第41話 ハクモクレンの約束〈四〉
まりかの予想通り、佐藤千代は結婚により改姓して川上千代と名乗っていた。玄関でまりかに応対したのは千代の娘で、数年前から年老いた母とふたりでこの小さな一軒家に暮らしているという。
「そうですか、そんなことが……」
千代の娘・斉藤史子は、まりかから事情を聞くと力無くそう呟いた。
「今の話を、信じていただけるのですか」
史子の表情を注意深く伺いながら、まりかがそっと確認する。
「ええ。疑う理由がありませんから」
史子が、隣の部屋に通じる襖を見た。千代は今、眠りについているという。
「あの日の夜、母が家を抜け出したのです。2時間ほど探し回って見つけた時には、公園の砂浜の上で眠っていました」
「大事に至らなくて良かったです。それ以降は、家を抜け出すようなことは無いのですか」
「ええ、なんとか。あの後すぐに梅雨に入ったおかげなのか、ここ最近はあまり思い出さずに済んでいるようです」
史子が小さくため息をついた。その目元には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
(ええい、一体何の話をしておるんじゃ)
まりかの隣に座ってやり取りを聞いていたカナは、所在無さげに身体をモゾモゾと動かした。
まりかと史子が、何か自分の知らない知識を踏まえて会話していることが面白くないという思いもある。しかし、そもそもとして自分は全くの場違いなのではないかという気がしてならなかった。
一般家庭という名の、怪異や妖の気配がおそろしく希薄な完全なる人間の支配領域。名も無き人間たちの退屈で穏やかな、日常という名の小さな世界。
自分のような異形の存在はこの場にはそぐわないのではないかと、カナには思えてならない。
「――叔父さんだわ」
玄関から、新たに人の気配がした。史子が席を立って迎えに行き、すぐにひとりの人物を伴って戻ってくる。
「紹介します。私の叔父、つまり母の弟の、佐藤勝志です」
「っ!」
まりかは慌てて席を立った。
「では、さっき電話されていたのは……」
「はい。叔父さんに、あなた方が訪ねてきたことを連絡したのです。玉蘭のことなら、私より叔父が詳しいですから」
まりかは、千代の弟であるという目の前の老人に、問いかけるような視線を向けた。正体不明の訪問者による真偽不明の話を真に受けて、この雨天の中わざわざ駆けつけてきたというのは、いささか大袈裟ではないかという考えが頭をよぎったのだ。しかし、眼鏡の奥からまりかを見つめるその瞳は、真剣そのものだった。
「佐藤勝志といいます。玉蘭の話と聞いて、いても立っても居られなくなりましてな」
「海事代理士の朝霧まりかと申します。この雨の中、とんだご足労おかけすることになってしまい、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ姉がとんだご迷惑をおかけしたようで……」
「そんな、迷惑だなんて。とにかく、まずは詳しい事情をご説明します」
そうして、史子と勝志、まりかとカナは改めて席に着いた。
まりかは、隣に座るカナと目の前の2人をさり気なく見比べてみる。
(全然、カナのこと気にしてないわね)
これまでも薄々と感じていたことだったが、どうやらカナは、自身の存在感を適度に希薄化させるような高度な術を何食わぬ顔で行使しているらしい。でなければ、平日の昼間に「子供」が大人に付き従い助手をしているという事実を、怪異や妖と普段から接点の無い一般人がすんなりと受け入れられるはずがなかった。
(何が弱体化よ、充分に脅威じゃない)
自分の知らない話をするな、何でも教えろと普段から散々文句を垂れておきながら、カナ自身に関しては未だに何一つ話してくれたことが無い。その正体も、その過去も。
そろそろ突っ込んで聞くべきだろうかと考えつつ、今は目の前の問題に集中するためにさっさと気持ちを切り替える。
「それでは、改めてご説明します。まずは、私自身の仕事についてですが――」
まりかは順を追って、川上家訪問に至った経緯を説明し始めた。海事代理士の仕事内容から始まり、本業の傍ら〈海異〉についての相談にも乗っていること、今回マリーナから〈海異〉についての依頼を受けたことをかいつまんで説明する。そして、八景島沖に出没する少女の姿をした人魚については、まりかが知りうる限りを余すことなく伝えた。
「――誤解を恐れず申し上げると、幼い千代さんの姿をした人魚をその場で『浄化』してしまうことも、私には可能でした。でも、悲しげに玉蘭の名前を呼ぶ人魚の姿がとても痛ましくて、その願いに何とか応えてあげたいと思ってしまったのです」
まりかは、史子と勝志に対して小さく頭を下げた。
「その結果、川上様のお宅を勝手に突き止めた挙句に突然押しかけるという、とんだ無礼を働いてしまいました。お気を悪くされるのは当然のことと思います。申し訳ありませんでした」
まりかは、自分のとった行動が相手方にとって単なる迷惑に留まらない可能性に、この期に及んでようやく気がついていた。
怪異や妖、呪術の類に馴染みが無い一般人にとって、得体の知れない手段によって見ず知らずの他人に自宅を突き止められるということは、不愉快どころの話ではないだろう。自身のあまりの軽率さに、まりかは膝の上で拳を握り締める。
「――無礼などとは、とんでもない」
勝志が、静かな声でまりかの言葉を否定した。まりかはゆっくりと顔を上げて、いくつも皺が刻まれた勝志の顔を見つめる。
「私はむしろ、あなたに礼を言いたいと思っておるよ」
「……」
「今度は、私たちが話をする番だ」
勝志は眼鏡を外すと、天井を仰いでゆっくりと息を吐いた。
「10年前だったら、煙草を吸っていたところだな」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟き、しばし視線を宙に漂わせる。それから、眼鏡をかけ直すと机の上で両手を組み、言葉をひとつひとつ押し出すようにして語り始めたのだった。
「当時、私はたったの5歳だった。だから、南京町に住んでいた頃のことはほとんど覚えていない。今から話すのは、主に母から聞いた話と、成人してから自分で調べた知識を整理して再構成したものであることを、あらかじめ断っておく」
そう前置きした上で、千代の弟・勝志は、戦火によって喪われた町の記憶を語り始めた。
「まず、中華街というのは、日本のみならず世界各地に存在している。そのうちのいくつかは横浜のように観光地化されているが、それでも中華街というのは基本的に、その地域に住む華僑の生活を支援するために形成されたものなんだ。そして、かつての横浜中華街――南京町も、そうした街だったんだよ」
はるか遠い日々を懐かしむように、勝志は目を細めた。
「といっても、南京町には華僑しか住んでいなかった訳じゃない。華僑と結婚して一緒に住むようになった日本人もそれなりにいたし、華僑を相手に商売をするために南京町に居を構えた日本人もいた。私たちの場合は後者だった」
千代や勝志の両親は、南京町で魚屋を営んでいた。個人に対して売るだけでなく、料理店に卸したりもしていたらしい。
「ところで、朝霧さんは『三把刀』という言葉は知っておるかな」
「三把刀……」
突然の質問に、まりかは慌てて記憶の糸を手繰り寄せる。
「……確か、3つの刃物――包丁と鋏、それから剃刀を意味する言葉だったと記憶しています。その道具が象徴する職業を表す言葉だと」
「その通り、よくご存知だ。包丁が料理飲食業、鋏が洋服仕立て業、そして剃刀が理髪業を指す。3つとも多くの華僑が従事した職業で、どれか1つでも扱えるようになれば、世界中どこででも生きていけると言われていたらしい」
勝志は一旦言葉を切って息をつくと、再びゆっくりと話し出した。
「子供の頃は知る由もなかったが、同じ華僑といっても出身地ごとの特色というものがあったらしい。三把刀にしても、南京町で料理飲食業に従事していたのは広東省の出身者が多かったということだ」
広東省は、台湾よりも更に南、中国南東の沿岸域に位置する。中国茶を飲みながら点心を楽しむ「飲茶」の習慣は、香港やマカオ、そして広東省を中心に行われているものだし、広東料理は日本人にとって特に馴染み深い中国料理のひとつである。
「玉蘭も……」
勝志の瞳に、暗い影が差した。何かを迷うように俯き、意を決したように顔を上げると、そのまま話を続ける。
「……林玉蘭の両親も、広東の出身だった。例に漏れず料理店を営んでいてね、我々の三軒向かいに住んでいた。そう、姉と玉蘭は、幼馴染みだったんだよ」
佐藤千代と、林玉蘭。ふたりとも当時8歳で、生まれた日もたったの数日しか違わなかった。加えて、男兄弟の中の唯一の女の子という共通点もあり、ふたりはとても仲が良く、度々一緒に遊んでいたという。
「大戦が始まると、華僑に対する締め付けは段々と厳しくなっていった。南京町の外では特高警察が常に目を光らせていて、どこへ行くにも許可が必要という状況だったという。それでも、南京町の内部に住む日本人は、以前と変わらぬ態度で華僑の人たちと交流を続けていたそうだ」
もっとも、同じ横浜市内ですら、一般の日本人が華僑に向ける眼には厳しいものがあったらしい。また、政府の方針により、市内の華僑を一箇所にまとめるために強制的に南京町へ引っ越しさせたという記録も残っている。
「そんな時代だったが、姉と玉蘭にとっては大人たちの事情など知ったことでは無かったのだろう。ふたりは、ある約束を交わしていたそうだ」
「約束……」
まりかが、小さく息を呑んだ。勝志はまりかに向かって小さく頷きかけると、ふたりの少女の在りし日の姿を瞼の裏側に描き出そうとでもするように、その目を瞑った。
『お父さんはね、広東省の香山県というところから来たのよ』
地図のある部分を指しながら、玉蘭が自身のルーツについて説明する。
『子供の頃はすごく貧しくて、だから出稼ぎで日本に来たんだって。それで、いつか故郷に戻って立派な御殿を建てたいって、いつも言ってるわ』
『玉蘭も、広東に帰っちゃうの?』
千代が、寂しそうな顔をして玉蘭に訊ねる。
『うーん……分かんない』
玉蘭は悩んだ挙句、正直な気持ちを千代に伝えた。
『だって、どんな所なのかよく分からないもの。それよりも、どうせなら私、上海に行ってみたいわ』
『!!』
玉蘭の答えに千代が目を見開き、そしてその顔を輝かせた。
『それじゃあ、戦争が終わって大きくなったら、ふたりで一緒に上海に行こうよ!』
千代の提案に驚き、そして同じく顔を輝かせる玉蘭。
『それ最高よ! 千代と一緒なら楽しいに決まってる!』
『うん、絶対に行こうね!』
『それなら、指切りげんまんしましょう』
『約束ね』
『約束よ』
このようにして、ふたりの少女の間に固い約束が交わされた。千代はこの話を、とても嬉しそうに母親に語ってみせたという。
「そういえば、あの時代の日本人にとって上海がどのような存在だったか、今の若い方には想像がつかないだろう。この際だ、少し話しておくとしよう」
勝志は目を開くと、机の上に置いていた手を組み直した。ひたすら話し続けているにも関わらず、それを苦に感じている様子は無い。もちろん、楽しんでいるというわけでもなく、その口調はあくまで淡々としたものである。
「『魔都』という言葉を聞いたことはあるかね。これは、まさしく上海を表す言葉なんだ」
「魔都……」
「魔性の魅力を放つ都市ということで、『魔都』上海などと呼ばれていた。それともうひとつ、『あの男は上海された』なんて言い回しもあったな」
言うまでもなく、上海とは都市の名前である。しかし、この場合の「上海」は、水夫にするために誘拐、脅迫するという意味の動詞となる。
「つまり、都市の名前がひとつの動詞として使われていたということですか」
「驚くだろう。それだけ、当時の上海が世界的に見ても特異な存在感を放っていたということだ」
上海の近代史は、南京条約による1843年の開港から始まる。この新たな港湾都市には、外国人が居留し警察・行政権を掌握する「租界」がいくつも設置された。
この租界を中心として形成された西洋的な空間と、その時点で数百年以上の歴史を持っていた地方商業都市としての上海が入り交じることで、エキゾチックな魅力を孕む「魔都」上海が誕生することになる。
「戦前に発表された歌謡曲に、西条八十という人が作詞した『上海航路』というものがあるから、ひとつ紹介してみよう。少しはあの時代の空気を感じられるだろう」
おもむろにそう言うと、勝志は「上海航路」の歌詞を諳んじてみせた。
「――――」
「!?」
ひたすらに上海へのあこがれに満ちたその歌詞に、それまで全くの他人事として勝志の話を聞いていたカナは、身体の奥からゾワゾワとしたものが湧き上がってくるのを感じる。
(これは――)
歌うのが苦手なためか、勝志は平坦な調子で歌詞を唱えるのみである。だから、旋律など分かるはずがない。
それなのに、とくんと、カナの心臓が小さく脈打つ。
(紅い……)
「っ!」
カナは我に返ると、すぐに頭の中からこの余計な考えを打ち消した。
(ばかな。わしがこの歌を知っておるはずがない)
やがて「上海航路」の歌詞を唱え終えると、勝志は夢から覚めた後のような顔でこう補足した。
「……当時の女性たちにとって上海は、ファッションの最先端の地として憧れの対象だったらしい。姉と玉蘭が上海行きを約束したのも、その煌びやかなイメージに惹かれたからというのもあったのだろう」
ここで、勝志が言葉を切った。
狭い居間に、秒針が時を刻む硬質な音と、窓の外の鈍い雨音が響く。
しばらくして、勝志が再び口を開いた。
「1945年5月29日、横浜大空襲。それが、何もかもを奪い去ってしまったんだ」
その日、佐藤家にいたのは勝志と千代、母親と祖母の4人だけだった。
『空襲だ!』
空襲を知らせる近所の住人の叫び声に従って付近の防空壕に避難した4人だったが、しばらくして、隣家の男性が防空壕の蓋を開き、海の方へ逃げるようにと呼びかけてきた。
『早く逃げるんだ! ここにいたら死んでしまう!』
防空壕から出ると、辺りには既に煙が充満していた。そして、表通りに出た4人の目に、家々が火の粉を撒き散らしながら激しく燃え盛る光景が飛び込んでくる。
『玉蘭!』
その中には、玉蘭の家も含まれていた。駆け寄ろうとする千代の腕を、母親が必死に掴んで引き戻す。
『玉蘭を助けないと!』
『玉蘭なら林さんたちと一緒に先に逃げとる!』
『……っ!』
母親の言葉に、千代は抵抗を止めた。そして、燃え盛る家々に背を向けると、その後は一度も振り返ることなく、必死の思いで山下公園を目指して駆け抜けたのだった。
「――命拾いした私たちは、空襲を免れた『ホテルニューグランド』で一夜を明かした。そして、次の日には市外に住む親戚を頼って横浜を離れ……二度と南京町に戻ることはなかった」
勝志は感情のこもらない声でそう言うと、テーブルの表面に視線を落として小さく首を振った。
1945年5月29日。午前9時20分頃から10時半頃までの約1時間で、総数43万8,576個の焼夷弾が横浜市街に投下された。
直後の公式発表によると、横浜大空襲による死者は3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、そして罹災者は311,218人にも上ったという。
―― ―― ――
※ 出典「解説(横浜大空襲)」
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/comment3.html
「そうですか、そんなことが……」
千代の娘・斉藤史子は、まりかから事情を聞くと力無くそう呟いた。
「今の話を、信じていただけるのですか」
史子の表情を注意深く伺いながら、まりかがそっと確認する。
「ええ。疑う理由がありませんから」
史子が、隣の部屋に通じる襖を見た。千代は今、眠りについているという。
「あの日の夜、母が家を抜け出したのです。2時間ほど探し回って見つけた時には、公園の砂浜の上で眠っていました」
「大事に至らなくて良かったです。それ以降は、家を抜け出すようなことは無いのですか」
「ええ、なんとか。あの後すぐに梅雨に入ったおかげなのか、ここ最近はあまり思い出さずに済んでいるようです」
史子が小さくため息をついた。その目元には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
(ええい、一体何の話をしておるんじゃ)
まりかの隣に座ってやり取りを聞いていたカナは、所在無さげに身体をモゾモゾと動かした。
まりかと史子が、何か自分の知らない知識を踏まえて会話していることが面白くないという思いもある。しかし、そもそもとして自分は全くの場違いなのではないかという気がしてならなかった。
一般家庭という名の、怪異や妖の気配がおそろしく希薄な完全なる人間の支配領域。名も無き人間たちの退屈で穏やかな、日常という名の小さな世界。
自分のような異形の存在はこの場にはそぐわないのではないかと、カナには思えてならない。
「――叔父さんだわ」
玄関から、新たに人の気配がした。史子が席を立って迎えに行き、すぐにひとりの人物を伴って戻ってくる。
「紹介します。私の叔父、つまり母の弟の、佐藤勝志です」
「っ!」
まりかは慌てて席を立った。
「では、さっき電話されていたのは……」
「はい。叔父さんに、あなた方が訪ねてきたことを連絡したのです。玉蘭のことなら、私より叔父が詳しいですから」
まりかは、千代の弟であるという目の前の老人に、問いかけるような視線を向けた。正体不明の訪問者による真偽不明の話を真に受けて、この雨天の中わざわざ駆けつけてきたというのは、いささか大袈裟ではないかという考えが頭をよぎったのだ。しかし、眼鏡の奥からまりかを見つめるその瞳は、真剣そのものだった。
「佐藤勝志といいます。玉蘭の話と聞いて、いても立っても居られなくなりましてな」
「海事代理士の朝霧まりかと申します。この雨の中、とんだご足労おかけすることになってしまい、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ姉がとんだご迷惑をおかけしたようで……」
「そんな、迷惑だなんて。とにかく、まずは詳しい事情をご説明します」
そうして、史子と勝志、まりかとカナは改めて席に着いた。
まりかは、隣に座るカナと目の前の2人をさり気なく見比べてみる。
(全然、カナのこと気にしてないわね)
これまでも薄々と感じていたことだったが、どうやらカナは、自身の存在感を適度に希薄化させるような高度な術を何食わぬ顔で行使しているらしい。でなければ、平日の昼間に「子供」が大人に付き従い助手をしているという事実を、怪異や妖と普段から接点の無い一般人がすんなりと受け入れられるはずがなかった。
(何が弱体化よ、充分に脅威じゃない)
自分の知らない話をするな、何でも教えろと普段から散々文句を垂れておきながら、カナ自身に関しては未だに何一つ話してくれたことが無い。その正体も、その過去も。
そろそろ突っ込んで聞くべきだろうかと考えつつ、今は目の前の問題に集中するためにさっさと気持ちを切り替える。
「それでは、改めてご説明します。まずは、私自身の仕事についてですが――」
まりかは順を追って、川上家訪問に至った経緯を説明し始めた。海事代理士の仕事内容から始まり、本業の傍ら〈海異〉についての相談にも乗っていること、今回マリーナから〈海異〉についての依頼を受けたことをかいつまんで説明する。そして、八景島沖に出没する少女の姿をした人魚については、まりかが知りうる限りを余すことなく伝えた。
「――誤解を恐れず申し上げると、幼い千代さんの姿をした人魚をその場で『浄化』してしまうことも、私には可能でした。でも、悲しげに玉蘭の名前を呼ぶ人魚の姿がとても痛ましくて、その願いに何とか応えてあげたいと思ってしまったのです」
まりかは、史子と勝志に対して小さく頭を下げた。
「その結果、川上様のお宅を勝手に突き止めた挙句に突然押しかけるという、とんだ無礼を働いてしまいました。お気を悪くされるのは当然のことと思います。申し訳ありませんでした」
まりかは、自分のとった行動が相手方にとって単なる迷惑に留まらない可能性に、この期に及んでようやく気がついていた。
怪異や妖、呪術の類に馴染みが無い一般人にとって、得体の知れない手段によって見ず知らずの他人に自宅を突き止められるということは、不愉快どころの話ではないだろう。自身のあまりの軽率さに、まりかは膝の上で拳を握り締める。
「――無礼などとは、とんでもない」
勝志が、静かな声でまりかの言葉を否定した。まりかはゆっくりと顔を上げて、いくつも皺が刻まれた勝志の顔を見つめる。
「私はむしろ、あなたに礼を言いたいと思っておるよ」
「……」
「今度は、私たちが話をする番だ」
勝志は眼鏡を外すと、天井を仰いでゆっくりと息を吐いた。
「10年前だったら、煙草を吸っていたところだな」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟き、しばし視線を宙に漂わせる。それから、眼鏡をかけ直すと机の上で両手を組み、言葉をひとつひとつ押し出すようにして語り始めたのだった。
「当時、私はたったの5歳だった。だから、南京町に住んでいた頃のことはほとんど覚えていない。今から話すのは、主に母から聞いた話と、成人してから自分で調べた知識を整理して再構成したものであることを、あらかじめ断っておく」
そう前置きした上で、千代の弟・勝志は、戦火によって喪われた町の記憶を語り始めた。
「まず、中華街というのは、日本のみならず世界各地に存在している。そのうちのいくつかは横浜のように観光地化されているが、それでも中華街というのは基本的に、その地域に住む華僑の生活を支援するために形成されたものなんだ。そして、かつての横浜中華街――南京町も、そうした街だったんだよ」
はるか遠い日々を懐かしむように、勝志は目を細めた。
「といっても、南京町には華僑しか住んでいなかった訳じゃない。華僑と結婚して一緒に住むようになった日本人もそれなりにいたし、華僑を相手に商売をするために南京町に居を構えた日本人もいた。私たちの場合は後者だった」
千代や勝志の両親は、南京町で魚屋を営んでいた。個人に対して売るだけでなく、料理店に卸したりもしていたらしい。
「ところで、朝霧さんは『三把刀』という言葉は知っておるかな」
「三把刀……」
突然の質問に、まりかは慌てて記憶の糸を手繰り寄せる。
「……確か、3つの刃物――包丁と鋏、それから剃刀を意味する言葉だったと記憶しています。その道具が象徴する職業を表す言葉だと」
「その通り、よくご存知だ。包丁が料理飲食業、鋏が洋服仕立て業、そして剃刀が理髪業を指す。3つとも多くの華僑が従事した職業で、どれか1つでも扱えるようになれば、世界中どこででも生きていけると言われていたらしい」
勝志は一旦言葉を切って息をつくと、再びゆっくりと話し出した。
「子供の頃は知る由もなかったが、同じ華僑といっても出身地ごとの特色というものがあったらしい。三把刀にしても、南京町で料理飲食業に従事していたのは広東省の出身者が多かったということだ」
広東省は、台湾よりも更に南、中国南東の沿岸域に位置する。中国茶を飲みながら点心を楽しむ「飲茶」の習慣は、香港やマカオ、そして広東省を中心に行われているものだし、広東料理は日本人にとって特に馴染み深い中国料理のひとつである。
「玉蘭も……」
勝志の瞳に、暗い影が差した。何かを迷うように俯き、意を決したように顔を上げると、そのまま話を続ける。
「……林玉蘭の両親も、広東の出身だった。例に漏れず料理店を営んでいてね、我々の三軒向かいに住んでいた。そう、姉と玉蘭は、幼馴染みだったんだよ」
佐藤千代と、林玉蘭。ふたりとも当時8歳で、生まれた日もたったの数日しか違わなかった。加えて、男兄弟の中の唯一の女の子という共通点もあり、ふたりはとても仲が良く、度々一緒に遊んでいたという。
「大戦が始まると、華僑に対する締め付けは段々と厳しくなっていった。南京町の外では特高警察が常に目を光らせていて、どこへ行くにも許可が必要という状況だったという。それでも、南京町の内部に住む日本人は、以前と変わらぬ態度で華僑の人たちと交流を続けていたそうだ」
もっとも、同じ横浜市内ですら、一般の日本人が華僑に向ける眼には厳しいものがあったらしい。また、政府の方針により、市内の華僑を一箇所にまとめるために強制的に南京町へ引っ越しさせたという記録も残っている。
「そんな時代だったが、姉と玉蘭にとっては大人たちの事情など知ったことでは無かったのだろう。ふたりは、ある約束を交わしていたそうだ」
「約束……」
まりかが、小さく息を呑んだ。勝志はまりかに向かって小さく頷きかけると、ふたりの少女の在りし日の姿を瞼の裏側に描き出そうとでもするように、その目を瞑った。
『お父さんはね、広東省の香山県というところから来たのよ』
地図のある部分を指しながら、玉蘭が自身のルーツについて説明する。
『子供の頃はすごく貧しくて、だから出稼ぎで日本に来たんだって。それで、いつか故郷に戻って立派な御殿を建てたいって、いつも言ってるわ』
『玉蘭も、広東に帰っちゃうの?』
千代が、寂しそうな顔をして玉蘭に訊ねる。
『うーん……分かんない』
玉蘭は悩んだ挙句、正直な気持ちを千代に伝えた。
『だって、どんな所なのかよく分からないもの。それよりも、どうせなら私、上海に行ってみたいわ』
『!!』
玉蘭の答えに千代が目を見開き、そしてその顔を輝かせた。
『それじゃあ、戦争が終わって大きくなったら、ふたりで一緒に上海に行こうよ!』
千代の提案に驚き、そして同じく顔を輝かせる玉蘭。
『それ最高よ! 千代と一緒なら楽しいに決まってる!』
『うん、絶対に行こうね!』
『それなら、指切りげんまんしましょう』
『約束ね』
『約束よ』
このようにして、ふたりの少女の間に固い約束が交わされた。千代はこの話を、とても嬉しそうに母親に語ってみせたという。
「そういえば、あの時代の日本人にとって上海がどのような存在だったか、今の若い方には想像がつかないだろう。この際だ、少し話しておくとしよう」
勝志は目を開くと、机の上に置いていた手を組み直した。ひたすら話し続けているにも関わらず、それを苦に感じている様子は無い。もちろん、楽しんでいるというわけでもなく、その口調はあくまで淡々としたものである。
「『魔都』という言葉を聞いたことはあるかね。これは、まさしく上海を表す言葉なんだ」
「魔都……」
「魔性の魅力を放つ都市ということで、『魔都』上海などと呼ばれていた。それともうひとつ、『あの男は上海された』なんて言い回しもあったな」
言うまでもなく、上海とは都市の名前である。しかし、この場合の「上海」は、水夫にするために誘拐、脅迫するという意味の動詞となる。
「つまり、都市の名前がひとつの動詞として使われていたということですか」
「驚くだろう。それだけ、当時の上海が世界的に見ても特異な存在感を放っていたということだ」
上海の近代史は、南京条約による1843年の開港から始まる。この新たな港湾都市には、外国人が居留し警察・行政権を掌握する「租界」がいくつも設置された。
この租界を中心として形成された西洋的な空間と、その時点で数百年以上の歴史を持っていた地方商業都市としての上海が入り交じることで、エキゾチックな魅力を孕む「魔都」上海が誕生することになる。
「戦前に発表された歌謡曲に、西条八十という人が作詞した『上海航路』というものがあるから、ひとつ紹介してみよう。少しはあの時代の空気を感じられるだろう」
おもむろにそう言うと、勝志は「上海航路」の歌詞を諳んじてみせた。
「――――」
「!?」
ひたすらに上海へのあこがれに満ちたその歌詞に、それまで全くの他人事として勝志の話を聞いていたカナは、身体の奥からゾワゾワとしたものが湧き上がってくるのを感じる。
(これは――)
歌うのが苦手なためか、勝志は平坦な調子で歌詞を唱えるのみである。だから、旋律など分かるはずがない。
それなのに、とくんと、カナの心臓が小さく脈打つ。
(紅い……)
「っ!」
カナは我に返ると、すぐに頭の中からこの余計な考えを打ち消した。
(ばかな。わしがこの歌を知っておるはずがない)
やがて「上海航路」の歌詞を唱え終えると、勝志は夢から覚めた後のような顔でこう補足した。
「……当時の女性たちにとって上海は、ファッションの最先端の地として憧れの対象だったらしい。姉と玉蘭が上海行きを約束したのも、その煌びやかなイメージに惹かれたからというのもあったのだろう」
ここで、勝志が言葉を切った。
狭い居間に、秒針が時を刻む硬質な音と、窓の外の鈍い雨音が響く。
しばらくして、勝志が再び口を開いた。
「1945年5月29日、横浜大空襲。それが、何もかもを奪い去ってしまったんだ」
その日、佐藤家にいたのは勝志と千代、母親と祖母の4人だけだった。
『空襲だ!』
空襲を知らせる近所の住人の叫び声に従って付近の防空壕に避難した4人だったが、しばらくして、隣家の男性が防空壕の蓋を開き、海の方へ逃げるようにと呼びかけてきた。
『早く逃げるんだ! ここにいたら死んでしまう!』
防空壕から出ると、辺りには既に煙が充満していた。そして、表通りに出た4人の目に、家々が火の粉を撒き散らしながら激しく燃え盛る光景が飛び込んでくる。
『玉蘭!』
その中には、玉蘭の家も含まれていた。駆け寄ろうとする千代の腕を、母親が必死に掴んで引き戻す。
『玉蘭を助けないと!』
『玉蘭なら林さんたちと一緒に先に逃げとる!』
『……っ!』
母親の言葉に、千代は抵抗を止めた。そして、燃え盛る家々に背を向けると、その後は一度も振り返ることなく、必死の思いで山下公園を目指して駆け抜けたのだった。
「――命拾いした私たちは、空襲を免れた『ホテルニューグランド』で一夜を明かした。そして、次の日には市外に住む親戚を頼って横浜を離れ……二度と南京町に戻ることはなかった」
勝志は感情のこもらない声でそう言うと、テーブルの表面に視線を落として小さく首を振った。
1945年5月29日。午前9時20分頃から10時半頃までの約1時間で、総数43万8,576個の焼夷弾が横浜市街に投下された。
直後の公式発表によると、横浜大空襲による死者は3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、そして罹災者は311,218人にも上ったという。
―― ―― ――
※ 出典「解説(横浜大空襲)」
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/comment3.html