第40話 ハクモクレンの約束〈三〉
分厚い雨雲に覆われた薄暗い天地の狭間、糸のように細い雨が降りしきる中、朝霧まりかは一心に祈りを捧げていた。
(どうか)
生温い雨粒が頬を伝うのを感じながら、胸の前で両手を組んで目を瞑り、遥かな大空を住処とする風の精霊たちの姿を想い描く。
(あなたたちの力が必要なの。どうか、私の元へ――)
その願いに呼応するように、まりかの全身が若葉色の光を帯び始めた。雨水を吸って重くなっていたはずの髪がふんわりと浮かび上がり、レインウェアを伝っていた雨粒が微細な光の粒子に分解されて若葉色の輝きの中へと溶け込んでいく。
まりかを中心として、ふんわりとした柔らかい風が巻き起こった。ボートの上に立ち尽くすカナの髪を、頬を、そよ風が優しく撫でて通り過ぎていく。
「これが風の乙女の……エリカの加護の力か」
カナは、神々しい中にも暖かみを感じさせる若葉色の光と風に息を呑みつつも、祈りを捧げるまりかの横顔を複雑な心境で眺めていた。
(こやつは海に属する存在であるというのに、よりにもよって風の連中にまで好かれておるとは)
陸ならばともかくとして、空となると完全な別世界である。海を住処とするカナには手も足も出ない。
それが、カナには面白くない。
「――来おったな」
やがて、船尾から数メートル離れたところに小さなつむじ風が出現した。
しゅるしゅるしゅる……
つむじ風はみるみるうちに枝分かれして人の形を形成すると、今度はレンズの焦点を合わせるようにして細部の形を徐々に浮かび上がらせていく。
ほどなくして、それはひとりの女性の姿をとった。同時に、まりかから放たれていた若葉色の光と風が消失し、周辺世界は再び鈍色の中に沈んでしまう。
まりかは胸の前で組んでいた手を解いて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。目の前に出現した女性の姿に驚くこともなく、落ち着いた様子で向かい合う。
先に口を開いたのは、女性の方だった。
「若葉色の瞳を持つ風の乙女の加護を受けし海原の娘よ――」
深みを感じさせる上品な声が、小さな吐息と共に薄い唇から流れ出てくる。
「あなた様の貴き願いにお応えするため、このフェンネルが馳せ参じました。何なりとお申し付けを」
慇懃な態度でそう述べると、たおやかな仕草で頭を垂れた。
フェンネルと名乗った女性は、正真正銘の風の精霊だった。その姿形はどことなくエリカに似ているような気もするが、人間の愛によって実体を得た風の乙女であるエリカとは異なり、その輪郭は大気との境界が不明瞭で、彫像のように整った顔立ちからは情の薄さが感じられる。
それでもカナには、このフェンネルが風の乙女に次ぐ高い実力を持った大精霊であることがひと目で分かった。
「突然呼び出してしまって、ごめんなさい。人探しに協力してほしいの」
畏まった様子のフェンネルに対し、まりかは普段と変わらない気さくな態度で話しかける。
まりかは、少女の姿をした人魚をフェンネルに示した。
「この人魚を侵食している思念の発生源を特定したいの。多分だけど、ここからそう遠くない場所にいると思う」
「承知しました。早急にお調べいたしましょう」
フェンネルが即答した。そして、カナには一瞥もくれることなく、あっという間に陸地を目指して去ってしまった。
「もうしばらく待機ね」
まりかは少女の姿をした人魚をカナから受け取ると、雨を凌ぐために操縦席に戻った。
「おい、何が何だか分からん。詳しく話せい」
カナもまりかの隣に座ると、不貞腐れたような表情で腕と脚を組んでまりかを睨めつける。
「さっきのフェンネルはね、お母さんの配下の大精霊、〈風の四姉妹〉のうちのひとりなんだけど」
「連中のことなんぞ、どうでもいいわい! その人魚の話をしろ!」
「ゴメンってば」
不機嫌さを露わに喚くカナに、まりかは思わず座ったままたじろいだ。
その時、それまでずっと黙っていた人魚がおずおずと口を開いた。
「ねえ、本当にギョクランは見つかるの?」
「ギョクラン?」
カナが、怪訝そうに人魚を見つめる。
「この子が探してるお友達の名前よ」
不安げな表情を浮かべる人魚のおかっぱ頭を撫でながら、まりかが代わりに答えた。それから、腕の中の人魚に向かって少し茶目っ気を滲ませながら力強く話しかける。
「風の精霊の手にかかれば、人間ひとりを見つけ出すなんてお茶の子さいさいなのよ。絶対にあなたのお友達を見つけ出して、会わせてあげるんだから!」
「……うん、分かった」
自信に満ちたまりかの顔をじっと見つめながら、人魚がこくんと頷いた。続けて、半ば独り言のような呟きが、その小さな唇から零れ落ちる。
「……私ね、ギョクランと約束したの」
「約束?」
「……」
まりかが聞き返すも、人魚は俯いたまま答えない。まりかもそれ以上聞き返すことはせず、人魚から視線を外すと、ボート周辺の海域を注意深く眺め渡した。
海難事故の主な原因のひとつに、「見張り不十分」というものがある。例え〈海異〉に対応している最中であろうと、船の安全を確保するという重大な責務を怠るわけにはいかないのだ。
こうして、ボートに差し迫った危険が無いことを確認した上で、ようやくまりかはカナに視線を戻した。糸のように細かった雨は再び強まり、雨粒がボートを叩く音が操縦席内に小さくこだまする。その音を聴くともなしに聴きながら、まりかがおもむろに口を開いた。
「さまよう魂ではなく、生きた人間の思念に侵食されたと考える理由なんだけど」
「おう」
カナが、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「さまよう魂に触れたのなら、思念の侵食というレベルに留まらず、魂そのものが人魚の身体を乗っ取ってないと不自然だと思ったのよ」
まりかが、不思議そうに自分を見つめる人魚を、寂しげな表情で見下ろす。
「そもそも、肉体を離れて何十年も経過しているのなら、生前の記憶はほとんど薄れてしまっているわ。触れただけの妖を侵食できるほどの強烈な思念を発するなんて、元々の霊力が相当強かったとか、そういう特別な理由でもない限りありえない」
「そして、そうした強い魂であれば、それこそ人魚の身体を乗っ取っていてもおかしくはないと」
「そういうこと」
「じゃが、やはり納得がいかん」
カナはすっくと立ち上がると、仁王立ちになってまりかを見据えた。
「何十年も前の記憶を、今現在の強烈な思念として発する人間が存在するなど、とてもじゃないが信じられんぞ!」
「……」
カナの言葉に、まりかが目をパチクリさせる。そしてすぐに、とある事柄についてのカナとの認識の違いに気がつき、納得した。
「そう、私の説明不足だったわね……」
その上で、カナにも分かりやすい表現を心がけながら、ゆっくりと説明し始める。
「現世の生き物たちが、怪我をしたり病気になったりすることは、カナも知ってるわよね」
「そんなもん当然じゃい」
まりかの問いに、カナが憮然とした声で答える。永き時を広大な海で過ごしてきたカナにとって、生まれ老いて病を得て死ぬ海棲生物たちの生命の循環は、あまりにもお馴染みの、ありふれた出来事だった。
「もちろん、人間だって例外では無いわ。現代では医療技術がかなり進歩したけど、それでも治療が不可能な病は多いし、欠損した身体の一部を再生することすら現時点では不可能なの」
「怪異や妖であれば、多少身体が欠けたところで容易に修復してしまえるというに……現世の生き物というのは、つくづく不便じゃのう」
「それで、ここからが本題なんだけど」
まりかが、自らの頭部を指さした。
「生き物の記憶はね、頭蓋の中にある脳という部分に保存されているの。この脳が何らかの原因によって損傷したときに、『記憶障害』というものを引き起こすことがあるのよ」
かなり大雑把な説明だが、カナならこれである程度は理解してくれるだろうとまりかは考える。案の定、カナはふむふむと小難しい顔で頷きながら、話の続きを目線で促してきた。それを受けて、まりかは更に説明を続ける。
「この『記憶障害』にも、いくつか種類があるのよ。新しい物事が覚えられなくなるとか、今まで覚えていたことを思い出せなくなってしまうとか……それこそ、過去何十年分もの記憶を失ってしまうとかね」
「ふむ、そういうことか」
カナが小さく首を横に振りながら、同情するように人魚を見た。
「要するに、人魚を侵食しておる思念の持ち主は現在の自我を見失い、何十年も前の自我によって今この時を過ごしておるということになるのじゃな。それはなんというか……難儀なことよのう」
「ええ、そうね」
カナが漏らした所感を、まりかが平坦な声で肯定した。その視線はカナでも人魚でもなく、ボートの外の眺めへと向けられている。
カナは、どこか物悲しさが漂うその横顔を眺めながら、先ほどから感じていたまりかへの違和感について、独りで勝手に納得していた。
(うむ、そういうことか)
寂しげな目つきで人魚を見つめるのも、切なげな表情で物思いに耽るのも、「記憶」という自己を形成する上で欠かせない要素を失った者に対して、憐憫の情を抱いているからなのだろう。
(しばらくの間、そっとしておいてやるかのう)
カナはまりかの顔から視線を外すと、音を立てないようにひとつだけ小さく欠伸をした。それから、降りしきる雨に霞む八景島を眺めながら、人魚と遭遇する前にまりかと交わした会話を思い返す。
(ここはひとつ、わしが大人になってやるとするか)
実のところ、菊池明の存在がまりかに良い影響を与えていることを、カナははっきりと感じ取っていた。まりかの人生初の「同業者」の友人であるとのことで、普通の人間には話せないような怪異絡みの話が気軽にできてしまうということに、いたく新鮮な気持ちを感じているらしい。
『明と話してて分かったんだけどね。私、普段の人付き合いでかなり気を使ってたみたいなの。まさか、怪異の話が自由にできるというだけで、あんなにも肩の力を抜いて過ごせるだなんて思ってもみなかった』
犬吠埼灯台から帰宅した日の夜、就寝前にまりかがカナに漏らした言葉が脳裏に蘇る。
(友人、か)
カナは、まりかの親友であるという松波早苗についての話をこれまでに何度か聞いていた。家族とも師とも違う、友人という横並びの関係性の中でしか育むことのできない体験や感情があるのだと、カナは大いに感心したものである。
(若人たちの世話を焼くのも、年寄りの重要な役割じゃて。そうじゃ、どうせならあの小僧にもソフトクリームをせびってみるか!)
思いつきの段階に過ぎない八景島行きの計画を、カナはどんどん頭の中で勝手に進めていく。
フェンネルが戻ってきたのは、それから程なくしてのことだった。
「――思念の発生源である人間を、特定しました」
特段の感慨がこもらない声でそう述べると、最初に出現した時と同様、たおやかな仕草で頭を垂れた。
八景島の対岸、約1kmに渡って広がる「海の公園」には、埋立事業によって造成された人工の砂浜が存在する。マリーナからタクシーを使って「海の公園」に移動したまりかとカナは、砂浜から公園内を横切って内陸部へと伸びる若葉色の軌跡を見つけると、それに沿って歩き始めた。
まりかは元のスーツ姿に戻って傘を差しているが、カナは傘も差さずにずぶ濡れの状態でまりかの横を歩いている。
「いきなり押しかけて大丈夫なのか?」
「あんまり大丈夫じゃないけど、事情が事情だし、この際仕方が無いわ。今日のところは大まかな事情だけ説明して、後日改めて話を聞かせてもらえればと思ってる」
まりかは、横断歩道の手前で一旦言葉を切った。素早く左右を確認して早足で渡ってしまうと、引き続きフェンネルの残した軌跡を辿って住宅街の中へと入っていく。
「見ず知らずの他人と接触を図るにあたっての作法というやつか。つくづく、まどろっこしいのう」
まりかに追いついたカナが、のたのたと歩きながら大袈裟に首を振って見せた。ぐしょぐしょに濡れたメッシュシューズで歩くことについては全く平気らしい。
「先方は、怪異や妖とはほとんど無縁の生活を送っている可能性もあるわ。話の運び方には、なおのこと注意しないと」
軌跡が導く先を眺めながら、まりかは一般人相手に〈海異〉の話をどう切り出したものかと頭を悩ませている。
若葉色の軌跡が途切れたのは、それから間もなくしてのことだった。
「良かった、意外と近かったわね」
「なにやら年季が入った家じゃな」
ふたりが辿り着いたのは、木造平屋建ての小さな一軒家だった。門扉の横には、「川上」という表札が掲げられている。
「佐藤ではないのう」
「嫁入りして名字が変わったのかも」
まりかはひとつだけ深呼吸をすると、躊躇いなくインターホンを押した。あれこれ考え込んだところで、見ず知らずの海事代理士が突撃訪問して怪しまれずに済む方法などこの世には存在しない。
「――はい」
少ししわがれた女性の声が応答した。
モニター付きのインターホンなら、既にふたりの姿を確認しているだろう。スーツ姿の自分とずぶ濡れの少女という奇妙な組み合わせをどのように思っているのだろうかと頭の片隅で考えながら、まりかは早速本題に切り込む。
「突然の訪問、失礼します。そちらに、佐藤千代さんはいらっしゃいますか」
「……どちら様でしょうか」
警戒心を滲ませた女性の声が、インターホンから冷たく響いた。十分に予想していた反応なので動揺することなく、今度は別の質問を切り出してみる。
「ギョクランさんという方について、何かご存知のことがあればと思いまして」
「――!」
ブツリとインターホンが切れた。
直後、家の中から足音が響いたかと思うと、勢いよく玄関の引き戸が開け放たれる。
「あなた、どうして玉蘭のことを知っているの!?」
60代くらいの女性が驚愕の表情を浮かべて、まりかの顔を凝視する。その剣幕に気圧されたまりかは、雨の中、しばし女性と見つめ合う。
庭に咲いた紫陽花から、小さな花びらがひとつだけ落ちて、水たまりの中に沈んでいった。
(どうか)
生温い雨粒が頬を伝うのを感じながら、胸の前で両手を組んで目を瞑り、遥かな大空を住処とする風の精霊たちの姿を想い描く。
(あなたたちの力が必要なの。どうか、私の元へ――)
その願いに呼応するように、まりかの全身が若葉色の光を帯び始めた。雨水を吸って重くなっていたはずの髪がふんわりと浮かび上がり、レインウェアを伝っていた雨粒が微細な光の粒子に分解されて若葉色の輝きの中へと溶け込んでいく。
まりかを中心として、ふんわりとした柔らかい風が巻き起こった。ボートの上に立ち尽くすカナの髪を、頬を、そよ風が優しく撫でて通り過ぎていく。
「これが風の乙女の……エリカの加護の力か」
カナは、神々しい中にも暖かみを感じさせる若葉色の光と風に息を呑みつつも、祈りを捧げるまりかの横顔を複雑な心境で眺めていた。
(こやつは海に属する存在であるというのに、よりにもよって風の連中にまで好かれておるとは)
陸ならばともかくとして、空となると完全な別世界である。海を住処とするカナには手も足も出ない。
それが、カナには面白くない。
「――来おったな」
やがて、船尾から数メートル離れたところに小さなつむじ風が出現した。
しゅるしゅるしゅる……
つむじ風はみるみるうちに枝分かれして人の形を形成すると、今度はレンズの焦点を合わせるようにして細部の形を徐々に浮かび上がらせていく。
ほどなくして、それはひとりの女性の姿をとった。同時に、まりかから放たれていた若葉色の光と風が消失し、周辺世界は再び鈍色の中に沈んでしまう。
まりかは胸の前で組んでいた手を解いて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。目の前に出現した女性の姿に驚くこともなく、落ち着いた様子で向かい合う。
先に口を開いたのは、女性の方だった。
「若葉色の瞳を持つ風の乙女の加護を受けし海原の娘よ――」
深みを感じさせる上品な声が、小さな吐息と共に薄い唇から流れ出てくる。
「あなた様の貴き願いにお応えするため、このフェンネルが馳せ参じました。何なりとお申し付けを」
慇懃な態度でそう述べると、たおやかな仕草で頭を垂れた。
フェンネルと名乗った女性は、正真正銘の風の精霊だった。その姿形はどことなくエリカに似ているような気もするが、人間の愛によって実体を得た風の乙女であるエリカとは異なり、その輪郭は大気との境界が不明瞭で、彫像のように整った顔立ちからは情の薄さが感じられる。
それでもカナには、このフェンネルが風の乙女に次ぐ高い実力を持った大精霊であることがひと目で分かった。
「突然呼び出してしまって、ごめんなさい。人探しに協力してほしいの」
畏まった様子のフェンネルに対し、まりかは普段と変わらない気さくな態度で話しかける。
まりかは、少女の姿をした人魚をフェンネルに示した。
「この人魚を侵食している思念の発生源を特定したいの。多分だけど、ここからそう遠くない場所にいると思う」
「承知しました。早急にお調べいたしましょう」
フェンネルが即答した。そして、カナには一瞥もくれることなく、あっという間に陸地を目指して去ってしまった。
「もうしばらく待機ね」
まりかは少女の姿をした人魚をカナから受け取ると、雨を凌ぐために操縦席に戻った。
「おい、何が何だか分からん。詳しく話せい」
カナもまりかの隣に座ると、不貞腐れたような表情で腕と脚を組んでまりかを睨めつける。
「さっきのフェンネルはね、お母さんの配下の大精霊、〈風の四姉妹〉のうちのひとりなんだけど」
「連中のことなんぞ、どうでもいいわい! その人魚の話をしろ!」
「ゴメンってば」
不機嫌さを露わに喚くカナに、まりかは思わず座ったままたじろいだ。
その時、それまでずっと黙っていた人魚がおずおずと口を開いた。
「ねえ、本当にギョクランは見つかるの?」
「ギョクラン?」
カナが、怪訝そうに人魚を見つめる。
「この子が探してるお友達の名前よ」
不安げな表情を浮かべる人魚のおかっぱ頭を撫でながら、まりかが代わりに答えた。それから、腕の中の人魚に向かって少し茶目っ気を滲ませながら力強く話しかける。
「風の精霊の手にかかれば、人間ひとりを見つけ出すなんてお茶の子さいさいなのよ。絶対にあなたのお友達を見つけ出して、会わせてあげるんだから!」
「……うん、分かった」
自信に満ちたまりかの顔をじっと見つめながら、人魚がこくんと頷いた。続けて、半ば独り言のような呟きが、その小さな唇から零れ落ちる。
「……私ね、ギョクランと約束したの」
「約束?」
「……」
まりかが聞き返すも、人魚は俯いたまま答えない。まりかもそれ以上聞き返すことはせず、人魚から視線を外すと、ボート周辺の海域を注意深く眺め渡した。
海難事故の主な原因のひとつに、「見張り不十分」というものがある。例え〈海異〉に対応している最中であろうと、船の安全を確保するという重大な責務を怠るわけにはいかないのだ。
こうして、ボートに差し迫った危険が無いことを確認した上で、ようやくまりかはカナに視線を戻した。糸のように細かった雨は再び強まり、雨粒がボートを叩く音が操縦席内に小さくこだまする。その音を聴くともなしに聴きながら、まりかがおもむろに口を開いた。
「さまよう魂ではなく、生きた人間の思念に侵食されたと考える理由なんだけど」
「おう」
カナが、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「さまよう魂に触れたのなら、思念の侵食というレベルに留まらず、魂そのものが人魚の身体を乗っ取ってないと不自然だと思ったのよ」
まりかが、不思議そうに自分を見つめる人魚を、寂しげな表情で見下ろす。
「そもそも、肉体を離れて何十年も経過しているのなら、生前の記憶はほとんど薄れてしまっているわ。触れただけの妖を侵食できるほどの強烈な思念を発するなんて、元々の霊力が相当強かったとか、そういう特別な理由でもない限りありえない」
「そして、そうした強い魂であれば、それこそ人魚の身体を乗っ取っていてもおかしくはないと」
「そういうこと」
「じゃが、やはり納得がいかん」
カナはすっくと立ち上がると、仁王立ちになってまりかを見据えた。
「何十年も前の記憶を、今現在の強烈な思念として発する人間が存在するなど、とてもじゃないが信じられんぞ!」
「……」
カナの言葉に、まりかが目をパチクリさせる。そしてすぐに、とある事柄についてのカナとの認識の違いに気がつき、納得した。
「そう、私の説明不足だったわね……」
その上で、カナにも分かりやすい表現を心がけながら、ゆっくりと説明し始める。
「現世の生き物たちが、怪我をしたり病気になったりすることは、カナも知ってるわよね」
「そんなもん当然じゃい」
まりかの問いに、カナが憮然とした声で答える。永き時を広大な海で過ごしてきたカナにとって、生まれ老いて病を得て死ぬ海棲生物たちの生命の循環は、あまりにもお馴染みの、ありふれた出来事だった。
「もちろん、人間だって例外では無いわ。現代では医療技術がかなり進歩したけど、それでも治療が不可能な病は多いし、欠損した身体の一部を再生することすら現時点では不可能なの」
「怪異や妖であれば、多少身体が欠けたところで容易に修復してしまえるというに……現世の生き物というのは、つくづく不便じゃのう」
「それで、ここからが本題なんだけど」
まりかが、自らの頭部を指さした。
「生き物の記憶はね、頭蓋の中にある脳という部分に保存されているの。この脳が何らかの原因によって損傷したときに、『記憶障害』というものを引き起こすことがあるのよ」
かなり大雑把な説明だが、カナならこれである程度は理解してくれるだろうとまりかは考える。案の定、カナはふむふむと小難しい顔で頷きながら、話の続きを目線で促してきた。それを受けて、まりかは更に説明を続ける。
「この『記憶障害』にも、いくつか種類があるのよ。新しい物事が覚えられなくなるとか、今まで覚えていたことを思い出せなくなってしまうとか……それこそ、過去何十年分もの記憶を失ってしまうとかね」
「ふむ、そういうことか」
カナが小さく首を横に振りながら、同情するように人魚を見た。
「要するに、人魚を侵食しておる思念の持ち主は現在の自我を見失い、何十年も前の自我によって今この時を過ごしておるということになるのじゃな。それはなんというか……難儀なことよのう」
「ええ、そうね」
カナが漏らした所感を、まりかが平坦な声で肯定した。その視線はカナでも人魚でもなく、ボートの外の眺めへと向けられている。
カナは、どこか物悲しさが漂うその横顔を眺めながら、先ほどから感じていたまりかへの違和感について、独りで勝手に納得していた。
(うむ、そういうことか)
寂しげな目つきで人魚を見つめるのも、切なげな表情で物思いに耽るのも、「記憶」という自己を形成する上で欠かせない要素を失った者に対して、憐憫の情を抱いているからなのだろう。
(しばらくの間、そっとしておいてやるかのう)
カナはまりかの顔から視線を外すと、音を立てないようにひとつだけ小さく欠伸をした。それから、降りしきる雨に霞む八景島を眺めながら、人魚と遭遇する前にまりかと交わした会話を思い返す。
(ここはひとつ、わしが大人になってやるとするか)
実のところ、菊池明の存在がまりかに良い影響を与えていることを、カナははっきりと感じ取っていた。まりかの人生初の「同業者」の友人であるとのことで、普通の人間には話せないような怪異絡みの話が気軽にできてしまうということに、いたく新鮮な気持ちを感じているらしい。
『明と話してて分かったんだけどね。私、普段の人付き合いでかなり気を使ってたみたいなの。まさか、怪異の話が自由にできるというだけで、あんなにも肩の力を抜いて過ごせるだなんて思ってもみなかった』
犬吠埼灯台から帰宅した日の夜、就寝前にまりかがカナに漏らした言葉が脳裏に蘇る。
(友人、か)
カナは、まりかの親友であるという松波早苗についての話をこれまでに何度か聞いていた。家族とも師とも違う、友人という横並びの関係性の中でしか育むことのできない体験や感情があるのだと、カナは大いに感心したものである。
(若人たちの世話を焼くのも、年寄りの重要な役割じゃて。そうじゃ、どうせならあの小僧にもソフトクリームをせびってみるか!)
思いつきの段階に過ぎない八景島行きの計画を、カナはどんどん頭の中で勝手に進めていく。
フェンネルが戻ってきたのは、それから程なくしてのことだった。
「――思念の発生源である人間を、特定しました」
特段の感慨がこもらない声でそう述べると、最初に出現した時と同様、たおやかな仕草で頭を垂れた。
八景島の対岸、約1kmに渡って広がる「海の公園」には、埋立事業によって造成された人工の砂浜が存在する。マリーナからタクシーを使って「海の公園」に移動したまりかとカナは、砂浜から公園内を横切って内陸部へと伸びる若葉色の軌跡を見つけると、それに沿って歩き始めた。
まりかは元のスーツ姿に戻って傘を差しているが、カナは傘も差さずにずぶ濡れの状態でまりかの横を歩いている。
「いきなり押しかけて大丈夫なのか?」
「あんまり大丈夫じゃないけど、事情が事情だし、この際仕方が無いわ。今日のところは大まかな事情だけ説明して、後日改めて話を聞かせてもらえればと思ってる」
まりかは、横断歩道の手前で一旦言葉を切った。素早く左右を確認して早足で渡ってしまうと、引き続きフェンネルの残した軌跡を辿って住宅街の中へと入っていく。
「見ず知らずの他人と接触を図るにあたっての作法というやつか。つくづく、まどろっこしいのう」
まりかに追いついたカナが、のたのたと歩きながら大袈裟に首を振って見せた。ぐしょぐしょに濡れたメッシュシューズで歩くことについては全く平気らしい。
「先方は、怪異や妖とはほとんど無縁の生活を送っている可能性もあるわ。話の運び方には、なおのこと注意しないと」
軌跡が導く先を眺めながら、まりかは一般人相手に〈海異〉の話をどう切り出したものかと頭を悩ませている。
若葉色の軌跡が途切れたのは、それから間もなくしてのことだった。
「良かった、意外と近かったわね」
「なにやら年季が入った家じゃな」
ふたりが辿り着いたのは、木造平屋建ての小さな一軒家だった。門扉の横には、「川上」という表札が掲げられている。
「佐藤ではないのう」
「嫁入りして名字が変わったのかも」
まりかはひとつだけ深呼吸をすると、躊躇いなくインターホンを押した。あれこれ考え込んだところで、見ず知らずの海事代理士が突撃訪問して怪しまれずに済む方法などこの世には存在しない。
「――はい」
少ししわがれた女性の声が応答した。
モニター付きのインターホンなら、既にふたりの姿を確認しているだろう。スーツ姿の自分とずぶ濡れの少女という奇妙な組み合わせをどのように思っているのだろうかと頭の片隅で考えながら、まりかは早速本題に切り込む。
「突然の訪問、失礼します。そちらに、佐藤千代さんはいらっしゃいますか」
「……どちら様でしょうか」
警戒心を滲ませた女性の声が、インターホンから冷たく響いた。十分に予想していた反応なので動揺することなく、今度は別の質問を切り出してみる。
「ギョクランさんという方について、何かご存知のことがあればと思いまして」
「――!」
ブツリとインターホンが切れた。
直後、家の中から足音が響いたかと思うと、勢いよく玄関の引き戸が開け放たれる。
「あなた、どうして玉蘭のことを知っているの!?」
60代くらいの女性が驚愕の表情を浮かべて、まりかの顔を凝視する。その剣幕に気圧されたまりかは、雨の中、しばし女性と見つめ合う。
庭に咲いた紫陽花から、小さな花びらがひとつだけ落ちて、水たまりの中に沈んでいった。