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作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
銀色の頁:存在表出
場面は変わり。
もう一人の異端者の物語が幕を開ける。
 脳を揺さぶるほどの地響きで、リノアは目を覚ました。
 飛び起き、かぶりを振る。
 気のせいではない、断続的に揺れは続いている。
 夜目に慣れつつ周囲を見渡すも、収穫はない。それもそのはず、自身の場所が変わったわけではないのだから。
 彼女の周りを取り囲む石造りの空間は至って平凡な広さ。しかし天井は遥か高い位置にあり、四角く切り抜かれた明かり取りだけがある。それも硝子なんてものはついていなくて、雨を凌げるわけでもない。しかし彼女にとっては貴重な、水浴びのための窓だった。
 一条の真っ白な明かりだけが差し込んでおり、空間へとわずかな光を落としている。
 アンウルの光だ。
 その下へとリノアは身体を晒し、ひとまずの安堵を得た。
 しかし、揺れは続いているし、音もまた続いている。さらに言えば、差し込む光の中に粒子が混じっているようだ。

「珍しい、こんなに降ってくるなんて」

 リノアは首を捻る。それに合わせて瑠璃色のボサボサ頭が揺れた。腰あたりまで伸びた髪は外ハネがひどく、その毛先に向けて徐々に色が薄まっていくグラデーションカラー。手入れされていないように見えて、艶は保持している。

「この音は?」

 よくよく耳をすませば、地鳴以外の音を拾うことができる。
 恐怖を喚起する咆哮と、それに立ち向かう男たちの勇敢な声。それにさらに混じる悲鳴と慟哭。
 何が起こっているのか、リノアには見当もつかなかった。
 どれだけの時間をその場所で過ごしたかは定かではないが、こんなに騒がしいことは初めてなのである。
 リノアは鼓動の高鳴りを感じて胸に手を当てた。
 その口角がわずかに上がる。

「不思議なものね。どうやらわたしは、わくわくしているらしい」

 その長身には着古されたボロボロのワンピースを纒う。そこから覗く豊かに実った乳房、そこに添えられた左手、その全てが艶めいた薄墨色をしている。光をわずかに吸収し鈍く輝くその肌は、潤っており若々しい。
 女の姿は、現在では淘汰されたはずの人間の姿に酷似していた。瞳の色が臙脂色という特徴を除けば、彼女は人間と呼ばれても遜色ない見た目だ。

「状況の確認ができればいいのだけれど」

 ぼやいた声は音の遠いこの空間ではよく通った。
 リノアは自力でこの空間から出たことがない。出ようと思ったこともない。物心がついた頃からここで生活をしているため、そんなことを思うこともなかった。食事は運ばれてきたし、運動だってあてがわれた相手と適当にこなし、身体も鍛えられている。だから、不便はなかった。生存という意味で必要なものは全てここに揃っていた――はずだ。

「外が気になる。そんな単純で簡単なことができないなんてね」

 リノアは歯噛みする。
 見上げた天窓は遥か先だ。土埃程度しか視認できない。あとは、もっと高くを動くアンウルくらいのものである。
 リノアは辟易する。
 今までだって外に興味を惹かれなかったわけじゃない。外のこと、それ自体は教えてもらっていたのだ。――危険な場所だと。不自由ばかりが存在する場所なのだと。そのせいか必要以上の興味をそそられなかった。加えて外が、リノアにアプローチすることなどなかったのだから。
 リノアはそして、自覚する。
 今、己が昂っていること。外に起こる不自由を、悲劇を、惨劇を、この目で見たいと心が叫んでいることを。咆哮の主人は誰なのか、世界に満ちる慟哭がどこから生まれるのか、立ち向かう勇敢さは何を起因とするのか。
 その全てを、リノアは渇望した。
 好奇心といえば聞こえはいい。それはリノアの心が学びを、経験を求めている証左。これまでの全てを、今の全てを投げ捨てても構わないという貪欲なまでの、己の――への渇き。
 リノアはその名前を知らないからこそ、欲した。

「わたしをここから出してくれっ!」

 天窓の外を見つめ、叫んだリノアの髪がごうと巻いた風で激しく揺れる。
 それだけの質量の風を取り込むだけの隙間が、リノアの部屋には存在しない。せいぜい微風が抜け、晴れていれば雨でできた水たまりが乾くくらいの、そんな程度。部屋の中を激しく駆け巡るほどの風が通れる場所は、それこそ天窓くらいのものだ。
 そうだ、それはまさしくそこから送り込まれてきた。

「あれは……?」

 闇に飲まれた天窓。音が遮断され、一瞬の静寂が訪れる。
 それも束の間、激震と共に轟音が巻き起こり、暴風が駆け抜けた。
 リノアは咄嗟に身構える以外になす術を持たず、硬直したままそれに連れ去られてしまう。
 風の音だけが支配する聴覚、そして天高く登っていく感覚。それは程なくして止まり、リノアははっと我に返った。
 ゆっくりと瞼を持ち上げたリノアが目を見開く。

「ここ、は……手のひらのうえ、か?」

 ごつごつとして、異常な熱を放出する黒い手のひらのようなものの上に、リノアは尻餅をついていた。その先端から伸びる鋭く尖った爪は、彼女の背丈ほどもある。
 きょろきょろと見渡して、リノアはとあることに気がついた。

「不自然に指が一本ない?」

 大きな手には明らかな欠落が存在している。リノアはその部分を手でなぞり、想像した。
 こんなにも太く逞しい指を誰かが切り落としたのだとしたら、それはどんな存在なのか。考えるだけで鼓動が速くなる。
 リノアがそんなことを考えながら視線を上げると、そこには力強く拍動する白い胸のようなものがあった。外側にいくにつれて銀の鱗に覆われていくのがわかる。
 ばさり、ばさり。
 翼が空気を激しく叩く音。そしてそれを掻き消すほどの咆哮。
 乾いた破裂音が、それらに微かに混じっている。
 リノアが指の間からそろりと顔を出して下を覗き込んだ。

「隊長、誰かが捕まっているようです。よろしいのですか?」
「構うことはない、アルーシェによって与えられる被害の見積の方がはるかに高いのだ。撃ち尽くしても構わん。かのエジダイハを撃退するのだ。でなくばヴァルティエ様に首を取られるだけじゃ済まないぞっ、みな、家族の命が大事だろう?」

 蟻の大群のように蠢く兵士たちと、それを統率する複数の指揮官。
 その手にはさまざまな火器が握られ、引き金を引くたびに大きな火花が散っている。どれもこれも遠くない過去にもたらされたオーバーテクノロジーの結晶だ。新しいもの好きな領主によって普及し、大きな脅威に立ち向かえるよう訓練と改良がされていた。特別な力を扱えないものたちにとってこれは大きな助けとなっている。

「しかし隊長、あまり効果がないように見えますが、この武器は」
「そうは言うが、我らには空飛ぶ相手にこれしか武器がない。無駄口を叩く暇があれば一発でも多くあの大災禍めに浴びせてやれ」

 アンウルの明かりの中ではっきりと映し出された、銀の鱗を纏うエジダイハ――アルーシェ。
 頭に生える二本の巻き角が雄々しく、赤銅に染まる瞳は眼下を見据えて凛々しい。腕と分離した巨大な翼は、見るもの全てに恐怖を与えるほどに禍々しいが美しい。
 今その身体全てに集中砲火を受けながらも怯むことすらないそれが、叫び、吠える。

「おーおー、やってるねえ。我が親愛なる雑兵たち。ほらほら、ここはあたいに出番を譲りたまえよ」
「ヴァルティエ様、僭越ながら申し上げますが――」
「えー、つれないなあ。どうせお前のことだから、ヴァルティエ様が暴れるともっと被害が増える、とか言うんでしょう? リヴル」

 隊長リヴルが長く息を吐いて頷く。彼はその毛むくじゃらのマズルの顎を撫で上げながら、空から見下ろす怪物を見上げた。その奥には一部の欠けもないアンウルが満ち満ちている。

「ええ、その通りですよヴァルティエ様。あなたに暴れられちゃ領主の城だけじゃあない、城下町すら消し飛んでしまうでしょう」
「はは、面白い冗談だなあ。あたいは城の一部と、大事な大事な宝物を奪われているんだ。これでも少しは頭に血が上っているんだよ……これでもね。いくらお前でも、地上にいない相手には打つ手なしじゃあないか」
「全くもってその通りです。いやしかし、なんておっしゃいました? 大事な宝物? もしやアルーシェがその手の上に載せている女性のことですか?」
「ああその通りさ。だからあたいにここを預けて欲しいんだよ、リヴル。月があっても戦えない指揮官殿には引っ込んでいて欲しいわけさ」

 ヴァルティエは月光を反射する灰色の髪を揺らして微笑んだ。銀の双眸が細くなり、獣のような様相を呈す。

「……つかぬことをお伺いしても?」
「なんだい?」
「確かアルーシェは穏やかな性格で、ヴァルティエ様とは親交があったと聞いています。民たちもアルーシェを脅威とは思っていなかったでしょう。それがなぜ、今になって我らを襲うのです? 正直なところ、あれはよほど理性的に見えます」

 リヴルは心底不思議そうな顔をしてヴァルティエを振り返った。その間も、兵士たちは火器をアルーシェに向け続けており、緊迫感は絶えない。だが、アルーシェは積極的に攻撃行動をしているわけではなく、威嚇と、弾丸をものともしない威厳だけを見せつけている。
 意図的に作り出されたような膠着状態なのだ。

「お前の嗅覚は誤魔化せんか。――あれの狙いはあの娘だ。それ以外に興味などないのさ」
「ならなぜ、目的を果たしたのに飛び立とうとしないのでしょう?」
「さあ? そんなことはやつにでも直接聞けばいいじゃないか。あたいの知ったことじゃないね」

 ヴァルティエはふん、と鼻を鳴らして頭上を仰ぎ見た。その背には闇夜にも似た翼があり、彼女の肌も夜に溶ける黒色だが、艶が光を照り返している。

「何を待っているのだろうな、お前は」

 訳知り顔のヴァルティエが、にやりと口角をあげる。

「どうやらは傷ひとつなく無事のようだ」
「リノア?」
「ああ、あたいの子供さ」
「はい? ヴァルティエ様に――いやいやシェイフェルに子供なんて」

 異様に取り乱すリヴル。それを見て高らかに笑うヴァルティエ。

「くつくつ……冗談だよ。まあ、シェイフェルじゃあないが例がないわけじゃない」
「はあ……冗談ですか。びっくりしましたよ」
「何を想像してるんだ。ふん、さすがは狼か」
「ぐっ……痛いところを」

 和やかな空気を掻き消す咆哮が戦場に響き渡る。
 二人が視線を戻すと、アルーシェが大翼を振り乱して空を泳ぎ始めたところだった。兵士たちの火器がそれを追いかけるも、夜なこともあり掠りもしない。

「動いたか」
「ついに、ですね」

 アルーシェが空を回遊しながら、何を思ったのかその手で守っていたリノアをアンウルの光の下へ放り投げた。

「どういうつもりだいアルーシェ? あたいの大事なリノアを投げるたぁ」

 とんとヴァルティエが石畳を蹴って飛ぶのと、ごうと突風が彼女の後ろからすり抜けていくのは、ほぼ同時だった。
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