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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百八六話 長平の戦い 十一
 白起率いる秦軍は、趙括率いる趙軍と全面衝突をする。蒙驁は扈輒、楽乗の攻撃に押されそうになるが、白起は蒙驁を信じ、攻撃を続ける。
 蒙驁にとって、扈輒は敵ではなかった。蒙驁配下の部隊は偉丈夫の好漢ばかりだった。蒙驁の、理屈ではなく力技的な訓練は、例えそれが徴兵されたばかりの素人であろうとも、また囚人であっても、不滅の鉄壁として、扈輒を防いだ。
「その調子だ! 無名の将軍なんぞに、この鉄壁を破らせるな!」
 息のあった漢どもの唸りが、戦場に響き渡る。
 しかし、楽乗の刃が、その鉄壁に穴を空けた。
 その穴を防いだのは、蒙武であった。
「大盾部隊! 横からの騎馬に気をつけろ! 敵は足は速いが、ぶくぶく太った重装備の豚野郎どもだ! 大盾で転ばせ山から転げ落とせ! !」
 初めは順調に騎兵を跳ね除けていた蒙武であったが、重装騎馬の速さと重さによって、徐々に穴が空きだした。

 真の本陣から戦況を眺めていた王翦は、焦った。
「このままでは、蒙驁殿が倒れます。王齮も討ち取られてしまいますぞ。さすれば王齕が偽の存在であると発覚し、兵がいない真の本陣が攻められてしまいます……!」
「大丈夫だ。蒙驁殿ならば、踏ん張れる筈だ……!」
 白起は、蒙驁を信じていた。秦人として、兵として、そして友として、彼を信じていた。
 いついかなる時も、決して諦めないその不屈の精神は、秦人の宝であった。若き日に、百将李雲が自分にいってくれた様に、白起もまた蒙驁のことをそう評価していた。
 そしてどんな逆境にあっても、決して保身の為に仲間を見捨てない、秦兵の中の秦兵であると知っていた。そしてなにより、自身の役目を理解し、その勤めを果たそうとする真の友であると知っていた。
「二十万以上の大軍が戦うのならば、撤退などさせられはしない。例え一時的なものであっても、兵はそれを真の撤退であると勘違いし、軍が瓦解してしまうのだ。蒙驁殿が、張唐将軍と胡傷将軍の到着まで、正面と横の攻撃を防ぎ切ると信じるのだ!」

 蒙驁は底力を見せて踏ん張った。徐々に盾に隙間が生まれ、兵が倒れていっても、叫び鼓舞した。自身も戟を取り、敵と味方の血を浴びながら敵を斬った。
 それは蒙武を初め、全ての兵が同じであった。兵には秦王の大志など、知りはしない。ただ蒙驁、蒙武らと築き上げた絆の為に、全身が砕かれそうな衝撃にも耐え、吠え、敵を斬って斬って斬り続けた。
 やがて張唐、胡傷が到着し、司馬浅を攻撃した。
 司馬浅は敗走した。
 そして張唐は楊摎と共に、下山を試みる趙括軍を防ぎ、胡傷は扈輒の背を襲い、敗走させた。
 楽乗は形勢不利と見るや配送した。
 秦軍は全ての部隊で山道を塞ぎ、趙括率いる十五万の大軍を、山頂に包囲するに至った。

 戦の趨勢を見守った白起は、真の本陣で、力を無くした様に椅子に腰掛けた。白起が「ようやく、片が付いたな」と呟くも、隣にいる王翦は黙ったままであった。日が落ちる前に、戦いが終わったことが、信じられなかったのである。そして同時に、武安君白起という人間が、噂通り、神の様な存在であると感じていた。身震いが、止まらなかった。
「疲れたであろう。座れ、王翦よ。聞いているのか、王翦」
 王翦は、驚いたままであったが、白起の声に気付き腰掛けた。
「後は時間が解決する。趙括は自信を失ってしまい、すぐには下りては来られない。迷い、時間を浪費し、飢える。そうすれば後は、弱々しい大軍がふらふらと下りてきた所を、狩り取るだけだ」
「降伏するとは思わないのですか」
「考え辛いな。張禄丞相が謀略にて趙括を大将に据えたのは、趙括が無能なる自信家だからだ。その無駄な自尊心が、降伏という生き恥を晒すことを認めず、死を顧みずに突撃を仕掛けてくるのだ」
「今からいうことは、他意はないのですが……。私は秦王様が不思議でなりません。丞相や、武安君殿を用いて、一撃で趙の大軍を葬り去りました。しかしこの二年間、大勢の秦人を死傷させてでも、武安君殿や丞相を戦に、直接的に関われせようとはしなかった」
「それには三つの理由がある。一つは、後続の育成という簡単な理由だ。そしてもう一つ。これは秦王様ではなく、私の理由だ。私は……これまで百回以上の戦を戦い抜いてきたが、将軍となって指揮を執ってから、一度も敗れたことはない。それは、勝てる戦しか戦わなかったからだ。将として、百万人以上を葬ってくる過程で学んだことは、勝ちさえすれば、それでいいということだ」
「分かる話です。綺麗事では生きられぬ乱世では、勝つことこそが、正義です。西県で痛い程、味わってきました。言葉や道理は、聞く耳を持つ人でなければ通じぬ、虚構です」
「此度の戦は容易ではなく、諸将がどの様に戦うのか、見てみたかったのだ」
「それで三つ目というのは?」
「丞相張禄は狡猾な人だ。長い戦となっていた故、秦軍の梯子を外させぬよう、宮廷にて睨みを効かせる必要があったのだ。勝つ為には、政にて丞相の仲間を脅し、黙らせるというのも大切なのだ。王翦、後継者として、お前に伝えておく。勝てる戦に臨むのだ。どれだけ卑劣な手でも、どれだけ味方に犠牲を強いても、勝ちさえすれば、道は開ける」
「肝に銘じます」
 瞬き一つせずに、話を聞いてくれた王翦に、白起は満足した。そして白起は、気を緩めた。
「秦王様がここにいなくて良かった」
「なに故ですか?」
「秦王様は戦が下手だ。占いなんぞを真に受けておる。人には得手不得手があるもの故、王に戦の才など不要であるがな」

 一ヶ月も経たずして、趙括は無謀な突撃を敢行した。そしてそのまま討死にし、十五万の趙軍は捕虜となった。
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