第37話 大黒埠頭ぶらり旅〈後編〉
閑散とした駐車場にレンタカーを停めて、円柱状のオブジェが並ぶ広場を通り抜けた先には、多くの船が行き交う横浜港の景色が広がっていた。
「ここが『大黒海釣り公園』よ」
「ふむ、これは確かに公園じゃな」
公園内をキョロキョロと見回しながら、カナが感心したように頷いた。
「あの奇妙な構造物は、何なのでしょうか」
少女が、公園内の遊具を不思議そうに見つめながら疑問を口にする。
「あれは遊具といって、子供たちが遊ぶために造られたものなの」
「どのようにして遊ぶのでしょうか」
「そうねえ」
まりかが、チラリとカナを見た。
「カナ。この子のために、遊ぶところを実演してみてくれない?」
「ええい! 子供扱いするでない!」
カナが、プクッと頬を膨らませてまりかの頼みを突っぱねた。それでも全く興味が無いわけでもないらしく、イルカの背ビレのような形をした滑り台をチラチラと見ている。とはいえ、これ以上しつこく遊具を勧めることは止めておくことにする。
「公園や遊具自体は他の場所にも沢山あるから、そのうち明に連れてってもらうと良いわよ。そうだ! せっかくだから、みんなであそこに登ってみましょう」
まりかは、すぐそばにある小高い丘のような形をした展望台を指さすと、先頭に立って登り始めた。
大黒海釣り公園が存在するこの「大黒埠頭」は、世界の物流の要を担う横浜港を構成する、重要な埠頭の1つである。
船が停泊して貨物の積み下ろしを行うための岸壁を意味する「バース」という言葉があるが、このバースだけでなく倉庫や道路などの港に関する全ての施設を含んだ言葉が「埠頭」になる。
そして、この大黒埠頭には、25ものバースが整備されている。貨物船は当然として、最近では超大型豪華客船のための旅客ターミナルとしても活躍しており、大黒埠頭の重要性はますます高まるばかりだった。
まりかは、沖合に浮かぶ貨物船や対岸に見える本牧埠頭に熱烈な視線を注ぎながら、「港湾」という施設がいかに人間社会にとって重要であるかを、カナと式神の少女に対して熱心に語り続けた。
「船のこととなると、まりかはすーぐこうなるからのう」
海にプカプカと浮かぶカモメたちを目で追いながら、カナがふわりと欠伸をした。
「あそこにいくつも並んでいる紅白の縞模様をした奇妙な構造物は、何のためにあるのでしょうか」
少女が、海を挟んだ向かい側に見える本牧埠頭を片翼で示した。従者としての気質ゆえか、主の友人であるまりかのオタク趣味が入った熱弁にも、律儀に耳を傾けてくれているらしい。
「あれはね、『ガントリークレーン』というのよ」
少女の質問に、まりかが張り切って説明を始める。
「あそこに、小さな箱を大量に積んだ船がいるでしょ? あの箱の積み下ろしに欠かせないのが、ガントリークレーンなの」
まりかは、おもむろにスマホを取り出すと、フリップ入力で何かを打ち込み、画面に映し出された画像を少女に示した。
「これは、キリンという名前の動物なんだけどね。ガントリークレーンのことを、親しみを込めて『キリン』と呼ぶ人も多いのよ」
「……首が、すごく長いのですね」
少女が、感心したようにスマホに映ったキリンの画像をまじまじと見つめる。
(そういえば、まだ動物園には行ってなかったわね)
まりかは、桜木町駅の向こう側にある野毛山動物園のことを思い出した。次の休日に、カナを連れて行ってみようなどと考え始める。
そして、少女にも動物園の存在を教えようと口を開きかけたところで、スマホから軽快な着信音が鳴り響いた。
「……ちょっと待ってて」
画面に表示された名前を見たまりかは、式神の少女のそばから離れた。
通知をタップして、明から送られてきたメッセージを確認する。
『いま 家具店にいるんだけど』
読み終わったところで、次のメッセージが届く。
『どうしよう 考えれば考えるほど分からなくなる』
文面がシンプルな分、その苦悩の多大なることが如実に伝わってくる。
(あの子のこと、ものすごく真剣に考えてくれてるのね)
ある日突然、自分の人生に降って湧いた異質な存在に対して、戸惑いながらも真摯に向き合い、受け入れようとしている。その事実に、まりかは心がじんわりと暖かくなるのを感じた。
まりかは親指を素早く動かして、励ましのメッセージを入力していく。
『最初から完璧である必要なんてない
あの子と一緒に少しずつ 新しい生活を創っていけば良いと思う』
最後に、星の形の絵文字を付け加えてからメッセージを送信する。
ほどなくして、明から反応が返ってきた。
『ありがとう そうする』
それからすぐに、1枚の画像と共に別の相談が送られてくる。
『これ いくらなんでもやりすぎかな』
「っ!?」
画像を見たまりかは目を見開き、それから、その発想の微笑ましさに顔をほころばせた。
『すっごく 良いと思う!』
その後、いくつかのメッセージをやり取りしてから画面を閉じると、海を眺めて待っていた式神の少女に声をかけた。
「今、明からメッセージが来てたんだけどね。あなたのために物凄く頑張ってるみたいよ」
「……!」
まりかの言葉に、少女はモジモジと両翼を胸の前で擦り合わせる。
「我が主が、私のために……」
そのあどけない顔には、嬉しさよりも戸惑いの感情が大きく表れていた。主が自分のために準備に追われていることを、従者として申し訳なく感じているのだろう。
(この子のプレッシャーになるようなことは、あんまり伝えない方が良さそうね)
まりかは、少女の気を紛らわせるものが何か無いかと周囲を見回した。はるか対岸の本牧埠頭から公園内の海釣り用の桟橋に目を移し、最後に、釣り具の販売や貸出、休憩所などが存在する公園の管理棟に目を留める。
「そうだ!」
まりかは、不自然にならない程度に明るい声を出して、管理棟を指さした。
「あの建物の中に、アイスクリームの自販機があるのよ。せっかくだから、みんなで食べましょう!」
「アイスクリームの自販機じゃと!? それは聞き捨てならんな!」
展望台の斜面に仰向けになってぼうっと空を眺めていたカナが、俄然真剣な顔つきになって身体を起こした。
そのまま3人で連れ立って展望台を降り、管理棟を目指して歩き出す。
「じはんき……?」
まりかとカナの斜め後ろをフワフワと浮いて移動しながら、少女が首を傾げて呟いた。
「正確には、自動販売機。アイスだけじゃなくて、ジュースや軽食の自販機もあるのよ」
「わしはチョコミントのアイスが食いたい!」
「本当に好きねえ」
快晴の空の下、工業地帯の片隅に広がる海沿いの公園に、談笑する3人の声が穏やかに響く。
ほんのりとした甘さを含んだ潮風が、3人の訪れを喜ぶように優しく吹き抜けていった。
菊池明が式神の少女を迎えに来たのは、まりかたちが大黒埠頭を訪れた日から3日後の午後だった。
「ありがとう。本当に助かったよ」
事務所の玄関口で、明は大量のお菓子が入った紙袋や諸費用をまりかに手渡した。今日は仕事を休みにしたため、制服ではなく相変らずのボサッとした普段着を身につけている。
「遠慮せず、いつでも事務所に遊びに寄って。私も金魚たちも、またこの子に会いたいし」
「わしもじゃ! わしを抜かすでない!」
明と少女は、名残惜しげな様子のまりか達に別れを告げると、どこにも寄り道することなくまっすぐ帰路に着いた。
「遅くなってごめんな。ちょっと準備に手間取っちまって……でも、楽しく過ごしてたみたいで安心したよ」
「はい! まりかさんはすごく優しいし、カナさんはとても楽しい方だし、キヌちゃんとタマちゃんとトネちゃんはとっても可愛いんです!」
「そうか、良かった」
自宅までの道中、少女はつぶらな瞳をキラキラと輝かせて、事務所での楽しい日々について語ってみせた。明は微笑みを浮かべて、少女の話にひたすら耳を傾けている。
朝霧海事法務事務所からゆったり歩くこと約30分、ふたりは明の自宅に到着した。
「すごく大きい建物ですね。これが、我が主のお住まいなのですか?」
「全部じゃないよ。たくさんある扉のうちの1つが、俺の今の家だ」
明が住んでいるのは、独身者向けの公務員住宅だった。鉄筋コンクリート造の建物に、トタン屋根の自転車置き場、そして駐車場と、築年数が比較的浅いことを除けば典型的な公務員住宅である。
明は建物の端にある階段を使って3階まで上ると、「316」と書かれた扉の前で立ち止まった。
「ここが、俺の家だ」
背後でフワフワと浮いている少女に向き直って、小さく咳払いをする。
「あらかじめ言っておくと、めっちゃ狭い。最低限必要そうなものは揃えたけど、少しでも居心地が悪いと感じるようなら、遠慮なく言ってくれ」
そこまで一気に言ってしまうと、ポケットから鍵を取りだして解錠し、扉を開けて少女に入るように促した。
「ようこそ、我が家へ」
「……お邪魔します」
少女が、そろりそろりと玄関に入った。後から入った明が扉を閉めて、玄関と廊下の照明を点ける。
「右がトイレと風呂で、左がキッチン。そしてここが、今日からふたりで暮らす部屋だ」
廊下を進み、引き戸を開けて少女を部屋の中へと招き入れる。
「……」
式神の少女は胸をドキドキさせながら、ゆっくりと部屋の中に視線を滑らせていく。
「……お家の中に、お家がある」
少女の目が、向かって右側に置かれた巨大な家具に吸い込まれた。
「そこが、君専用のスペースだ」
「ええっ!?」
驚愕のあまり、少女は思わず上擦った声を上げて明の顔を見た。
明が少女のために買った家具とは、家のような形をした子供向けの小さなベッドだった。屋根は薄緑色で、クリーム色の壁面には木の葉や枝のイラストが描かれている。
「君の前身である『オオミズナギドリ』の習性を調べてみたんだ」
明が、本棚として使っているカラーボックスから鳥類図鑑を取り出して、少女に広げて見せる。そこには、地面に掘った巣穴の中でうずくまるオオミズナギドリの写真が載っていた。
「元の海鳥としての性質がどれほど受け継がれているのかは分からないけど、なるべく似たような環境に近づけた方が良いかなと思って……どうかな?」
若干自信なさげな表情で、少女の様子を伺う。
「えっと、その」
ベッドと部屋の中を何度も交互に見比べながら、少女がおずおずと切り出した。
「私のために、我が主の領域が狭くなってしまって……これでは、あまりにも申し訳ありません」
「そんなことはないよ」
まりかからの情報提供により少女の反応をある程度予測していた明は、即座に少女の言葉を否定した。
「元から物が少ない部屋だし、俺のスペースが狭くなることは何も気にしなくて良い。それに、住人がもう1人増えるなら、専用のスペースを用意するのは当然のことだ」
明はベッドの脇で片膝をついて、半個室のような形になったベッドの内部を少女に示した。
「とりあえず、中に入って居心地を確かめてくれないか。何か足りないものがあったら言ってくれ」
「は、はい……」
少女はおそるおそるベッドの内部に入った。
「……」
薄暗くこじんまりとした空間にあるのは、柔らかい敷布団に、小さなクッションが2つ。掛け布団は不要であるとの情報をまりかから得ていたため、あえて用意していない。
やがて、少女がベッドから顔を出した。
「なんだか、落ち着きます」
ふんわりと明に笑いかける。
その表情から、少なくともまるっきりの嘘ではなさそうだと、明はホッとした。
(……しまった、カーテンを付けた方が良かったかな)
ベッドの中でクッションの感触を確かめる少女を眺めながら、明は心の中で頭を抱えた。しかし、先日のまりかのメッセージを思い出して、すぐに気を取り直す。
(次の休日に、一緒に買いに行くか)
明は密かに決心すると、とある最重要事項を少女に告げるために気持ちを切り替えた。
「実は、君に重要な話があるんだ……いや、そのままで良い」
慌ててベッドから出ようとした少女を押し留めてから、机の上に伏せて置いておいた1枚の紙を手に取る。
書かれた内容が少女に見えないようにして両手に抱えると、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「――君の名前を考えたんだ」
「!!」
少女の目が、大きく見開かれた。
自分を凝視するつぶらな瞳に気圧された明は、ほんの数瞬、手にしたそれを見せることを躊躇する。
(この期に及んで、何を躊躇ってるんだ!)
明は自身を叱責すると、思い切ってそこに書かれた文字を少女に見せた。
命名 水晶
××年5月27日 誕生
「水晶――これが、君の名前だ!」
「……」
「……」
ふたりの間に、沈黙が流れる。
少女のポカンとした顔を見て、明の背中を冷や汗が伝う。
(完全に、スベッた)
明が少女に掲げて見せたのは、いわゆる命名書と呼ばれるものだった。勇気を出して百貨店のベビー用品売り場に入って購入したという経緯があるのだが、気合いが空回りしたという思いが胸の中に押し寄せようとしている。
「……我が主よ」
「へっ!?」
身の内に沸き上がる羞恥に耐えようとしていた明は、少女の呼びかけに思わず肩をビクリと跳ね上がらせた。
「あの、もっとよく見せていただいてもよろしいでしょうか」
「え? あ、ああ」
明は、身をかがめて少女の目の前に命名書を差し出した。少女が両翼を差し出したので、そっとその上に載せてやる。
少女が、命名書に書かれた名前を食い入るように見つめた。
「水晶。すいしょう。スイショウ……」
噛み締めるように、何度も何度も呟く。
「水晶」
少女が、命名書を両翼で胸に抱えた。
そのあどけない顔には、生まれてから今までで一番の幸福そうな笑顔が浮かんでいる。
「ありがとうございます、我が主よ!」
「こっちこそ、気に入ってくれて良かった」
少女のその喜び様に、明は心の底から安堵した。
式神である少女の核として使われた水晶製の勾玉から着想を得た、「水晶」という名前。少女の純粋無垢な性格や、宝石としての水晶が持つ退魔の力について思い浮かべたとき、これ以上に相応しい名前は存在しないと確信したのだった。
「それじゃあ、歓迎会を始めようか」
明はひと仕事を終えた後のような気楽な心持ちで、少女の歓迎会の準備を始めた。壁際に寄せていたちゃぶ台を部屋の中央に置いて、その上にお菓子やコップを並べていく。
「オレンジジュースが好きって朝霧から聞いたから、買ってみたんだ」
半分にカットされた蜜柑のイラストが書かれたペットボトル飲料を冷蔵庫から出して、2人分のコップに並々と注ぐ。最後に、少女のために買ったフォールディングチェアをちゃぶ台の前に据えると、座るように勧めた。
「では、お言葉に甘えて」
少女はフワフワと浮いてベッドから出ると、ゆっくりとチェアに着地した。部屋に着いた時ほどでは無いものの、その表情には未だに固いものが残っている。
「ジュースもお菓子も、好きなだけ食べてくれ」
明はオレンジジュースが入ったコップを少女に手渡すと、少女の向かい側ではなく、壁際の机の前に腰かけた。
「?」
戸惑う少女の前で、明は机の上に置かれた細長い物体を覆っていた布カバーを取り外す。
現れたのは、卓上型の電子ピアノだった。
「事務所で、朝霧のフルートを聴いたんだってな。それなら今度は、ピアノの演奏も楽しんでくれ」
「ぴあの、ですか?」
首を傾げる少女に対して、明は優しく微笑みかけた。
「これから弾くのは『きらきら星変奏曲』といって、俺が好きな曲のひとつなんだ」
「我が主の……」
「まあ難しいことは考えずに、気を楽にして聴いてくれ」
明は鍵盤に指を添えると、一呼吸分おいてから、少女への想いを込めて演奏を開始した。
「!!」
電子ピアノのスピーカーから流れ始めた美しい旋律に、少女は大きく息を呑む。
(これが、我が主の指から編み出されているというの?)
にわかには信じられず、少女は明の指の動きをじっと観察してみる。
ポン、ポロロン……
明の指が鍵盤を叩くと、その度に煌めくような音の粒が弾き出される。そして、その粒のひとつひとつが連なることで、絶え間のない滑らかな旋律となって少女の周囲を優しく満たしていく。
(すごい……)
少女は嘆息すると、今度は明の顔に視線を移した。
ポロン、ポロロロン……
鍵盤を見つめるその横顔は、少女が今まで見てきた明のどんな顔よりも穏やかで、そして優しかった。
(――そうか)
ふいに、少女は理解した。
(私、ここに居ても良いのね)
自分は、歓迎されているのだと。
新たな生命を得た果てにこの場所に辿り着いたことを、祝福されているのだと。
少女は肩の力を抜くと、くぴりとジュースを啜ってみた。柑橘類の爽やかな酸味と甘味が、口の中いっぱいに広がる。
「きらきら星……とても綺麗……」
優しく包み込むような旋律に耳を傾けながら、海鳥と魚の姿をした式神の少女――水晶は、穏やかな気持で目をつむった。
これが、ふたりの本当の始まり。
海上保安官の青年と式神の少女が織り成す、もうひとつの物語が幕を開ける――。
「ここが『大黒海釣り公園』よ」
「ふむ、これは確かに公園じゃな」
公園内をキョロキョロと見回しながら、カナが感心したように頷いた。
「あの奇妙な構造物は、何なのでしょうか」
少女が、公園内の遊具を不思議そうに見つめながら疑問を口にする。
「あれは遊具といって、子供たちが遊ぶために造られたものなの」
「どのようにして遊ぶのでしょうか」
「そうねえ」
まりかが、チラリとカナを見た。
「カナ。この子のために、遊ぶところを実演してみてくれない?」
「ええい! 子供扱いするでない!」
カナが、プクッと頬を膨らませてまりかの頼みを突っぱねた。それでも全く興味が無いわけでもないらしく、イルカの背ビレのような形をした滑り台をチラチラと見ている。とはいえ、これ以上しつこく遊具を勧めることは止めておくことにする。
「公園や遊具自体は他の場所にも沢山あるから、そのうち明に連れてってもらうと良いわよ。そうだ! せっかくだから、みんなであそこに登ってみましょう」
まりかは、すぐそばにある小高い丘のような形をした展望台を指さすと、先頭に立って登り始めた。
大黒海釣り公園が存在するこの「大黒埠頭」は、世界の物流の要を担う横浜港を構成する、重要な埠頭の1つである。
船が停泊して貨物の積み下ろしを行うための岸壁を意味する「バース」という言葉があるが、このバースだけでなく倉庫や道路などの港に関する全ての施設を含んだ言葉が「埠頭」になる。
そして、この大黒埠頭には、25ものバースが整備されている。貨物船は当然として、最近では超大型豪華客船のための旅客ターミナルとしても活躍しており、大黒埠頭の重要性はますます高まるばかりだった。
まりかは、沖合に浮かぶ貨物船や対岸に見える本牧埠頭に熱烈な視線を注ぎながら、「港湾」という施設がいかに人間社会にとって重要であるかを、カナと式神の少女に対して熱心に語り続けた。
「船のこととなると、まりかはすーぐこうなるからのう」
海にプカプカと浮かぶカモメたちを目で追いながら、カナがふわりと欠伸をした。
「あそこにいくつも並んでいる紅白の縞模様をした奇妙な構造物は、何のためにあるのでしょうか」
少女が、海を挟んだ向かい側に見える本牧埠頭を片翼で示した。従者としての気質ゆえか、主の友人であるまりかのオタク趣味が入った熱弁にも、律儀に耳を傾けてくれているらしい。
「あれはね、『ガントリークレーン』というのよ」
少女の質問に、まりかが張り切って説明を始める。
「あそこに、小さな箱を大量に積んだ船がいるでしょ? あの箱の積み下ろしに欠かせないのが、ガントリークレーンなの」
まりかは、おもむろにスマホを取り出すと、フリップ入力で何かを打ち込み、画面に映し出された画像を少女に示した。
「これは、キリンという名前の動物なんだけどね。ガントリークレーンのことを、親しみを込めて『キリン』と呼ぶ人も多いのよ」
「……首が、すごく長いのですね」
少女が、感心したようにスマホに映ったキリンの画像をまじまじと見つめる。
(そういえば、まだ動物園には行ってなかったわね)
まりかは、桜木町駅の向こう側にある野毛山動物園のことを思い出した。次の休日に、カナを連れて行ってみようなどと考え始める。
そして、少女にも動物園の存在を教えようと口を開きかけたところで、スマホから軽快な着信音が鳴り響いた。
「……ちょっと待ってて」
画面に表示された名前を見たまりかは、式神の少女のそばから離れた。
通知をタップして、明から送られてきたメッセージを確認する。
『いま 家具店にいるんだけど』
読み終わったところで、次のメッセージが届く。
『どうしよう 考えれば考えるほど分からなくなる』
文面がシンプルな分、その苦悩の多大なることが如実に伝わってくる。
(あの子のこと、ものすごく真剣に考えてくれてるのね)
ある日突然、自分の人生に降って湧いた異質な存在に対して、戸惑いながらも真摯に向き合い、受け入れようとしている。その事実に、まりかは心がじんわりと暖かくなるのを感じた。
まりかは親指を素早く動かして、励ましのメッセージを入力していく。
『最初から完璧である必要なんてない
あの子と一緒に少しずつ 新しい生活を創っていけば良いと思う』
最後に、星の形の絵文字を付け加えてからメッセージを送信する。
ほどなくして、明から反応が返ってきた。
『ありがとう そうする』
それからすぐに、1枚の画像と共に別の相談が送られてくる。
『これ いくらなんでもやりすぎかな』
「っ!?」
画像を見たまりかは目を見開き、それから、その発想の微笑ましさに顔をほころばせた。
『すっごく 良いと思う!』
その後、いくつかのメッセージをやり取りしてから画面を閉じると、海を眺めて待っていた式神の少女に声をかけた。
「今、明からメッセージが来てたんだけどね。あなたのために物凄く頑張ってるみたいよ」
「……!」
まりかの言葉に、少女はモジモジと両翼を胸の前で擦り合わせる。
「我が主が、私のために……」
そのあどけない顔には、嬉しさよりも戸惑いの感情が大きく表れていた。主が自分のために準備に追われていることを、従者として申し訳なく感じているのだろう。
(この子のプレッシャーになるようなことは、あんまり伝えない方が良さそうね)
まりかは、少女の気を紛らわせるものが何か無いかと周囲を見回した。はるか対岸の本牧埠頭から公園内の海釣り用の桟橋に目を移し、最後に、釣り具の販売や貸出、休憩所などが存在する公園の管理棟に目を留める。
「そうだ!」
まりかは、不自然にならない程度に明るい声を出して、管理棟を指さした。
「あの建物の中に、アイスクリームの自販機があるのよ。せっかくだから、みんなで食べましょう!」
「アイスクリームの自販機じゃと!? それは聞き捨てならんな!」
展望台の斜面に仰向けになってぼうっと空を眺めていたカナが、俄然真剣な顔つきになって身体を起こした。
そのまま3人で連れ立って展望台を降り、管理棟を目指して歩き出す。
「じはんき……?」
まりかとカナの斜め後ろをフワフワと浮いて移動しながら、少女が首を傾げて呟いた。
「正確には、自動販売機。アイスだけじゃなくて、ジュースや軽食の自販機もあるのよ」
「わしはチョコミントのアイスが食いたい!」
「本当に好きねえ」
快晴の空の下、工業地帯の片隅に広がる海沿いの公園に、談笑する3人の声が穏やかに響く。
ほんのりとした甘さを含んだ潮風が、3人の訪れを喜ぶように優しく吹き抜けていった。
菊池明が式神の少女を迎えに来たのは、まりかたちが大黒埠頭を訪れた日から3日後の午後だった。
「ありがとう。本当に助かったよ」
事務所の玄関口で、明は大量のお菓子が入った紙袋や諸費用をまりかに手渡した。今日は仕事を休みにしたため、制服ではなく相変らずのボサッとした普段着を身につけている。
「遠慮せず、いつでも事務所に遊びに寄って。私も金魚たちも、またこの子に会いたいし」
「わしもじゃ! わしを抜かすでない!」
明と少女は、名残惜しげな様子のまりか達に別れを告げると、どこにも寄り道することなくまっすぐ帰路に着いた。
「遅くなってごめんな。ちょっと準備に手間取っちまって……でも、楽しく過ごしてたみたいで安心したよ」
「はい! まりかさんはすごく優しいし、カナさんはとても楽しい方だし、キヌちゃんとタマちゃんとトネちゃんはとっても可愛いんです!」
「そうか、良かった」
自宅までの道中、少女はつぶらな瞳をキラキラと輝かせて、事務所での楽しい日々について語ってみせた。明は微笑みを浮かべて、少女の話にひたすら耳を傾けている。
朝霧海事法務事務所からゆったり歩くこと約30分、ふたりは明の自宅に到着した。
「すごく大きい建物ですね。これが、我が主のお住まいなのですか?」
「全部じゃないよ。たくさんある扉のうちの1つが、俺の今の家だ」
明が住んでいるのは、独身者向けの公務員住宅だった。鉄筋コンクリート造の建物に、トタン屋根の自転車置き場、そして駐車場と、築年数が比較的浅いことを除けば典型的な公務員住宅である。
明は建物の端にある階段を使って3階まで上ると、「316」と書かれた扉の前で立ち止まった。
「ここが、俺の家だ」
背後でフワフワと浮いている少女に向き直って、小さく咳払いをする。
「あらかじめ言っておくと、めっちゃ狭い。最低限必要そうなものは揃えたけど、少しでも居心地が悪いと感じるようなら、遠慮なく言ってくれ」
そこまで一気に言ってしまうと、ポケットから鍵を取りだして解錠し、扉を開けて少女に入るように促した。
「ようこそ、我が家へ」
「……お邪魔します」
少女が、そろりそろりと玄関に入った。後から入った明が扉を閉めて、玄関と廊下の照明を点ける。
「右がトイレと風呂で、左がキッチン。そしてここが、今日からふたりで暮らす部屋だ」
廊下を進み、引き戸を開けて少女を部屋の中へと招き入れる。
「……」
式神の少女は胸をドキドキさせながら、ゆっくりと部屋の中に視線を滑らせていく。
「……お家の中に、お家がある」
少女の目が、向かって右側に置かれた巨大な家具に吸い込まれた。
「そこが、君専用のスペースだ」
「ええっ!?」
驚愕のあまり、少女は思わず上擦った声を上げて明の顔を見た。
明が少女のために買った家具とは、家のような形をした子供向けの小さなベッドだった。屋根は薄緑色で、クリーム色の壁面には木の葉や枝のイラストが描かれている。
「君の前身である『オオミズナギドリ』の習性を調べてみたんだ」
明が、本棚として使っているカラーボックスから鳥類図鑑を取り出して、少女に広げて見せる。そこには、地面に掘った巣穴の中でうずくまるオオミズナギドリの写真が載っていた。
「元の海鳥としての性質がどれほど受け継がれているのかは分からないけど、なるべく似たような環境に近づけた方が良いかなと思って……どうかな?」
若干自信なさげな表情で、少女の様子を伺う。
「えっと、その」
ベッドと部屋の中を何度も交互に見比べながら、少女がおずおずと切り出した。
「私のために、我が主の領域が狭くなってしまって……これでは、あまりにも申し訳ありません」
「そんなことはないよ」
まりかからの情報提供により少女の反応をある程度予測していた明は、即座に少女の言葉を否定した。
「元から物が少ない部屋だし、俺のスペースが狭くなることは何も気にしなくて良い。それに、住人がもう1人増えるなら、専用のスペースを用意するのは当然のことだ」
明はベッドの脇で片膝をついて、半個室のような形になったベッドの内部を少女に示した。
「とりあえず、中に入って居心地を確かめてくれないか。何か足りないものがあったら言ってくれ」
「は、はい……」
少女はおそるおそるベッドの内部に入った。
「……」
薄暗くこじんまりとした空間にあるのは、柔らかい敷布団に、小さなクッションが2つ。掛け布団は不要であるとの情報をまりかから得ていたため、あえて用意していない。
やがて、少女がベッドから顔を出した。
「なんだか、落ち着きます」
ふんわりと明に笑いかける。
その表情から、少なくともまるっきりの嘘ではなさそうだと、明はホッとした。
(……しまった、カーテンを付けた方が良かったかな)
ベッドの中でクッションの感触を確かめる少女を眺めながら、明は心の中で頭を抱えた。しかし、先日のまりかのメッセージを思い出して、すぐに気を取り直す。
(次の休日に、一緒に買いに行くか)
明は密かに決心すると、とある最重要事項を少女に告げるために気持ちを切り替えた。
「実は、君に重要な話があるんだ……いや、そのままで良い」
慌ててベッドから出ようとした少女を押し留めてから、机の上に伏せて置いておいた1枚の紙を手に取る。
書かれた内容が少女に見えないようにして両手に抱えると、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「――君の名前を考えたんだ」
「!!」
少女の目が、大きく見開かれた。
自分を凝視するつぶらな瞳に気圧された明は、ほんの数瞬、手にしたそれを見せることを躊躇する。
(この期に及んで、何を躊躇ってるんだ!)
明は自身を叱責すると、思い切ってそこに書かれた文字を少女に見せた。
命名 水晶
××年5月27日 誕生
「水晶――これが、君の名前だ!」
「……」
「……」
ふたりの間に、沈黙が流れる。
少女のポカンとした顔を見て、明の背中を冷や汗が伝う。
(完全に、スベッた)
明が少女に掲げて見せたのは、いわゆる命名書と呼ばれるものだった。勇気を出して百貨店のベビー用品売り場に入って購入したという経緯があるのだが、気合いが空回りしたという思いが胸の中に押し寄せようとしている。
「……我が主よ」
「へっ!?」
身の内に沸き上がる羞恥に耐えようとしていた明は、少女の呼びかけに思わず肩をビクリと跳ね上がらせた。
「あの、もっとよく見せていただいてもよろしいでしょうか」
「え? あ、ああ」
明は、身をかがめて少女の目の前に命名書を差し出した。少女が両翼を差し出したので、そっとその上に載せてやる。
少女が、命名書に書かれた名前を食い入るように見つめた。
「水晶。すいしょう。スイショウ……」
噛み締めるように、何度も何度も呟く。
「水晶」
少女が、命名書を両翼で胸に抱えた。
そのあどけない顔には、生まれてから今までで一番の幸福そうな笑顔が浮かんでいる。
「ありがとうございます、我が主よ!」
「こっちこそ、気に入ってくれて良かった」
少女のその喜び様に、明は心の底から安堵した。
式神である少女の核として使われた水晶製の勾玉から着想を得た、「水晶」という名前。少女の純粋無垢な性格や、宝石としての水晶が持つ退魔の力について思い浮かべたとき、これ以上に相応しい名前は存在しないと確信したのだった。
「それじゃあ、歓迎会を始めようか」
明はひと仕事を終えた後のような気楽な心持ちで、少女の歓迎会の準備を始めた。壁際に寄せていたちゃぶ台を部屋の中央に置いて、その上にお菓子やコップを並べていく。
「オレンジジュースが好きって朝霧から聞いたから、買ってみたんだ」
半分にカットされた蜜柑のイラストが書かれたペットボトル飲料を冷蔵庫から出して、2人分のコップに並々と注ぐ。最後に、少女のために買ったフォールディングチェアをちゃぶ台の前に据えると、座るように勧めた。
「では、お言葉に甘えて」
少女はフワフワと浮いてベッドから出ると、ゆっくりとチェアに着地した。部屋に着いた時ほどでは無いものの、その表情には未だに固いものが残っている。
「ジュースもお菓子も、好きなだけ食べてくれ」
明はオレンジジュースが入ったコップを少女に手渡すと、少女の向かい側ではなく、壁際の机の前に腰かけた。
「?」
戸惑う少女の前で、明は机の上に置かれた細長い物体を覆っていた布カバーを取り外す。
現れたのは、卓上型の電子ピアノだった。
「事務所で、朝霧のフルートを聴いたんだってな。それなら今度は、ピアノの演奏も楽しんでくれ」
「ぴあの、ですか?」
首を傾げる少女に対して、明は優しく微笑みかけた。
「これから弾くのは『きらきら星変奏曲』といって、俺が好きな曲のひとつなんだ」
「我が主の……」
「まあ難しいことは考えずに、気を楽にして聴いてくれ」
明は鍵盤に指を添えると、一呼吸分おいてから、少女への想いを込めて演奏を開始した。
「!!」
電子ピアノのスピーカーから流れ始めた美しい旋律に、少女は大きく息を呑む。
(これが、我が主の指から編み出されているというの?)
にわかには信じられず、少女は明の指の動きをじっと観察してみる。
ポン、ポロロン……
明の指が鍵盤を叩くと、その度に煌めくような音の粒が弾き出される。そして、その粒のひとつひとつが連なることで、絶え間のない滑らかな旋律となって少女の周囲を優しく満たしていく。
(すごい……)
少女は嘆息すると、今度は明の顔に視線を移した。
ポロン、ポロロロン……
鍵盤を見つめるその横顔は、少女が今まで見てきた明のどんな顔よりも穏やかで、そして優しかった。
(――そうか)
ふいに、少女は理解した。
(私、ここに居ても良いのね)
自分は、歓迎されているのだと。
新たな生命を得た果てにこの場所に辿り着いたことを、祝福されているのだと。
少女は肩の力を抜くと、くぴりとジュースを啜ってみた。柑橘類の爽やかな酸味と甘味が、口の中いっぱいに広がる。
「きらきら星……とても綺麗……」
優しく包み込むような旋律に耳を傾けながら、海鳥と魚の姿をした式神の少女――水晶は、穏やかな気持で目をつむった。
これが、ふたりの本当の始まり。
海上保安官の青年と式神の少女が織り成す、もうひとつの物語が幕を開ける――。