残酷な描写あり
R-15
変質と行き止まり
時は少し遡り——リノアへ視点が移る。
時は少し遡る。
燦々と照りつけるシロスの下、大きな影に呑み込まれたままのリノアは、影の色に沈んでいた。
薄墨色の肌は闇に溶けてしまった。瑠璃色の髪も目立つほどの輝きはなく――赤々とした瞳と、その身に纏う純白のワンピースだけがぬらぬらと存在感を放っていた。リノアの手に握られた異形の大剣も、ねっとりとうねるように浮かび上がる。
「逃げ場がない」
崩落の勢いを早めたルジュヴィオークションの会場。粘液を纏いながら落ちてくる瓦礫の数々が、リノアの周囲を埋めつつあった。アールセンとミアベルが使用した退路はすでに塞がり、それ以外の道を探す余裕すらない。
リノアは視線を上げた。
現在も建物全体を震撼させているのは、視界を埋め尽くすほどの大顎の上部と思われるもの。下部は側面から大地を抉りつつ噛み砕こうと徐々に力を込めている最中だろう。大顎から滴り落ちる涎が、あらゆるものを腐食させ、崩壊を促進させている。このままではいずれ、瓦礫の山に埋もれるか、あの大顎に捕らわれ食い尽くされるかどちらかだろう。
リノアは逡巡する。
狙いはなんなのだろうか。身に覚えのないことで巻き込まれるのはこれで何度目だろうか。そもそもこんな存在が世界には存在しているのか、と。
「わくわくする。だから、こんなところで腐っているわけにはいかないんだ」
高揚と辟易の織り混ざった表情で、リノアは静かに吐き出した。
その時だった。
オークション会場であったドームの天井――崩壊を免れていた場所――にいくつも設置されていた精霊光炉が一斉に落ちてきた。落下の衝撃とともにそれは砕け散り、中に収められていた存在が姿を現した。
それはリノアの視界の中でもそもそと動き、立ち上がる。
「ここは……? 我々はどうしてこんなところに。ここには大地の息吹が感じられません」
「風がない。ここはとても静かだ」
「水がない。潤いのない場所はこんなにも――渇きに満ちている」
「命の炎が急激に失われていく……悲しいものだな」
口々に呟く、薄布を纏いし者たち。その瞳の色も髪の色も様々な彼らは、のろのろと視線を彷徨わせた。自らの飢えを満たす何かを探すように、ふらふらと彷徨する。その手は何も掴むことはなく、その瞳は無機質なガラクタばかりを捉え続けた。
「何をしてるんだ、彼らは? まるで己に執着がないかのような……」
リノアの目には彼らの姿がそう映る。こんな状況に放り込まれればもう少し困惑、ないしは卒倒してもいいはずだ。リノアを取り囲んでいた観客たちと同じように。
そうこうしている間にも建物全体が軋む音は酷くなっている。落下物の量も増えているだけでなく、土埃で視界も悪くなりつつあった。リノアは手持ちの大剣でそれを払いのけていることでことなきを得ているが、彼らはそんな様子すら微塵もない。加えて、躓こうが、身体に多少瓦礫が接触しようと表情一つ変わらない様子に、リノアは薄ら寒さすら覚えていた。
「クソッ……おいっ! お前たち、逃げることを考えろ!」
たまらなくなってリノアが叫ぶと、全員が一斉に振り返った。そして全ての視線がリノアを射抜くと同時に、ぎょっとした表情へと変わる。そしてようやく気がついたように全員が影で覆われた空を見上げた。
ざわつく。
――朽ち果てるように、止むように、干上がるように、掻き消えるように。
大精霊たちの動きが止まった。
「今、わたしを見て表情を変えた……? いや……っ、避けろっ!」
ぬるりとした、どろりとした大粒の液体が大上顎から降ってきた。ほんのわずかな光を反射しながら、それは大精霊たちを呑み込むように彼らの身体を浸し、弾けた。
「ぁ……ああ」
大精霊たちの反応は一様だった。
大顎から滴り落ちた涎を浴びた途端、叫び声をあげたのだ。そして黄土色の粘液に包まれ、もがき苦しむ。形容し難い色の炎、煙が彼らを取り囲み、渦巻くままに彼らは蠢く。その勢いのまま粘液がとてつもない速度で乾いたかと思うと、彼らはだらりと俯いた状態でそこに佇んでいた。
その永遠のようでいて一瞬の出来事を、リノアは呆然と見ていることしかできなかった。耳を塞ぐことも、目を閉じることもなく、吸い寄せられるように。
「何が、起きた……?」
困惑の表情で見つめるリノア。彼女の耳には崩落の音すら遠い。それだけ、眼前の状況から目を逸らしてはいけない気がしたのだ。
彼女の本能はすでに、危険という認識を獲得している。
「よくない、これはよくないことだ。間違いない」
リノアは自分の口から出た言葉に驚き、口元を押さえた。大剣を握るもう一方の手から、心臓の鼓動が聞こえている。額に浮かぶ脂汗と、背中に這い上がる寒気に、唇がひりついた。
「お前のせいだ。穢血の子よ。お前があれをここに呼んだせいで、我らは私になった。切り離された、寂しい、もう戻れない」
「私? 私とは一体……もはやなんの流れも感じない」
「肌に触れる空気の感覚が煩わしいとは、私は……ああああああ」
「くべるものがなくば燃えられぬとは、なんということだ」
大精霊は各々に自らの状態を把握して、悲嘆にくれた。その瞳たちはやけに爛々として、リノアを捉えて離さない。焼け爛れたような肌、口の端から顎へと伝う液体は一様に強力な存在感を放った。
『なんと物悲しいことかっ!』
唐突な叫びと共に、憎悪を宿して彼らは駆け出した。先ほどまでの彷徨が嘘のような、病的な動き。目標が定まった、個体としての強い意志がなす動作。全員がリノアを目掛けて一目散に、地に足をつけて走っていた。
「こんなことばっかり……わたしが何をしたっていうんだ。――仕方ない」
リノアは大剣を横なぎに振り払い、全員を吹き飛ばした。
素人よりも酷い動きだ。これでは戦闘にすらならない。そうだというのに、彼ら四人は立ち上がり、リノアに向かってくることをやめない。それを適当にあしらいつつ、リノアは頭上の存在を睥睨し、舌打ちを響かせた。
「悪いのはあいつのはずだ。あいつさえいなければこんなことには……わたしのせい? あいつらは何を言ってるんだ。クソ、わからない」
思考に回す余裕はあるが、考えがまとまらないことにリノアは嫌気がさしていた。自分は本当に何も知らないのだと思わされる。なぜヴァルティエが何も教えてくれていなかったのか、わからない。
リノアは瑠璃色の髪を振り乱し、苛々を滲ませる。それに任せて振るった大剣。そこに生々しい感触を感じ、ハッとした。
四人の大精霊が、仰向けに倒れていた。息もあり、身体を動かそうとしている。しかし、その瞳がどうしてもリノアを離してくれなかった。
「痛い、痛い……大地よ、なぜ私を受けて入れてくれないのですか。今の私にはオレイアスの資格すらないというのですか。これでは咎よりも……ああ。帰りたい」
「ああ、動かない。どこにも、流れていけない。固い、感触だけ。帰りたい」
「重たい……こんなにも、身体が重たいとは。帰りたい帰りたい」
「灯火が消えない。これが本当の命の炎……? なんと寂しい。しかし美しい。しかし、しかし帰りたい」
リノアには彼らが口々に呟く、帰りたい、の意味が理解できなかった。
「うるさいっ! うるさいうるさい!」
大剣を振り乱し、リノアは叫んだ。認識していたはずの尻尾が消えていた。
大精霊だったものたちの言葉が、視線が、リノアを蝕んでいた。彼らの悲しみが、苦しみがわからなくとも、わかるのだ。それがどれだけのものなのか、心が理解したがっている。だから、リノアの心は辛かった。目尻からこぼれ落ちる涙も止まるところを知らない。
「わかりたくない。こんな感情、知りたくない……」
爽やかな風が吹いた。優しく頬を撫でる、そよ風だ。それは指となり、リノアの涙を拭う。
「理解は風を強くするんだ。進め、こんなところで停滞することはない」
「……アールセン?」
「正解だ。なんとか戻ってこられた。ミアベルちゃんは無事だよ」
「……そ、っか」
怪盗姿のアールセンが、リノアの正面に姿を現した。ふわりとリノアを包み込むように包容し、背中を撫でる。穏やかで心落ち着かせる心地良い涼風のように。
「ん……ありがとう。もう大丈夫だ」
「はは、役得だねえ」
「うるさい」
アールセンをゆっくりと押し戻して、リノアは深呼吸をした。そして頭上を見上げる。
「あれ……?」
そこには太陽が鎮座していた。晴れ渡る翡翠色の空も同じく。
深い影を落としていたはずの大顎はすでになく、太陽に照らし出された瓦礫と、溶解した天井ばかりが寂しい。
「ああ、なぜだか知らないが本当についさっき去っていったんだ。お前さんはどうやら気づかなかったみたいだが」
「全然気が付かなかった」
とだけリノアは返し、横たわった大精霊たちを横目に見下ろした。彼らは起き上がることなく、虚空へと視線を移して呟きを吐き出し続けている。表情までは見えないが、尋常な様ではないことをリノアは感じていた。歯を食いしばりつつアールセンへと言葉を投げる。
「彼らは……?」
「何か気になることを言っていたか?」
「……帰りたい、って」
アールセンの顔に影が差した。顔色を読めないほどに暗く染まった顔で、リノアから視線を逸らす。そして大精霊の成れの果てに向けて口を開けた。
「それはできないんだ。お前さんたちなら、すでにわかっているだろう? その穢れはひどく澱んでいるんだ。混ざり物が多すぎて、もはやそれはマナとすら呼べない」
アールセンは靴音を立てて四人の元へ歩み寄り、しゃがみ込んだ。そして大きな鍔の帽子を取って、彼らに顔を見せる。彼らの目に驚愕が浮かび、同時に諦めの表情へと変わる。ついには涙を流す始末に、アールセンは四人それぞれの頬を撫でてみせた。
そのとき、穏やかな風が吹いた。土埃を上げない程度の、本当に優しい風だ。
横たわる四人の顔がみるみるうちに安らかなものへと変わる。
「俺にしてやれるのはこれくらいだ、すまないな。あとは――」
その一部始終を、リノアは少しだけ遠くで見つめ続けていた。相変わらずアールセンの話していることは難しかったが、それでも彼の優しさだけは感じることができた。
そんな彼が、突如大精霊だった一人の服を脱がせ、神妙な面持ちでリノアを振り返る。
「リノア、これをよく見るんだ」
リノアは呼ばれるままにアールセンの横にしゃがみ込んで、アールセンの指の示す場所に視線を滑らせた。
そこには、円状の印のようなものが刻まれていた。そこからあらゆる方向へ禍々しい色をした線が這いずり回っている。そしてそこを中心に肌の色が黒々と変色しており、まるで腐り落ちているかのようだった。
「これは、何……?」
「その囲まれた場所には、精霊核があるんだ。マナの具現体である精霊は、身体のどこかしらにこれを持っている。――お前さんたちのいう、心臓のようなものだ。これを壊されれば精霊はマナに還ることになる」
「じゃあ、これさえ壊せば彼らを?」
「いいや。ひどく汚染を受けたこれはもはや精霊核とは呼べない。これを壊しても、彼らはこのままだろう」
苦い顔をしているアールセンの顔を見つめ、リノアは理解しようとした。
つまりは、これを壊したところでどうにもならない。それだけのことを、あの液体は彼らにしたのだ。
「元には戻らないの?」
「ああ、戻らない。彼らも、精霊としての本分をこなせなくなってしまった」
「どうしてあげたらいい?」
リノアは臙脂色の瞳に強い意志を宿してアールセンに問いかけ、言葉を続ける。
「わたしにはよくわからないが、彼らはわたしのせいだと言っていた。もし本当にそうなら、どうにかしてあげたいんだ」
リノアはその先の言葉をあえて言わなかった。
――でなければ、彼らの声が耳から離れない。
なぜだか、その言葉を口にしてはいけないような気がして、リノアは口をつぐんでただただアールセンのライムグリーンの瞳を見据えた。
「……なら、終わらせてやるしかない」
「終わらせる?」
「その核を壊せば、彼らがマナに還ることはできなくとも、彼らに芽生えた自我を葬ることはできる。それくらいしかできないが、それくらいはしてやれるんだ」
「……なら、やる。――アールセンは見なくていい。とても辛そうな顔、してるから」
アールセンはハッとして顔を逸らした。そして唇を噛み締め、すまないと呟く。
リノアは大剣の柄を力の限り握りしめて、切先を刻印の中心へと突き立てた。
「ありがとう」
「わたしに礼を言う必要はない。わたしのせい、なんだろう?」
理由もなく、涙が一筋リノアの頬を伝った。
燦々と照りつけるシロスの下、大きな影に呑み込まれたままのリノアは、影の色に沈んでいた。
薄墨色の肌は闇に溶けてしまった。瑠璃色の髪も目立つほどの輝きはなく――赤々とした瞳と、その身に纏う純白のワンピースだけがぬらぬらと存在感を放っていた。リノアの手に握られた異形の大剣も、ねっとりとうねるように浮かび上がる。
「逃げ場がない」
崩落の勢いを早めたルジュヴィオークションの会場。粘液を纏いながら落ちてくる瓦礫の数々が、リノアの周囲を埋めつつあった。アールセンとミアベルが使用した退路はすでに塞がり、それ以外の道を探す余裕すらない。
リノアは視線を上げた。
現在も建物全体を震撼させているのは、視界を埋め尽くすほどの大顎の上部と思われるもの。下部は側面から大地を抉りつつ噛み砕こうと徐々に力を込めている最中だろう。大顎から滴り落ちる涎が、あらゆるものを腐食させ、崩壊を促進させている。このままではいずれ、瓦礫の山に埋もれるか、あの大顎に捕らわれ食い尽くされるかどちらかだろう。
リノアは逡巡する。
狙いはなんなのだろうか。身に覚えのないことで巻き込まれるのはこれで何度目だろうか。そもそもこんな存在が世界には存在しているのか、と。
「わくわくする。だから、こんなところで腐っているわけにはいかないんだ」
高揚と辟易の織り混ざった表情で、リノアは静かに吐き出した。
その時だった。
オークション会場であったドームの天井――崩壊を免れていた場所――にいくつも設置されていた精霊光炉が一斉に落ちてきた。落下の衝撃とともにそれは砕け散り、中に収められていた存在が姿を現した。
それはリノアの視界の中でもそもそと動き、立ち上がる。
「ここは……? 我々はどうしてこんなところに。ここには大地の息吹が感じられません」
「風がない。ここはとても静かだ」
「水がない。潤いのない場所はこんなにも――渇きに満ちている」
「命の炎が急激に失われていく……悲しいものだな」
口々に呟く、薄布を纏いし者たち。その瞳の色も髪の色も様々な彼らは、のろのろと視線を彷徨わせた。自らの飢えを満たす何かを探すように、ふらふらと彷徨する。その手は何も掴むことはなく、その瞳は無機質なガラクタばかりを捉え続けた。
「何をしてるんだ、彼らは? まるで己に執着がないかのような……」
リノアの目には彼らの姿がそう映る。こんな状況に放り込まれればもう少し困惑、ないしは卒倒してもいいはずだ。リノアを取り囲んでいた観客たちと同じように。
そうこうしている間にも建物全体が軋む音は酷くなっている。落下物の量も増えているだけでなく、土埃で視界も悪くなりつつあった。リノアは手持ちの大剣でそれを払いのけていることでことなきを得ているが、彼らはそんな様子すら微塵もない。加えて、躓こうが、身体に多少瓦礫が接触しようと表情一つ変わらない様子に、リノアは薄ら寒さすら覚えていた。
「クソッ……おいっ! お前たち、逃げることを考えろ!」
たまらなくなってリノアが叫ぶと、全員が一斉に振り返った。そして全ての視線がリノアを射抜くと同時に、ぎょっとした表情へと変わる。そしてようやく気がついたように全員が影で覆われた空を見上げた。
ざわつく。
――朽ち果てるように、止むように、干上がるように、掻き消えるように。
大精霊たちの動きが止まった。
「今、わたしを見て表情を変えた……? いや……っ、避けろっ!」
ぬるりとした、どろりとした大粒の液体が大上顎から降ってきた。ほんのわずかな光を反射しながら、それは大精霊たちを呑み込むように彼らの身体を浸し、弾けた。
「ぁ……ああ」
大精霊たちの反応は一様だった。
大顎から滴り落ちた涎を浴びた途端、叫び声をあげたのだ。そして黄土色の粘液に包まれ、もがき苦しむ。形容し難い色の炎、煙が彼らを取り囲み、渦巻くままに彼らは蠢く。その勢いのまま粘液がとてつもない速度で乾いたかと思うと、彼らはだらりと俯いた状態でそこに佇んでいた。
その永遠のようでいて一瞬の出来事を、リノアは呆然と見ていることしかできなかった。耳を塞ぐことも、目を閉じることもなく、吸い寄せられるように。
「何が、起きた……?」
困惑の表情で見つめるリノア。彼女の耳には崩落の音すら遠い。それだけ、眼前の状況から目を逸らしてはいけない気がしたのだ。
彼女の本能はすでに、危険という認識を獲得している。
「よくない、これはよくないことだ。間違いない」
リノアは自分の口から出た言葉に驚き、口元を押さえた。大剣を握るもう一方の手から、心臓の鼓動が聞こえている。額に浮かぶ脂汗と、背中に這い上がる寒気に、唇がひりついた。
「お前のせいだ。穢血の子よ。お前があれをここに呼んだせいで、我らは私になった。切り離された、寂しい、もう戻れない」
「私? 私とは一体……もはやなんの流れも感じない」
「肌に触れる空気の感覚が煩わしいとは、私は……ああああああ」
「くべるものがなくば燃えられぬとは、なんということだ」
大精霊は各々に自らの状態を把握して、悲嘆にくれた。その瞳たちはやけに爛々として、リノアを捉えて離さない。焼け爛れたような肌、口の端から顎へと伝う液体は一様に強力な存在感を放った。
『なんと物悲しいことかっ!』
唐突な叫びと共に、憎悪を宿して彼らは駆け出した。先ほどまでの彷徨が嘘のような、病的な動き。目標が定まった、個体としての強い意志がなす動作。全員がリノアを目掛けて一目散に、地に足をつけて走っていた。
「こんなことばっかり……わたしが何をしたっていうんだ。――仕方ない」
リノアは大剣を横なぎに振り払い、全員を吹き飛ばした。
素人よりも酷い動きだ。これでは戦闘にすらならない。そうだというのに、彼ら四人は立ち上がり、リノアに向かってくることをやめない。それを適当にあしらいつつ、リノアは頭上の存在を睥睨し、舌打ちを響かせた。
「悪いのはあいつのはずだ。あいつさえいなければこんなことには……わたしのせい? あいつらは何を言ってるんだ。クソ、わからない」
思考に回す余裕はあるが、考えがまとまらないことにリノアは嫌気がさしていた。自分は本当に何も知らないのだと思わされる。なぜヴァルティエが何も教えてくれていなかったのか、わからない。
リノアは瑠璃色の髪を振り乱し、苛々を滲ませる。それに任せて振るった大剣。そこに生々しい感触を感じ、ハッとした。
四人の大精霊が、仰向けに倒れていた。息もあり、身体を動かそうとしている。しかし、その瞳がどうしてもリノアを離してくれなかった。
「痛い、痛い……大地よ、なぜ私を受けて入れてくれないのですか。今の私にはオレイアスの資格すらないというのですか。これでは咎よりも……ああ。帰りたい」
「ああ、動かない。どこにも、流れていけない。固い、感触だけ。帰りたい」
「重たい……こんなにも、身体が重たいとは。帰りたい帰りたい」
「灯火が消えない。これが本当の命の炎……? なんと寂しい。しかし美しい。しかし、しかし帰りたい」
リノアには彼らが口々に呟く、帰りたい、の意味が理解できなかった。
「うるさいっ! うるさいうるさい!」
大剣を振り乱し、リノアは叫んだ。認識していたはずの尻尾が消えていた。
大精霊だったものたちの言葉が、視線が、リノアを蝕んでいた。彼らの悲しみが、苦しみがわからなくとも、わかるのだ。それがどれだけのものなのか、心が理解したがっている。だから、リノアの心は辛かった。目尻からこぼれ落ちる涙も止まるところを知らない。
「わかりたくない。こんな感情、知りたくない……」
爽やかな風が吹いた。優しく頬を撫でる、そよ風だ。それは指となり、リノアの涙を拭う。
「理解は風を強くするんだ。進め、こんなところで停滞することはない」
「……アールセン?」
「正解だ。なんとか戻ってこられた。ミアベルちゃんは無事だよ」
「……そ、っか」
怪盗姿のアールセンが、リノアの正面に姿を現した。ふわりとリノアを包み込むように包容し、背中を撫でる。穏やかで心落ち着かせる心地良い涼風のように。
「ん……ありがとう。もう大丈夫だ」
「はは、役得だねえ」
「うるさい」
アールセンをゆっくりと押し戻して、リノアは深呼吸をした。そして頭上を見上げる。
「あれ……?」
そこには太陽が鎮座していた。晴れ渡る翡翠色の空も同じく。
深い影を落としていたはずの大顎はすでになく、太陽に照らし出された瓦礫と、溶解した天井ばかりが寂しい。
「ああ、なぜだか知らないが本当についさっき去っていったんだ。お前さんはどうやら気づかなかったみたいだが」
「全然気が付かなかった」
とだけリノアは返し、横たわった大精霊たちを横目に見下ろした。彼らは起き上がることなく、虚空へと視線を移して呟きを吐き出し続けている。表情までは見えないが、尋常な様ではないことをリノアは感じていた。歯を食いしばりつつアールセンへと言葉を投げる。
「彼らは……?」
「何か気になることを言っていたか?」
「……帰りたい、って」
アールセンの顔に影が差した。顔色を読めないほどに暗く染まった顔で、リノアから視線を逸らす。そして大精霊の成れの果てに向けて口を開けた。
「それはできないんだ。お前さんたちなら、すでにわかっているだろう? その穢れはひどく澱んでいるんだ。混ざり物が多すぎて、もはやそれはマナとすら呼べない」
アールセンは靴音を立てて四人の元へ歩み寄り、しゃがみ込んだ。そして大きな鍔の帽子を取って、彼らに顔を見せる。彼らの目に驚愕が浮かび、同時に諦めの表情へと変わる。ついには涙を流す始末に、アールセンは四人それぞれの頬を撫でてみせた。
そのとき、穏やかな風が吹いた。土埃を上げない程度の、本当に優しい風だ。
横たわる四人の顔がみるみるうちに安らかなものへと変わる。
「俺にしてやれるのはこれくらいだ、すまないな。あとは――」
その一部始終を、リノアは少しだけ遠くで見つめ続けていた。相変わらずアールセンの話していることは難しかったが、それでも彼の優しさだけは感じることができた。
そんな彼が、突如大精霊だった一人の服を脱がせ、神妙な面持ちでリノアを振り返る。
「リノア、これをよく見るんだ」
リノアは呼ばれるままにアールセンの横にしゃがみ込んで、アールセンの指の示す場所に視線を滑らせた。
そこには、円状の印のようなものが刻まれていた。そこからあらゆる方向へ禍々しい色をした線が這いずり回っている。そしてそこを中心に肌の色が黒々と変色しており、まるで腐り落ちているかのようだった。
「これは、何……?」
「その囲まれた場所には、精霊核があるんだ。マナの具現体である精霊は、身体のどこかしらにこれを持っている。――お前さんたちのいう、心臓のようなものだ。これを壊されれば精霊はマナに還ることになる」
「じゃあ、これさえ壊せば彼らを?」
「いいや。ひどく汚染を受けたこれはもはや精霊核とは呼べない。これを壊しても、彼らはこのままだろう」
苦い顔をしているアールセンの顔を見つめ、リノアは理解しようとした。
つまりは、これを壊したところでどうにもならない。それだけのことを、あの液体は彼らにしたのだ。
「元には戻らないの?」
「ああ、戻らない。彼らも、精霊としての本分をこなせなくなってしまった」
「どうしてあげたらいい?」
リノアは臙脂色の瞳に強い意志を宿してアールセンに問いかけ、言葉を続ける。
「わたしにはよくわからないが、彼らはわたしのせいだと言っていた。もし本当にそうなら、どうにかしてあげたいんだ」
リノアはその先の言葉をあえて言わなかった。
――でなければ、彼らの声が耳から離れない。
なぜだか、その言葉を口にしてはいけないような気がして、リノアは口をつぐんでただただアールセンのライムグリーンの瞳を見据えた。
「……なら、終わらせてやるしかない」
「終わらせる?」
「その核を壊せば、彼らがマナに還ることはできなくとも、彼らに芽生えた自我を葬ることはできる。それくらいしかできないが、それくらいはしてやれるんだ」
「……なら、やる。――アールセンは見なくていい。とても辛そうな顔、してるから」
アールセンはハッとして顔を逸らした。そして唇を噛み締め、すまないと呟く。
リノアは大剣の柄を力の限り握りしめて、切先を刻印の中心へと突き立てた。
「ありがとう」
「わたしに礼を言う必要はない。わたしのせい、なんだろう?」
理由もなく、涙が一筋リノアの頬を伝った。