残酷な描写あり
R-15
せい、という言葉
リノアは死者と対峙する——
リノアは空を飛んでいた。
大精霊の成れの果てたちを眠らせたのちに、アールセンによって外へ連れ出されたのである。正規ルートは使えなかったために、会場の天井に空いた大穴から運び出されることになったのだ。
「こんな短期間で同じやつを運ぶとは思わなかったよ」
「……」
「そう気を落とすな」
リノアの表情は暗い。それには理由があった。
「命を消す感覚、初めてなんだ。あんなに生々しいなんて、ヴァルティエは教えてくれなかったな」
「……あれに教えられたら、命なんざ軽いものだと思い込まされるさ。自分で学んだほうがいい。どんなものであれ、自分の手で学んだものだから価値があるんだ」
「あんな感覚も学ばないといけないの?」
「この世界じゃ珍しいことじゃない。街の外に出たら特にそうだ」
「そっか……」
アールセンは、不思議なこともあるものだ、と思っていた。あの悪名高きヴァルティエが、命を奪うことそのものを教えていないとは。しかしヴァルティエのことだ、こうして悩んでいるリノアのことをどこかで楽しげに見ている可能性すらある。
「悪趣味だな」
「何が?」
「いや、何でもない。この先こういうことは何度もあるだろうから、慣れろとは云わんがどこかで心の整理をつけておくんだ。――ここでリノアという風が止むことを望んでいるわけじゃないだろう?」
「……うん」
ミアベルの待つ建物の屋上へと降り立ち、リノアとアールセンは一息ついた。どっと疲れが押し寄せてきたリノアはふらついたが、ミアベルによって支えられる。
「大丈夫ですか……リノアさん」
「うん、大丈夫。少し、疲れただけだから」
降り注ぐシロスの日差しに照らし出された街をリノアは一瞥し、息を呑んだ。
目に飛び込んできたのは瓦礫の山だった。会場を襲っていた存在の正体の大きさに改めて実感し、リノアは脱力して尻餅をついた。
「外ではこんなことが起きてたのか……」
「とても大きな……山みたいな、生き物でした。でも突然、本当に急に帰っていったんです」
「ああ。だから俺も上から飛び込めたわけだしな。しかし、思い返せば妙な変化だったな。憑き物が落ちたかのような。もしかすると――」
アールセンはちらとリノアを見つめたのち、早計か、と首を振った。しかし同時に、リノアが時折見せている不思議な力の由来についても考えていた。普段は人間と全く変わりのない出立ちをしているにも関わらず、本人の危機察知と共に表出するそれをどう捉えたものか、アールセンは考えあぐねている。
そんな彼の様子をじっとリノアは見つめていた。
「わたしが、どうか?」
「いいや、考えがまとまっていないうちに話しても混乱させるだけだろうからな。気にしないでくれ」
リノアはふうん、と呟く。彼女には、アールセンが自分に向ける視線の理由がわからなかった。ブルートを始めとした男の視線とは明らかに違うそれが何からくるものなのかはわからない。それでも妙なことで、嫌な感じはしないのだった。
帽子をくるくると弄ぶアールセンを見つめ、そういえば、とリノアは口を開く。
「あの時の軽薄そうな男が、風影だったなんてね」
「ん? ああ、そのことか。普段はあんな感じでいろんなところに紛れては情報を集めてるんだ。少しばかり奇抜な格好をするから警戒はされるが、実力を見せればなに、大したことはないもんさ」
本当に少しばかりだろうかと首を捻ったのはミアベルだった。リノアはその辺りのことに関して詳しくないから反応ができない。しかし街で見かけた連中やブルートたちのことを思えば、少し変わっているとは思うのだった。
「何より、怪盗はいろんな顔を持っていなくちゃいけないものなのでね」
「噂には聞いていましたが、本当につかみどころのない、まるで風のようなお方ですね。アールセンさんは、もしかして」
ミアベルにはアールセンを通して見える彼の本質と、もう一つが視えていた。しかし、その先を口にしようとして、唇に人差し指を当てられ塞がれてしまう。
「いいかいレディ。その目は聞きしに勝る実に素晴らしいものだ。けれどね、簡単に口にしてはいけないこともあるんだよ。まだ、そのことは秘密にしておいてくれるかい?」
「……はい」
「何の話をしてるの?」
「そのうちわかることさ。簡単に種明かししたらつまらないだろう?」
アールセンが悪戯げにしたウインクにリノアは少しだけムッとしたが、すぐに表情を戻した。そして街をもう一度見据える。その瞳には未知への喜びなど微塵もなく、無惨に破壊された街の光景を寂しげに映し出しているだけだった。
そんなリノアの耳に初めて、ラクリアスの声が届いた。
涙の精霊と呼ばれる、本来の精霊とは源流の違う精霊。死者の魂を慰め、正常な状態で還すための存在だ。ヴァルティエから話を聞いていたリノアは存在こそ知っていたが、彼女の住んでいた場所の都合で一度もそんな声を聞いたことがなかったのである。
「ひょっとしてこれが、ラクリアスの声なのか?」
「何だリノア、ラクリアスのことは聞いてるんだな」
「うん。ヴァルティエが、あたいたちが丹精込めて作ったんだぞー、って云ってたから」
「そうかい」
アールセンは苦笑を漏らした直後に、風の変化に気がついて顔を険しくした。
「そんなに警戒することはない。手出しはせんよ。そこの世間知らずに一つ教えてやろうと思ってな。ま、実のところは手が足りてなくて、我まで駆り出されている状態だ。だが、これもまた必要なことだから、少しでいいから頼まれてくれ」
黒い翼をはためかせ、空から舞い降りたのは領主アルティム。先刻のような敵意は全く見られず、あっけらかんとして話している。言葉の割には切羽詰まった様子を微塵も感じさせず、疲れた様子もなかった。
「何を、すればいいんだ?」
「では簡単に話してやろう」
アールセンとミアベルは手伝いの内容に得心した様子だったが、リノアだけは違った。知識として有している内容が正しいかどうかの確認がしたかったのだ。この世界で生きる上でそれはいずれ必要になることだからと、ヴァルティエから聞かされていたそれは——
「そこら中に転がっている死体を、旧市街の向こうにある死者の泉まで運ぶ。それだけだ。死体を一つ運ぶのにもそれなりの労力がいるからな、手が多いに越したことはない。……納得したか?」
「……ああ」
「詳しいことはそいつらに聞け。我は次に向かわねばならん。ではなリノア、お前のおかげで仕事が増えたよ」
くつくつと楽しそうに笑ってそれだけ云うと、アルティムは足早に去っていった。その姿が見えなくなるのを確認してから、三人は同時に息を吐き出した。
「はあ。しかし、精神的に良くないな、領主ってのは」
「はい。アルティム様はその、気まぐれで有名ですし。とてもお強いのも」
「ふぅ……それじゃあ、行こうか二人とも」
リノアは建物の屋上から軽々飛び降りると、歩き出した。それを見て驚くミアベルを抱き抱えてアールセンもひょいとリノアに続く。
――お前のせいだ。
大精霊と今のアルティムの言葉がリノアの耳にこびりついて離れなかった。それは責め立てるように、突き動かすように彼女の足を動かしている。その声が聞こえるたびに、大精霊らの心からの叫びを理解しようとした心に疼痛が走る。
「無理はするなよ、リノア」
「大丈夫」
「ひどい顔してますよ、少し休んだほうが」
「大丈夫だから」
リノアはラクリアスの声を頼りに死者を探した。ひどい臭気の満ちる瓦礫の中で、程なくしてそれを見つけると、そのそばにしゃがみ込む。
そして、あっという間に激しく嘔吐した。
「うぐ……うぇえ……」
もはや原型を残していない死体。圧縮され、弾け飛んだ死者の中身がそこら中に散らばっており、そこには皮だけが取り残されているかのようだ。判別もできないほどに潰された顔、変な形に折れ曲がり、そのまま割れたような四肢と胴体。それがひどい臭気を放っているのは一目瞭然だった。
リノアにとってそれが、初めて見る生物の死体だった。それは頭を鈍器でぶん殴られたほどの衝撃をリノアに与え、彼女の視界をグラグラと揺らし、耳鳴りを起こし、口腔内をねばつかせ、嗅覚を研ぎ澄ませ、肌を粟立たせる。腹の中がのたうち回った。
「リノア……うっ、これは確かにひどいな……そりゃああんだけのやつに潰されればこうもなるか……こんなのを拾ってけってか。つくづく悪趣味な奴らだな。とてもじゃないが俺は理解できねえ」
「大丈夫ですか、リノアさん」
アールセンが一旦リノアをその現場から救い出し、連れ戻した。そこへミアベルが駆け寄り、リノアの背中をさする。
「大丈夫です。ゆっくり息を吐いて、吸って。心を落ち着かせて」
「落ち着けるわけ……うぅ」
リノアが涙の混じった声で首を振り続ける。
「わたしのせいだって云われたんだ。わたしが何をしたのかなんて全然わかんなくて。それでもそんなこと云われたら――」
「リノアさん」
顔を上げ、ミアベルを振り返ったリノアの頬に、鋭い平手打ちが飛んだ。それは甲高い音を立てて、リノアの言葉を、思考を、涙を消し飛ばした。
ミアベルの表情を見て、リノアははっと息を呑む。
「それはあなたが、誰かに強く作用するだけのものを持っているということです。私だって、それに惹かれてここにいるんです。それと何が違うんですか?」
「え?」
「私はあなたのせいで今ここにいるんです」
「あ……」
そうだった、とリノアはミアベルとのやりとりを思い出した。
「ね、悪いことばかりじゃないでしょう?」
ミアベルはまるで天使のような微笑みでリノアを諭していく。それはミアベルにとって恩返しのつもりだった。自分を自分にしてくれた相手への、確かな誠意のこもった眼差しと言葉の数々。しかし、ミアベル本人としてもそんな感情や言葉が自分から出てくるとは思っていなかったのだった。
「はは、本当にいい宝石を見つけたみたいだな。俺じゃこうはいかない。感謝するぜ、ミアベルちゃん」
平静を取り戻しつつあるリノアを見て胸を撫で下ろすアールセン。そして彼はもう一度瓦礫の山と共に眠る死者へと視線を送る。唸るように考え込んで、よしと頷いた。
「俺なら三人分くらいはまとめて運べるから、そうするか」
「大丈夫だ、アールセン。わたしもやれる。ミアベルの分を頼む」
「……わかった」
そうしてリノアは改めて死者と対峙した。何度見ても様子が変わるわけではない凄惨さだが、二度目は迫り上がるものを押さえ込むことができた。だから彼女は落ち着いた面持ちでそれをする。
「何を、してるんだ?」
アールセンの問いに、リノアは答えない。
リノアは、胸に手を当てて目を瞑り、黙りこくって祈りを捧げているようだった。しばらくそうした後にアールセンへと顔を向けて。
「黙祷、ってヴァルティエから教えてもらった。死者が安らかに眠れるように祈るんだって」
大精霊の成れの果てたちを眠らせたのちに、アールセンによって外へ連れ出されたのである。正規ルートは使えなかったために、会場の天井に空いた大穴から運び出されることになったのだ。
「こんな短期間で同じやつを運ぶとは思わなかったよ」
「……」
「そう気を落とすな」
リノアの表情は暗い。それには理由があった。
「命を消す感覚、初めてなんだ。あんなに生々しいなんて、ヴァルティエは教えてくれなかったな」
「……あれに教えられたら、命なんざ軽いものだと思い込まされるさ。自分で学んだほうがいい。どんなものであれ、自分の手で学んだものだから価値があるんだ」
「あんな感覚も学ばないといけないの?」
「この世界じゃ珍しいことじゃない。街の外に出たら特にそうだ」
「そっか……」
アールセンは、不思議なこともあるものだ、と思っていた。あの悪名高きヴァルティエが、命を奪うことそのものを教えていないとは。しかしヴァルティエのことだ、こうして悩んでいるリノアのことをどこかで楽しげに見ている可能性すらある。
「悪趣味だな」
「何が?」
「いや、何でもない。この先こういうことは何度もあるだろうから、慣れろとは云わんがどこかで心の整理をつけておくんだ。――ここでリノアという風が止むことを望んでいるわけじゃないだろう?」
「……うん」
ミアベルの待つ建物の屋上へと降り立ち、リノアとアールセンは一息ついた。どっと疲れが押し寄せてきたリノアはふらついたが、ミアベルによって支えられる。
「大丈夫ですか……リノアさん」
「うん、大丈夫。少し、疲れただけだから」
降り注ぐシロスの日差しに照らし出された街をリノアは一瞥し、息を呑んだ。
目に飛び込んできたのは瓦礫の山だった。会場を襲っていた存在の正体の大きさに改めて実感し、リノアは脱力して尻餅をついた。
「外ではこんなことが起きてたのか……」
「とても大きな……山みたいな、生き物でした。でも突然、本当に急に帰っていったんです」
「ああ。だから俺も上から飛び込めたわけだしな。しかし、思い返せば妙な変化だったな。憑き物が落ちたかのような。もしかすると――」
アールセンはちらとリノアを見つめたのち、早計か、と首を振った。しかし同時に、リノアが時折見せている不思議な力の由来についても考えていた。普段は人間と全く変わりのない出立ちをしているにも関わらず、本人の危機察知と共に表出するそれをどう捉えたものか、アールセンは考えあぐねている。
そんな彼の様子をじっとリノアは見つめていた。
「わたしが、どうか?」
「いいや、考えがまとまっていないうちに話しても混乱させるだけだろうからな。気にしないでくれ」
リノアはふうん、と呟く。彼女には、アールセンが自分に向ける視線の理由がわからなかった。ブルートを始めとした男の視線とは明らかに違うそれが何からくるものなのかはわからない。それでも妙なことで、嫌な感じはしないのだった。
帽子をくるくると弄ぶアールセンを見つめ、そういえば、とリノアは口を開く。
「あの時の軽薄そうな男が、風影だったなんてね」
「ん? ああ、そのことか。普段はあんな感じでいろんなところに紛れては情報を集めてるんだ。少しばかり奇抜な格好をするから警戒はされるが、実力を見せればなに、大したことはないもんさ」
本当に少しばかりだろうかと首を捻ったのはミアベルだった。リノアはその辺りのことに関して詳しくないから反応ができない。しかし街で見かけた連中やブルートたちのことを思えば、少し変わっているとは思うのだった。
「何より、怪盗はいろんな顔を持っていなくちゃいけないものなのでね」
「噂には聞いていましたが、本当につかみどころのない、まるで風のようなお方ですね。アールセンさんは、もしかして」
ミアベルにはアールセンを通して見える彼の本質と、もう一つが視えていた。しかし、その先を口にしようとして、唇に人差し指を当てられ塞がれてしまう。
「いいかいレディ。その目は聞きしに勝る実に素晴らしいものだ。けれどね、簡単に口にしてはいけないこともあるんだよ。まだ、そのことは秘密にしておいてくれるかい?」
「……はい」
「何の話をしてるの?」
「そのうちわかることさ。簡単に種明かししたらつまらないだろう?」
アールセンが悪戯げにしたウインクにリノアは少しだけムッとしたが、すぐに表情を戻した。そして街をもう一度見据える。その瞳には未知への喜びなど微塵もなく、無惨に破壊された街の光景を寂しげに映し出しているだけだった。
そんなリノアの耳に初めて、ラクリアスの声が届いた。
涙の精霊と呼ばれる、本来の精霊とは源流の違う精霊。死者の魂を慰め、正常な状態で還すための存在だ。ヴァルティエから話を聞いていたリノアは存在こそ知っていたが、彼女の住んでいた場所の都合で一度もそんな声を聞いたことがなかったのである。
「ひょっとしてこれが、ラクリアスの声なのか?」
「何だリノア、ラクリアスのことは聞いてるんだな」
「うん。ヴァルティエが、あたいたちが丹精込めて作ったんだぞー、って云ってたから」
「そうかい」
アールセンは苦笑を漏らした直後に、風の変化に気がついて顔を険しくした。
「そんなに警戒することはない。手出しはせんよ。そこの世間知らずに一つ教えてやろうと思ってな。ま、実のところは手が足りてなくて、我まで駆り出されている状態だ。だが、これもまた必要なことだから、少しでいいから頼まれてくれ」
黒い翼をはためかせ、空から舞い降りたのは領主アルティム。先刻のような敵意は全く見られず、あっけらかんとして話している。言葉の割には切羽詰まった様子を微塵も感じさせず、疲れた様子もなかった。
「何を、すればいいんだ?」
「では簡単に話してやろう」
アールセンとミアベルは手伝いの内容に得心した様子だったが、リノアだけは違った。知識として有している内容が正しいかどうかの確認がしたかったのだ。この世界で生きる上でそれはいずれ必要になることだからと、ヴァルティエから聞かされていたそれは——
「そこら中に転がっている死体を、旧市街の向こうにある死者の泉まで運ぶ。それだけだ。死体を一つ運ぶのにもそれなりの労力がいるからな、手が多いに越したことはない。……納得したか?」
「……ああ」
「詳しいことはそいつらに聞け。我は次に向かわねばならん。ではなリノア、お前のおかげで仕事が増えたよ」
くつくつと楽しそうに笑ってそれだけ云うと、アルティムは足早に去っていった。その姿が見えなくなるのを確認してから、三人は同時に息を吐き出した。
「はあ。しかし、精神的に良くないな、領主ってのは」
「はい。アルティム様はその、気まぐれで有名ですし。とてもお強いのも」
「ふぅ……それじゃあ、行こうか二人とも」
リノアは建物の屋上から軽々飛び降りると、歩き出した。それを見て驚くミアベルを抱き抱えてアールセンもひょいとリノアに続く。
――お前のせいだ。
大精霊と今のアルティムの言葉がリノアの耳にこびりついて離れなかった。それは責め立てるように、突き動かすように彼女の足を動かしている。その声が聞こえるたびに、大精霊らの心からの叫びを理解しようとした心に疼痛が走る。
「無理はするなよ、リノア」
「大丈夫」
「ひどい顔してますよ、少し休んだほうが」
「大丈夫だから」
リノアはラクリアスの声を頼りに死者を探した。ひどい臭気の満ちる瓦礫の中で、程なくしてそれを見つけると、そのそばにしゃがみ込む。
そして、あっという間に激しく嘔吐した。
「うぐ……うぇえ……」
もはや原型を残していない死体。圧縮され、弾け飛んだ死者の中身がそこら中に散らばっており、そこには皮だけが取り残されているかのようだ。判別もできないほどに潰された顔、変な形に折れ曲がり、そのまま割れたような四肢と胴体。それがひどい臭気を放っているのは一目瞭然だった。
リノアにとってそれが、初めて見る生物の死体だった。それは頭を鈍器でぶん殴られたほどの衝撃をリノアに与え、彼女の視界をグラグラと揺らし、耳鳴りを起こし、口腔内をねばつかせ、嗅覚を研ぎ澄ませ、肌を粟立たせる。腹の中がのたうち回った。
「リノア……うっ、これは確かにひどいな……そりゃああんだけのやつに潰されればこうもなるか……こんなのを拾ってけってか。つくづく悪趣味な奴らだな。とてもじゃないが俺は理解できねえ」
「大丈夫ですか、リノアさん」
アールセンが一旦リノアをその現場から救い出し、連れ戻した。そこへミアベルが駆け寄り、リノアの背中をさする。
「大丈夫です。ゆっくり息を吐いて、吸って。心を落ち着かせて」
「落ち着けるわけ……うぅ」
リノアが涙の混じった声で首を振り続ける。
「わたしのせいだって云われたんだ。わたしが何をしたのかなんて全然わかんなくて。それでもそんなこと云われたら――」
「リノアさん」
顔を上げ、ミアベルを振り返ったリノアの頬に、鋭い平手打ちが飛んだ。それは甲高い音を立てて、リノアの言葉を、思考を、涙を消し飛ばした。
ミアベルの表情を見て、リノアははっと息を呑む。
「それはあなたが、誰かに強く作用するだけのものを持っているということです。私だって、それに惹かれてここにいるんです。それと何が違うんですか?」
「え?」
「私はあなたのせいで今ここにいるんです」
「あ……」
そうだった、とリノアはミアベルとのやりとりを思い出した。
「ね、悪いことばかりじゃないでしょう?」
ミアベルはまるで天使のような微笑みでリノアを諭していく。それはミアベルにとって恩返しのつもりだった。自分を自分にしてくれた相手への、確かな誠意のこもった眼差しと言葉の数々。しかし、ミアベル本人としてもそんな感情や言葉が自分から出てくるとは思っていなかったのだった。
「はは、本当にいい宝石を見つけたみたいだな。俺じゃこうはいかない。感謝するぜ、ミアベルちゃん」
平静を取り戻しつつあるリノアを見て胸を撫で下ろすアールセン。そして彼はもう一度瓦礫の山と共に眠る死者へと視線を送る。唸るように考え込んで、よしと頷いた。
「俺なら三人分くらいはまとめて運べるから、そうするか」
「大丈夫だ、アールセン。わたしもやれる。ミアベルの分を頼む」
「……わかった」
そうしてリノアは改めて死者と対峙した。何度見ても様子が変わるわけではない凄惨さだが、二度目は迫り上がるものを押さえ込むことができた。だから彼女は落ち着いた面持ちでそれをする。
「何を、してるんだ?」
アールセンの問いに、リノアは答えない。
リノアは、胸に手を当てて目を瞑り、黙りこくって祈りを捧げているようだった。しばらくそうした後にアールセンへと顔を向けて。
「黙祷、ってヴァルティエから教えてもらった。死者が安らかに眠れるように祈るんだって」