第14話 横浜港の龍神〈ニ〉
「はあ。思ったより、話が長引いちゃった」
まりかは、とじ紐付きの角2封筒を両腕で抱えながら、テンポ良く階段をかけ上る。
(事務所にお迎えしてたら、更に話し込むことになってただろうなあ)
あのエリカと親子をやってきただけあって、他人の長話に付き合うこと自体はそこまで苦痛とは感じない。それでも金曜日の終業間際にそれをされるのは、いくら何でもごめん蒙りたいと感じるのが人情である。
あと数段で、階段を上り終えるという時だった。
「まりか様!」
まりかの前に、水槽で泳いでいたはずのトネが現れる。
それも、酷く取り乱した様子で。
「トネ!? 事務所の外に出てくるなんて、一体何があったの!?」
普段、3匹の金魚たちが事務所の外に出ることは、まず無い。怪異化しているとはいえ、金魚たちにとって水槽から離れ過ぎることは、そのまま生命の危機に直結する。
それに、金魚たちにはまりかがいた。まりかが色んな話しをしたり、色んな食べ物を買ってきてくれるだけで、金魚たちは十分に満ち足りているのだ。
つまり、これはかなりの異常事態が起こっていることを示している。
(まさか、あの海上保安官!)
真っ先に菊池明を疑ったまりかだが、トネの言葉がすぐにそれを否定した。
「そ、それが、カナ様が……!」
「っ!」
まりかは数段飛ばしで一気に3階まで辿り着くと、俊敏かつ無駄の無い動作で事務所の扉を開けて身体を滑り込ませる。
「!!!!」
信じられない光景が、目に飛び込んできた。
「どうか、お止め下さい!」
「まりか様がお怒りになってしまいます!」
キヌとタマが、オロオロとカナの頭上を飛び回っている。
「痛っ! ちょっ、まっ」
菊池明が、事務所の隅で頭部を庇いつつ、カナとの対話を試みようとしている。
「ぬおりゃーーー! このヘンタイ、ヘンタイめがぁ!」
そしてカナは、疑いようもなく全裸だった。
大事なところが丸見えの状態で、書棚の蔵書を次から次へと明に向かって投げつけている。
まりかは、事務所の奥の扉の前にポータブルDVDプレーヤーが落ちているのを見て、全ての事情を察した。
「ど、どうしましょう」
トネがおずおずと、まりかに訊ねる。
まりかは、何も言わない。
トネは、まりかの顔を覗き込んだ。
「……」
「まりか様?」
心配するトネをよそに、まりかは無言を貫いたままカナに向かって足を踏み出す。
「これで、トドメじゃあ!」
「あ、それは!」
「カナ様、それだけは本当にお止め下さい!」
凶悪な笑みを浮かべたカナが手にしたのは、枕の代わりに使えそうな程の分厚さがある加除式の法令集だった。
加除式とはその名の通り、内容に変更が生じたページのみを加除することにより、丸ごと1冊を買い直すことなく最新の情報を保つことを可能とする書籍の方式である。
加除式の書籍は、扱いやすいようにバインダー方式が採用されている。それはつまり、乱暴に扱えば容易に空中分解するということを意味する。
「くらえーー!!」
カナが雄叫びを上げながら、重たい法令集を力いっぱい頭上に振り上げた。
その時。
「ひっ」
カナの鼻先スレスレに、〈夕霧〉の杖先が突きつけられる。
痺れる両腕を上げたまま、カナは恐る恐る〈夕霧〉の持ち主に視線を向けた。
「……ふふっ」
〈夕霧〉を構えたまりかが、ニッコリと笑う。
「そ・こ・ま・で」
「……はい」
笑顔という名の無言の圧力に、カナはあえなく降伏したのだった。
およそ10分後。
まりかは応接用のソファに腰かけた菊池明の前に、ドリップパックで淹れたコーヒーを差し出した。
「本当に、本当にごめんなさい。完全に私の監督不足だったわ」
「いえ、もう気にしないでください。元はと言えば、こんな時間に押しかけてきた俺が悪いんですから」
明はポケット六法の角が当たった側頭部をさすりながら、苦いブラックコーヒーを喉に流し込む。本当はスティックシュガー2本分程度の甘味が欲しかったが、そのような事を言えた立場でもないので、ここは彼女の誠心誠意をありのままに受け入れておく。
ローテーブルから少し離れたところでは、カナという名前の少女が、緑色のパーカーを着せられた上で床に正座していた。
「海上衝突予防法第五条。船舶は、周囲の状況及び……」
子供には少々重たそうな法令集を膝の上で広げ、まるで読経でもするかのような調子でボソボソと条文を読み上げている。
「うんしょ」
「こらしょっと」
書棚の周辺では、人型に変化した金魚たちが互いに協力し合いながら片付けをしている。
「軽い雑誌類だけをまとめてくれれば十分だから。終わったら、水槽に戻って休んでてね」
「はい、お任せ下さい」
まりかは金魚たちに労いの言葉をかけると、小さく息を吐きながら明の向かいに腰かけた。
「それでは、改めまして。朝霧まりかです」
「三本部海洋怪異対策室の、菊池明です」
まりかは穏やかに自己紹介をしながら、正面に座った海上保安官の様子をさり気なく観察する。
完全なる不可抗力により全裸のカナと対面した挙句、何十冊もの本や雑誌を投げつけられるという災難によるショックからはほとんど立ち直ったらしい。時折、側頭部を押さえているのが気になるが、治療費の類いは一切必要ないと強い口調で宣言されてしまったため、まりかとしても、これ以上は詫びについては言わないことにしている。
次にまりかは、菊池明の人物について考える。
(カナには、特別な興味は無さそうね)
まりかが真っ先に心配したのは、明がいわゆる小児性愛者である可能性だった。しかし、これまでの明の表情や視線の動きから、その可能性はほぼ無しと結論づけている。
ついでに言えば、まりかに対しても特に個人的な興味は抱いていないようだった。
(海保にも、こういう温和で慎ましいタイプの若い男の人がいるのね)
ここに来てようやくまりかは、この海上保安官に対する警戒を緩めることにする。
実の所、まりかが菊池明に対して厳しい目を向けていたのは、何も終業間際のアポ無し訪問だけが理由ではない。
それは、10才頃に起こった出来事。週末にクルージングを楽しんでいた朝霧家の前に巡視艇が現れ、臨時検査を受けるように要求してきたのだ。
それ自体は法的根拠があっての行為なので、何も問題は無い。しかし、その時の海上保安官たちのありえない不手際が、幼いまりかの記憶と心に、鮮明に焼き付けられることとなった。
『パパの大事な物なのに、海に落とすなんてひどい!』
巡視艇から差し出されたタモ網に、まりかの父・利雄の小型船舶操縦士の免許証とクルーザーの検査証書を入れたところ、あろうことかタモ網ごと海中に落としてしまったのだ。
『いやあ、すみません。すぐに拾いますので!』
重要書類を落としたというのに大して悪びれもしない海上保安官。その男の部下らしき若い男性は必死に謝っていたような記憶もあるが、とにかくこの一件により、海上保安庁に対するまりかの印象は、極めて悪いものとなってしまった。
(それでも、少なくとも目の前の彼は、あの時の海上保安官とは違う)
あの出来事から、15年以上も経つのだ。もうそろそろ、過去に抱いた印象を引き摺り続けるのは止めるべきだろう。
まりかはスッと背筋を伸ばすと、改まった口調で明に語りかけた。
「菊池さん」
「はい」
菊池が、緊張した面持ちでまりかを見返す。
「先ほどは、あの子がとんだご迷惑をおかけしました。必ず協力するというお約束はできませんが、それでもよろしければ、お話だけでも聞かせて下さい」
まりかの言葉に、菊池が意外そうな顔をした。それからホッとした様子で、軽く頭を下げる。
「はいっ、それだけでも十分過ぎるくらいです。ありがとうございます!」
こうして、菊池明はやっとのことで、その事件について朝霧まりかに話すことができたのだった。
「トモカズキ、ですか」
菊池明の説明に、まりかは顎に手を当てて考え込む。
共潜とは、海の中に現れる怪異のひとつである。目撃者が海女なら海女の姿に、潜水士なら潜水士の姿にといったように、目撃者そっくりの姿に変化をし、人間を惑わそうとしてくる。その正体は時と場合によりけりで、悪戯好きな海河童が変化しただけということもあれば、蛤の大妖が見せた幻だったという事例、そもそも原因が不明といった場合も少なくない。
「で、そのトモカズキが、海中転落した拳銃を持ち去ったと」
「ええ。お恥ずかしながら……」
事の発端は、こうである。
それは、赤レンガ倉庫のすぐ隣に位置する、海上保安庁の専用岸壁で起こった。
なんと、岸壁に停泊中の巡視船から、とある乗組員が拳銃を海に落としてしまったという。
「当然、銃規制が厳しいこの国で、落とした拳銃をそのまま放置という訳にはいきません。すぐに潜水士たちが岸壁前の海に潜って、拳銃の捜索に当たりました」
そして、トモカズキに遭遇したというわけである。
明は、説明しながら側頭部の辺りを指さす。
「海の怪異、海異への対策として、当庁の潜水士は全員、判別しやすい位置にドーマンセーマンの護符を縫いつけています。それが、トモカズキには無かったわけです」
そして、トモカズキの手には、まさに探していた拳銃が握られていたという。
「そのトモカズキは、これ見せよがしに拳銃を掲げたかと思うと、さっさと背を向けてどこかへ消えてしまったそうです」
海異が絡んだことにより、この事案は完全に海洋怪異対策室の担当となってしまった。可及的速やかに拳銃を取り戻すようにという本部長直々のありがたい命令が下り、他部署の不祥事の後始末をするべく、菊池明は手がかりを求めて幽世の海へと向かったのだった。
「それで、ご相談というのは、トモカズキの居場所についてでしょうか」
「いいえ」
まりかの問いに、明は小さく首を振った。
「実は、既に拳銃の在処は突き止めているのです」
そして、心底困り果てた顔で、明はその話を切り出したのである。
海上保安庁の業務は、多岐に渡る。
数ある業務のうちのひとつに、灯台や灯浮標の保守管理という、航海の安全を守るためのとても重要な仕事が存在するが、その「灯台」には、横浜北水堤灯台、通称赤灯台のような小さな灯台も含まれている。
今日の昼過ぎのこと。菊池明は海洋怪異対策室の室長の指示により、赤灯台の付喪神・北斗の元を訪ねた。
『横浜北水堤灯台の付喪神たる北斗よ、本日は我らの……』
『あ〜、そういうのもういいから。いつも俺らの保守管理、ご苦労さん』
そんなやり取りの後、明は簡単に事情を説明すると、見返りとして「供物」を北斗に手渡した。
『うおお! カラスミと日本酒じゃねえか』
『これで、龍宮城への〈門〉を開けていただけるでしょうか』
明が、北斗を訪ねた目的。それは、横浜港の龍神に助力を嘆願するためだった。
「うちの室長曰く、横浜港の龍神は、怪異や妖たちだけではなく、時には人間に対しても知恵や力を貸してくれる稀有な存在である、とのことです。実際、うちの室長は龍神に接見した経験が一度だけあるらしく、今回の件についても、礼節を尽くせば何かしらの助力が得られるだろうと言っていました」
(海洋怪異対策室の室長って、一体どんな人なのかしら)
まりかはその人物像に興味を持ったが、それよりも今は明の相談事が優先なので、まずはそちらに集中する。
「それで、北斗さんに〈門〉を開けてもらったわけですね」
「え? あ、はい、すぐに開けてもらえました」
(この人、あの付喪神の名前知ってるんだな)
もしかしたら知り合いなのかもしれないと、明は頭の片隅で考える。
『あいつ、面倒くさい性格してるからさ。なんつうか、まあ頑張れよ』
「供物」を抱えて上機嫌な北斗に見送られ、明は〈門〉を通り、龍宮城が存在する幽世の海底へと進入した。
「抜けた先が龍宮城のすぐ前だったので、室長に教えられた通り、門扉を叩いて訪いを告げました」
明は額に軽く片手を当てると、その後に起きた出来事をどう説明したものかと思案する。
「あの、どんなお話でも疑ったりしません。ありのままを話してもらえますか」
まりかは、困惑した明を見かねて、そっと背中を押してやることにする。
「そ、そうですか。それでは」
まるで心を読まれているようだと驚きつつも、まりかの言葉を信じ、龍神との嘘のような本当のやり取りについて語り始めた。
『ああ、あの人間の武器か? 余が持っておるぞ』
姿を現すや否や、顔を薄い布で覆い隠したその龍神は、あっさりとした口調でとんでもない事を言い放ったのだ。
『なっ』
唖然とする明をよそに、龍神は両の手のひらに、それぞれ金色と銀色の物体を出現させる。
『そ、それはっ』
『金色の拳銃と、銀色の拳銃。小僧よ、どちらでも好きな方を選ぶが良い』
『あっ、いえ、その……』
この展開は一体何なのだとヤケになりそうになったが、仮にも明は海上保安官、司法警察職員の一員である。
明は、座禅をする時の要領で心を落ち着かせると、慎重に言葉を選びながら、失くした拳銃の返還を龍神に願い出た。
『どちらも、この下賎なる身が頂戴するには、至極勿体なき宝物であると心得ます。つきましては』
『もうよい! つまらん! 人間なら少しくらい欲を出さぬか!』
龍神は明の言葉を遮ると、両手から金銀の拳銃を消し去り、その場に渦を生成した。
『っ!』
『はるばるご苦労だったな。その土産は置いていけ。では、さらばじゃ』
次の瞬間、渦が明を飲み込んだ。
抵抗する間もなく、視界全体が泡立つ海水で満たされる。
『へっ?』
あまりの急展開に頭が追いつくより前に、明は現世へと帰還していた。
明は、ゆっくりと辺りを見回す。
『は?』
明が立っていたのは、横浜ベイブリッジの真下、海のど真ん中だった。
すぐ横には、巨大な橋脚。真上には、無骨な橋桁。
ようやく状況を理解した明は、思わずこう叫んだ。
『なんっだよ、それ!!』
「……と、いうわけなのです」
そう話を締めくくると、明は温くなったブラックコーヒーの残りを、一気に飲み干した。
コーヒーカップをソーサーに置いて、まりかの反応を確認する。
「……」
まりかは、片手を頬に当てて何かを考え込んでいる。
(これは、呆れられただろうなあ)
龍神が相手とはいえ、仮にも怪異への対処を職務とする人間が、良いように遊ばれただけで終わったのだ。その上、身内だけでは解決に至らず、こうして民間人に泣きつく羽目になっている。
(せめて、危険に巻き込まないようにはしねえと)
正直なところ、室長がこうも簡単に民間人への協力依頼を決めた理由が、明にはよく分からなかった。
相手は、龍神なのだ。そんじょそこらの怪異や妖とは格が違いすぎる。付喪神だって、龍神の足元にすら遠く及ばないだろう。
そのこともあって、明は端から、まりかに助力を頼もうとは考えていない。せいぜい、龍神のご機嫌取りの方法についての耳寄りな情報でも手に入れば万々歳だと思っている。
明は、背筋を伸ばした。
「朝霧さん。身内の恥を忍んで、伺います。どんなに小さなことでも結構です。何か、龍神に関する情報をご存知でしたら、教えていただければと」
「大丈夫です」
まりかが、明の言葉をやんわりと遮った。
すっくとソファから立ち上がると、未だにボソボソと海上衝突予防法を読み上げている少女の元に向かう。
「もういいわよ、カナ。お疲れさん」
「うええ」
まりかが法令集を持ち上げると同時に、カナが正座を崩してぐにゃぐにゃと身体を倒した。
「ちょうど良い機会だから、カナも一緒に行きましょう。どっちみち、そろそろ顔を出さなきゃって思ってたのよ」
「ぬう?」
カナが、話が見えぬという顔で、まりかを見上げる。
「あ、あの。行くってまさか」
「ええ。今から、龍宮城へご案内します」
全く予想だにしなかった展開に、明はただただ、まりかを見つめることしかできない。
そんな明の胸中を知ってか知らずか、まりかは何故か困ったような顔で笑って、その事実を告げたのだった。
「横浜港の龍神・蘇芳様は、私のお師匠様なのです」
まりかは、とじ紐付きの角2封筒を両腕で抱えながら、テンポ良く階段をかけ上る。
(事務所にお迎えしてたら、更に話し込むことになってただろうなあ)
あのエリカと親子をやってきただけあって、他人の長話に付き合うこと自体はそこまで苦痛とは感じない。それでも金曜日の終業間際にそれをされるのは、いくら何でもごめん蒙りたいと感じるのが人情である。
あと数段で、階段を上り終えるという時だった。
「まりか様!」
まりかの前に、水槽で泳いでいたはずのトネが現れる。
それも、酷く取り乱した様子で。
「トネ!? 事務所の外に出てくるなんて、一体何があったの!?」
普段、3匹の金魚たちが事務所の外に出ることは、まず無い。怪異化しているとはいえ、金魚たちにとって水槽から離れ過ぎることは、そのまま生命の危機に直結する。
それに、金魚たちにはまりかがいた。まりかが色んな話しをしたり、色んな食べ物を買ってきてくれるだけで、金魚たちは十分に満ち足りているのだ。
つまり、これはかなりの異常事態が起こっていることを示している。
(まさか、あの海上保安官!)
真っ先に菊池明を疑ったまりかだが、トネの言葉がすぐにそれを否定した。
「そ、それが、カナ様が……!」
「っ!」
まりかは数段飛ばしで一気に3階まで辿り着くと、俊敏かつ無駄の無い動作で事務所の扉を開けて身体を滑り込ませる。
「!!!!」
信じられない光景が、目に飛び込んできた。
「どうか、お止め下さい!」
「まりか様がお怒りになってしまいます!」
キヌとタマが、オロオロとカナの頭上を飛び回っている。
「痛っ! ちょっ、まっ」
菊池明が、事務所の隅で頭部を庇いつつ、カナとの対話を試みようとしている。
「ぬおりゃーーー! このヘンタイ、ヘンタイめがぁ!」
そしてカナは、疑いようもなく全裸だった。
大事なところが丸見えの状態で、書棚の蔵書を次から次へと明に向かって投げつけている。
まりかは、事務所の奥の扉の前にポータブルDVDプレーヤーが落ちているのを見て、全ての事情を察した。
「ど、どうしましょう」
トネがおずおずと、まりかに訊ねる。
まりかは、何も言わない。
トネは、まりかの顔を覗き込んだ。
「……」
「まりか様?」
心配するトネをよそに、まりかは無言を貫いたままカナに向かって足を踏み出す。
「これで、トドメじゃあ!」
「あ、それは!」
「カナ様、それだけは本当にお止め下さい!」
凶悪な笑みを浮かべたカナが手にしたのは、枕の代わりに使えそうな程の分厚さがある加除式の法令集だった。
加除式とはその名の通り、内容に変更が生じたページのみを加除することにより、丸ごと1冊を買い直すことなく最新の情報を保つことを可能とする書籍の方式である。
加除式の書籍は、扱いやすいようにバインダー方式が採用されている。それはつまり、乱暴に扱えば容易に空中分解するということを意味する。
「くらえーー!!」
カナが雄叫びを上げながら、重たい法令集を力いっぱい頭上に振り上げた。
その時。
「ひっ」
カナの鼻先スレスレに、〈夕霧〉の杖先が突きつけられる。
痺れる両腕を上げたまま、カナは恐る恐る〈夕霧〉の持ち主に視線を向けた。
「……ふふっ」
〈夕霧〉を構えたまりかが、ニッコリと笑う。
「そ・こ・ま・で」
「……はい」
笑顔という名の無言の圧力に、カナはあえなく降伏したのだった。
およそ10分後。
まりかは応接用のソファに腰かけた菊池明の前に、ドリップパックで淹れたコーヒーを差し出した。
「本当に、本当にごめんなさい。完全に私の監督不足だったわ」
「いえ、もう気にしないでください。元はと言えば、こんな時間に押しかけてきた俺が悪いんですから」
明はポケット六法の角が当たった側頭部をさすりながら、苦いブラックコーヒーを喉に流し込む。本当はスティックシュガー2本分程度の甘味が欲しかったが、そのような事を言えた立場でもないので、ここは彼女の誠心誠意をありのままに受け入れておく。
ローテーブルから少し離れたところでは、カナという名前の少女が、緑色のパーカーを着せられた上で床に正座していた。
「海上衝突予防法第五条。船舶は、周囲の状況及び……」
子供には少々重たそうな法令集を膝の上で広げ、まるで読経でもするかのような調子でボソボソと条文を読み上げている。
「うんしょ」
「こらしょっと」
書棚の周辺では、人型に変化した金魚たちが互いに協力し合いながら片付けをしている。
「軽い雑誌類だけをまとめてくれれば十分だから。終わったら、水槽に戻って休んでてね」
「はい、お任せ下さい」
まりかは金魚たちに労いの言葉をかけると、小さく息を吐きながら明の向かいに腰かけた。
「それでは、改めまして。朝霧まりかです」
「三本部海洋怪異対策室の、菊池明です」
まりかは穏やかに自己紹介をしながら、正面に座った海上保安官の様子をさり気なく観察する。
完全なる不可抗力により全裸のカナと対面した挙句、何十冊もの本や雑誌を投げつけられるという災難によるショックからはほとんど立ち直ったらしい。時折、側頭部を押さえているのが気になるが、治療費の類いは一切必要ないと強い口調で宣言されてしまったため、まりかとしても、これ以上は詫びについては言わないことにしている。
次にまりかは、菊池明の人物について考える。
(カナには、特別な興味は無さそうね)
まりかが真っ先に心配したのは、明がいわゆる小児性愛者である可能性だった。しかし、これまでの明の表情や視線の動きから、その可能性はほぼ無しと結論づけている。
ついでに言えば、まりかに対しても特に個人的な興味は抱いていないようだった。
(海保にも、こういう温和で慎ましいタイプの若い男の人がいるのね)
ここに来てようやくまりかは、この海上保安官に対する警戒を緩めることにする。
実の所、まりかが菊池明に対して厳しい目を向けていたのは、何も終業間際のアポ無し訪問だけが理由ではない。
それは、10才頃に起こった出来事。週末にクルージングを楽しんでいた朝霧家の前に巡視艇が現れ、臨時検査を受けるように要求してきたのだ。
それ自体は法的根拠があっての行為なので、何も問題は無い。しかし、その時の海上保安官たちのありえない不手際が、幼いまりかの記憶と心に、鮮明に焼き付けられることとなった。
『パパの大事な物なのに、海に落とすなんてひどい!』
巡視艇から差し出されたタモ網に、まりかの父・利雄の小型船舶操縦士の免許証とクルーザーの検査証書を入れたところ、あろうことかタモ網ごと海中に落としてしまったのだ。
『いやあ、すみません。すぐに拾いますので!』
重要書類を落としたというのに大して悪びれもしない海上保安官。その男の部下らしき若い男性は必死に謝っていたような記憶もあるが、とにかくこの一件により、海上保安庁に対するまりかの印象は、極めて悪いものとなってしまった。
(それでも、少なくとも目の前の彼は、あの時の海上保安官とは違う)
あの出来事から、15年以上も経つのだ。もうそろそろ、過去に抱いた印象を引き摺り続けるのは止めるべきだろう。
まりかはスッと背筋を伸ばすと、改まった口調で明に語りかけた。
「菊池さん」
「はい」
菊池が、緊張した面持ちでまりかを見返す。
「先ほどは、あの子がとんだご迷惑をおかけしました。必ず協力するというお約束はできませんが、それでもよろしければ、お話だけでも聞かせて下さい」
まりかの言葉に、菊池が意外そうな顔をした。それからホッとした様子で、軽く頭を下げる。
「はいっ、それだけでも十分過ぎるくらいです。ありがとうございます!」
こうして、菊池明はやっとのことで、その事件について朝霧まりかに話すことができたのだった。
「トモカズキ、ですか」
菊池明の説明に、まりかは顎に手を当てて考え込む。
共潜とは、海の中に現れる怪異のひとつである。目撃者が海女なら海女の姿に、潜水士なら潜水士の姿にといったように、目撃者そっくりの姿に変化をし、人間を惑わそうとしてくる。その正体は時と場合によりけりで、悪戯好きな海河童が変化しただけということもあれば、蛤の大妖が見せた幻だったという事例、そもそも原因が不明といった場合も少なくない。
「で、そのトモカズキが、海中転落した拳銃を持ち去ったと」
「ええ。お恥ずかしながら……」
事の発端は、こうである。
それは、赤レンガ倉庫のすぐ隣に位置する、海上保安庁の専用岸壁で起こった。
なんと、岸壁に停泊中の巡視船から、とある乗組員が拳銃を海に落としてしまったという。
「当然、銃規制が厳しいこの国で、落とした拳銃をそのまま放置という訳にはいきません。すぐに潜水士たちが岸壁前の海に潜って、拳銃の捜索に当たりました」
そして、トモカズキに遭遇したというわけである。
明は、説明しながら側頭部の辺りを指さす。
「海の怪異、海異への対策として、当庁の潜水士は全員、判別しやすい位置にドーマンセーマンの護符を縫いつけています。それが、トモカズキには無かったわけです」
そして、トモカズキの手には、まさに探していた拳銃が握られていたという。
「そのトモカズキは、これ見せよがしに拳銃を掲げたかと思うと、さっさと背を向けてどこかへ消えてしまったそうです」
海異が絡んだことにより、この事案は完全に海洋怪異対策室の担当となってしまった。可及的速やかに拳銃を取り戻すようにという本部長直々のありがたい命令が下り、他部署の不祥事の後始末をするべく、菊池明は手がかりを求めて幽世の海へと向かったのだった。
「それで、ご相談というのは、トモカズキの居場所についてでしょうか」
「いいえ」
まりかの問いに、明は小さく首を振った。
「実は、既に拳銃の在処は突き止めているのです」
そして、心底困り果てた顔で、明はその話を切り出したのである。
海上保安庁の業務は、多岐に渡る。
数ある業務のうちのひとつに、灯台や灯浮標の保守管理という、航海の安全を守るためのとても重要な仕事が存在するが、その「灯台」には、横浜北水堤灯台、通称赤灯台のような小さな灯台も含まれている。
今日の昼過ぎのこと。菊池明は海洋怪異対策室の室長の指示により、赤灯台の付喪神・北斗の元を訪ねた。
『横浜北水堤灯台の付喪神たる北斗よ、本日は我らの……』
『あ〜、そういうのもういいから。いつも俺らの保守管理、ご苦労さん』
そんなやり取りの後、明は簡単に事情を説明すると、見返りとして「供物」を北斗に手渡した。
『うおお! カラスミと日本酒じゃねえか』
『これで、龍宮城への〈門〉を開けていただけるでしょうか』
明が、北斗を訪ねた目的。それは、横浜港の龍神に助力を嘆願するためだった。
「うちの室長曰く、横浜港の龍神は、怪異や妖たちだけではなく、時には人間に対しても知恵や力を貸してくれる稀有な存在である、とのことです。実際、うちの室長は龍神に接見した経験が一度だけあるらしく、今回の件についても、礼節を尽くせば何かしらの助力が得られるだろうと言っていました」
(海洋怪異対策室の室長って、一体どんな人なのかしら)
まりかはその人物像に興味を持ったが、それよりも今は明の相談事が優先なので、まずはそちらに集中する。
「それで、北斗さんに〈門〉を開けてもらったわけですね」
「え? あ、はい、すぐに開けてもらえました」
(この人、あの付喪神の名前知ってるんだな)
もしかしたら知り合いなのかもしれないと、明は頭の片隅で考える。
『あいつ、面倒くさい性格してるからさ。なんつうか、まあ頑張れよ』
「供物」を抱えて上機嫌な北斗に見送られ、明は〈門〉を通り、龍宮城が存在する幽世の海底へと進入した。
「抜けた先が龍宮城のすぐ前だったので、室長に教えられた通り、門扉を叩いて訪いを告げました」
明は額に軽く片手を当てると、その後に起きた出来事をどう説明したものかと思案する。
「あの、どんなお話でも疑ったりしません。ありのままを話してもらえますか」
まりかは、困惑した明を見かねて、そっと背中を押してやることにする。
「そ、そうですか。それでは」
まるで心を読まれているようだと驚きつつも、まりかの言葉を信じ、龍神との嘘のような本当のやり取りについて語り始めた。
『ああ、あの人間の武器か? 余が持っておるぞ』
姿を現すや否や、顔を薄い布で覆い隠したその龍神は、あっさりとした口調でとんでもない事を言い放ったのだ。
『なっ』
唖然とする明をよそに、龍神は両の手のひらに、それぞれ金色と銀色の物体を出現させる。
『そ、それはっ』
『金色の拳銃と、銀色の拳銃。小僧よ、どちらでも好きな方を選ぶが良い』
『あっ、いえ、その……』
この展開は一体何なのだとヤケになりそうになったが、仮にも明は海上保安官、司法警察職員の一員である。
明は、座禅をする時の要領で心を落ち着かせると、慎重に言葉を選びながら、失くした拳銃の返還を龍神に願い出た。
『どちらも、この下賎なる身が頂戴するには、至極勿体なき宝物であると心得ます。つきましては』
『もうよい! つまらん! 人間なら少しくらい欲を出さぬか!』
龍神は明の言葉を遮ると、両手から金銀の拳銃を消し去り、その場に渦を生成した。
『っ!』
『はるばるご苦労だったな。その土産は置いていけ。では、さらばじゃ』
次の瞬間、渦が明を飲み込んだ。
抵抗する間もなく、視界全体が泡立つ海水で満たされる。
『へっ?』
あまりの急展開に頭が追いつくより前に、明は現世へと帰還していた。
明は、ゆっくりと辺りを見回す。
『は?』
明が立っていたのは、横浜ベイブリッジの真下、海のど真ん中だった。
すぐ横には、巨大な橋脚。真上には、無骨な橋桁。
ようやく状況を理解した明は、思わずこう叫んだ。
『なんっだよ、それ!!』
「……と、いうわけなのです」
そう話を締めくくると、明は温くなったブラックコーヒーの残りを、一気に飲み干した。
コーヒーカップをソーサーに置いて、まりかの反応を確認する。
「……」
まりかは、片手を頬に当てて何かを考え込んでいる。
(これは、呆れられただろうなあ)
龍神が相手とはいえ、仮にも怪異への対処を職務とする人間が、良いように遊ばれただけで終わったのだ。その上、身内だけでは解決に至らず、こうして民間人に泣きつく羽目になっている。
(せめて、危険に巻き込まないようにはしねえと)
正直なところ、室長がこうも簡単に民間人への協力依頼を決めた理由が、明にはよく分からなかった。
相手は、龍神なのだ。そんじょそこらの怪異や妖とは格が違いすぎる。付喪神だって、龍神の足元にすら遠く及ばないだろう。
そのこともあって、明は端から、まりかに助力を頼もうとは考えていない。せいぜい、龍神のご機嫌取りの方法についての耳寄りな情報でも手に入れば万々歳だと思っている。
明は、背筋を伸ばした。
「朝霧さん。身内の恥を忍んで、伺います。どんなに小さなことでも結構です。何か、龍神に関する情報をご存知でしたら、教えていただければと」
「大丈夫です」
まりかが、明の言葉をやんわりと遮った。
すっくとソファから立ち上がると、未だにボソボソと海上衝突予防法を読み上げている少女の元に向かう。
「もういいわよ、カナ。お疲れさん」
「うええ」
まりかが法令集を持ち上げると同時に、カナが正座を崩してぐにゃぐにゃと身体を倒した。
「ちょうど良い機会だから、カナも一緒に行きましょう。どっちみち、そろそろ顔を出さなきゃって思ってたのよ」
「ぬう?」
カナが、話が見えぬという顔で、まりかを見上げる。
「あ、あの。行くってまさか」
「ええ。今から、龍宮城へご案内します」
全く予想だにしなかった展開に、明はただただ、まりかを見つめることしかできない。
そんな明の胸中を知ってか知らずか、まりかは何故か困ったような顔で笑って、その事実を告げたのだった。
「横浜港の龍神・蘇芳様は、私のお師匠様なのです」