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作者: こむらまこと
第38話 ハクモクレンの約束〈一〉
 梅雨真っ盛りの7月上旬。鈍色にびいろの雨雲が立ち込める空の下、マリーナの桟橋に係留されたクルーザーの上で、海事代理士・朝霧まりかは本来の職務に励んでいた。
「この救命胴衣、チャックが少し動かしづらいですね」
 クルーザーの定員12名分の救命胴衣のうちのひとつを手に取ったまりかが、同じく隣で別の救命胴衣のチェックをしている検査官の女性に確認する。
「そうですね、なるべくなら買い換えた方が良いでしょう。それとこちらの救命胴衣ですが、船舶番号と船名の記載がされていません」
「あっ、本当ですね」
 まりかは手元に視線を落とすと、女性からの指摘事項を事細かにバインダーノートに書き記していく。
「では、機関エンジンが正常に作動するか確認しますね」
 救命胴衣や発煙筒、いかりなどの法定備品の確認を終えると、今度はエンジンや航海灯、燃料タンク、バッテリーなどの設備や機材の状態をひとつずつ確認していく。
 最後に、クルーザーの外壁に亀裂クラックが生じていないことを確認した女性が、穏やかな笑みを浮かべて検査結果を申し渡した。
「合格です。全体的に、良好にメンテナンスされた状態であると言えるでしょう」
 女性の言葉に、まりかはまるで自分事のようにホッとする。
「それでは、先ほど指摘を受けた救命胴衣のことも含めて、依頼人にはそのように伝えておきます」
「よろしくお願いします。船舶検査証書などの書類一式は、郵送の方がよろしいでしょうか」
「はい、それでお願いします」
 検査官の女性が桟橋から去った後、まりかは検査のために並べておいた法定備品を元の場所へと丁寧に収納した。それから、バインダーノートに目を走らせて書き漏らしがないことを確認すると、リュックサックの中にしまい込んでホッと息をついた。
 車検の船バージョンとも言える、船舶検査。総トン数20トン未満の小型船舶の場合は、日本小型船舶検査機構――通称JCIという組織が国の代行として検査を実施しているが、この船舶検査には船の所有者の立ち会いが必須となる。しかし、クルーザーなどの小型船舶の所有者には社会人として多忙を極める人も多く、スケジュール的に立ち会いが不可能という場合も少なくない。
 そこで登場するのが、海の法律屋とも言われる海事代理士である。小型船舶の所有者は、船舶検査の申請書と共に委任状を書いて提出することで、船舶検査の立ち会いを任意の海事代理士に代行してもらえることになっていた。
(夕方、事務所に戻ってから検査結果を電話で連絡しよう)
 まりかはリュックサックを背負うと、クルーザーから桟橋へと降り立った。それから、桟橋から身を乗り出してクルーザーの横の海面を覗き込む。
「カナ、そこにいるの? 検査はもう終わったから、行きましょう」
 1秒、2秒。
 覗き込んだ海面に、薄ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
 次の瞬間、海面が大きく盛り上がったかと思うと、盛大な水飛沫を立ててひとりの人魚が躍り出てきた。
「きゃっ!?」
 クルーザーよりも遥かに高く跳ね上がったカナが、クジラの下半身を持つその肢体を伸びやかにくねらせる。そして、飛込み選手顔負けの見事な回転を見せつけながら、桟橋に吸い込まれるように落下してきた。
「よっと」
 カナが、音もなく桟橋に着地する。その外見は、一糸まとわぬ人魚から着衣状態の人間へと、完璧な変化へんげを遂げていた。
 青い入れ墨に覆われた褐色の肌に長い白髪、耳と首にはそれぞれチェーンのピアスとチョーカー。見た目年齢が9歳か10歳くらいの華奢な身体に纏うのは、この数ヶ月間のお気に入りだったパーカーではなく、白いTシャツと黒いタイツだった。
「ちょっと! 海水がかかっちゃったじゃない!」
 まりかがハンドタオルで顔や髪を拭きながら、澄ました顔で突っ立っているカナに文句を言う。
「なんじゃい、わしの見事な身のこなしについては一言も無しかい」
 カナが、あからさまな不満顔で唇を尖らせた。
「はいはい、凄かったわよ。でも、次からは水飛沫がかからないような配慮をしてちょうだいね」
「むう、分かったわい。そういえば、人間はやけに濡れるのを嫌がるとか聞いた気もするのう……ちと神経質過ぎやせんかい……」
 カナはぶつぶつ呟きながらも、まりかと横並びになって桟橋出入口のゲートを目指して歩き出した。
 ふたりが今いるのは、横浜市街にほど近い場所に位置するマリーナである。マリーナというのは、先ほどのクルーザーのようなレジャー目的の小型船舶の停泊、保管を目的とした施設であり、漁港や商業目的の港とは明確に区別されている。
 クルーザーやフィッシングボートなど、様々な小型船舶プレジャーボートが並ぶ桟橋を進みながら、まりかは隣を歩くカナの様子をチラりと盗み見る。
 お菓子のイラストがプリントされた白いTシャツと、膝上の黒いタイツ。来るべき夏に備えて、パーカーに代わる新たな衣服としてまりかが買い与えたものである。パーカーの時と同様、肌感覚が敏感なカナに合わせて肌への刺激を最大限抑えた素材が使用されたものを選んだのだが、パーカーよりも軽くて涼しいと評判は上々だった。
 ちなみに、足元には水遊びにも使えるメッシュシューズを履いている。秋になったらいよいよ靴下とスニーカーを試してみようかと、まりかは密かに検討していた。
「のう、まりか。昼飯はどうするつもりじゃ」
 セキュリティ機能付きの頑丈なゲートを通り抜けたところで、カナがキョロキョロと辺りを見回した。このマリーナには大型ショッピングモールが隣接しているため、ランチメニューに事欠くことは無い。
 しかし、まりかが指さしたのは、ショッピングモールの手前にあるマリーナの管理棟だった。
「その前に、の依頼を聞かなきゃ。ランチはその後でね」
「うむ、そうじゃったな。すっかり忘れとったわい」
 ランチが一旦お預けとなったことに、カナは大きく肩を落とした。しかしすぐに真剣な顔つきになって、ランチタイムに何を食べるべきかをあれこれ考え始める。
「滅多に無い機会じゃからのう……ここは『ぱふぇ』なる豪華なスイーツ……もしくは『あんみつ』でも良いかもしれぬぞ……」
「それはランチじゃなくてデザートでしょ」
「わしにとってはデザート即ちランチなんじゃい」
 そんなことを言い合いながら、ふたりは「もうひとつの仕事」の依頼人が待つマリーナの管理棟へと足を踏み入れたのだった。



 管理棟の奥まった一室に案内されたまりかとカナは、今回の依頼の担当者であるマリーナの女性スタッフと対面した。
「海事代理士の、朝霧まりかです。この子は、私の助手をさせているカナといいます」
「総務課の、篠原綾音と申します。本日は、急な依頼にも関わらずご足労いただきありがとうございます」
 篠原と名乗った女性は愛想よく、ふたりに対して席に着くよう勧めた。年端も行かぬ少女が助手であると紹介されても、特に不審には思っていないらしい。まりかは怪訝に思いながらも、カナの存在をすんなりと受け入れられたことに胸を撫で下ろした。
「マリーナの支配人に代わりまして、私の方から今回の依頼について説明をさせていただきます」
 篠原は、まりかとカナが席に着くのを確認すると、自らも机を挟んだ向かい側のパイプ椅子に腰を下ろした。
「総務課とおっしゃいましたが、篠原さんご自身は海遊びはされるのですか」
「ええ。月に4、5回はフィッシングボートで海釣りに出ています」
 まりかの何気ない質問に、篠原が笑顔で頷き返した。小麦色に日焼けした肌と頬に散りばめられたそばかすが、総務という地味な役職には収まりきらない彼女の活発な性格を引き立てている。
「この時期は、マアジやシロギスがよく釣れますね」
「釣ってすぐに刺身にして食べると、美味しいらしいですね」
 本題に入る前に、海釣りの話題で軽く雑談を交わす篠原とまりか。そうして互いに気心が知れたところで、篠原はようやく依頼の内容を切り出したのだった。
「――八景島はっけいじまの沖合に、少女の姿をした人魚が出没するようになったのです」
 篠原はクリアフォルダーの中から1枚の紙を取り出すと、まりかの前に差し出した。
「目撃証言を元にして、拙いながらも私が描きました」
「これは……」
 そのイラストを見て、まりかが小さく眉をひそめる。
 上半身が人間で下半身が魚という、大まかには典型的な人魚の形態をしている。しかし、普通の怪異や妖とは微妙に異なる何かを、まりかはそのイラストから感じ取っていた。
「上半身はほとんど人間の女の子って感じですね。服も着てますし」
 半袖の襟付きシャツに、黒いおかっぱ頭。肘から先が魚のヒレになっていることを除けば、上半身は完全に人間の少女である。
「あと、少しだけハゼっぽさを感じますね」
「ハゼというと、干潟や浅瀬でウロチョロしとるやつじゃな」
 カナが胡散臭げな表情で、まりかの横からイラストを覗き込んでいる。
「1ヶ月ほど前からです。八景島の沖合を航行した当マリーナの利用者様の中から、『人魚が出た』というお話を伺うようになったのは」
 篠原の説明によると、これまでにその人魚に遭遇したのは、普段から怪異や妖の存在をそれなりに認識できている人間ばかりであるとのことだった。
「時間帯については、夕方や夜間が一番多いです。ただ、雨の中、白昼堂々と出現したという話も聞きました」
「遭遇した人たちに、障りなどは出ていないのですか」
「今のところ、そのような連絡は受けていません」
 そもそもの話として、例の人魚からは、人間に対する害意や悪意の念は全く向けられていないらしい。そのため、怪異や妖と遭遇した後に体調を崩す「霊障」はもちろんのこと、その人魚によって船舶事故が誘発されるようなことも、現時点では発生していないとのことだった。
「船の行く手を阻むように突然出現して、それで人間側が驚いてしまうということなら何度かあったようなのですが……それでも、船の中に入ってこようとはしないみたいです」
 篠原は席を立つと、背後の棚に置いておいたハンドバッグの中から何かを取り出して掲げて見せた。
「私もなのですが、海遊びを趣味とする人の中には、こういう御守りを常に持ち歩いている人が多いんです。特に、例の人魚に遭遇した方々は全員、日頃から怪異や妖への対策をしっかりとっていらしたとのことなので」
「ふうむ」
 カナが、顎に手を当てながら御守りを凝視した。御守りの表面には「航海安全」の文字が金糸で刺繍されている。
「こんな微々たる霊力で退くというのか。こりゃあ、とんだ小物じゃな」
 カナがつまらなさそうに鼻を鳴らす。そんなカナには取り合わず、まりかが真剣な表情で篠原に質問を投げかけた。
「御守り以外の対策となると、船に御札を貼ったり、定期的にお祓いを頼んだりといったところでしょうか」
「そうですね。後は、船内で船霊ふなたま様を祀っているという方もたまにいらっしゃいます」
「分かりました。ありがとうございます」
 まりかは脳内で素早く、これまでの篠原の説明を整理する。
(妖力もさして強くないし、そもそも人間に対する悪意も無い。差し迫った危険は特に無いということね)
 まりかは、篠原の顔を見た。
「今回のご依頼の内容としましては、その人魚が二度と出没しないように対処することをお望みになっている、という認識でよろしいでしょうか」
「ええ、その通りです」
 篠原が首肯した。
「海洋レジャーの一大拠点を運営する人間の責任として、何らかの対処をしなければならないというのが支配人の意向です。それに、我々スタッフとしましても、当マリーナの利用者様方には、安心してクルージングや海釣りを楽しんでいただきたいという想いでいます」
 ここまで話したところで、篠原が表情を曇らせた。
「ただ、これはあくまで私個人の意見といいますか、希望のようなものに過ぎないのですが……」
 人魚のイラストに視線を落とし、何かに迷うような素振りで話を続ける。
「朝霧様におかれましては、この少女の姿をした人魚には、可能な範囲で結構ですので、穏やかな措置をとっていただくことはできないかと……勝手ながら考えております」
「そのように考える理由が、何かおありなのですか」
「……!」
 篠原が、まりかを見た。その顔には、思いがけず真剣な表情が浮かんでる。
 篠原自身は、怪異や妖に関しては気配をごくたまに感じるという程度の霊力しか無い。そんな自分が、怪異や妖への対処を仕事とする人間に対してあれこれ具申するなど、不快に思われても仕方が無いものと考えていた。
 その上でまりかに対して勝手な希望を語ったのは、「呪術師や浄霊師などのその道のプロは怪異や妖に対して容赦が無い」という印象を篠原が持っているからである。とはいえ、身近な具体例を知っているわけでもなく、あくまでも印象レベルでしかないのだが。
 そういうわけで、不快感や拒絶の表明を予想していた篠原は予想外のまりかの反応に肩の力を抜くと、話すかどうかを迷っていたとある証言について語り始めた。
「実はその人魚について、ある利用者様からこんな話を伺ったのです――」



 マリーナの管理棟を出て空を見上げると、鈍色の雨雲がますます重さを増し、薄く差していた陽光は分厚い雲の向こう側へとすっかり追いやられてしまっていた。
「カナ、お昼ご飯は船の上で済ませましょう」
「なんじゃと?」
 早足で歩き出したまりかの後を小走りで追いかけながら、カナが小さな拳を振り上げる。
「レストランで優雅なランチにするとか言うとったじゃろうが!」
「ごめん、予定変更」
 そこまでは言ってないと思いつつも、まるっきりの嘘でもないためここは素直に謝っておく。
「モール内にスーパーがあるらしいから、そこでお昼ご飯を買うことにするわ」
「スーパー? なら、スイーツもあるということじゃな!」
「好きな物買ってあげるから」
「むう? 今日はやけに気前が良いな」
「常識の範囲内でね」
 スイーツ限定大食らいの人魚にひと言付け加えてから、まりかは先ほどの篠原とのやり取りを思い返す。
『――誰かを、探している?』
『ええ。ひどく悲しそうな顔で、誰かの名前を呼んでいたとのことです』
 梅雨時の平日にもかかわらず大勢の人で賑わうショッピングモール内を進みながら、まりかは妙に心がザワつくのを感じている。
(早く、行ってあげないと)

 人気の無いマリーナの静かな海面に、最初の雨粒がぴちゃんと落ちて消えていった。
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