第61話 佐渡島サメ騒動!〈三〉
淡い青や黄色に明滅するガラスの浮き玉たちが、生き物のようにふわふわと宙を漂っている。海の中で開かれるお祭りに迷い込んだような幻想的な光景に、まりかは思わず嘆息した。
「きれい……」
「ふむ、なかなかやりおるではないか」
カナも感心したように頷くと、近くに漂ってきた浮き玉を小さな手の中に引き寄せた。まりかも一緒になって、淡く明滅する不思議な浮き玉を観察してみる。
「ふうん。外側は本物か」
「でも、中の光は」
「どうやら、お気に召されたようですな」
浮き玉をつついたりペシペシと叩いたりしていると、闇の中からひとりの老人が歩み出てきた。
「あなたは……」
まりかは老人の元に駆け寄ると、とりあえずペコリと頭を下げる。
「朝霧まりかと申します。鮫の怪異を解決するため、〈重屋の源助〉さんに招かれ島の外からやって参りました」
「人間の娘さんが、遠路はるばるようおいでなさった」
老人は、薄い皺が刻まれた顔に微笑を浮かべると、優雅な仕草でお辞儀をした。
「〈湖鏡庵の財喜坊〉と申します。どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
まりかは、その紳士然とした立ち振舞いに好感を持つ一方、冷静な気持ちで目の前の化け狢の姿を観察する。
源助や禅達とは違い、財喜坊の外見には狢らしい要素はどこにも無かった。体格は小柄で、見た目年齢はおおよそ70代。清潔に整った白髪混じりの短髪と粋に着こなされた浅葱色の作務衣という佇まいからは、風流人といった趣きが醸し出されている。
『――〈湖鏡庵の財喜坊〉は、美術や芸術などの文化に通じており、曽祖父とは違った面で人間社会に近しい狢であると言えます。また、基本的には他者、特に女性に対しては礼儀正しく接するとのことですので、彼に関してはあまり心配する必要はないでしょう』
そんな財喜坊に対して源助が、渋柿でも食べたようなしかめっ面で悪態をついた。
「助平ジジイが。やること成すこといちいち気取りやがって、下心が見え見えだっつーの」
「人間のおなごと子を成したお前が言う事か」
「うっ」
見事に言い返されてぐうの音も出ない源助。そんな源助を捨て置いて、財喜坊はまりかとの会話に戻ろうとする。
「残りのふたりも、もう間もなく到着するはずです。お待たせすることになってしまい申し訳ありませんが、今しばらく……」
「あたしゃ、さっきからここに居るんだけど?」
割り込んできた声に振り向くと、着物姿の大柄な女が、浮き玉を鬱陶しそうにかき分けながらこちらに近づいてくるところだった。
「よう、お杉。親分は一緒じゃねえのか」
「はあ?」
お杉と呼ばれた女が、不機嫌そうに片眉を吊り上げて源助を睨み付ける。禅達はやれやれといった様子で首を振り、財喜坊は申し訳なさそうな顔でまりかに向き直った。
「……こちらが〈ムジナの四天王〉の紅一点、〈関の寒戸〉です。彼女のことはお杉と呼んでもらって構いませんので」
「勝手に紹介してんじゃないよ」
お杉はピシャリと言い放つと、一転して友好的な笑みを浮かべてまりかに話しかけてきた。
「むさ苦しい男連中の相手ばっかりさせちゃって、悪いねえ。改めまして、あたしが〈関の寒戸〉。ご覧の通りピッチピチの乙女だよ。あたしのことは『お杉お姉さん』って呼んでくれていいから!」
「どこをどう見たらピッチピチなんだよ。もういい年したおば……ぐぎぎっ!」
背後からお杉に締められる源助を憐れみの目で眺めながら、まりかは松前の資料の〈関の寒戸〉の項目を思い返す。
『〈ムジナの四天王〉唯一の女狢、それが〈関の寒戸〉、通称お杉です。少々軽薄で大言壮語を言うきらいはあるものの、頓知が利き、〈徳和の禅達〉の禅問答に付き合える程度の才智は持ち合わせています。なお、その姿についてですが――』
今、まりかの目の前にいるお杉は、完全に人間の姿をしていた。腰までの艷やかな黒髪に、陶器のように滑らかな肌。着崩した派手な柄の着物からは、今にも零れ落ちそうな豊かな谷間と内太ももがチラチラと見え隠れしている。ただし松前の資料によれば、お杉はその時の状況や気分、相手の男に合わせてコロコロとその姿を変えてしまうとのことだった。
念の為、まりかはとある事情について財喜坊に確認してみることにする。
「あの、お杉さんと親分さんのことなのですが――」
「そのことですか」
まりかの話を聞いた財喜坊は、ため息まじりに源助を一瞥した。
「そのような事までお耳に入れていたとは……ですが、ご安心下さい。お客人に余計な気を遣わせてしまう程、我々も愚かではありませぬゆえ」
「噂をすれば、ようやく最後の奴が来おったようじゃぞ?」
カナが、退屈しのぎに弄んでいた浮き玉をひょいと放り投げた。まりかも、そして狢たちも、カナの視線を追って鳥居の向こうの真っ暗闇に注目する。
「――――」
闇の中から、ヒグマと見紛うほどに巨大な化け狢がぬうっと顔を出した。
(……大きい)
(デカい狸じゃのう)
丸みを帯びた耳に、先が黒色のふさふさ尻尾。毛皮の色は全体的に茶褐色で、目の周りから顎にかけては黒く、鼻筋は白い。短い手足とずんぐりした体型は完全に狢そのものだが、首から数珠を提げている点については極めて人間臭いと言えるだろう。
これが、佐渡島の幽世の頂点に立つ大狢、〈二ツ岩の団三郎〉の姿だった。
『――「日本三名狸」の一匹として、佐渡島のみならず全国にその名を轟かせる大狢、それが〈二ツ岩の団三郎〉です。隠居の身となって久しく、自らが指揮を取ることは滅多に無いとのことですが、今回の件に関しては――』
束の間、まりかは瞬きも呼吸も忘れて団三郎の堂々とした立ち姿に魅入ってしまう。
(量だけじゃない、質が違う。妖狐に例えるなら、八尾と同程度だわ)
ただし、尾の本数によって厳格な序列付けがされている妖狐たちとは異なり、狢たちの間には厳しい上下関係や階級制度は存在しないらしい。頭領である団三郎に対して、四天王たちは特に畏まった態度をとろうとはしなかった。
「フンッ!」
それどころか、お杉に至っては不機嫌そうにそっぽを向いてしまう始末である。
「ほほう」
カナもまた団三郎の威容に感じ入ったらしく、何やらふむふむと頷いている。しかし、まりかと出会って早数ヶ月、思ったことをそのまま口にして場を台無しにするような事は流石に避けるようになっていた。
「…………」
団三郎が、まりかを見た。黒色の獣毛の中で光る褐色の双眸が、島に乗り込んできた余所者を品定めしようと鋭く細められる。
「…………うむ」
団三郎はまりかから視線を外すと、今度はカナに目を向けた。頭から尾ひれまでの全身をジロジロと眺め渡すと、何かを考え込むようにじっと地面を見つめる。そして、結局は何も言わずにその場にどっかと腰を下ろした。
(どうやら、認めてもらえたみたいね)
まりかは、いつの間にか強ばっていた身体の緊張を緩めると、狢たちに対して改めて自己紹介を行った。
そうしてようやく、今回の〈海異〉案件についての詳しい話を、狢たちから聞くことができたのである。
まりかへの説明は、主として源助から行われた。
「――出現し始めたのは、先月末からだな。あと、あの宙を泳ぐ鮫は、ホホジロザメっつう名前だそうだ。目撃した人間たちがそう言ってたらしいんだが、嬢ちゃんは知ってるか?」
「そうですね……。本で読むなどして得た知識ならあるのですが、私も直接目にしたことは一度もありません」
ホホジロザメは、大衆向け娯楽映画の題材として長年に渡って人気を誇っている海洋生物だ。しかし、実のところその生態に関しては未だ不明な点が多く、体重や最大全長といった基本的な情報ですら議論の余地を残しているのが現状である。ただし、ひとつ確実に言えるのは、映画によって形成された「人食いザメ」というイメージは、現実のホホジロザメの生態にはそぐわないものであるという事だろう。
「それで、そのホホジロザメの姿をした怪異による被害は、まだ発生していないのですよね。聡さんからは、その鮫たちは実体を持っていないと聞いていますが」
「少なくとも、俺らが確認した時は実体を形成していなかった。それに、多分だがあの鮫自体は自我を持たない、単なる現象に過ぎないぜ」
源助は言葉を切ると、少し離れた場所に立っている禅達を見た。禅達は狢面を縦に動かして頷くと、そのまま源助から話を引き取った。
「断定はできんが、鮫の怪異の発生への関与が濃厚な妖が存在する。奴が鮫のそばにいるところを、何度も目撃した。少なくとも、何かしらの事情を知っていることは間違いない」
禅達が、狢面を小さく傾けた。まりかは息を凝らして、言葉の続きを待つ。
「――臼負い婆だ。お主には、奴と海上で対峙してもらうことになる」
臼負い婆。その名の通り、臼を背負って海上に出現する老婆の姿をした妖である。白い蓬髪とボロボロの着物、それから牙を生やした口。夜、海の中から現れては、恐ろしい形相で見る者を睨みつけてくるという。
「だが、それだけだ。それなりに霊力が強い人間ならば、九字切りでもすれば簡単に追い払えるだろう。姿を現すのも、この数十年は年に一回あるかどうかだった」
「それがいつの間にやら、新たな怪異を発生させるほどの脅威になっておったわけか」
「仕方ないだろう」
財喜坊の遠回しな非難に、禅達が狢面の奥から憮然とした声を上げた。
「確かに、臼負い婆の出現する宿根木は俺の管轄だ。だが、大した妖力も持たず、しかも一年のほとんどを海の中に隠れて過ごすような妖だぞ。常時警戒しようなどと考えるわけが無いだろう」
「そうだぜ、財喜坊。禅達を責めるのは筋違いだ」
意外にも源助が、真面目な顔で禅達を擁護した。
「禅達だけじゃねえ。俺らのうちの誰ひとりだって、海中に隠れて逃げちまう臼負い婆を捕まえることができなかったじゃねえか。それで結局、島外の人間に頼ってるんだからな」
「あたしらも、海の中の事となるととさっぱりだからねえ」
お杉も、源助の意見に同調する。
まりかはこの機を逃さずに、自分が招かれた理由について踏み込んでみることにした。
「それで、海の怪異への対応に慣れた私に依頼をしたというわけですね」
「まあ、そういうことだ」
まりかの質問に、源助がきっぱりと答えた。
その後、妙な沈黙がその場に広がる。
(あれ。なんだろう)
源助の短い返答に、まりかは何か釈然としないものを感じる。しかし、質問を重ねるかどうかを迷っているうちに、お杉が話を進めてしまう。
「それじゃあ、お嬢ちゃんにはこのまま仕事に取りかかってもらおうと思うけど、それで良いかい?」
「はい! ここにはそのつもりで来ましたから」
まりかは、取るに足らない些細な疑問をさっさと頭の隅へ追いやると、お杉に対して元気良く返事をした。
「へえ、こりゃあ頼もしいね」
その積極的な態度にお杉は機嫌の良さそうな顔をすると、大きく手を叩いて自らの配下を呼び寄せた。
「お咲! お咲!」
「へい」
木立の中から、小さな狢が姿を現した。トコトコと境内を突っ切ると、お杉の前でぴょこんとお辞儀をする。
「手筈通り、お客人方を案内しな」
「分かりやした」
お咲と呼ばれた狢はもう一度お辞儀をすると、早速まりかとカナを先導しようとした。
「こちらでやんす」
「待て」
禅達が、まりかを引き留めた。
振り返ったまりかに向かって、小さな何かを投げて寄越す。
「これは……」
「詫びだ。持っていけ」
受け取った手のひらを広げると、そこには美しい朱色の勾玉が収まっていた。
「拾ったは良いが、使いどころがなく持て余していた。お主なら、何かしらの役に立てられるだろう」
「……感謝します」
まりかは禅達に対して深く頭を下げると、昏い幽世の海を目指して境内を去っていった。
***
まりかとカナの気配が完全に遠ざかった後も、狢たちはしばらくその場を動かなかった。やがて、源助がのっそりと立ち上がると、小さな社殿の前に立って声をかける。
「おい。お前らとしては、あの人間で大丈夫なのかよ」
社殿の前に、小さな闇が凝縮した。その闇の中から、ちゃぷんと小さな水音を立てて一匹の魚が飛び出す。
それは、体長1メートル超にもなる巨大な座布団ヒラメだった。
「ええ。ええ。あの娘で間違いありません」
座布団ヒラメが、小さな口をパクパクと動かして源助の質問に答えた。源助はホッとしたのを表情には出さず、今度はカナについて問い詰めようとする。
「だが、あの人魚は」
「皆様。皆様。お館様より言伝です」
源助の問いかけを無視して、座布団ヒラメが再び口を動かした。
「『各自、備えを万全にせよ』とのことです。それではこれにて」
「おい待て、こら!」
言いたいことだけ言ってしまうと、座布団ヒラメは水音と共に消え去ってしまった。
源助は頭を掻きながら悪態をつく。
「一体なんなんだよ」
「海の連中は、よう分からんな」
後ろに来てやり取りを見ていた禅達も、座布団ヒラメの一方的な態度に肩をすくめる。
座布団ヒラメの正体は、龍神の使者だった。
狢たちの力だけでは鮫の怪異を解決できないと悟った時、団三郎がまず最初に行ったのは、佐渡の海に住まう龍神に助力を願うことだった。
〈二ツ岩の団三郎〉は、信心深い。どのくらい信心深いかというと、その昔、お伊勢参りや熊野詣のために幾度も海を渡って本土へと赴いたほどである。だからこそ今回も、大量の山の実りを供物として差し出した上で、団三郎自らが社殿の前で平伏したのだ。
しかし、座布団ヒラメの口から告げられた龍神の言葉に、狢たちは大いに戸惑った。
『島の外から人間の術者を呼ぶようにと、お館様が仰せです。それから、この事は人間たちには決して知らせぬようにとも』
狢たちは、龍神の言葉をそのまま受け入れることにした。
「お杉」
団三郎が、お杉の名前を呼んだ。お杉は無言のまま、団三郎を振り返る。
「久々にあれをやるぞ」
「ッ!」
「親分、まさか」
お杉のみならず、他の狢たちも表情を変えた。
団三郎は腕を組んで四天王たちを眺め渡すと、厳しさを帯びた低い声で指示を出す。
「龍神の言葉に、我らのような妖風情が疑いを挟む余地など無い。我らがすべきは、一刻も早く島の護りを固めること。各自持ち場に戻り、来たるべき危難に備えるのだ」
島の頭領としての重みを感じさせる言葉に、禅達と財喜坊、そして源助も、四天王としての立場を思い起こし、気持ちを固く引き締める。
お杉もまた、若干の不服さは残しつつも団三郎の言葉に賛意を示した。
「島の危機だ。今回はあたしが折れてやるよ」
その後、狢たちはごく軽い打ち合わせをすると、それぞれの持ち場へと素早く散っていった。
「きれい……」
「ふむ、なかなかやりおるではないか」
カナも感心したように頷くと、近くに漂ってきた浮き玉を小さな手の中に引き寄せた。まりかも一緒になって、淡く明滅する不思議な浮き玉を観察してみる。
「ふうん。外側は本物か」
「でも、中の光は」
「どうやら、お気に召されたようですな」
浮き玉をつついたりペシペシと叩いたりしていると、闇の中からひとりの老人が歩み出てきた。
「あなたは……」
まりかは老人の元に駆け寄ると、とりあえずペコリと頭を下げる。
「朝霧まりかと申します。鮫の怪異を解決するため、〈重屋の源助〉さんに招かれ島の外からやって参りました」
「人間の娘さんが、遠路はるばるようおいでなさった」
老人は、薄い皺が刻まれた顔に微笑を浮かべると、優雅な仕草でお辞儀をした。
「〈湖鏡庵の財喜坊〉と申します。どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
まりかは、その紳士然とした立ち振舞いに好感を持つ一方、冷静な気持ちで目の前の化け狢の姿を観察する。
源助や禅達とは違い、財喜坊の外見には狢らしい要素はどこにも無かった。体格は小柄で、見た目年齢はおおよそ70代。清潔に整った白髪混じりの短髪と粋に着こなされた浅葱色の作務衣という佇まいからは、風流人といった趣きが醸し出されている。
『――〈湖鏡庵の財喜坊〉は、美術や芸術などの文化に通じており、曽祖父とは違った面で人間社会に近しい狢であると言えます。また、基本的には他者、特に女性に対しては礼儀正しく接するとのことですので、彼に関してはあまり心配する必要はないでしょう』
そんな財喜坊に対して源助が、渋柿でも食べたようなしかめっ面で悪態をついた。
「助平ジジイが。やること成すこといちいち気取りやがって、下心が見え見えだっつーの」
「人間のおなごと子を成したお前が言う事か」
「うっ」
見事に言い返されてぐうの音も出ない源助。そんな源助を捨て置いて、財喜坊はまりかとの会話に戻ろうとする。
「残りのふたりも、もう間もなく到着するはずです。お待たせすることになってしまい申し訳ありませんが、今しばらく……」
「あたしゃ、さっきからここに居るんだけど?」
割り込んできた声に振り向くと、着物姿の大柄な女が、浮き玉を鬱陶しそうにかき分けながらこちらに近づいてくるところだった。
「よう、お杉。親分は一緒じゃねえのか」
「はあ?」
お杉と呼ばれた女が、不機嫌そうに片眉を吊り上げて源助を睨み付ける。禅達はやれやれといった様子で首を振り、財喜坊は申し訳なさそうな顔でまりかに向き直った。
「……こちらが〈ムジナの四天王〉の紅一点、〈関の寒戸〉です。彼女のことはお杉と呼んでもらって構いませんので」
「勝手に紹介してんじゃないよ」
お杉はピシャリと言い放つと、一転して友好的な笑みを浮かべてまりかに話しかけてきた。
「むさ苦しい男連中の相手ばっかりさせちゃって、悪いねえ。改めまして、あたしが〈関の寒戸〉。ご覧の通りピッチピチの乙女だよ。あたしのことは『お杉お姉さん』って呼んでくれていいから!」
「どこをどう見たらピッチピチなんだよ。もういい年したおば……ぐぎぎっ!」
背後からお杉に締められる源助を憐れみの目で眺めながら、まりかは松前の資料の〈関の寒戸〉の項目を思い返す。
『〈ムジナの四天王〉唯一の女狢、それが〈関の寒戸〉、通称お杉です。少々軽薄で大言壮語を言うきらいはあるものの、頓知が利き、〈徳和の禅達〉の禅問答に付き合える程度の才智は持ち合わせています。なお、その姿についてですが――』
今、まりかの目の前にいるお杉は、完全に人間の姿をしていた。腰までの艷やかな黒髪に、陶器のように滑らかな肌。着崩した派手な柄の着物からは、今にも零れ落ちそうな豊かな谷間と内太ももがチラチラと見え隠れしている。ただし松前の資料によれば、お杉はその時の状況や気分、相手の男に合わせてコロコロとその姿を変えてしまうとのことだった。
念の為、まりかはとある事情について財喜坊に確認してみることにする。
「あの、お杉さんと親分さんのことなのですが――」
「そのことですか」
まりかの話を聞いた財喜坊は、ため息まじりに源助を一瞥した。
「そのような事までお耳に入れていたとは……ですが、ご安心下さい。お客人に余計な気を遣わせてしまう程、我々も愚かではありませぬゆえ」
「噂をすれば、ようやく最後の奴が来おったようじゃぞ?」
カナが、退屈しのぎに弄んでいた浮き玉をひょいと放り投げた。まりかも、そして狢たちも、カナの視線を追って鳥居の向こうの真っ暗闇に注目する。
「――――」
闇の中から、ヒグマと見紛うほどに巨大な化け狢がぬうっと顔を出した。
(……大きい)
(デカい狸じゃのう)
丸みを帯びた耳に、先が黒色のふさふさ尻尾。毛皮の色は全体的に茶褐色で、目の周りから顎にかけては黒く、鼻筋は白い。短い手足とずんぐりした体型は完全に狢そのものだが、首から数珠を提げている点については極めて人間臭いと言えるだろう。
これが、佐渡島の幽世の頂点に立つ大狢、〈二ツ岩の団三郎〉の姿だった。
『――「日本三名狸」の一匹として、佐渡島のみならず全国にその名を轟かせる大狢、それが〈二ツ岩の団三郎〉です。隠居の身となって久しく、自らが指揮を取ることは滅多に無いとのことですが、今回の件に関しては――』
束の間、まりかは瞬きも呼吸も忘れて団三郎の堂々とした立ち姿に魅入ってしまう。
(量だけじゃない、質が違う。妖狐に例えるなら、八尾と同程度だわ)
ただし、尾の本数によって厳格な序列付けがされている妖狐たちとは異なり、狢たちの間には厳しい上下関係や階級制度は存在しないらしい。頭領である団三郎に対して、四天王たちは特に畏まった態度をとろうとはしなかった。
「フンッ!」
それどころか、お杉に至っては不機嫌そうにそっぽを向いてしまう始末である。
「ほほう」
カナもまた団三郎の威容に感じ入ったらしく、何やらふむふむと頷いている。しかし、まりかと出会って早数ヶ月、思ったことをそのまま口にして場を台無しにするような事は流石に避けるようになっていた。
「…………」
団三郎が、まりかを見た。黒色の獣毛の中で光る褐色の双眸が、島に乗り込んできた余所者を品定めしようと鋭く細められる。
「…………うむ」
団三郎はまりかから視線を外すと、今度はカナに目を向けた。頭から尾ひれまでの全身をジロジロと眺め渡すと、何かを考え込むようにじっと地面を見つめる。そして、結局は何も言わずにその場にどっかと腰を下ろした。
(どうやら、認めてもらえたみたいね)
まりかは、いつの間にか強ばっていた身体の緊張を緩めると、狢たちに対して改めて自己紹介を行った。
そうしてようやく、今回の〈海異〉案件についての詳しい話を、狢たちから聞くことができたのである。
まりかへの説明は、主として源助から行われた。
「――出現し始めたのは、先月末からだな。あと、あの宙を泳ぐ鮫は、ホホジロザメっつう名前だそうだ。目撃した人間たちがそう言ってたらしいんだが、嬢ちゃんは知ってるか?」
「そうですね……。本で読むなどして得た知識ならあるのですが、私も直接目にしたことは一度もありません」
ホホジロザメは、大衆向け娯楽映画の題材として長年に渡って人気を誇っている海洋生物だ。しかし、実のところその生態に関しては未だ不明な点が多く、体重や最大全長といった基本的な情報ですら議論の余地を残しているのが現状である。ただし、ひとつ確実に言えるのは、映画によって形成された「人食いザメ」というイメージは、現実のホホジロザメの生態にはそぐわないものであるという事だろう。
「それで、そのホホジロザメの姿をした怪異による被害は、まだ発生していないのですよね。聡さんからは、その鮫たちは実体を持っていないと聞いていますが」
「少なくとも、俺らが確認した時は実体を形成していなかった。それに、多分だがあの鮫自体は自我を持たない、単なる現象に過ぎないぜ」
源助は言葉を切ると、少し離れた場所に立っている禅達を見た。禅達は狢面を縦に動かして頷くと、そのまま源助から話を引き取った。
「断定はできんが、鮫の怪異の発生への関与が濃厚な妖が存在する。奴が鮫のそばにいるところを、何度も目撃した。少なくとも、何かしらの事情を知っていることは間違いない」
禅達が、狢面を小さく傾けた。まりかは息を凝らして、言葉の続きを待つ。
「――臼負い婆だ。お主には、奴と海上で対峙してもらうことになる」
臼負い婆。その名の通り、臼を背負って海上に出現する老婆の姿をした妖である。白い蓬髪とボロボロの着物、それから牙を生やした口。夜、海の中から現れては、恐ろしい形相で見る者を睨みつけてくるという。
「だが、それだけだ。それなりに霊力が強い人間ならば、九字切りでもすれば簡単に追い払えるだろう。姿を現すのも、この数十年は年に一回あるかどうかだった」
「それがいつの間にやら、新たな怪異を発生させるほどの脅威になっておったわけか」
「仕方ないだろう」
財喜坊の遠回しな非難に、禅達が狢面の奥から憮然とした声を上げた。
「確かに、臼負い婆の出現する宿根木は俺の管轄だ。だが、大した妖力も持たず、しかも一年のほとんどを海の中に隠れて過ごすような妖だぞ。常時警戒しようなどと考えるわけが無いだろう」
「そうだぜ、財喜坊。禅達を責めるのは筋違いだ」
意外にも源助が、真面目な顔で禅達を擁護した。
「禅達だけじゃねえ。俺らのうちの誰ひとりだって、海中に隠れて逃げちまう臼負い婆を捕まえることができなかったじゃねえか。それで結局、島外の人間に頼ってるんだからな」
「あたしらも、海の中の事となるととさっぱりだからねえ」
お杉も、源助の意見に同調する。
まりかはこの機を逃さずに、自分が招かれた理由について踏み込んでみることにした。
「それで、海の怪異への対応に慣れた私に依頼をしたというわけですね」
「まあ、そういうことだ」
まりかの質問に、源助がきっぱりと答えた。
その後、妙な沈黙がその場に広がる。
(あれ。なんだろう)
源助の短い返答に、まりかは何か釈然としないものを感じる。しかし、質問を重ねるかどうかを迷っているうちに、お杉が話を進めてしまう。
「それじゃあ、お嬢ちゃんにはこのまま仕事に取りかかってもらおうと思うけど、それで良いかい?」
「はい! ここにはそのつもりで来ましたから」
まりかは、取るに足らない些細な疑問をさっさと頭の隅へ追いやると、お杉に対して元気良く返事をした。
「へえ、こりゃあ頼もしいね」
その積極的な態度にお杉は機嫌の良さそうな顔をすると、大きく手を叩いて自らの配下を呼び寄せた。
「お咲! お咲!」
「へい」
木立の中から、小さな狢が姿を現した。トコトコと境内を突っ切ると、お杉の前でぴょこんとお辞儀をする。
「手筈通り、お客人方を案内しな」
「分かりやした」
お咲と呼ばれた狢はもう一度お辞儀をすると、早速まりかとカナを先導しようとした。
「こちらでやんす」
「待て」
禅達が、まりかを引き留めた。
振り返ったまりかに向かって、小さな何かを投げて寄越す。
「これは……」
「詫びだ。持っていけ」
受け取った手のひらを広げると、そこには美しい朱色の勾玉が収まっていた。
「拾ったは良いが、使いどころがなく持て余していた。お主なら、何かしらの役に立てられるだろう」
「……感謝します」
まりかは禅達に対して深く頭を下げると、昏い幽世の海を目指して境内を去っていった。
***
まりかとカナの気配が完全に遠ざかった後も、狢たちはしばらくその場を動かなかった。やがて、源助がのっそりと立ち上がると、小さな社殿の前に立って声をかける。
「おい。お前らとしては、あの人間で大丈夫なのかよ」
社殿の前に、小さな闇が凝縮した。その闇の中から、ちゃぷんと小さな水音を立てて一匹の魚が飛び出す。
それは、体長1メートル超にもなる巨大な座布団ヒラメだった。
「ええ。ええ。あの娘で間違いありません」
座布団ヒラメが、小さな口をパクパクと動かして源助の質問に答えた。源助はホッとしたのを表情には出さず、今度はカナについて問い詰めようとする。
「だが、あの人魚は」
「皆様。皆様。お館様より言伝です」
源助の問いかけを無視して、座布団ヒラメが再び口を動かした。
「『各自、備えを万全にせよ』とのことです。それではこれにて」
「おい待て、こら!」
言いたいことだけ言ってしまうと、座布団ヒラメは水音と共に消え去ってしまった。
源助は頭を掻きながら悪態をつく。
「一体なんなんだよ」
「海の連中は、よう分からんな」
後ろに来てやり取りを見ていた禅達も、座布団ヒラメの一方的な態度に肩をすくめる。
座布団ヒラメの正体は、龍神の使者だった。
狢たちの力だけでは鮫の怪異を解決できないと悟った時、団三郎がまず最初に行ったのは、佐渡の海に住まう龍神に助力を願うことだった。
〈二ツ岩の団三郎〉は、信心深い。どのくらい信心深いかというと、その昔、お伊勢参りや熊野詣のために幾度も海を渡って本土へと赴いたほどである。だからこそ今回も、大量の山の実りを供物として差し出した上で、団三郎自らが社殿の前で平伏したのだ。
しかし、座布団ヒラメの口から告げられた龍神の言葉に、狢たちは大いに戸惑った。
『島の外から人間の術者を呼ぶようにと、お館様が仰せです。それから、この事は人間たちには決して知らせぬようにとも』
狢たちは、龍神の言葉をそのまま受け入れることにした。
「お杉」
団三郎が、お杉の名前を呼んだ。お杉は無言のまま、団三郎を振り返る。
「久々にあれをやるぞ」
「ッ!」
「親分、まさか」
お杉のみならず、他の狢たちも表情を変えた。
団三郎は腕を組んで四天王たちを眺め渡すと、厳しさを帯びた低い声で指示を出す。
「龍神の言葉に、我らのような妖風情が疑いを挟む余地など無い。我らがすべきは、一刻も早く島の護りを固めること。各自持ち場に戻り、来たるべき危難に備えるのだ」
島の頭領としての重みを感じさせる言葉に、禅達と財喜坊、そして源助も、四天王としての立場を思い起こし、気持ちを固く引き締める。
お杉もまた、若干の不服さは残しつつも団三郎の言葉に賛意を示した。
「島の危機だ。今回はあたしが折れてやるよ」
その後、狢たちはごく軽い打ち合わせをすると、それぞれの持ち場へと素早く散っていった。