第62話 佐渡島サメ騒動! 〈四〉
上弦の月が、現世と幽世のあわいを朧に照らしている。
ピイイイィ……
海鳥の影が、上弦の月を横切った。海鳥は何度かまりか達の頭上を旋回すると、はるか沖合へと飛び去ってしまった。
「カナ、どうしたの?」
「……うんにゃ、なんでもない」
カナは上空から視線を戻すと、たらい舟の縁からひょっこりと顔を出して海面を覗き込んだ。
「たらいなんぞが舟になるものかと思うたが、こうして乗ってみると案外趣きがあって良いものじゃな」
まりかとカナは現在、佐渡観光の目玉でもあるたらい舟に乗って夜の海を進んでいる。直径1.5mの大きなたらいは一見すると不安定なようにも思えたが、案内役の狢・お咲の熟練した櫂捌きにより、たらい舟はすいすいと静かな海面を進んでいた。
まりかは、怪異との対峙を前に舟の中でくつろいだ姿勢を取りつつも、微妙に居心地の悪そうな表情で辺りを見回している。
「それに、夜に乗るなんて普通ならまず経験できないわよ。仕事なのに、ちょっと余計に楽しんじゃってるわね」
「少しくらい楽しんだところで、罰など当たらんわい」
「うん、まあそうね……。そうだ、さっき禅達さんから貰った勾玉だけど」
まりかは、懐から細い紐が通された勾玉を取り出すと、手のひらに乗せてカナの前に差し出した。
「どう? 私の見立てだと、相当古いもののように感じるけど」
「ふむ」
カナはたらい舟の縁から手を離すと、美しく磨かれた朱色の勾玉を凝視する。
「……そうじゃな。あの狢共よりも遥か昔に作られた物のようじゃ」
カナは、紅葉のような小さな手を、まりかの手に重ねるような形で勾玉に翳した。
「霊力の、量は大したことないが、質は相当良い。これは何かしらの神とかではなく、この島の土地そのものが持つ霊力じゃな。まあ、このままでも魔除け程度の働きはしてくれるじゃろう」
「魔除けかあ。私には必要無いけど、せっかくいただいた物だし、たまには使ってみようかしら」
そんなことを言いながら勾玉を首に掛けるまりかを、カナはやれやれという表情で眺める。しかし、それについてとやかく言うことはせず、代わりに当たり障りない疑問を口にしてみる。
「勾玉といえば、水晶の核に使われた物体じゃな。あの勾玉はまさしく『水晶』製だったらしいが、その朱色の勾玉は何製なんじゃろうな」
「多分、赤玉石だと思う。本土でも採れるらしいけど、佐渡の赤玉石は特に上質だってガイドブックに書いてあったわ。それと……」
まりかは、首に掛けた朱色の勾玉に視線を落として微笑みを浮かべた。
「赤玉石は、無色透明の水晶になる途中で、赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって出来上がるのですって。つまり、朱色の水晶とも言えるんじゃないかしら」
「ふうむ」
まりかの回答に、カナが勾玉とまりかの顔を見比べながら顔をしかめた。
「その勾玉といい、あの袈裟を着た化け狢といい。よもや、佐渡くんだりまで来てあのふたりを思い出すとはのう」
「そうそう! あのふたりを連想しちゃうわよね」
「むむう…………そうじゃ!」
カナの顔が、しかめっ面からあくどい笑顔に切り替わった。
「次にあの小僧に会ったら、禅問答を仕掛けてやるとするか!」
「止めてあげなさいよ……」
「おふたり様、着きやした」
お咲が控え目な声で、ふたりに目的地への到着を知らせた。
「ありがとう、お咲さん」
まりかはお咲に礼を述べると、たらい舟の縁を乗り越えて海面に立った。続いてカナがたらい舟を降りると、まりかはお咲に先に戻るようにと促す。
「でも、寒戸狢から、おふたり様にご一緒するようにと……」
「これから何が起こるか予測できない以上、あなたは安全な陸地に戻った方が良いわ。それにね、私は海の幽世には慣れっこなのよ」
「……分かりやした。お気をつけて」
お咲はぺこりと頭を下げると、行きよりも速度を上げて島へと引き返していった。
「安心させるためとはいえ、慣れっこは言い過ぎじゃろう」
精一杯に舟を漕ぐお咲を見送りながら、まりかとカナはすっかり恒例となった応酬を繰り広げる。
「言われなくたって、知らない海の幽世を甘く見てなんかないわよ」
「どうだかのう。後で泣きつく羽目になってもわしは知らんからな」
「あなたこそ、伊豆大島の時みたいに邪魔しないでよね」
「するわけ無かろう! わしだって少しは学習しとるわい!」
「うん、分かってる」
返事をしたまりかの声が、急に緊張味を帯びた。カナも同時に、夜闇に染められた海面上に小さな人影が現れたのを認める。
まりかは〈夕霧〉を本来の杖の姿に戻すと、着杖の姿勢で人影を待ち構えた。カナは少し後ろに下がって、ひとまずは成り行きを見守ることにする。
「――――」
ふたりの前に、小さな老婆の姿をした妖が現れた。白い蓬髪にボロボロの着物、口には鋭い牙を生やし、背中には臼を背負っている。狢たちから聞いていた「臼負い婆」の特徴と、ピタリと一致していた。
「……」
老婆が、まりかを見た。蓬髪の合間から覗く白濁した鋭い双眸が、最初にまりかを見て、次にカナの姿を捉える。すると、髪と同じ白色の眉が怪訝そうに顰められた。
「人魚じゃと? それも人間との合いの子ではない、れっきとした妖じゃな? 聞いてた話と違うではないか!」
「どういうこと?」
臼負い婆の言葉に、まりかは警戒心を高めた。とりあえず無難に問い返すと、次に取るべき対応について素早く思考を巡らせる。
幸いにも、事前に抱いていたイメージとは裏腹に、臼負い婆はお喋り好きな妖だった。
「どうもこうも! 海洋怪異対策室には人間か妖との混血しかおらんから、大した事はないと言われたんじゃよ! あの男、このわしに大嘘を吐きよって!」
「あら、そうなの」
臼を背負った前かがみの姿勢で喚き散らす老婆に、まりかは余裕の表情を作って微笑みかける。
「実は私、この人魚と使い魔の契約を結んでるの。使い魔は海洋怪異対策室の人員には含まれないから、その人は嘘をついたというわけではないと思うわ」
「言わなかったなら同じ事じゃい!」
老婆は、まりかの正体を疑おうとはしなかった。その場でバシャバシャと地団駄を踏んで鬱憤を発散させると、ニタリとした嫌らしい笑みを皺だらけの顔に浮かべた。
「まあ良い。たかが人魚一匹、どうとでもなるわい。予定通り、このまま暴れさせてもらうとするからのう。せいぜい覚悟するがいい!」
そう叫びながら痩せ細った腕で臼を高々と持ち上げると、雄叫びを上げながら海面に叩きつけてしまった。
「!?」
「カーッ! せいせいしたわい!」
ズブズブと海中に沈んでいく臼には目もくれず、老婆は腰に手を当ててウンと気持ち良さそうに背筋を伸ばす。
「……お前さんには分からんじゃろう」
ゴキゴキと首を鳴らしながら、異様にギラついた目でまりかを見る。
「来る年も来る年も、誰にも顧みられることなく臼を背負い続けることの虚しさを。そして、取るに足らない有象無象の怪異として、忘れ去られていくことの恐怖を!」
老婆が、スッと片腕を真横に伸ばした。
軽く握った拳の中に、ゆらゆらと何かが出現する。
(えっ?)
まりかは目を疑った。その物体は、臼負い婆という古の妖が手にするにも、海の上で見るにも似つかわしくない、完全な人工物である「機械」だったのだ。
更に老婆自身も、急速な変化を遂げていく。白髪は根本から毛先までくまなくショッキングピンクに染まり、首から下は黒光りするライダースーツとバイクグローブ、バイクブーツによって固められる。極めつけに白濁した双眸が偏光サングラスによって覆い隠されたところで、老婆は腰を低く落とし、両手でガッシリと「機械」――チェーンソーを構えた。
「…………チェーンソー?」
「何故にチェーンソー?」
「アーッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」
言葉を失うまりかとカナの前で、老婆が狂気の笑みを浮かべて高らかに哄笑した。
「カビ臭い臼なんぞチンタラ背負ってられるかーい! 流行りは、チェーンソーじゃあああっ!!」
「あん……?」
「なんなの、これ……」
あまりにも現実味に欠けたB級映画顔負けの展開に、まりかもカナも困惑するしかない。しかし、そんな弛緩した雰囲気はすぐに終わりを告げた。
「セット・オン」
老婆はニヤリと笑うと、いつの間にか手にしていた薄い円盤状の物体を頭部にズブリと沈めていく。
「!!」
夜闇に覆われていた佐渡の海が、ステージ照明を当てた時のようにパッと明るくなった。同時に、大量のホホジロザメが次から次へと出現し、みるみるうちに上空を埋め尽くしていく。
「やっぱりあなたが……!」
「ファイヤーーーッ!!」
老婆が絶叫しながら、チェーンソーのスターターグリップを勢い良く引っ張った。
ドゥルンッ!
初爆の音と共にエンジンが始動し、ソーチェーンがゾッとするような金属音を発しながら高速回転する。
牙を生やした老婆の口が、三日月型にニイッと歪められた。
「その棒切れごとバラしてくれるわい!」
「ッ!」
「まりか!」
老婆は、飢えた獣のように涎を撒き散らしながら海面を蹴ると、まりかの柔い肉体を断ち切るべく大きくチェーンソーを振りかぶった。
***
島の南側、小佐渡と呼ばれる地域のとある山中。
ミズバショウが群生する池の畔に、団三郎とお杉、そして配下の狢たちが集っている。周囲を原生林に囲まれ、現世においても神秘的な雰囲気を放つこの池は、古来より信仰の対象として祀られてきた。
それこそ、狢たちが佐渡島を支配するよりも、遥かに遠い昔から。
「お杉」
団三郎が、隣に立つお杉に訥々と話しかける。
「俺の方こそ、悪かった。この件が片付いたら、なんでもひとつだけ我儘を聞いてやる。だから、どうにか機嫌を直してくれないか」
「なんでもだって?」
団三郎の口をついて出た言葉に、お杉がプッと吹き出した。
「そんなこと言ってえ。あたしがまた、人間の男を誘いたいって言ったら、どうするつもりだい?」
「おい」
「冗談だよ」
「……」
お杉が、団三郎の身体にもたれかかった。やや硬めの獣毛に白く柔らかな頬を埋めて、秘め事を明かすようにそっと囁きかける。
「あたしはね、この佐渡島を愛している。誰であろうと、島に害をなす存在をあたしは許さない。あんたも、それに他の連中だって、その想いだけは皆変わらないはずだろう?」
「……ああ、その通りだ」
団三郎が、鋭い爪の生えた前足でお杉の頭を優しく撫でた。お杉は顔を上げて団三郎を見つめると、さも可笑しそうにクスクスと笑う。そして、配下の狢たちを振り返ると、腹の底から威勢の良い声を張り上げた。
「さあさあ、お前たち! 久々の〈奉納祭〉だ! この島に宿りし古き神々を、あたしら狢の技と力で大いに悦ばせてやろうじゃないか!」
「「「オーーーーッ!!」」」
お杉――〈関の寒戸〉の威厳と気迫に満ちた言葉に、狢たちが一斉に鬨の声を上げた。お杉は満足げな顔で狢たちを見渡すと、着物の帯に挟んでいた篠笛を手に取って口元に引き寄せた。
「うむ」
団三郎もまた、肉球のついた前足を宙に翳して、六尺はあろうと思われる巨大な太鼓を出現させる。するとお杉が、篠笛から唇を離して悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「せっかくの〈奉納祭〉だ。ちょいとお色直ししてみるとするよ」
お杉の外見が、より狢に近い形態に変わり始めた。口や鼻、耳は狢のそれに変化し、全身の肌を獣毛が覆う。終いに、ふわふわの尻尾が腰から伸びると、お杉は着物をはらりと脱ぎ捨てて団三郎を流し目で見た。
「どうだい? あんたはこっちの方が好きだろう?」
「いいから始めるぞっ!」
団三郎は変化したお杉の豊かな腹部から目を逸らすと、撥で力強く鼓面を打った。続いてお杉も、たおやかな仕草で篠笛を構え、妖力を乗せた暖かな息を篠笛の内部に吹き込む。配下の狢たちもまた、小鼓や大鼓、チャッパなどの小さな楽器を鳴らし始めた。
ドオオオン……
ヒュロロロ……
ポン、ポン、ポン……
チャン、チャン、チャン、チャン……
雷にも似た太鼓の力強い律動に、川のせせらぎを想わせる透き通った篠笛の音色、更には小さな楽器たちの素朴で賑やかな音が重なって、ひとつの音の波として調和し、増幅する。
魂を揺さぶる旋律に、大地が、大気が鳴動し、草木がその身をわななかせる。池の水面が歌うようにさざめいて、ぼんやりとした光を放ち始める。
ポウ……
池の畔が、霊的次元から漏れ出た光の中に浮かび上がった。この島の持つ霊的エネルギーと狢たちの妖力が、旋律によって惹かれ、絡み合い、天へと昇っていく。
ドオオオン……
ヒュロロロ……
ポン、ポン、ポン……
チャン、チャン、チャン、チャン……
喜悦と狂熱に満ちた狢たちの演奏に、精霊たちは踊り狂い、季節外れのミズバショウがあちらこちらで狂い咲く。
島を守護する結界が、大きなうねりとなって広がっていく――
***
佐渡の海上を我が物顔で飛び回るサメの大群を、源助は明確な殺意を宿した瞳で観察している。
「源助狢! 源助狢!」
配下の呼びかけに、源助はサメの大群を見つめたまま狢の耳だけを動かした。
「状況は?」
「大佐渡と国仲の海には出没していないとのことであります!」
「そうか。引き続き警戒しろ」
静かな声で命令すると、緊急時のみに使用する思念伝達で、禅達や財喜坊と連絡を取り合う。
〈結界が海岸沿いに展開された。とっととサメ共を駆逐するぞ〉
〈まずは手当り次第、斬り捨てていくとするか〉
〈追い込み漁なら、わしに任せておけ〉
必要最低限の打ち合わせを済ませると、源助はようやく海から目を離し、あらかじめ出しておいた革製の細長いハードケースの前に膝を着いた。
「そ、それは!」
「まさか、こんな道楽が役に立つ日が来るとはなあ」
源助は感慨深げに呟くと、ケースに収められていたそれを手に取って再びサメの大群に目を向ける。
「げ、源助狢……」
「心配すんな。あんな得体の知れないサメ共に、俺たちの佐渡島を荒らされてたまるかよ」
頼もしい笑みを浮かべてそう言うと、手近なサメの頭部に狙いを定めて、右手の中に自身の妖力を凝縮する。
「目に物を見せてやろうじゃねえか。佐渡の狢の底力ってやつを」
人間たちが普段と変わらない平穏な夜を迎える裏で、佐渡島の守護を預かる化け狢と、前代未聞のサメの怪異との激しい戦いが始まろうとしていた。
ピイイイィ……
海鳥の影が、上弦の月を横切った。海鳥は何度かまりか達の頭上を旋回すると、はるか沖合へと飛び去ってしまった。
「カナ、どうしたの?」
「……うんにゃ、なんでもない」
カナは上空から視線を戻すと、たらい舟の縁からひょっこりと顔を出して海面を覗き込んだ。
「たらいなんぞが舟になるものかと思うたが、こうして乗ってみると案外趣きがあって良いものじゃな」
まりかとカナは現在、佐渡観光の目玉でもあるたらい舟に乗って夜の海を進んでいる。直径1.5mの大きなたらいは一見すると不安定なようにも思えたが、案内役の狢・お咲の熟練した櫂捌きにより、たらい舟はすいすいと静かな海面を進んでいた。
まりかは、怪異との対峙を前に舟の中でくつろいだ姿勢を取りつつも、微妙に居心地の悪そうな表情で辺りを見回している。
「それに、夜に乗るなんて普通ならまず経験できないわよ。仕事なのに、ちょっと余計に楽しんじゃってるわね」
「少しくらい楽しんだところで、罰など当たらんわい」
「うん、まあそうね……。そうだ、さっき禅達さんから貰った勾玉だけど」
まりかは、懐から細い紐が通された勾玉を取り出すと、手のひらに乗せてカナの前に差し出した。
「どう? 私の見立てだと、相当古いもののように感じるけど」
「ふむ」
カナはたらい舟の縁から手を離すと、美しく磨かれた朱色の勾玉を凝視する。
「……そうじゃな。あの狢共よりも遥か昔に作られた物のようじゃ」
カナは、紅葉のような小さな手を、まりかの手に重ねるような形で勾玉に翳した。
「霊力の、量は大したことないが、質は相当良い。これは何かしらの神とかではなく、この島の土地そのものが持つ霊力じゃな。まあ、このままでも魔除け程度の働きはしてくれるじゃろう」
「魔除けかあ。私には必要無いけど、せっかくいただいた物だし、たまには使ってみようかしら」
そんなことを言いながら勾玉を首に掛けるまりかを、カナはやれやれという表情で眺める。しかし、それについてとやかく言うことはせず、代わりに当たり障りない疑問を口にしてみる。
「勾玉といえば、水晶の核に使われた物体じゃな。あの勾玉はまさしく『水晶』製だったらしいが、その朱色の勾玉は何製なんじゃろうな」
「多分、赤玉石だと思う。本土でも採れるらしいけど、佐渡の赤玉石は特に上質だってガイドブックに書いてあったわ。それと……」
まりかは、首に掛けた朱色の勾玉に視線を落として微笑みを浮かべた。
「赤玉石は、無色透明の水晶になる途中で、赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって出来上がるのですって。つまり、朱色の水晶とも言えるんじゃないかしら」
「ふうむ」
まりかの回答に、カナが勾玉とまりかの顔を見比べながら顔をしかめた。
「その勾玉といい、あの袈裟を着た化け狢といい。よもや、佐渡くんだりまで来てあのふたりを思い出すとはのう」
「そうそう! あのふたりを連想しちゃうわよね」
「むむう…………そうじゃ!」
カナの顔が、しかめっ面からあくどい笑顔に切り替わった。
「次にあの小僧に会ったら、禅問答を仕掛けてやるとするか!」
「止めてあげなさいよ……」
「おふたり様、着きやした」
お咲が控え目な声で、ふたりに目的地への到着を知らせた。
「ありがとう、お咲さん」
まりかはお咲に礼を述べると、たらい舟の縁を乗り越えて海面に立った。続いてカナがたらい舟を降りると、まりかはお咲に先に戻るようにと促す。
「でも、寒戸狢から、おふたり様にご一緒するようにと……」
「これから何が起こるか予測できない以上、あなたは安全な陸地に戻った方が良いわ。それにね、私は海の幽世には慣れっこなのよ」
「……分かりやした。お気をつけて」
お咲はぺこりと頭を下げると、行きよりも速度を上げて島へと引き返していった。
「安心させるためとはいえ、慣れっこは言い過ぎじゃろう」
精一杯に舟を漕ぐお咲を見送りながら、まりかとカナはすっかり恒例となった応酬を繰り広げる。
「言われなくたって、知らない海の幽世を甘く見てなんかないわよ」
「どうだかのう。後で泣きつく羽目になってもわしは知らんからな」
「あなたこそ、伊豆大島の時みたいに邪魔しないでよね」
「するわけ無かろう! わしだって少しは学習しとるわい!」
「うん、分かってる」
返事をしたまりかの声が、急に緊張味を帯びた。カナも同時に、夜闇に染められた海面上に小さな人影が現れたのを認める。
まりかは〈夕霧〉を本来の杖の姿に戻すと、着杖の姿勢で人影を待ち構えた。カナは少し後ろに下がって、ひとまずは成り行きを見守ることにする。
「――――」
ふたりの前に、小さな老婆の姿をした妖が現れた。白い蓬髪にボロボロの着物、口には鋭い牙を生やし、背中には臼を背負っている。狢たちから聞いていた「臼負い婆」の特徴と、ピタリと一致していた。
「……」
老婆が、まりかを見た。蓬髪の合間から覗く白濁した鋭い双眸が、最初にまりかを見て、次にカナの姿を捉える。すると、髪と同じ白色の眉が怪訝そうに顰められた。
「人魚じゃと? それも人間との合いの子ではない、れっきとした妖じゃな? 聞いてた話と違うではないか!」
「どういうこと?」
臼負い婆の言葉に、まりかは警戒心を高めた。とりあえず無難に問い返すと、次に取るべき対応について素早く思考を巡らせる。
幸いにも、事前に抱いていたイメージとは裏腹に、臼負い婆はお喋り好きな妖だった。
「どうもこうも! 海洋怪異対策室には人間か妖との混血しかおらんから、大した事はないと言われたんじゃよ! あの男、このわしに大嘘を吐きよって!」
「あら、そうなの」
臼を背負った前かがみの姿勢で喚き散らす老婆に、まりかは余裕の表情を作って微笑みかける。
「実は私、この人魚と使い魔の契約を結んでるの。使い魔は海洋怪異対策室の人員には含まれないから、その人は嘘をついたというわけではないと思うわ」
「言わなかったなら同じ事じゃい!」
老婆は、まりかの正体を疑おうとはしなかった。その場でバシャバシャと地団駄を踏んで鬱憤を発散させると、ニタリとした嫌らしい笑みを皺だらけの顔に浮かべた。
「まあ良い。たかが人魚一匹、どうとでもなるわい。予定通り、このまま暴れさせてもらうとするからのう。せいぜい覚悟するがいい!」
そう叫びながら痩せ細った腕で臼を高々と持ち上げると、雄叫びを上げながら海面に叩きつけてしまった。
「!?」
「カーッ! せいせいしたわい!」
ズブズブと海中に沈んでいく臼には目もくれず、老婆は腰に手を当ててウンと気持ち良さそうに背筋を伸ばす。
「……お前さんには分からんじゃろう」
ゴキゴキと首を鳴らしながら、異様にギラついた目でまりかを見る。
「来る年も来る年も、誰にも顧みられることなく臼を背負い続けることの虚しさを。そして、取るに足らない有象無象の怪異として、忘れ去られていくことの恐怖を!」
老婆が、スッと片腕を真横に伸ばした。
軽く握った拳の中に、ゆらゆらと何かが出現する。
(えっ?)
まりかは目を疑った。その物体は、臼負い婆という古の妖が手にするにも、海の上で見るにも似つかわしくない、完全な人工物である「機械」だったのだ。
更に老婆自身も、急速な変化を遂げていく。白髪は根本から毛先までくまなくショッキングピンクに染まり、首から下は黒光りするライダースーツとバイクグローブ、バイクブーツによって固められる。極めつけに白濁した双眸が偏光サングラスによって覆い隠されたところで、老婆は腰を低く落とし、両手でガッシリと「機械」――チェーンソーを構えた。
「…………チェーンソー?」
「何故にチェーンソー?」
「アーッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」
言葉を失うまりかとカナの前で、老婆が狂気の笑みを浮かべて高らかに哄笑した。
「カビ臭い臼なんぞチンタラ背負ってられるかーい! 流行りは、チェーンソーじゃあああっ!!」
「あん……?」
「なんなの、これ……」
あまりにも現実味に欠けたB級映画顔負けの展開に、まりかもカナも困惑するしかない。しかし、そんな弛緩した雰囲気はすぐに終わりを告げた。
「セット・オン」
老婆はニヤリと笑うと、いつの間にか手にしていた薄い円盤状の物体を頭部にズブリと沈めていく。
「!!」
夜闇に覆われていた佐渡の海が、ステージ照明を当てた時のようにパッと明るくなった。同時に、大量のホホジロザメが次から次へと出現し、みるみるうちに上空を埋め尽くしていく。
「やっぱりあなたが……!」
「ファイヤーーーッ!!」
老婆が絶叫しながら、チェーンソーのスターターグリップを勢い良く引っ張った。
ドゥルンッ!
初爆の音と共にエンジンが始動し、ソーチェーンがゾッとするような金属音を発しながら高速回転する。
牙を生やした老婆の口が、三日月型にニイッと歪められた。
「その棒切れごとバラしてくれるわい!」
「ッ!」
「まりか!」
老婆は、飢えた獣のように涎を撒き散らしながら海面を蹴ると、まりかの柔い肉体を断ち切るべく大きくチェーンソーを振りかぶった。
***
島の南側、小佐渡と呼ばれる地域のとある山中。
ミズバショウが群生する池の畔に、団三郎とお杉、そして配下の狢たちが集っている。周囲を原生林に囲まれ、現世においても神秘的な雰囲気を放つこの池は、古来より信仰の対象として祀られてきた。
それこそ、狢たちが佐渡島を支配するよりも、遥かに遠い昔から。
「お杉」
団三郎が、隣に立つお杉に訥々と話しかける。
「俺の方こそ、悪かった。この件が片付いたら、なんでもひとつだけ我儘を聞いてやる。だから、どうにか機嫌を直してくれないか」
「なんでもだって?」
団三郎の口をついて出た言葉に、お杉がプッと吹き出した。
「そんなこと言ってえ。あたしがまた、人間の男を誘いたいって言ったら、どうするつもりだい?」
「おい」
「冗談だよ」
「……」
お杉が、団三郎の身体にもたれかかった。やや硬めの獣毛に白く柔らかな頬を埋めて、秘め事を明かすようにそっと囁きかける。
「あたしはね、この佐渡島を愛している。誰であろうと、島に害をなす存在をあたしは許さない。あんたも、それに他の連中だって、その想いだけは皆変わらないはずだろう?」
「……ああ、その通りだ」
団三郎が、鋭い爪の生えた前足でお杉の頭を優しく撫でた。お杉は顔を上げて団三郎を見つめると、さも可笑しそうにクスクスと笑う。そして、配下の狢たちを振り返ると、腹の底から威勢の良い声を張り上げた。
「さあさあ、お前たち! 久々の〈奉納祭〉だ! この島に宿りし古き神々を、あたしら狢の技と力で大いに悦ばせてやろうじゃないか!」
「「「オーーーーッ!!」」」
お杉――〈関の寒戸〉の威厳と気迫に満ちた言葉に、狢たちが一斉に鬨の声を上げた。お杉は満足げな顔で狢たちを見渡すと、着物の帯に挟んでいた篠笛を手に取って口元に引き寄せた。
「うむ」
団三郎もまた、肉球のついた前足を宙に翳して、六尺はあろうと思われる巨大な太鼓を出現させる。するとお杉が、篠笛から唇を離して悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「せっかくの〈奉納祭〉だ。ちょいとお色直ししてみるとするよ」
お杉の外見が、より狢に近い形態に変わり始めた。口や鼻、耳は狢のそれに変化し、全身の肌を獣毛が覆う。終いに、ふわふわの尻尾が腰から伸びると、お杉は着物をはらりと脱ぎ捨てて団三郎を流し目で見た。
「どうだい? あんたはこっちの方が好きだろう?」
「いいから始めるぞっ!」
団三郎は変化したお杉の豊かな腹部から目を逸らすと、撥で力強く鼓面を打った。続いてお杉も、たおやかな仕草で篠笛を構え、妖力を乗せた暖かな息を篠笛の内部に吹き込む。配下の狢たちもまた、小鼓や大鼓、チャッパなどの小さな楽器を鳴らし始めた。
ドオオオン……
ヒュロロロ……
ポン、ポン、ポン……
チャン、チャン、チャン、チャン……
雷にも似た太鼓の力強い律動に、川のせせらぎを想わせる透き通った篠笛の音色、更には小さな楽器たちの素朴で賑やかな音が重なって、ひとつの音の波として調和し、増幅する。
魂を揺さぶる旋律に、大地が、大気が鳴動し、草木がその身をわななかせる。池の水面が歌うようにさざめいて、ぼんやりとした光を放ち始める。
ポウ……
池の畔が、霊的次元から漏れ出た光の中に浮かび上がった。この島の持つ霊的エネルギーと狢たちの妖力が、旋律によって惹かれ、絡み合い、天へと昇っていく。
ドオオオン……
ヒュロロロ……
ポン、ポン、ポン……
チャン、チャン、チャン、チャン……
喜悦と狂熱に満ちた狢たちの演奏に、精霊たちは踊り狂い、季節外れのミズバショウがあちらこちらで狂い咲く。
島を守護する結界が、大きなうねりとなって広がっていく――
***
佐渡の海上を我が物顔で飛び回るサメの大群を、源助は明確な殺意を宿した瞳で観察している。
「源助狢! 源助狢!」
配下の呼びかけに、源助はサメの大群を見つめたまま狢の耳だけを動かした。
「状況は?」
「大佐渡と国仲の海には出没していないとのことであります!」
「そうか。引き続き警戒しろ」
静かな声で命令すると、緊急時のみに使用する思念伝達で、禅達や財喜坊と連絡を取り合う。
〈結界が海岸沿いに展開された。とっととサメ共を駆逐するぞ〉
〈まずは手当り次第、斬り捨てていくとするか〉
〈追い込み漁なら、わしに任せておけ〉
必要最低限の打ち合わせを済ませると、源助はようやく海から目を離し、あらかじめ出しておいた革製の細長いハードケースの前に膝を着いた。
「そ、それは!」
「まさか、こんな道楽が役に立つ日が来るとはなあ」
源助は感慨深げに呟くと、ケースに収められていたそれを手に取って再びサメの大群に目を向ける。
「げ、源助狢……」
「心配すんな。あんな得体の知れないサメ共に、俺たちの佐渡島を荒らされてたまるかよ」
頼もしい笑みを浮かべてそう言うと、手近なサメの頭部に狙いを定めて、右手の中に自身の妖力を凝縮する。
「目に物を見せてやろうじゃねえか。佐渡の狢の底力ってやつを」
人間たちが普段と変わらない平穏な夜を迎える裏で、佐渡島の守護を預かる化け狢と、前代未聞のサメの怪異との激しい戦いが始まろうとしていた。