残酷な描写あり
R-15
目覚めと忠告
舞台はディケムと呼ばれる常昼の街へ。
眠りから覚めたリノアは、風影に大事なことを告げられる。
眠りから覚めたリノアは、風影に大事なことを告げられる。
常昼の街ディケムは夜にも関わらず煌々としていた。
どれほどの精霊の力を借りているか想像もつかないほどの煌びやかさが空さえも照らしている。それが街の半分近くを占めているため、夜という時間帯にも関わらず街は明るい。
ネオンライトのように混ざり合う精霊光炉の光たち。それらが演出する眩き光と昏い影こそが、この街の在り方を示していた。
混沌とした夜の街を歩くラネフスの半数以上は、ルジュヴィと呼ばれる存在だ。彼らは飼われ、与えられる代わりに奉仕し、その身と時間の悉くを主人に尽くす。この歓楽街に満ちる芳醇な悪臭のほとんどは、彼らとそれを使い潰す者たちによって放たれていた。
「酷いにおいだな、本当にここは」
「とかいいながらこんな場所を拠点にしているのは他でもない君だろうが、風影さんよ」
歓楽街の影の部分――薄暗がりに佇む煤けた建物の一室で、風影はため息をついた。彼は今風を纏っておらず、大きな鍔のついた帽子をくるくると指先で回転させながら、街の明かりに目を細めているのだった。
テーブルを挟んだ向かいに男が座り、ふんと鼻を鳴らした。目深に被ったフードからはぬめりと光る金と銀のオッドアイが覗き、その周囲を赤銅がなぞっている。
「そう言うなよヘイロン。ここが一番俺の求める宝が見つけやすいんだから。あいつのことだって――」
「はいはい。だが、彼女がファルならとっくに生きちゃいないのはわかっているだろう?」
「だが、この女の顔は……」
風影の空色の瞳がベッドに横たわる女へと向けられる。そこには彼が先日奪い取ってきた宝物が眠っており、今も落ち着いた寝息を立てていた。拠点に戻ってきてからというものの、丸一日は経過しているが、女が目を覚ます様子はない。
しかし、そろそろ目を覚ましてもいい頃合いだと風影は空気の流れで感じ取っていた。
「ああ、手がかりにはなるだろう。こちらでも調べておくが、あの剣の見聞料とでもしといてやる」
「悪いな、情報ばかりもらっちまって」
「なあに、良い武具を見せてもらった礼だ、気にするな。……君は得意先だしな」
ローブの男はそこまで言うと机に手をつき立ち上がった。袖から伸びた手が赤銅色なのを風影は捉え、以前から聞きたかったことを口にする。
「あんたの技術は格別だ。それをなぜ破格で俺に提供してくれるんだ?」
「ふん。――興味ついでだよ。怪盗なんていう仕事を生業とする奇特なやつを傍から見るのは面白いし、その見た目も気に入っている。……ではな」
ヘイロンが扉を開けて出ていく。その後ろ姿を風影は見送り、息を吐きつつ椅子に座り込んだ。
テーブルに帽子を置き、その先端部分を指で弄る。そのままついと天井にぶら下がる精霊灯籠へと視線を向けた。
「そんな風の感じられないところに入れられて、お前さんはなんとも思わないのかね」
灯籠の色は薄緑。
風影にとって落ち着く色であり、優しく室内を照らしている。暖かさには程遠いものの、これくらいの冷たさがちょうどいいのだと選んだものだった。
それに語りかけることこそが感傷なのだと、彼はとうに知っていた。
風の流れが変わる。
「ようやくか、よほど疲れていたらしい」
確かな目覚めの息吹を感じて、風影はベッドへと視線を投げた。寝息だったものが呼吸へと変わるのを、彼は敏感に感じ取ったのだ。
指を鳴らすと、彼の姿は風に包まれ影だけになる。
「こ、こは……?」
女――リノアの視線の先には知らない天井がある。薄茶色に薄緑が当たって不思議な色合いだ。初めて見る色合いに首を傾げる。
次いで自らを包み込む馴染みのない感覚に襲われた。ふかふかと沈み込む感覚と、ふんわりと四肢に乗っかる程よい重み。本当は起き上がりたかったが、その初めての感覚とえも言われぬ心地よさに浸っていたい気持ちに押し負けて、布団を捲ることができなかった。
「せめて起きて周囲を見渡したらどうだ、眠り姫さんよ」
「その、安心したというか」
「そんな安ベッドでそんなこというやつ嬢ちゃんが初めてだよ」
「そう。こんなにいいものなのに」
リノアはそこで初めて掛け布団を押し除け上半身を起こした。瑠璃色のボサボサ頭が左右に広がり、くるくるとしている。寝ぼけ眼の臙脂色が、よく眠れたことを物語っていた。
「先に言っておくが、かなり酷い状態の服だったから着替えさせた」
「本当だ。すごく肌触りがいい。礼を言うよ――怪盗?」
ベッドに座り込む形でリノアは自分の服装を確認した。
先日まで着ていたものとは比較にならないほどの純白のワンピース。そして身につけていた覚えのない乳房にあたる感触と、下腹部の肌触りを確認して首を捻る。
「変な感じ」
「変な感じとは?」
「こういうの、身につけてた記憶がないから」
ワンピースをたくし上げ、見せびらかすリノアに風影は肩をすくめた。
「確かにお前さんは身につけていなかったが。――女はそういうのを身につけるらしい。というか、なぜヴァルティエはそんなことすらしてなかったんだ」
「……ヴァルティエは、あまりわたしに構ってくれてないんだ。必要最低限というか。ほとんど放っておかれていたように思う」
「そうか。それは必要最低限だと思うんだが。もしかするとあの領主サマも……? それはともかく気になるか、それ。外さないほうがいいんだが」
リノアは一瞬沈黙するも言葉の意味を理解して首を横に振った。
「……いや。いい感じだ。胸は支えられてる感じがするし、こっちはなんというか落ち着くというか、そんな感じ」
「そいつは何よりだが、気にしないんだな」
「なにを?」
「いや、わからないならいいんだ」
風影がため息をついたように感じられたリノアは、さらに首を捻り、疑問符を浮かべた。しかしすぐに気にすることをやめる。
それよりも気になることがあったからだ。
「ここはどこ?」
「俺のアジトだ。この街でも安全で、誰の目も届かない、風通しの良い場所さ」
「ふうん。外が明るいな。今は、昼?」
「いいや、夜だ。ここは、眠らない街だからな」
二人の視線が窓の外へ向けられる。
建物の影から伸びた光が空をも照らす勢いで輝いていた。それをリノアは不思議そうに見つめ、風影は冷ややかに眺めた。
「眠らない街?」
リノアの胸が高鳴る。聞いたこともない、想像もできない言葉に胸が躍る。いますぐにでも外出ていき、その姿を己の双眸で捉えたい欲に駆られた。
「目をきらきらさせるのは結構だが、この街は――いやまあ、ちょうどいいか。その目で見たいんだろう、世界を」
わざとらしく窓を開けた風影がリノアに問う。
オレイアスの季にしては粘ついて嫌悪を誘う風が室内に吹き抜けた。いくら風通しが良くとも、欲望の混ざり合う空気はそれに乗ってやってくる。
「……ここは刺激的で、学びのある良い場所だ。あらゆる自由と不自由が竜巻のように吹き荒れる」
リノアの目には見えていないにも関わらず、彼女にはなぜか風影が笑っているように見えた。
「その足で踏み締め、その目で見て、その耳で聞き、その身の全てで感じ取ると良い。それがお前さんを自身の渇望へと近づけるだろうさ」
「でもわたしには、何から始めていいかわからない」
「――それもそうだな。さすがに下着すら知らない女をそのまま外に放り出すのは向かい風に過ぎる」
ばたんと窓が閉まると、椅子ががたがたと揺れた。
「俺もそこまで酷じゃあない。じゃないが、おそらく嬢ちゃんは何も知らないまま放り出したほうが、良い風を運んできてくれそうなんだよなあ」
「何を言っているのか、さっぱりだけど?」
「よし嬢ちゃん、確認しよう。……ひとまずは俺と行動を共にするので異論はないか?」
「もちろん。わたしにはそれ以外に選択肢がないから」
リノアは当然といった様子で答えた。
連れ去られた挙句、何も知らない場所で放り出されたのではたまらない。いくら外の世界を知りたい、見てまわりたいという意志があろうともだ。
「それに、そのつもりでわたしが起きるのを待っていたのではないの?」
「その通りだよ。当面は俺の仕事を手伝いながら世界を知っていけばいい。まあ、俺の仕事はほとんどこの街だから、この街に限って言えばということになるかもしれないが」
「どこにでも行ったことがあるって言ってた」
「それは嘘じゃないが、それとこれとは別さ」
風影の掴みどころのなさにリノアは困惑していた。彼の仕事を手伝うことに異論はないが、その先については結局放り出されるということになるではないか。
「そんな先のことはいいんだ。無事にこの街で名前をなくさずにお前さんが過ごせるのなら、その先も考えるよ」
「名前を、なくさず?」
「ああ。これから嬢ちゃんには俺が盗むに値する宝石を一人で探してもらう。その過程で名前を奪われてはならないんだ」
リノアは言葉の意味を捉えかねて疑問符を浮かべた。彼女にとって風影の言は吹き抜ける風のように形を持たない。
「名前とは、形なきものを縛るものにして、形の礎となるものなんだ」
「どういうこと?」
「吹き抜ける何かに風と名前を与えたのは果たして誰だろうな。だが、風という名前を手に入れたことで、その何かは『風』として世界を駆け巡ることになったんだ」
回りくどい論調に辟易とし始めたリノアは天井へと視線を泳がせた。彼女が欲しかったのは決してこんな会話などではない。理解しようとしてもできない会話を延々と続けられるのは、さすがに嫌気がさしてくる。
それを察してか風影はリノアのそばへと歩み寄った。そして手の影でリノアの顎を掬い上げると、その目をじっと見つめる。
「お前さんの名前は?」
見えなくても、リノアにははっきりと目が合ったのがわかった。
風が、ボサボサの髪を吹き上げる。
「……リノア」
「そうだ。それこそがお前さんという風の始まりだ。決してそれを奪われるなよ。この街ではそれを失ったものから、ルジュヴィとなるのだから」
とん、と足音を響かせて風影が一歩身を引いた。
「だからリノア、ここではそれさえ無事ならば己として生き延びられるだろうよ」
どれほどの精霊の力を借りているか想像もつかないほどの煌びやかさが空さえも照らしている。それが街の半分近くを占めているため、夜という時間帯にも関わらず街は明るい。
ネオンライトのように混ざり合う精霊光炉の光たち。それらが演出する眩き光と昏い影こそが、この街の在り方を示していた。
混沌とした夜の街を歩くラネフスの半数以上は、ルジュヴィと呼ばれる存在だ。彼らは飼われ、与えられる代わりに奉仕し、その身と時間の悉くを主人に尽くす。この歓楽街に満ちる芳醇な悪臭のほとんどは、彼らとそれを使い潰す者たちによって放たれていた。
「酷いにおいだな、本当にここは」
「とかいいながらこんな場所を拠点にしているのは他でもない君だろうが、風影さんよ」
歓楽街の影の部分――薄暗がりに佇む煤けた建物の一室で、風影はため息をついた。彼は今風を纏っておらず、大きな鍔のついた帽子をくるくると指先で回転させながら、街の明かりに目を細めているのだった。
テーブルを挟んだ向かいに男が座り、ふんと鼻を鳴らした。目深に被ったフードからはぬめりと光る金と銀のオッドアイが覗き、その周囲を赤銅がなぞっている。
「そう言うなよヘイロン。ここが一番俺の求める宝が見つけやすいんだから。あいつのことだって――」
「はいはい。だが、彼女がファルならとっくに生きちゃいないのはわかっているだろう?」
「だが、この女の顔は……」
風影の空色の瞳がベッドに横たわる女へと向けられる。そこには彼が先日奪い取ってきた宝物が眠っており、今も落ち着いた寝息を立てていた。拠点に戻ってきてからというものの、丸一日は経過しているが、女が目を覚ます様子はない。
しかし、そろそろ目を覚ましてもいい頃合いだと風影は空気の流れで感じ取っていた。
「ああ、手がかりにはなるだろう。こちらでも調べておくが、あの剣の見聞料とでもしといてやる」
「悪いな、情報ばかりもらっちまって」
「なあに、良い武具を見せてもらった礼だ、気にするな。……君は得意先だしな」
ローブの男はそこまで言うと机に手をつき立ち上がった。袖から伸びた手が赤銅色なのを風影は捉え、以前から聞きたかったことを口にする。
「あんたの技術は格別だ。それをなぜ破格で俺に提供してくれるんだ?」
「ふん。――興味ついでだよ。怪盗なんていう仕事を生業とする奇特なやつを傍から見るのは面白いし、その見た目も気に入っている。……ではな」
ヘイロンが扉を開けて出ていく。その後ろ姿を風影は見送り、息を吐きつつ椅子に座り込んだ。
テーブルに帽子を置き、その先端部分を指で弄る。そのままついと天井にぶら下がる精霊灯籠へと視線を向けた。
「そんな風の感じられないところに入れられて、お前さんはなんとも思わないのかね」
灯籠の色は薄緑。
風影にとって落ち着く色であり、優しく室内を照らしている。暖かさには程遠いものの、これくらいの冷たさがちょうどいいのだと選んだものだった。
それに語りかけることこそが感傷なのだと、彼はとうに知っていた。
風の流れが変わる。
「ようやくか、よほど疲れていたらしい」
確かな目覚めの息吹を感じて、風影はベッドへと視線を投げた。寝息だったものが呼吸へと変わるのを、彼は敏感に感じ取ったのだ。
指を鳴らすと、彼の姿は風に包まれ影だけになる。
「こ、こは……?」
女――リノアの視線の先には知らない天井がある。薄茶色に薄緑が当たって不思議な色合いだ。初めて見る色合いに首を傾げる。
次いで自らを包み込む馴染みのない感覚に襲われた。ふかふかと沈み込む感覚と、ふんわりと四肢に乗っかる程よい重み。本当は起き上がりたかったが、その初めての感覚とえも言われぬ心地よさに浸っていたい気持ちに押し負けて、布団を捲ることができなかった。
「せめて起きて周囲を見渡したらどうだ、眠り姫さんよ」
「その、安心したというか」
「そんな安ベッドでそんなこというやつ嬢ちゃんが初めてだよ」
「そう。こんなにいいものなのに」
リノアはそこで初めて掛け布団を押し除け上半身を起こした。瑠璃色のボサボサ頭が左右に広がり、くるくるとしている。寝ぼけ眼の臙脂色が、よく眠れたことを物語っていた。
「先に言っておくが、かなり酷い状態の服だったから着替えさせた」
「本当だ。すごく肌触りがいい。礼を言うよ――怪盗?」
ベッドに座り込む形でリノアは自分の服装を確認した。
先日まで着ていたものとは比較にならないほどの純白のワンピース。そして身につけていた覚えのない乳房にあたる感触と、下腹部の肌触りを確認して首を捻る。
「変な感じ」
「変な感じとは?」
「こういうの、身につけてた記憶がないから」
ワンピースをたくし上げ、見せびらかすリノアに風影は肩をすくめた。
「確かにお前さんは身につけていなかったが。――女はそういうのを身につけるらしい。というか、なぜヴァルティエはそんなことすらしてなかったんだ」
「……ヴァルティエは、あまりわたしに構ってくれてないんだ。必要最低限というか。ほとんど放っておかれていたように思う」
「そうか。それは必要最低限だと思うんだが。もしかするとあの領主サマも……? それはともかく気になるか、それ。外さないほうがいいんだが」
リノアは一瞬沈黙するも言葉の意味を理解して首を横に振った。
「……いや。いい感じだ。胸は支えられてる感じがするし、こっちはなんというか落ち着くというか、そんな感じ」
「そいつは何よりだが、気にしないんだな」
「なにを?」
「いや、わからないならいいんだ」
風影がため息をついたように感じられたリノアは、さらに首を捻り、疑問符を浮かべた。しかしすぐに気にすることをやめる。
それよりも気になることがあったからだ。
「ここはどこ?」
「俺のアジトだ。この街でも安全で、誰の目も届かない、風通しの良い場所さ」
「ふうん。外が明るいな。今は、昼?」
「いいや、夜だ。ここは、眠らない街だからな」
二人の視線が窓の外へ向けられる。
建物の影から伸びた光が空をも照らす勢いで輝いていた。それをリノアは不思議そうに見つめ、風影は冷ややかに眺めた。
「眠らない街?」
リノアの胸が高鳴る。聞いたこともない、想像もできない言葉に胸が躍る。いますぐにでも外出ていき、その姿を己の双眸で捉えたい欲に駆られた。
「目をきらきらさせるのは結構だが、この街は――いやまあ、ちょうどいいか。その目で見たいんだろう、世界を」
わざとらしく窓を開けた風影がリノアに問う。
オレイアスの季にしては粘ついて嫌悪を誘う風が室内に吹き抜けた。いくら風通しが良くとも、欲望の混ざり合う空気はそれに乗ってやってくる。
「……ここは刺激的で、学びのある良い場所だ。あらゆる自由と不自由が竜巻のように吹き荒れる」
リノアの目には見えていないにも関わらず、彼女にはなぜか風影が笑っているように見えた。
「その足で踏み締め、その目で見て、その耳で聞き、その身の全てで感じ取ると良い。それがお前さんを自身の渇望へと近づけるだろうさ」
「でもわたしには、何から始めていいかわからない」
「――それもそうだな。さすがに下着すら知らない女をそのまま外に放り出すのは向かい風に過ぎる」
ばたんと窓が閉まると、椅子ががたがたと揺れた。
「俺もそこまで酷じゃあない。じゃないが、おそらく嬢ちゃんは何も知らないまま放り出したほうが、良い風を運んできてくれそうなんだよなあ」
「何を言っているのか、さっぱりだけど?」
「よし嬢ちゃん、確認しよう。……ひとまずは俺と行動を共にするので異論はないか?」
「もちろん。わたしにはそれ以外に選択肢がないから」
リノアは当然といった様子で答えた。
連れ去られた挙句、何も知らない場所で放り出されたのではたまらない。いくら外の世界を知りたい、見てまわりたいという意志があろうともだ。
「それに、そのつもりでわたしが起きるのを待っていたのではないの?」
「その通りだよ。当面は俺の仕事を手伝いながら世界を知っていけばいい。まあ、俺の仕事はほとんどこの街だから、この街に限って言えばということになるかもしれないが」
「どこにでも行ったことがあるって言ってた」
「それは嘘じゃないが、それとこれとは別さ」
風影の掴みどころのなさにリノアは困惑していた。彼の仕事を手伝うことに異論はないが、その先については結局放り出されるということになるではないか。
「そんな先のことはいいんだ。無事にこの街で名前をなくさずにお前さんが過ごせるのなら、その先も考えるよ」
「名前を、なくさず?」
「ああ。これから嬢ちゃんには俺が盗むに値する宝石を一人で探してもらう。その過程で名前を奪われてはならないんだ」
リノアは言葉の意味を捉えかねて疑問符を浮かべた。彼女にとって風影の言は吹き抜ける風のように形を持たない。
「名前とは、形なきものを縛るものにして、形の礎となるものなんだ」
「どういうこと?」
「吹き抜ける何かに風と名前を与えたのは果たして誰だろうな。だが、風という名前を手に入れたことで、その何かは『風』として世界を駆け巡ることになったんだ」
回りくどい論調に辟易とし始めたリノアは天井へと視線を泳がせた。彼女が欲しかったのは決してこんな会話などではない。理解しようとしてもできない会話を延々と続けられるのは、さすがに嫌気がさしてくる。
それを察してか風影はリノアのそばへと歩み寄った。そして手の影でリノアの顎を掬い上げると、その目をじっと見つめる。
「お前さんの名前は?」
見えなくても、リノアにははっきりと目が合ったのがわかった。
風が、ボサボサの髪を吹き上げる。
「……リノア」
「そうだ。それこそがお前さんという風の始まりだ。決してそれを奪われるなよ。この街ではそれを失ったものから、ルジュヴィとなるのだから」
とん、と足音を響かせて風影が一歩身を引いた。
「だからリノア、ここではそれさえ無事ならば己として生き延びられるだろうよ」