。
「間に合うか微妙ですが――」
「いや。間に合わないと思う。既に信吉たちは出陣して二刻ほど経っている」
努めて冷静に言うと「ではどうしますか?」と秀晴は問う。
「退却するにも時間がかかります。また無事に脱しても、今度は羽柴信吉さまの軍勢に狙いを変えられるでしょう」
「うん。だから退却するわけにはいかない」
「じゃあどうすれば――」
秀晴が額に汗を流しながら、厳しく僕に問う。
僕は「長篠城の城兵は?」と訊ねる。
「さほど兵は居りません。どうやら今回の戦では積極的に用いないようです」
島が素早く答えた。
僕はそれを聞いて閃いたことがあった。
「まあ家康は野戦で勝負を着けたいようだから、城を重視していないみたいだな」
「……殿。もしかして、長篠城で篭城するつもりですか?」
雪隆は僕の正気を疑っているようだった。
「ああ。長篠城は堅城だ。援軍が来るまで守り切れるだろう」
「そんな無茶な!? あの武田勝頼でさえ、長篠城を落とせなかったのですよ!」
秀晴が悲鳴を上げた。
しかし島が「いや、案外いけるかもしれません」と顎に手を置いた。
「長篠城は三百余り。それに城主はあの奥平ではなく凡百の将。一気呵成に攻めて、一刻の間に守りを固めれば、あるいは――」
「本当にできるのか……?」
雪隆の疑問も分かるけど、これしか僕たちの助かる道は無かった。
「丈吉。秀吉には伝えたか?」
傍に控えていた丈吉に問うと「確かに伝えました」と答えた。
「よし。なつめを呼んできてくれ。流石にこれから走るのは無理だろう?」
「……はっきり言って遅くなるでしょう」
「うん。こんなに早く知らせてくれただけでも大金星だ。休んでくれ」
丈吉は一礼して下がった。
「島、雪隆。二人は長篠城を攻めてくれ。おそらく大した抵抗もないだろう」
「承知しました。行くぞ真柄」
島と雪隆は直ちに戦準備に向かった。
「秀晴。お前は僕の跡継ぎだ。早くこの場から――」
「そりゃあないですよ、父さま」
秀晴は余裕を取り戻したのか、肩を竦めた。
「手柄を立てる好機だって言うのに、俺だけ逃げろだなんて。これじゃ大返しのときと一緒だ」
「しかし――」
「俺なりに戦功を立てないといけない理由があります。だから残らせてください」
僕はしばらく秀晴の顔をじっと見つめて――溜息を吐いた。
「まったく。頑固なところは志乃似だな」
「ふふ。それは嬉しいですね」
親子二人で笑い合っていると、なつめが陣の中に入ってきた。
「あら。お邪魔だったかしら」
「気を使わなくていい。それより信吉に伝言を頼む。『秀吉の軍と合流して長篠城に向かってくれ。僕たちはそこで篭城している』と」
なつめは「よく分からないけど、伝えるわ」と応じた。
「そうか。羽柴さまの軍勢では返り討ちにあいますからね」
「それもあるけど、確実に徳川家を倒すにはそれしかないんだ」
秀晴の指摘に曖昧な言葉で返す僕。
僕たちは陣の外に出る。
兵たちが長篠城を攻める準備をしていた。
「さてと。もうほとんど時間が無い。もしも長篠城を素早く落とせなかったら……」
「俺たちは死にますか?」
「まあね。野戦築城する時間もないし」
秀晴は「いつも父さまは危機的状況に置かれますね」と溜息を吐いた。
「お祓いにでも行ったほうがいいんじゃないですか?」
「うーん……そうしようかな」
のん気に思えるけど、将は兵に余裕を見せないといけないんだ。
雪隆と島の大声が聞こえる。
間に合ってくれよ?
◆◇◆◇
長篠城は拍子抜けするくらい簡単に落ちた。
というより篭城の準備はほとんどしていなかったらしい。はっきり言えば物資がほとんど無かった。まさか堅城の長篠城を落とそうと考える者など居ないと高をくくったのだろう。守将も兵たちも怖気づいて、我先に逃げてしまった。
しかし落としたからといって、そこで終わりではない。すぐに長篠城の補修と補強、物資の運搬、兵の配置を行なわねばならなかった。
もしも長篠城に二千ほどの兵が居たら、徳川家康の思う壺というか思い通りになっていたはずだ。でもそうはならなかった。これは推測だが兵を動員しなければ、羽柴家の軍勢に数で劣ると考えたのかもしれない。
「兵糧は何日保つ?」
「二日か三日というところですね」
雪隆の報告に「ぎりぎりだな」と僕は答えた。
「信吉のほうに兵糧を多く持たせすぎたか」
「後悔しても始まりません……あ、徳川家の軍勢が見えましたよ」
片手を筒状に丸めて、その穴を覗きこむ雪隆。真似して覗き込むと、葵の紋の旗が多く翻っているのが見えた。
「本当に三万六千ぐらい居るな……」
「兵の配置を急がせます」
雪隆が素早く走って、兵たちに指示を飛ばす。
「徳川家康……どう攻めてくるか……」
相手は太原和尚の弟子で武田信玄などの強敵と戦い続けた男だ。
油断はしていないけど、少しだけ臆してしまう。
「厄介な病の『臆病』に罹ったみたいだ。しかしまあ……」
やるしかないと僕は笑った。
引きつった笑みだが、絶望の表情は浮かべない。
僕の笑みを見て、勇気が湧く兵が居るかもしれないから。
そして一刻後の夕暮れ。
徳川軍は雨竜家が長篠城を降伏させて占拠しているのが予想外だったらしい。
退却するでもなく、城攻めをするでもなく、そのまま包囲を始めた。
こちらとしては願ったり叶ったり……とは完全には言えなかった。
兵糧の備蓄がもたない可能性があるのだ。
また包囲されていることで戦意も下がってしまう。
「父さま。城から突出して攻撃するのはどうですか?」
城の大広間で秀晴に問われた。
島と雪隆は兵の指揮をしている。
「相手はそれを望んでいるかもしれない」
僕は首を縦に振らなかった。
「でも、いつ羽柴さまの軍勢が援軍に来るのか、分からないじゃないですか」
そう反論する秀晴に「家康が最も嫌がることはなんだ?」と逆に質問した。
「それは――援軍の到着ですか?」
「それもそうだけど、一番厄介なのはこのまま膠着状態になることだよ」
僕は秀晴に「焦ることはないよ」と告げた。
「それに夜襲は向こうも警戒している。下手に城を出たら袋叩きに遭ってしまう」
「そういう、ものですか?」
秀晴の怪訝な表情に自信満々に「ああそうだ」と答えた。
「それに援軍が来てから攻勢に回っても遅くはない」
秀晴は納得いっていないようだった。
それでも僕は許可できなかった。
夜が明けると、徳川家が総攻撃をかけてきた。
しかし堅城と名高い長篠城で守るのは難しくなかった。
問題は兵の逃亡だけど、大返しで生き残った足軽大将たちのおかげで、何とか防げることができている。
「殿。羽柴家の軍がこちらに来ます!」
島の大声。彼が指差すほうを見ると、羽柴家の旗印がはためいていた。
「徳川家が退却しています。追撃しましょう!」
雪隆はやや興奮していた。
秀晴も頷く。
「よし。兵を二千ほど残して出撃する」
だが、徳川家の対応は素早かった。羽柴家の軍と雨竜家の軍で挟撃する前に、戦線離脱をし始めた。
しかも、しんがりを残していた。
それは――かなり厄介な相手だった。
「殿。俺にやらせてください」
雪隆の声が強張っていた。
それもそのはず、彼にとって因縁のある男だったからだ。
その男は名槍、蜻蛉切を馬上で構えている。
そして数万の大軍相手に見得を切った。
「――本多平八郎忠勝! ここは一歩も通さんぞ!」