▼詳細検索を開く
作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
新しい朝とシャワーと
翌朝、アールセンとヘイロンの会話により場面は始まる。
 ディケムの街から精霊光炉の光が少しずつ消えていくとともに、それとは違う自然由来の光が、遥か彼方から街を照らし始めていた。
 歓楽街の裏通りにも、光が届き始めている。他のひらけた街区に比べれば光の到達はゆっくりだが、それでも朝の到来を示していた。
 怪盗のアジトになっている建物の窓からも少しずつだが薄明かりが差し込んでいる。

「朝か……俺としたことが眠ってしまうなんてな」

 椅子に腰掛けたアールセンが帽子の鍔を持ち上げて、うっすらと瞼を開ける。

「よう、夜通しの仕事になるとは思わなかったが無事出立には間に合わせたぞ。君はいつも急に難しい仕事を頼むな。まあ、今回のお急ぎ料はツケにでもしといてやる」

 机を挟んだ反対側でローブの男が赤銅色の顔を覗かせて、くつくつと笑う。金と銀のオッドアイの下には濃いクマが滲んでいるが、彼――ヘイロンに疲れた様子はない。

「いつも悪いな。今度いいものを手に入れたら優先して譲ってやるよ」
「私の興味を惹くものを頼むぞ。まあ、今は君たちが私の関心の中心だがね」
「はは、そりゃあありがたいね。末長くあんたの心を盗んでおけるように努力しますよっと」

 アールセンのライムグリーンの瞳がヘイロンへと笑いかけた。それを正面からじっとしばし見つめ返してから、ヘイロンは視線を外す。口元には微かに笑みが浮かんでいた。

「依頼の品はここに置いておく。次の仕事があってな、見られないのは残念だが、この辺りで私はお暇するとしよう」
「なんだ、晴れ姿を見ていかないのかよ。……サイズが合わないかもしれないぜ?」
「ふん。私の見立てと仕立てに狂いはないさ。そんな仕事をしているつもりはないんでね。……しかし驚いたよ。注文の色はこの世界では珍しいからな」
「ん、ああ。まさか同じ色を指定してくるとはな、見たことなどないはずなのに」

 アールセンとヘイロンが同時に視線を滑らせ、今もベッドですやすやと眠るリノアへと向ける。昨日の疲労が溜まっているのか、リノアは目を覚ます様子がない。その隣でミアベルが落ち着いた呼吸で眠っており、リノアにくっついていた。

「これがあのブルートと大立ち回りをしていたとはね」
「はは、流石に怪盗の相棒としちゃあまだまだだ。もう少し貞淑さが欲しいところだが」
「君はひどいやつだな。重症だよ」
「風は褪せないんだ。俺だってそれくらいはわかっている。こいつにそんなものは似合わないことも」

 表情を曇らせたアールセンが、額を抑えて俯いた。リノアへと向けられた瞳には様々な色が混じっており、清涼さからは程遠い。まるで湿った風のように。

「だが風は落ち着くものでもあり、より強い風に呑み込まれるものでもあるだろう。私にはそんな抽象的なものはわからないが、彼女はきっと――君が思っている以上に嵐だろうと思う」
「ああ、彼女という風はとても強い。時折濁ることもあるが、基本は透き通った空っ風だ。見ていると思うことはある」
「ならばいい。私の気のせいかもしれないが気づいているか? その女を連れてきてから君の表情は面白おかしいことになっている。私の興味をそそるほどにな」
「そんなはずはないさ。だって俺はあの時から――」

 その時、アールセンは息吹を感じた。口をつぐんでそちらに視線を向けると、リノアのベッドがもそもそと動いているのが見えた。

「んんっ……」

 リノアが自然な動作で伸びをして、瞼を擦りながらむくりと上半身を起こした。薄く目を開けて傍らへと視線を落とし、眠っているミアベルを捉える。そしてその頭を撫で、頬に触れてから笑顔をこぼした。

「おはようリノア」
「ああ、おはよう、アールセン……とヘイロンだったか」

 ローブの下でヘイロンが苦笑した。いかにも帰るタイミングを逃したという顔だ。昨晩も必要なことを話したら早々に去っていったのをリノアは覚えている。だから別段その反応を気にしなかったのだが、机の脇のベッドに広げられたそれを視界に入れてリノアは表情を変えた。

「すごいな。もうできているのか」
「ああ。しかし急拵えじゃない。作りは保証するし、性能も折り紙付きだ。……目が覚めてしまったのなら仕方ない、仕事の出来を見ていくとしようか」
「実は見ていきたかったんだろう? だがまあ、ヘイロンの腕は本物だ。この服も作ってくれたしな」

 アールセンが白の軍服をひらひらとさせ、軍帽をこれでもかと見せた。リノアはため息をつきながらも、その服の細部の動きを目で追っている。一見動きにくそうなその服がアールセンの動きに合わせて柔軟に対応できているのを、彼との一戦ですでにリノアは体験していた。だからその言葉に嘘がないことは理解している。
 リノアは机の上に広げられた服と装備に目を滑らせてから、頷く。

「よし、じゃあその自慢の装備に着替えるとするよ。……でもその前に、汗を流したい。夜はそのまま眠ってしまったから」
「ああ、そうだったな。そっちにシャワー室がある。自由に使ってくれ。使い方知らないだろう? 青色の精霊瓶に手をかざせば水が出るし、その後に赤色の方にかざせば温かくなる」
「へえ……? わかった」

 リノアは小首を傾げながらもアールセンの言葉に従い部屋を出て、脱衣所に入った。
 薄汚く汚れた、かつては白かったワンピースを脱ぎ捨て、その下に履いた下着も丁寧に脱ぎ、それをしげしげと眺めた。

「これが下着……ないほうが普通だったのに、少し履いてただけで落ち着かなくなるんだな。あとはこれを外さないと……えっと、これか」

 胸を包み込む感触を指でなぞり、背中で留められたホックへと辿り着いた。それを外すと乳房が重くなった。
 へえ、とそれを持ち上げ、薄目で睨め付ける。

「こんなに重かったんだ、これ。知らなかったな。しかもベタついてる。なんでもいいから洗い流してしまわないと」

 精霊灯篭の明かりに照らされて、薄墨色の肌が露わになる。艶とハリのある肢体が一糸纏わぬ姿でシャワー室へと歩みを進める。瑠璃色の髪がボサボサと揺れながらもついていき、臙脂色の瞳が精霊瓶を探した。
 小さな個室だ。リノアの元々いた空間よりも圧倒的に狭い。手を広げれば壁に手が届きそうな広さである。正面には瓶が二つ繋がれた金属製のパイプが上に伸びており、リノアの視点の少し上には穴のたくさん空いた円形の蓋があった。

「これのこと? ええと、まずは青いほうに手をかざすって云ってたか」

 リノアはひとりごちながら右手を青色の精霊瓶へと添えるようにした。すると瓶は淡い青色の光を纏う。そしてそれはパイプを伝っていき、やがてリノアの真上に移動してばしゃりと音を立てた。

「ひゃあっ!」

 その動きをまじまじと目で追っていたリノアは冷水を浴び、黄色い悲鳴があがる。しかしその間も冷水のシャワーは止まらない。珍しく平静を失ったリノアが慌てて手を伸ばした先には沈んだ赤色の瓶があり、彼女は無意識にそれに触れた。それが徐々に光を帯びていくとともに冷水はようやく心地よい温度となった。

「はぁ……びっくりした。ひどい目に遭った……でも、これはいいな、落ち着く」

 ざあ、と適温の湯がリノアに降り注いぐ。それは髪を洗い流し、身体を伝い床を濡らしていく。溜まった汚れが剥がれ落ちていき、排水溝に吸い込まれていった。
 濡れた髪が背中や顔に張り付くのも厭わずに、リノアは湯の噴出口へと顔を向け、湯を浴び続けた。そして思い出していた。ヴァルティエの城にいたときもこうして雨を浴びて身体を洗っていたことを。何より、意識がある間に最も彼女の心が満足感を得ていた瞬間だったことを。

「ふぅ……この音も、身体を流れるこの感触も懐かしいな」

 リノアが俯いて息を吐き出したあと、精霊瓶にもう一度触れる。すると二つの瓶が少しずつ光を失っていき、それに合わせてシャワーが止まった。便利だな、と思いながら前髪を手で掻き上げて、リノアはシャワー室を出た。

「このまま乾くまで待てばいいのか?」

 リノアの経験としてはそうである。体温を多少なり奪われようとも彼女は気にしたことがない。幼い頃よりそうしてきたのだから、彼女自身の身体が慣れている。しかし、ここは元いた場所ではない。床をびしょ濡れにしてしまうことがリノアは少しだけ気になった。身体の随所から、髪の先から滴り落ちる雫が水溜まりを作っていくのを一瞥し、うーんと唸る。
 どうしたものかと悩みながらもリノアはベッドのあった部屋への扉へと手をかけた。

「すまない、床を濡らしてしまうのだけれど、いったいどうしたらいい?」

 扉を開けたリノアを真っ先に直視したのはアールセンだった。
 一糸纏わぬ麗しい女性。濡れそぼった髪は光を反射して光沢を放っている。一切の恥じらいなどなく、ただただ疑問を浮かべたリノアの顔を一度見て、アールセンは反射的に顔を逸らして頭を抱えた。

「そいつはすまなかったな。……脱衣所に身体を拭くものと代わりの下着を用意してある。身体を拭いて、下着を一通り着てから出てきてくれ」
「……わかった。――アールセン、どうしてこちらを見ない?」
「くく、これはまた世間知らずに育てたものだねえ、ヴァルティエは。なかなか豪快で私はいいと思うが、君には目の毒だね、アールセン」
「はあ、役得なのか損な役回りなのか。この辺りのことはぜひともミアベルちゃんに頼みたいね」

 アールセンの深いため息を聞いてか、この時ミアベルがようやく目を覚ました。起き上がりリノアの裸体を見るや否や、瞳がきゅうっと小さくなる。そして顔を真っ赤にして飛び上がり、リノアに駆け寄って押し戻すように脱衣所へと入っていったのだった。
 それを見てアールセンは安堵に胸を撫で下ろし、やれやれと首を振る。その様子を、ヘイロンは隣でくすくすと笑っていた。
Twitter