残酷な描写あり
R-15
第百八七話 長平の戦い 十二
趙括の戦死後、白起は趙兵を捕虜にした。しかし数十万という余りに多すぎる捕虜の処遇に困り果てる。
同年 12月(開戦2年3ヶ月目)
白起は捕虜の処遇に困ることになった。予想では、もっと多くの敵を討ち取るだろうと思っていたが、趙括に準じる者は皆無に等しく、誰もが我先にと矛を収め、降伏した。その為秦軍は、捕虜に食わせるだけの兵糧が足りなかった。
白起は本陣の中、幾度も報告され机に積まれ続ける、捕虜に関する竹簡の山に、頭を悩ませていた。
「我が軍の総数は二十万であり、捕虜は十五万。残された兵糧は、二十五万人が七日満たされる量だ。寮を減らせば、七日後の補給まで維持できる。だがその後は……どうするべきか」
白起は鬱屈した気分を改めるべく、外へ出た。外は雪が降っていた。
「雪は嫌いだ。私にあの日を思い出させる」
白起が思い出していたのは、楚の鄢城を攻めた時のことであった。あの時は爽快であった。しかし失った信用を取り戻す為に苦心したことを思い返せば、この雪は、問答無用に溺死させた鄢城の数十万の民の冷たい体が、触れえしまえば消える魂となって覆いかぶさってくる様に感じた。
数日間、白起は副将らと軍議を開いた。捕虜に関して、あらゆる方策を考えた。最も有効な策は、邯鄲を攻める際、捕虜を邯鄲の前で放って収容させてから包囲をすれば、邯鄲はすぐに干上がり降伏するというものであった。しかし捕虜の数が多すぎる捕虜は、大きな重りである。布陣をし終える前に強襲されれば、ひとたまりもなかった。
「やはり……殺すしかないか」
白起の言葉に、諸将は黙った。捕虜に手を出すのは、ご法度であった。
その空気に気づいた白起だったが、これ以上の策は、思い浮かばなかった。
軍議の後、王翦は白起の許を尋ねた。
「配下の兵を初め、多くの兵が暴動を起こしています。このままでは、死傷者が出かねません。いかがされますか」
「捕虜に食わせる為、やむを得ん。そして捕虜の処遇について、有効な策は未だ出ていない」
苦慮する白起に、王翦は告げた。
「武安君殿、後継者として、発言をしても宜しいですか」
「構わん」
「捕虜を殺すべきです。武安君殿が頭を悩ませているのは、以前、鄢の民を溺死させたことに由来します。しかし現状は当時とは異なります。武器を手に取ることもなかった無垢な民を、問答無用で沈めたこと。それは確かに、胸を痛める人が出ることもあるでしょう。しかし捕虜は、違います。秦兵を殺したのです。暴動が続けば、更に血が流れます。戦いはまだ、終わってはいないのです」
「戦いはまだ終わっていないか。実、言い得て妙だな。胸が痛むのは私も同じなのだ。弱くなってしまったのだろうか」
「違います。武安君殿は、秦将としてではなく総帥としての感性が磨かれたに過ぎませぬ。誰もがそうであると思います。必要な環境に合わせ、常に精進していくものです」
王翦に背中を押され、白起は意を決した。
七日のあいだに、白起は捕虜を一網打尽にする算段を立てた。そして決定事項として、副将らに行動を起こすことを伝えた。背けば斬るといい、反対意見は認めなかった。それは、反対意見と呼べるものはなかった。道理という名の、人のみが持つ理知的な感情が、ただ反対しようとしただけであった。感情を捨て、ただ合理的に、捕虜を始末しなくてはならないというのは、誰もが同意していた。
白起は戦死者を葬るという名目で、捕虜に穴を掘らせた。
朝から晩まで、穴を掘らせた。凍てつく寒さに体が動かなくなる者が居ても、湯を与えた。空腹に倒れる者が居れば、飯を与えるまで休ませた。それは兵にとっては、捕虜に対する当然の行いであった。それが戦場の習わしだからである。
兵の動きを管轄する諸将は、合理的に捕虜を始末する為、捕虜への暴力を禁止し、可能な限り手を貸す様に伝えていた。しかしその作業が、捕虜を始末する為のものであることは、当然伏せていた。だからこそ、自分達がしていることが、秦兵の良心さえも踏みにじる蛮行であると悟り、心を痛めた。
白起は、長平に着任してから、趙括に自身の存在が発覚しない様に、情報を徹底的に統制した。情報を統制して、相手を欺く。それは政の天才であり大将軍であった嘗ての主、魏冄から学んだことであった。白起の強さ、基(もとい)秦軍の強さは、そこにあった。
白起は捕虜達に、自身が沈む為の穴を掘らせているということを、決して漏らさなかった。
穴のすぐ脇には、川があった。それは第三の戦線の隙間から続く、長い川であった。
数日後、十分な穴が掘られた時、白起はそこに、戦死者の亡骸を置いた。それは全て、趙兵のものであった。趙兵同士、最期の別れを告げる為にと、秦兵は誰一人として近づけさせなかった。
「私が死者に対してして払える最大限の敬意だ。亡骸は腐らせぬ。川を通り、長江へ流れ、やがて海へと流れ着く。王翦、司馬靳からの報告はまだか」
「ついさっき、間もなく完了という報告がありました。感傷に浸っておられた故、声を掛けませんでした。お許し下さい」
「構わん」
白起は空を眺めた。雪の向こうに、まっ赤に燃える夕日が見えた。なぜか、許された気がした。冷たい空気を吸い込み、温かい吐息をゆっくりと吐いた。そして、命令を下した。
「川を決壊させよ。捕虜を殺せ……!」
それからは一瞬であった。流れを変えた支流は高平山の麓へ流れ込み、土砂を飲み込み濁流となって、穴へと崩れていった。濁流は氾濫し、やがて支流へと合流した。命を育む水は、全ての趙兵を連れて、新たな命を宿さんとし海へと、長い旅路を進みだしたのであった。
白起は捕虜の処遇に困ることになった。予想では、もっと多くの敵を討ち取るだろうと思っていたが、趙括に準じる者は皆無に等しく、誰もが我先にと矛を収め、降伏した。その為秦軍は、捕虜に食わせるだけの兵糧が足りなかった。
白起は本陣の中、幾度も報告され机に積まれ続ける、捕虜に関する竹簡の山に、頭を悩ませていた。
「我が軍の総数は二十万であり、捕虜は十五万。残された兵糧は、二十五万人が七日満たされる量だ。寮を減らせば、七日後の補給まで維持できる。だがその後は……どうするべきか」
白起は鬱屈した気分を改めるべく、外へ出た。外は雪が降っていた。
「雪は嫌いだ。私にあの日を思い出させる」
白起が思い出していたのは、楚の鄢城を攻めた時のことであった。あの時は爽快であった。しかし失った信用を取り戻す為に苦心したことを思い返せば、この雪は、問答無用に溺死させた鄢城の数十万の民の冷たい体が、触れえしまえば消える魂となって覆いかぶさってくる様に感じた。
数日間、白起は副将らと軍議を開いた。捕虜に関して、あらゆる方策を考えた。最も有効な策は、邯鄲を攻める際、捕虜を邯鄲の前で放って収容させてから包囲をすれば、邯鄲はすぐに干上がり降伏するというものであった。しかし捕虜の数が多すぎる捕虜は、大きな重りである。布陣をし終える前に強襲されれば、ひとたまりもなかった。
「やはり……殺すしかないか」
白起の言葉に、諸将は黙った。捕虜に手を出すのは、ご法度であった。
その空気に気づいた白起だったが、これ以上の策は、思い浮かばなかった。
軍議の後、王翦は白起の許を尋ねた。
「配下の兵を初め、多くの兵が暴動を起こしています。このままでは、死傷者が出かねません。いかがされますか」
「捕虜に食わせる為、やむを得ん。そして捕虜の処遇について、有効な策は未だ出ていない」
苦慮する白起に、王翦は告げた。
「武安君殿、後継者として、発言をしても宜しいですか」
「構わん」
「捕虜を殺すべきです。武安君殿が頭を悩ませているのは、以前、鄢の民を溺死させたことに由来します。しかし現状は当時とは異なります。武器を手に取ることもなかった無垢な民を、問答無用で沈めたこと。それは確かに、胸を痛める人が出ることもあるでしょう。しかし捕虜は、違います。秦兵を殺したのです。暴動が続けば、更に血が流れます。戦いはまだ、終わってはいないのです」
「戦いはまだ終わっていないか。実、言い得て妙だな。胸が痛むのは私も同じなのだ。弱くなってしまったのだろうか」
「違います。武安君殿は、秦将としてではなく総帥としての感性が磨かれたに過ぎませぬ。誰もがそうであると思います。必要な環境に合わせ、常に精進していくものです」
王翦に背中を押され、白起は意を決した。
七日のあいだに、白起は捕虜を一網打尽にする算段を立てた。そして決定事項として、副将らに行動を起こすことを伝えた。背けば斬るといい、反対意見は認めなかった。それは、反対意見と呼べるものはなかった。道理という名の、人のみが持つ理知的な感情が、ただ反対しようとしただけであった。感情を捨て、ただ合理的に、捕虜を始末しなくてはならないというのは、誰もが同意していた。
白起は戦死者を葬るという名目で、捕虜に穴を掘らせた。
朝から晩まで、穴を掘らせた。凍てつく寒さに体が動かなくなる者が居ても、湯を与えた。空腹に倒れる者が居れば、飯を与えるまで休ませた。それは兵にとっては、捕虜に対する当然の行いであった。それが戦場の習わしだからである。
兵の動きを管轄する諸将は、合理的に捕虜を始末する為、捕虜への暴力を禁止し、可能な限り手を貸す様に伝えていた。しかしその作業が、捕虜を始末する為のものであることは、当然伏せていた。だからこそ、自分達がしていることが、秦兵の良心さえも踏みにじる蛮行であると悟り、心を痛めた。
白起は、長平に着任してから、趙括に自身の存在が発覚しない様に、情報を徹底的に統制した。情報を統制して、相手を欺く。それは政の天才であり大将軍であった嘗ての主、魏冄から学んだことであった。白起の強さ、基(もとい)秦軍の強さは、そこにあった。
白起は捕虜達に、自身が沈む為の穴を掘らせているということを、決して漏らさなかった。
穴のすぐ脇には、川があった。それは第三の戦線の隙間から続く、長い川であった。
数日後、十分な穴が掘られた時、白起はそこに、戦死者の亡骸を置いた。それは全て、趙兵のものであった。趙兵同士、最期の別れを告げる為にと、秦兵は誰一人として近づけさせなかった。
「私が死者に対してして払える最大限の敬意だ。亡骸は腐らせぬ。川を通り、長江へ流れ、やがて海へと流れ着く。王翦、司馬靳からの報告はまだか」
「ついさっき、間もなく完了という報告がありました。感傷に浸っておられた故、声を掛けませんでした。お許し下さい」
「構わん」
白起は空を眺めた。雪の向こうに、まっ赤に燃える夕日が見えた。なぜか、許された気がした。冷たい空気を吸い込み、温かい吐息をゆっくりと吐いた。そして、命令を下した。
「川を決壊させよ。捕虜を殺せ……!」
それからは一瞬であった。流れを変えた支流は高平山の麓へ流れ込み、土砂を飲み込み濁流となって、穴へと崩れていった。濁流は氾濫し、やがて支流へと合流した。命を育む水は、全ての趙兵を連れて、新たな命を宿さんとし海へと、長い旅路を進みだしたのであった。