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作者: こむらまこと
第15話 横浜港の龍神〈三〉
 ビルの前に広がる開港波止場を突っ切って、高架橋の下をくぐり抜けた先。そこには、まさしく象の鼻のように伸びた防波堤に護られる形で、象の鼻桟橋が存在している。
 菊池あきらは、中央付近にある旅客船専用桟橋のすぐそばで、夕闇に沈む横浜港の姿を見るともなしに眺めていた。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい」
 人が近づく気配に振り向くと、身支度を済ませた朝霧まりかが、申し訳なさそうな表情を浮かべてこちらに近づいてくるところだった。
「いえ、俺のことはお構いなく」
 明は欄干から身体を離すと、改めてまりかと対面する。
(こういうの、とんびコートって呼ぶんだっけ)
 まりかは例によって、いつも通りの格好をしていた。とんびコートの下は赤みがかった橙色の衣装、腕には手甲、足元には地下足袋を履いている。そして今回は、右手に小さめのハンドバッグを携えていた。
 先ほどのスーツ姿とはガラリと変わった出で立ちに、本来業務の傍らという割には、結構本格的なのだなと明は思う。
(でも、確かに服装って大事だよな。俺らのマントだって、手元が隠せたりして便利だし)
 そんな風に1人で納得した明は、まりかの背後に佇む少女に視線を移した。
 カナと呼ばれていたその少女は、さっきとほとんど同じ格好をしている。
 身につけているのは、フードがカエルの顔になっている緑色のパーカーのみ。靴も、靴下も履いていない。さっきと違うのは、長い髪を緩くひとつにまとめて身体の前に垂らしていることと、カエルのフードを深く被っていることくらいだった。
(どこの野生児だよ)
 東北地方出身でありながら寒いのが苦手な明としては、むき出しになった華奢な脚が潮風に吹き晒されているのを見ただけで、風邪を引いてしまうのではないかとやきもきしてしまう。
 物言いたげな明の視線に気がついたのだろう、まりかが少し困ったような顔で釈明してきた。
「えっと、この子はいつもこんな感じなので、大丈夫です。気にしないで下さい」
「え、ええ。分かりました」
 正直なところ、カナに関しては服装以外にも色々と気になる点があったが、他人の事情に首を突っ込むつもりは更々無いので、ひとまずは気にしないでおくことにする。
「フンッ」
 カナは、不機嫌そうに明を睨みつけると、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
(こりゃ、完全に嫌われちまったな)
 別に好かれたいという訳でもないが、ここまであからさまな態度をとられると、さすがにチクチクと胸が痛む。
「カナ、もういいでしょ。そもそも、あれは完全にあなたに非があるんだからね」
「お前さんの監督不足でもあろう」
「全く」
 まりかはため息をついた。それ以上は言い合いを続ける気は無いらしく、明に断りを入れた上でさっさと桟橋の方へ去っていく。
(どういう関係なんだろうな。血縁には見えないけど)
 今までのやり取りを見るに、それなりに親しい間柄ではあるらしい。何らかの事情で知り合いの子供を預かっているのかもしれないなどと、明は勝手に推測してみる。
「良かった。ここにいてくれた」
 ほどなくして、何か目的のものを見つけたのか、まりかが安堵と嬉しさが混じった表情を浮かべた。「立入禁止」の札が下がった桟橋の出入口のチェーンを外して、カナと明に入るように促す。
「どうぞ、こちらへ。桟橋の所有会社には、立入りの許可はもらってますから」
「そ、そうですか。それでは」
 まりかの招きに応じて、カナ、明の順で桟橋に入ると、波に揺れる桟橋上を、ゆっくりと先端に向かって進んでいく。
「あの、少しだけここで待っててもらってもいいですか」
 まりかは、明を桟橋の中ほどに残すと、桟橋の先端に座って釣りをしているその老人に声をかけた。
「お久しぶりです、シロさん。お元気ですか」
「おやおや。こりゃあ、まりかじゃないかえ」
 老人が振り向いた。人間にしては大きな目玉と、額に生えた小さな角。シロさんと呼ばれたそのあやかしは、大きな目玉をギョロリと動かすと、まりかの背後にいるカナと明を探るように見つめた。
「あの2人のことは、大丈夫です。私が保証します」
 まりかはハンドバッグの中からカップ酒を取り出して、老人に差し出す。
「これで、すぐに潮路しおじさんを呼んできてもらえませんか」
「なんと、これは!」
 差し出されたカップ酒を見た途端、 老人はぴょんと飛び上がって釣竿を放り出すと、素早くカップ酒を受け取り、すぐさま蓋を外して中身を飲み始めた。
(シロさんったら、相変わらずだなあ)
 カップ酒を一気に飲み干す妖を見ながら、まりかはやれやれと苦笑する。
 彼は、この象の鼻桟橋の、いわばヌシのような存在である。といっても、龍神・蘇芳すおうが支配するこの横浜の海に、危険な怪異や妖が来襲することなどほとんど無い。そのため、やることといえば、日がな一日釣りをするか、妖仲間たちと四方山よもやま話をするか、泳いで遊ぶくらいなものであった。
「ふう。馳走になった」
 老人は空になったカップをまりかに渡しながら素手で口を拭うと、くるりと背を向けた。
「そいじゃ、ちょっくら潮路様をお呼びしてくるわい」
「よろしくお願いします」
 無造作に海に飛び込む老人に向かって、まりかは軽くお辞儀をする。
 直後、少し離れた海面から、1匹の大魚が飛び出してきた。
 パチャンッ。
 その額には、間違いなく角が生えている。
「あやつ、魚じゃったか」
 いつの間にか横に来ていたカナが、何故か羨ましそうな顔で本来の姿を現した妖を眺めている。
 優に50cmは超えるかと思われるその大魚は、その堂々とした体躯を誇るかのように空中で身体をくねらせると、大きな波飛沫を立てて、今度こそ幽世かくりよの海へと消えていった。
「てっきり、お前さんが龍宮城への〈門〉を開けるものと思っとったが」
 カナが、小声でまりかに訊ねる。
「本当はできるんだけどね。さすがに、それは見せたくないかなって」
 まりかも声をひそめながら、桟橋の中ほどに佇む明をそれとなく視線で示す。
「まあ、それもそうじゃな」
 うんうんと頷くカナの動きに合わせて、頭に被ったカエル顔のフードがわさわさと揺れた。ここだけ見れば、完全に年端の行かぬ少女である。
 まりかはカナを連れて明のところまで引き返すと、もう少しだけ待ってほしい旨を伝えた。
「ここの主である妖に、龍宮城への使いを頼みました。それほど時間はかからないとは思いますが、お待たせしてばかりですみません」
「いえ、お気になさらず」
 明は手を振って小さく笑うと、まりかへの驚愕と疑問符だらけの本心を抑え込み、雑談も兼ねて、もっと素朴でなんてことの無いような質問を投げかけた。
「あの、さっきの妖は、もしかしてボラでしょうか」
 ボラとは、ほぼ全世界の海に生息する、人間にとって身近な大型魚の名前である。
 明の問いに対し、まりかは少し嬉しそうな顔をしつつも、残念そうに首を振った。
「おしいですね。正確には、シロさんはトドなんです」
 まりかの回答に、しばし明は考え込む。
「トド……そうか、出世魚しゅっせうお!」
「そう、その通り!」
 今度こそ、まりかが嬉しそうな顔をした。
「おい! ワシにも説明しろ!」
 勝手に盛り上がる2人の間に、カナが憤りを露わに割り込んでくる。
「ごめんってば」
 まりかは軽く謝ると、出世魚について簡単に解説する。
 出世魚とは、成長段階に応じて名前が変わる魚のことである。ボラの他には、ブリやスズキ、カンパチなどが、出世魚として広く知られている。
「それでね、さっきのシロさんみたいに、ボラが最も大きく成長したときに、トドと呼ぶのよ」
 まりかの説明に、カナは腕を組んでしばらく考え込んだ。
「つまり、なんじゃ」
 そして、いかにも不可解そうに、まりかと明を交互に見つめる。
「お前さんら人間は、同じ種類の魚に対し、大きさに応じて異なる呼び名をいくつも与えておるということか?」
「そうだけど?」
 それがどうしたという様子のまりかに、カナは顔をしかめて大きく首を振った。
「前々から感じておったことなんじゃが。お前さんら人間はちと、いや、かなりおかしいわい」
「うーん。そう言われれば、そうかもしれないわねえ」
 何せ、イルカとクジラの違いすらどうでもいいと言ってのけるカナだ。出世魚の概念など、尚更わけが分からないのだろう。
 そして明も、カナの指摘により、人間の分類癖の異様さについて自覚を持ったらしい。まりかと明は、顔を見合わせると思わず苦笑した。
「あの、ひとつお尋ねしてもいいですか」
 さっきよりも場の空気が緩んだところで、明が別の質問を投げかける。
「ええ、どうぞ」
「朝霧さんの怪異に関するお仕事には、何か名称はあるのですか」
「ああ、そのことですか」
 まりかは、肩の力を緩めた。自分やカナについての突っ込んだ質問が来るのではと構えていたのだ。
「会計処理上は、浄霊師という扱いにしています。ただ……」
「ただ?」
 まりかは、どう答えたものか、顎に手を当てて少々考え込む。
 そして、結局はありのままに話すことにした。
「浄霊師、呪術師、魔術師、祈祷師……それから、葬送者なんて造語を作ってみたり、外国語の中からそれらしい単語を探してみたこともあります」
「はあ」
「でも、どうしても自分に相応しい呼称が思いつかなくって。結局、事務所のWebサイトに『海の怪異や妖の相談を受け付けています』とだけ書いている状態ですね」
「そうですか」
 呼称を決めることがそんなに難しいだろうかと明は思ったが、それは口には出さず、代わりにひとつ提案をしてみることにする。
「あの、差し出がましいようですが、海の怪異のことを〈海異かいい〉と表記するのはどうでしょう。少しは印象が変わるかもしれないと思うのですが」
「〈海異〉、ですか」
 明の提案に、まりかが思ってもみなかったという顔をした。
「ええ。俺の所属する海洋怪異対策室は、内部では『海異対』と略して呼ぶことが多いですし、最近では公文書でも〈海異〉の表記を使うようになったくらいでして」
「良いですね! 早速、使わせてもらいますね」
 明が話し終わらないうちに、まりかが〈海異〉の採用を表明した。
「〈海異〉かあ。これで、少しは分かりやすくなるかも」
「フンッ。呼称なんざどうだって良かろう」
 〈海異〉の言葉にやたら嬉しそうな反応をするまりかと、終始面白くなさげな様子のカナ。
(なんか、さっきの事とは関係無しに嫌われてないか?)
 明は、フードを目深まぶかに被ったカナの表情を、そっと伺う。
「……」
 カナが、じとりとした視線を明に向ける。
 金色こんじきの瞳が、宵闇の中でチカチカとまたたいたような気がした。
「あっ、潮路さん!」
「っ!?」
 まりかの声に、明はハッと我に返った。
(あれ、なんか今)
 パチパチと目をしばたいてみたが、カナは既に明から視線を外し、桟橋の先端に駆け寄るまりかの後を追っている。
 明もすぐに2人に追いつくと、一緒になって海面を覗き込んだ。
「ウミガメ?」
 宵闇の中、じっと目を凝らしてみると、桟橋から数歩先くらいの海面上に、亀のような頭と甲羅の一部が出ているのが見えた。
 まりかは、膝に手をついて身をかがめると、ごく自然にそのウミガメに話しかける。
「桟橋には、私たち以外は誰もいません。あと、この2人のことなら大丈夫です」
「そうですか。それでは」
 ウミガメが、人の声を発した。
 その途端、周辺世界が一気に幽世へと変化する。
「は?」
 幽世特有の、水を打ったような静けさ。
 そして、海水に濃厚なミルクが混じったような匂いのする、幽世の大気。
 まるで、オセロゲームで全ての石を一気にひっくり返した時のような急激かつ見事な変化に、明は思わず海に向かって構えをとった。
「えっ」
 ウミガメの姿は消えていた。
 代わりに、穏やかな微笑を浮かべたひとりの老女が、幽世の海面に立っている。
 呆気に取られる明をよそに、まりかとその老女は、幽世に似つかわしくない和気あいあいとした雰囲気で言葉を交わし始めた。
「お久しぶりです、潮路さん。突然、お呼び立てしてしまってすみません」
「良いんですよ、そのようなことは。お嬢様のお呼びとあらば、この潮路、東奔西走なんのそのでございますとも」
「潮路さん!」
 まりかが顔を赤らめて、制するように両手のひらを潮路に向けた。
「お、お嬢様呼びは止めてくださいと、もう何度も」
 もにょもにょとした声で話しながら、背後にいるカナや明の様子をそっと伺う。
「いいえ」
 潮路が穏やかに、しかしきっぱりと宣言する。
わたくしめにとっては、お嬢様は、いつまでもお嬢様のままなのです。お嬢様の方こそ、幼き頃のように、いつでも『ばあや』とお呼びしてくれてもよろしいのですよ」
「潮路さーん!」
 まりかがますます顔を赤らめて叫ぶが、潮路はニコニコと笑うのみである。
 まりかは、カナと明の方を向いてコホンと咳払いをした。
「えっと、紹介します。こちら、潮路さん。アオウミガメの大妖にして、龍神・蘇芳様の側近でもある方です」
「まあまあ、これはご丁寧に」
 潮路が、カナと明に対しても穏やかな笑みを向けた。
 潮路の外見年齢は、おおよそ50代前半といったところである。服装は、いわゆる女官のような、優美かつゆったりとしたデザインをしている。白髪混じりの濃緑色の髪は肩よりも短く、潮路の性格を表すかのように小さな顔の横でふんわりと揺れていた。
「潮路と申します。以後、お見知りおきを」
 カナと明に対し、潮路が丁寧に頭を下げる。龍神の側近というだけあって、その動作のひとつひとつに気品が滲み出ていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 明は緊張しながらも、挨拶と簡単な自己紹介を済ませる。
「うむ。カナじゃ」
 一方のカナは、相変わらずのふてぶてしい態度を貫いている。
(なんなんだよ、この子は!? 相手は龍神の側近だぞ!?)
 その信じ難い言動に、明は目を剥いてカナを凝視した。
 まりかは、そんな明の胸の内を見て取り、それから潮路の方を向くと、顔の前で手を合わせて謝罪する。
「本当にごめんなさい、潮路さん」
「良いんですよ。カナ様のお噂は、かねがね聞いておりますから」
「あ、やっぱり龍宮城まで話は届いてるんですね」
 正直なところ、北斗とすばるにカナとの出会いの経緯を話した時点で、カナの情報はすぐに龍宮城に伝わるだろうことは分かっていた。それでも、龍宮城を始めとしたこの幽世の海で、カナは一体どのような噂のされ方をしているのか、それを考えると、まりかは最早苦笑するしかない。
 潮路は、海面を滑るようにして桟橋から距離をとり、桟橋前面の空間に向き合った。
「それでは、皆様方のために、特別製の〈門〉をご用意して差し上げましょう」
 そう言って、潮路は目を瞑った。
 束の間、耳が痛くなるほどの幽世の静寂が、その場を支配する。
 ふいに、心地の良い旋律メロディが、海面上を穏やかに流れ出した。
(一体、どこから)
 とても生き物から発せられているとは思えない、まるで天上の楽の音のような、その美しさ。明は最初の数秒、周囲を見渡してその発生源を求めていた。
 そして、それが潮路から発せられていることに気がつく。
(鼻歌、というより、ハミングだな)
 口元に微笑を浮かべて楽しそうにハミングするその姿は、まるで夢見る少女のように瑞々みずみずしい。
 潮路のハミングに誘われるように、桟橋前の海面が柔らかな光を放った。それから、光を帯びた海水がゆっくりとせり上がり、少しずつ枝分かれしていく。
「むう」
 カナが小さく唸った。
(すごい)
 明は一言も発することなく、ひたすら目の前の光景に目を奪われている。
 海水が生き物のようにその身をくねらせ、絡み合い、刻々と光の彫像を造り上げる。その蠱惑的な光景から目を離すなどということは、むしろ冒涜的ですらあるのではないかと明は感じる。
 やがて、あぎとを開いた巨大な光る龍の彫像が、桟橋前の海面上に形成された。同時に、ゆっくりと潮が引くときのように、美しいハミングが消えていく。
 歌い終わった潮路が、ゆっくりと目を開いた。
 満足そうにニコリと笑って、再び滑るような動きで海面を移動する。
「それでは、龍宮城へご案内いたします」
 荘厳な彫像を前に、優雅な仕草で腕以上の長さがある袖を振って、鋭い牙の向こう側を示す。
 龍の口の奥には、幻想的な光を帯びた螺旋階段が、はるか海の底へと続いていた。
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