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作者: こむらまこと
第13話 横浜港の龍神〈一〉
 とある夕刻、象の鼻桟橋を臨むビルの3階で、朝霧まりかは事務所内を掃除していた。
「明日はどうやって過ごそうかしら」
 戸棚の上を水拭きしながら、来たるべき休日の過ごし方について独り頭を悩ませる。
 今日は金曜日。退勤前に事務所内を整理整頓するのはいつもと同じだが、次の日が休日の場合は、更に30分程度の時間を確保して掃除を実施することにしていた。
 まりかは水拭きを終えて脚立を片付けると、今度はモップを手にして、普段よりも丁寧に床掃除を始める。
 伊豆大島でカナと出会ってから、早いもので2ヶ月が経過しようとしていた。季節は春へと移り変わり、山下公園の草花の精霊たちも、少しずつ眠りから目覚めている。
 そして、まりかとカナとの同居生活についてだが、まりかの創意工夫と忍耐により、最近になってやっとライフサイクルが安定しつつあった。
 平日、まりかの仕事中は、昼食時を除いて4階の自宅部分に引きこもらせている。意外にもカナは、独りきりで外出しようとしたことが一度も無い。その代わりに、暇つぶしの道具やスイーツを多大に要求してくることが、まりかの目下の悩みとなっている。
 そういうわけで、休日ともなれば、まりかはカナを連れてあちらこちらの観光名所を回っていた。
 先週は、横浜ランドマークタワーの展望フロア。その前の週には、赤レンガ倉庫。超高層ビルのとてつもない高さに興奮し、そこかしこで売られている多種多様な食べ物に舌鼓を打ち、これまでのところ、カナは横浜の街を大いに満喫している。
(そうなると、いよいよコスモワールドデビューということになりそうね)
 ただでさえ、あのデジタル時計のついた観覧車は目立つのだ。カナが行きたいと言い出すのも、時間の問題だろう。もし連れて行ったら、全アトラクションを制覇するとかそんなことを言い出すに違いない。それに付き合うのは大変そうだが、それが嫌だとは思わなかった。
 掃除を終えて、コーヒーメーカーを片付けながら、まりかはコスモワールドの思い出を振り返る。
 コスモワールドに連れていってくれたのは、両親だけではない。白灯台の付喪神・すばると、赤灯台の付喪神・北斗の2人と一緒にジェットコースターに乗ったこともあるし、とまりかの3人で観覧車に乗ったことだってある。
 返す時が来たのだと、まりかは思う。今度は、自分が誰かを楽しませる番なのだ。
「よし。そうと決まれば、今夜は早めに寝なきゃね」
 一段落してデスクに戻り、受信メールをチェックする。急ぎの用件が舞い込んできていないことを確認すると、さっさとウィンドウを閉じてノートパソコンの電源を落とした。
 最後に、デスクの掃除と整理整頓を始めようとしたところで、事務所の電話が鳴り響く。
「はい、朝霧海事法務事務所です」
 ワンコールが鳴り終わる前に、サッと受話器を取って応答した。
「……ええ、はい」
 相手が目の前に居るわけでもないのに、ついつい頷いてしまう。まりかの癖のひとつである。
「……そういうことでしたら、階下まで来ていただければ……はい、では後ほど」
 まりかは最後に大きく頷くと、電話機のフックスイッチを静かに指で押して受話器を置いた。
「少しだけ空けるけど、すぐに戻るから」
 水槽の金魚たちに声をかけた上で、玄関に向かう。
 電話の主は、父の代からの取引相手だった。なんでも、たまたま事務所の近くに来る用事ができたため、本来は事務所あてに郵送するつもりだった書類を、直接事務所に持参することにしたらしい。
 もう少し早めに電話をかけてくれても良いのにと思いつつ、昔馴染みの感覚を持ち続けてくれているということでもあるのだろうとも考える。
 長時間の立ち話をしないようにせねばと肝に銘じながら、扉を開けようと手を伸ばした。
 ピーンポーン。
 間の抜けたインターホンの音が、まりかのすぐ横で鳴り響く。
「えっ」
 一瞬、さっきの電話主が早くも事務所に辿り着いてしまったのかと焦ったが、モニターを見てすぐに、全くの別件であることが分かった。
(――これって)
 モニターに映る人物を見て、まりかは眉をひそめたものの、すぐに応答する。
「はい、どちら様でしょうか」
「あの、海上保安庁の者なのですが」
(やっぱりそうだ)
 まりかはため息をつくと、扉を開けてその人物と対面した。
「事前連絡も無しに、どのようなご用件でしょうか」
 言葉に棘を含んでいる自覚はあるが、この場合は全面的に相手に非があるので、このくらいは許されるだろうと考えている。
「それについては、非常に申し訳ないと思っております」
 相手は謝罪の言葉を口にして、落ち着いた動作で証票を広げると、名乗りと用件を述べ始めた。
第三管区だいさんかんく海上保安本部かいじょうほあんほんぶ、海洋怪異対策室の、菊池と申します。本日は、海の怪異について何かしらのお知恵をお借りできればと考え、伺わせていただきました」
 菊池と名乗った海上保安官は、男性だった。歳の頃はせいぜい20代半ば、まりかと大して変わらないように見える。制服らしきものを身につけているが、まりかが知る一般的な海上保安官の制服とはデザインが全然違った。
 パッと見で共通しているのは、色が青系統であることと、頭に乗せたマリンキャップに付いたコンパスマークくらいである。銀色の金具と飾り紐の付いたマントの下は、詰襟のブレザーとスラックス。足元には、綺麗に磨き上げられた革靴を履いている。
「……どうぞ、お入りください」
 ほんの一瞬だけ追い返そうかと考え、止めておくことにする。今この瞬間にも、先ほどの電話主が階下でまりかを待ち侘びているのかもしれないのだ。これ以上、時間を無駄にするわけにはいかない。
 それに、この事務所には心強い味方が3人もいるのだ。
「実は、事務所の外に急用がありまして。数分で戻りますので、少々お待ちください」
 まりかは応接用のローテーブルではなく、書棚の前に置いてある作業机に菊池を案内した。
「お忙しいところ、本当に申し訳ありません」
 菊池は恐縮した様子で帽子とマントを脱いでから、折りたたみ椅子に静かに腰かける。
 その様子を見届けるのもそこそこに、まりかは急ぎ足で玄関に向かった。
『3人とも、よろしく』
 水槽の横を通り抜ける際、菊池に気付かれないように小声で金魚たちに声をかける。
 まりかは階段を下りながら、職員不在の事務所内における彼の振る舞い次第では、今後一切の海洋怪異対策室への協力を拒もうと決心した。



 事務所の扉が完全に閉まった途端、菊池あきらは脱力して作業机に突っ伏した。
「どうして俺が、こんなことしなきゃならねえんだよ」
 絶望的な表情で大きく息を吐いて、両手で頭を抱え込む。
 アポ無しで押しかけることが無礼千万な行為であることくらい、明にも分かっている。あの海事代理士の女性には言わなかったことだが、実は何度かこの事務所に電話をかけてみたのだ。しかし、間の悪いことに何度かけても通話中だったため、やむを得ずそのまま事務所に出向いたという次第である。
(室長も、あんな案件蹴っちまえばいいんだよ)
 明は、海洋怪異対策室室長の厳つい顔を思い浮かべて、陰鬱な気分を一層深める。
 完全に手詰まりの状態であると報告した明に対して、朝霧海事法務事務所の存在を教えたのは室長だった。
『まだ若いが、相当の霊力と技術を持っているらしい。彼女なら、解決の糸口を見い出せるかもしれん』
 有無を言わさぬ口調でそう断言されてしまうと、まだ下っ端職員に過ぎない明としては、案件を投げて定時退庁するという訳にはいかなかった。
 自衛隊ほどでは無いにせよ、上意下達が基本となっているこの組織においては、自らの意思に反した行動をとらねばならない場面も少なくない。なかなか世知辛いが、明としては、あの海事代理士の女性にわざわざそんな事情を話す気は無かった。
 組織外の人間からしてみれば、明が命令されたのかどうかなど、全くもって関係の無い話である。
(あれは、どう考えても怒ってたよな)
 明は、身体を起こして事務所内を見渡してみる。
 事務所内には、明しか居ない。数分で戻るとは言っていたが、それにしたって不用心では無かろうか。ましてや、彼女は間違いなく、明に対して最悪な印象を抱いている。そんな人間に、よりにもよって法務事務所の留守を任せるものだろうか。
(もしかすると、少しくらいなら事務所を空けても差し支えないと信じるに足る何かが、この事務所にはあるのかもしれないな)
 明は、壁にかかった戦時徴用船の絵画や結索けっさく標本を、数秒ずつ凝視してみた。
「……なんもねえな」
 額縁の裏にまじないの類が仕込まれているのはよくある話だが、こうして見た限りでは特に変わったところは感知できない。
 明は、額縁から視線を外して小さく欠伸をした。
(額縁を裏返して、直接確認する方が早いんだけどさ)
 とはいえ、誰にも見られていないことを理由に、事務所内の物品を勝手に動かすような真似をするつもりは無い。
(十中八九、協力は断られるだろうな。そりゃあそうだ。さっさと引き下がって、やっぱり無理でしたって報告して退庁してやろう)
 今日は金曜日なのだ。明日も出勤の予定は無いし、早く帰って映画を観るなり読書をするなり、いつもより夜更かししてのんびり過ごしてやろうと意気込んでいる。
「ん?」
 明は、目をしばたいた。
 水槽内をゆったりと泳いでいる金魚たちが、こちらを見ていた気がしたのだ。
『ヌシ! 今日は煎餅を持ってきてやったぞ!』
 明の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。
 ヌシと呼ばれていた、歳経た鯉の大妖。外部の攻撃的な怪異や妖たちから池の生き物たちを護っていた、正にヌシというべき存在だった。
「もしかして」
 少し迷ってから、席を立ってゆっくりと水槽に近づく。
 水槽には、3匹の金魚がいた。派手な模様が2匹と、地味な模様が1匹。明には金魚についての詳しい知識は無かったが、その大きさ、そして妖力の高さから、おそらく何十年も生きているだろうことが予想された。
(やっぱり、怪異化してる。しかも、3匹全員だ)
 金魚たちの額に小さな角が生えているのを見つけて、明は口元を緩ませる。怪異化した動物の全てに角が生えるという訳では無いので、角が生えた動物を見つけると、明はなんだか得をした気分になってしまう。
 もっとも、このことは誰にも話したことは無い。そして、これからも話すつもりは全く無い。
(なるほど、みっちり監視されていたわけか)
 明は心の中で苦笑すると、身をかがめて目線を水槽の高さに合わせた。
「えっと、初めまして。菊池明といいます」
「……」
 返事は無い。
 明は、そのまま金魚たちに話しかける。
「今日は、突然押しかけてきて、本当に申し訳ないと思ってる。多分、朝霧さんとの話はすぐに終わると思うし、俺はすぐにここを出ていく。もちろん、朝霧さんが戻ってくるまでは何もせず大人しく待っているつもりだ。だから、安心してほしい」
「……」
 3匹のうち、地味な色をした金魚が、正面から明を
「ごめんごめん」
 普通の金魚とは明らかに異質な、圧を感じさせるその視線に、明は慌てて水槽から距離をとる。
(あの妖力の高さなら、変化へんげもできるかもしれないな)
 もっとも、明には絶対にその姿を見せないだろうが。
 明は水槽に背を向けると、作業机に戻ろうとした。



 時を遡ること数分前。
「おいっ、起きんか! このっ!」
 事務所のひとつ上の階、まりかの寝室のベッドの上で、カナは動かなくなったポータブルDVDプレーヤーと格闘していた。
 ちなみに、今のカナは全裸である。パーカーはもちろん、あの腰布すら身につけていない。
「ええいっ! もういいわいっ」
 ボタンを連打し、背面を叩き、それでも反応しないプレーヤーを投げ出すと、叫び声を上げてベッドの上で大の字になる。
「うええ、暇じゃあ」
 パタリと倒した腕の先には、まりかから与えられたマンガが何冊か平積みされている。なんでも、吸血鬼ヴァンパイアと吸血鬼ハンターのコンビが主役のコメディということであるが、残念なことに人間社会の諸事に明るくないカナにとって、この漫画におけるコメディの文脈を捉えることは極めて困難だった。
(続きが早う観たい)
 ぼけっと天井を眺めながら、直前まで観ていた外国製ホラー映画の、カナにとっては抱腹絶倒だった場面の数々を思い起こす。
(まりかは、あとどのくらいで戻ってくるんじゃ)
 眼球だけを動かして部屋の時計を確認したが、最低でも30分はかかるだろうと思われた。
「そんなに待てるかっ!」
 カナは勢い良く起き上がると、壊れたプレーヤーを掴んで寝室を出て、玄関とは反対方向に足を向けた。
(昼食時以外は来るなと言っておったが、時間も時間じゃし、たまには良かろう)
 物置として使われている空部屋に入り、段ボール箱や衣装ケースの間を通り抜け、普段は使用されていない、階下へと繋がるもうひとつの扉を開ける。
(まーた服を着ろと怒るんじゃろうが、わしとあやつしか居らんのだから別に良いじゃろう。あ、金魚たちもおったな)
 まりかに貰ったパーカーによって衣服に対する印象が激変したとはいえ、未だカナにとって、服を着るというのはそれなりに煩わしい行為だった。あのパーカーに関しても、肌触りやデザインに関しては非の打ち所は無いのだが、やはり長時間着ていると、どうしても暑いと感じてしまう。
 そもそも、あの腰布ですら、やむを得ず身につけているに過ぎない。カナにとっては、全裸こそが正義なのである。
 カナは3階の扉を開けて、書庫として使われている部屋をスタスタと通り抜けると、事務所に繋がる扉を大きくノックした。
「おい、まりか! 映画が観れなくなった! どうにかしろ!」
(扉を開ける前にちゃんとノックするわし、えらい!)
 カナは小さな拳でドンドンと扉を叩きながら、得意気な顔でまりかの返事を待ち構えた。



 菊池明が作業机に戻ろうとしたその時、突然、事務所の奥の扉がドンドンと叩かれ出した。
「おい、まりか! 映画が観れなくなった! どうにかしろ!」
「こ、子供!?」
 思いもよらぬ出来事に、明はその場で動きを止めて慌てふためく。
(俺が声をかけるのは、不味いか?)
 もしこれが屋外だった場合、赤の他人である自分が知らない子供に声をかけるのは、完全に御法度である。しかし、この状況で無言を貫くことが果たして適切な行動と言えるかどうか、明は必死で頭を巡らせる。
(さすがに朝霧さんの不在くらいは、伝えても問題無いよな?)
「おらぬのか!? 開けるぞ!」
 そうこうしているうちに、痺れを切らしたカナが扉の取手に手を伸ばす。
 明は慌てて叫んだ。
「あ、朝霧さんは不在で!」
 バターン!
 カナが、力任せに扉を開け放った。まりかが見ていたら、もっと扉を大切に扱えと諌めたことだろう。
「は?」
「んん?」
 ガタン。
 ポータブルDVDプレーヤーが、カナの手を離れて床に落ちる。
 明とカナは、しばし呆然と見つめ合う。
 こうして、いくつものスイスチーズの穴を潜り抜け、海上保安官・菊池明と人魚・カナは、奇跡的な対面を果たしたのだった。
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