第20話 横浜港の龍神〈八〉
まりかとカナ、そして明の3人が〈門〉を通過して象の鼻桟橋に帰還した途端、明のスマホから着信音が鳴り響いた。
「ちょっと失礼します」
夕方に事務所を訪れた時の陰鬱な気分が蘇るも、放置するわけにもいかないため、すぐに応答する。
「――ええ、成功しました」
明は極めて簡潔に、任務の達成を報告する。
「――それについては、改めて説明します。では、一旦失礼します」
明は、半ば強引に話を切り上げて電話を切ると、スマホをマナーモードに設定した。
「あの、大丈夫なのですか」
「ええ、俺は平気です。それより、朝霧さんこそ大丈夫なのですか」
気遣わしげに訊ねたまりかに、明も同じく気遣わしげに問い返す。
(本当は速攻で戻るべきなんだけどな)
懐に隠した拳銃を制服の上から押さえて、その重厚な感触を確認する。本音を言うと、不祥事の後始末を見事にやってのけたのだから、この程度は許して欲しいという思いもあった。
「もちろん大丈夫ですよ。むしろ、このままここで解散する方が、もやもやが残って平気じゃない気がしますから」
きっぱりと言い切ったまりかに、明は何故か安心感を覚える。
「そうですか。俺も一緒です」
明の返答に、まりかも安堵の表情を浮かべた。
「それでは、事務所の方へ」
こうして、菊池明は再び、朝霧海事法務事務所に足を踏み入れることとなった。今度は、朝霧まりかの歓迎の意と共に。
「ごめんなさい、こんなものしか用意できなくて」
「十分です」
まりかの勧めで応接用ソファに腰掛けた明は、2Lペットボトルの麦茶による歓待を受けた。
「あ、自分でやります」
グラスに麦茶を注ごうとするまりかを制して、自分で好きな分だけ注いで飲むことにする。ちなみに、糖分補給用にと菓子類も勧められたが、それはさすがに固辞した。
「まず、朝霧さんと龍宮城との関係についてですが」
「はい」
グラス2杯分の麦茶を飲み干すと、明は最も重要な話を切り出した。
「やはり、あまり人に知られない方が良いと思うんです。それこそ、海異対の室長や、他の室員たちにも」
「そう、ですよね」
明の意見に、まりかは自身の認識の甘さを大いに痛感し、意気消沈する。
まりかとしては、海異対の室長が蘇芳と接見することを許されたのであれば、その部下である明を龍宮城に案内しても差し支えは無いという考えでいた。しかし、海異対室長が蘇芳から一定の信頼を得ているという点のみをもって、まりかと龍宮城の親密な関係性を知られても構わないと無意識のうちに判断していたのは、極めて不用心であったと言わざるを得ないだろう。
「ふん、言わんこっちゃない」
しょげ返るまりかの横では、カナがマイペースにジュースとお菓子を飲み食いしている。そのカナの姿は、菊池明との初対面から現在まで、一貫して人魚ではなく人の姿のままである。
要するに、明のことを警戒していたのだ。それはまりかにも分かっていたのだが、それに同調しようという発想までには至らなかった。そして、カナは敢えてそれを口にしなかったのだろう。まりかに、自身の甘さについて身をもって思い知らせるために。
(今回ばかりは、カナに何を言われても言い返せないわね)
「それでは、龍宮城には俺独りで赴いたという設定にしておきましょう」
「ええ、それでお願いします」
心の裏側では意気消沈しつつも、それを表情に出すことはなく、明との口裏合わせを順調に進めていく。
「朝霧さんは、あくまで龍神についての情報を提供したに過ぎないこと。そして、朝霧さん自身についても、浄霊師としての能力に突出した点は見られなかったと、過小評価して報告しようと思います」
「ごめんなさい、菊池さんに嘘をつかせてしまうことになりますね」
「良いですよ、このくらい」
謝るまりかに、明は少し強めの口調で返す。
実際のところ、室長に対して虚偽の報告をすることについて、明はそこまで罪悪感を感じていなかった。
(室長は、俺にこの事務所を探らせようとしたんだな)
海異対室長の真の目的は、朝霧まりかの霊的な能力や技術を見極めることにあったのだろう。いつ頃から朝霧海事法務事務所の存在を把握していたのか知らないが、今回の拳銃紛失事案は、室長にとっては絶好のチャンスだったに違いない。
(そうやって意図を明かさずに人を動かそうとするの、良くないですよ)
朝霧まりかは、自身にまつわる重要な秘密を開示するリスクを厭わず、手を差し伸べてくれたのだ。部下を駒のように動かす上司よりも優先すべきなのは、当然の話だった。
「では、そういうことで」
打ち合わせを終え、明は3杯目の麦茶をグラスに注ぐ。そろそろ自重すべきとは思いつつも、激しい霊力の消耗による疲労と喉の乾きには勝てなかった。
「そういえば、菊池さんって何歳なんですか」
ふいに、まりかが質問してきた。
麦茶で喉を潤していた明は、一旦グラスから口を離して簡潔に答える。
「25歳ですけど」
「えっ、もしかして同い年?」
「え?」
明の身体が固まった。そろそろと麦茶が残ったグラスをローテーブルに置いて、まじまじとまりかの顔を見つめる。
「え、じゃあ朝霧さんも25歳?」
「そうよ?」
それがなんだとでもいうように、まりかは小さく首を傾げる。
対する明は、脳天を雷が直撃したかのような衝撃に襲われていた。
(そ、そんな。最低でも2歳は年上だと思ってたのに!)
朝霧まりかが自分と同い年であること。菊池明にとってそれは、まりかが龍宮城と親密な関係を築いていたことなどよりも、遥かに衝撃的な事実だった。
「あの、何か」
「い、いえっ、その」
怪訝そうに訊ねるまりかに、明は慌てて手を振ってみせる。
「ほほう。もしや、まりかが老けてでも見えたのかのう」
お菓子を頬張りながら、カナが意地悪く指摘した。
「ちょっと、カナ」
「ち、違いますっ」
明は、即座に否定した。
「す、凄いなと思ったんです。たった1人で事務所を経営して、仕事をこなして。しかも、幽世にもあんなに馴染んでて」
それから、と声を小さくして付け加える。
「俺なんかよりも、よっぽど立派ですよ」
言い終えてから、明は身体が熱くなるのを感じた。
(お、俺は一体何を言ってるんだ!)
明は赤面しながらも、おそるおそる顔を上げてまりかの反応を伺う。
まりかは、澄み切った瞳で不思議そうに明を見つめていた。
その曇りなき眼を向けたまま、まりかが口を開く。
「菊池さんだって、十分に凄いと思いますよ」
「へっ?」
思いも寄らぬ声かけに、間の抜けた声が明の口から漏れ出る。
おもむろに、まりかは髪に挿していた簪を手に取った。
「〈夕霧〉」
その名を口にするや否や、1本の美しい杖が出現する。
「これって」
驚愕のあまり、明は思わず立ち上がっていた。
「ええ。夕方にカナの前で出したのが、この〈夕霧〉です」
微笑を浮かべて、〈夕霧〉の表面を優しく撫でる。
「私の成人祝いを兼ねて、この衣装と共に蘇芳様がお贈り下さった、とても大切な杖なんです」
まりかが、明を真っ直ぐに見つめた。
「菊池さん。菊池さんさえ良ければ、私と友達になってくれませんか。同じ龍神の宝具を持つ者として、他の人たちとは分かち合えないことも、菊池さんとなら分かち合えると思うんです」
「……」
それは、紛れもなく心からの申し出だった。
明は胸を打たれて、無言のまま、まりかを見つめ返す。
対するまりかは、平静を装いながらも、実際はかなりの緊張で手に汗を握っていた。
(これは、完全に私のエゴだわ。それでも)
まりかは、伊豆大島でのカナとの出会いを思い返す。
『自惚れるなよ、小娘。世界は驚異と神秘に満ちておる。それを、ゆめゆめ忘れぬことだ』
それから、エリカがカナに話したという言葉も思い浮かべる。
『まりかのこと、よろしくね』
そして最後に、先ほど龍宮城で蘇芳がため息混じりに語った言葉を噛み締める。
『全く、お前という娘は。もう少し他人に頼るということをせんか』
(きっと私は、私と似たような現世の存在と、新たな関係を築くべきなんだわ)
まりかは、浄霊師や呪術師などのいわゆる同業者たちとの横の繋がりを、全く持っていなかった。
まりかの両親は、まりかのその人生において、幽世の存在たる怪異や妖たちとの関わりを避けることが不可能であることを知った時、1つの決断を下した。龍宮城を始めとする幽世とまりかとの交流を積極的に支える一方で、現世の人間社会においては、怪異や妖という要素を完全に排除した「普通の」人間関係を構築させるように努めるという方針を採ったのだ。
心身を鍛えるためとして杖道を習わせたのも、まりかがフルートを始めるきっかけとなったリトミック教室に通わせたのも、「健全な」人間社会との接点を娘に持たせるという目的が根本にあった。そのため、現世の人間社会で、浄霊師や呪術師といった幽世とのあわいに存在するような人間と娘が接触するような事態は、徹底的に避けるようにしてきたのである。
そういうわけで、自分と同程度の霊力や技術を持つ人間との交流を持った経験が、まりかには全く無かった。そして、それが必要であると考えることも無かったのである。
(でも、ちゃんと考えてみると、確かに欲しい気がしてきた。幽世絡みの深い話が出来る友達が)
もう、子供時代はとっくの昔に終わったのだ。両親の愛情という名の軛から解き放たれた今、同じ龍神の宝具を持つ人間と知人以上の関係になることは、むしろ自然な事のように思えた。
(それに、意外と優しい所もあるみたいだし)
蘇芳のお墨付きを得ていることを別にしても、菊池明は十分に信頼に足る人物であると、まりかは判断していた。
水槽の金魚たちに対して丁寧に接したことや、多聞丸の安全を真っ先に確保したこと。そして、あのウツボの怪異を見事な手腕で救ってみせたこと。そのどれもが、彼の善性を示していた。
(迷惑、かしら)
不安に駆られたまりかは、〈夕霧〉をギュッと握り込む。2秒と経過していないはずの時間が何十倍にも引き伸ばされたような錯覚に陥り、心臓の脈打つ音が、妙に大きく耳元で響くような感覚を覚える。
「……まさか、先を越されちまうなんて」
全く予期していなかった言葉が、まりかの耳に届いた。
その真意を掴みかねて、まりかは問いかけるように、少し眠たげな形をした明の目を覗き込む。
明が、スッと背筋を伸ばした。
「今回のことは、海上保安官としてだけではなく、いや、それ以上に、俺個人として、とても恩義を感じています」
眠たげな目の中の、確固たる決意を映した瞳が、蛍光灯の光を受けてチカチカと瞬く。
「もしも、朝霧さんが海の怪異――海異のことで助けが必要になったときは、俺に連絡してください。必ず、助けに行くと約束します」
そこまで話したところで、急に語気を弱めて、つっかえつっかえ言葉を押し出していく。
「……つまり、その。平たく言えば、朝霧さんの提案通りに、その、友達になる、ということなのかなと」
言い終わると、気まずそうに視線を横に逸らしてしまう。
「ふふっ」
そして、そんな明の素直でない態度に、まりかの強ばっていた心がすっかりと和んだ。
「それじゃあ、改めまして」
まりかは〈夕霧〉を簪に戻して髪に挿すと、すっくと立ち上がった。
「私の名前は、朝霧まりか。まりかって呼んでくれて構わないわよ」
つられて明も立ち上がると、小さく咳払いをして手を差し出した。
「菊池明だ。よろしく」
「うん、よろしくね」
まりかが握手をしようと手を伸ばす。
パシンッ。
「っ!?」
「ちょっと!」
カナが、明の腕を思いっ切り叩いた。
「わしは認めんぞ」
ギザ歯をギリギリと動かしながら、あからさまに明を威嚇してくる。
「カナ! あのことはもう良いでしょう!」
まりかが両手を腰に当ててカナを見下ろす。
それでも尚、カナは明を睨み続ける。
「龍神が認めても、このわしは断じて認めん!」
「だからもう、止めなさいよ!」
心底うんざりしたという顔で、まりかが額に手を当てた。
(ひょっとして、この子は何かとんでもない勘違いをしているんじゃないのか?)
自分に対するカナの異常な警戒っぷりに、明は段々とむかっ腹が立ってくるのを感じる。
いくら相手が子供でも、ここまで好き放題言われてはさすがの明もたまったものではない。
明は、今度は芝居がかった仕草で大きく咳払いをした。
「それじゃあ、俺からもはっきりと言わせてもらう」
先ほどまでとは違う低めの声に、カナは唸り声を収めた。まりかも、不安そうな顔で明を見つめる。
(少し下品な言い方になるけど、この際仕方が無い)
明は覚悟を決めて息を吸い込むと、ゆっくりと区切るようにして、その事実を口にしたのだった。
「俺は! 女性の裸を見ても、なんとも思わねえんだよ!」
しいんと、その場が静まり返った。
まりかとカナが、ポカンとした表情で明を見ている。
と思った、次の瞬間。
「だったらなんじゃーい!」
カナが拳を振り上げて叫んだ。
「お前さんが何をどう感じるかなど、関係無いんじゃあ!」
「ちょっ!?」
カナが、叫びながら明に飛びついた。
ブレザーの裾をギュッと掴んで、明を見上げてニヤリと笑う。
「脱げい」
「へ?」
「お前さんも脱ぐのじゃ。それでチャラにしてやる」
「はあ!?」
とんでもない提案に、明は愕然としてカナを見下ろした。
そのあどけない顔に浮かぶのは、とても子供とは思えぬような、凶悪な笑み。
(な、なんなんだこの子は!)
「一体何を言ってるのよ!」
まりかが、カナを明から引き剥がそうとカナの肩を掴む。
「むう、これはどうやって外せば良いのじゃ」
カナはまりかには構わず、華奢な腕をブレザーの下に滑り込ませてベルトに手をかけようとする。
「止めろ! 俺にだって少しは羞恥心というものがあるんだ!」
明は必死で、ブレザーの裾を押さえて抵抗を試みる。この期に及んでもなお、カナの細腕を掴んで力任せに引き剥がすような、乱暴なやり方をする気にはなれなかった。
「カナ様!」
「お止め下さい!」
いつの間にか、3人の金魚たちも加勢していた。水かきの付いた小さな手でカエル顔のフードを引っ張る姿には、非常に健気なものがある。
「止めなさいって、言ってるでしょー!」
かくして菊池明は、海事代理士・朝霧まりかと、後にその正体が人魚であると知ることになる、老獪な少女・カナと、運命的な出会いを果たしたのだった。
(さて、どうにか室長を納得させねえとな)
カナに制服を引っ張られながら、明は陰鬱な気分が再び湧き上がってくるのを感じる。
明の右手首で、フルメタルの腕時計がその身を微かに震わせた。未だ微弱なその自我は、しかし、確実に意識を外界へと向け始めている。
「彼」が、新たな主に何を想うのか。それを明が知ることになるのは、当分先の話であった。
深夜。月明かりが、まりかの寝顔を柔らかく照らしている。
カナが、薄い敷布団の上でむくりと身体を起こした。タオルケットを押し退けて立ち上がると、まりかが深い眠りに落ちていることを確認し、そっと扉を開けて寝室を出る。
玄関を抜け、階段を上り、月の光が煌々と降り注ぐ屋上に出る。昼間のこともあったため、その華奢な身体にはきちんと腰布を付けている。
「……」
無言のまま、片手を前に伸ばす。
手のひらの上に、法螺貝が出現する。
カナは法螺貝を耳に当てると、その声に耳を傾けた。
ザザアアン……
ザザアアアン……
浜辺を打ち寄せる波音が、法螺貝の中で幾千回もこだまする。
しばらくの後、カナの片眉がぴくりと動いた。
耳から法螺貝を離すと、しかめっ面で睨みつける。
「『時期はいつでも良いから絶対にまりかに知られぬように独りで龍宮城に来い』じゃと? なんでわしが、そんな七面倒臭いことをせにゃならんのじゃ! お主が来れば良かろう!」
カナは法螺貝を強く握ると、その腕を目一杯後ろに引いた。
法螺貝が、蒼白い光を放つ。
ぎゅいん。
光が、槍のような形に変化する。
深夜の屋上で、カナが大声で叫んだ。
「めんっ! ど、くさいっ!」
ヒュンッ。
海に向かって、思いっ切りそれを投げる。
それは、蒼い残像を残しながらあっという間に象の鼻桟橋の海面に辿り着くと、溶けるようにして幽世の海に消えていった。
「さーて、寝るかい」
カナはボリボリと頭を掻きながら、扉を開けてのそのそと階段を降りる。
(だーれが行ってやるものか)
そして、大あくびをして玄関の扉に手をかける頃には、綺麗さっぱり法螺貝のことを忘れてしまった。
結局、カナが単独で龍宮城に赴くのは、何ヶ月も後のこととなる。
蘇芳の武骨な手が、カナの放ったそれを掴んだ。
それを見た潮路が、ただでさえまん丸な目を更に丸くする。
「おやおや。カナ様は、とても血気盛んなお方であられますね」
「やれやれ」
元は法螺貝だったはずのそれを見て、蘇芳が小さく首を振った。
「メンドクサイッ! メンドクサイッ! メンドクサイッ!」
蘇芳の拳の中で、細長い形をした魚が、壊れた蓄音機のように同じ言葉を延々と繰り返し叫んでいる。
「よりによって、ダツを投げつけてくるとは」
ダツは、非常に危険な魚だった。くちばしのように細長く伸びたその口は、人間の身体など容易に貫通してしまうくらいには鋭く尖っており、漁師などからはサメなどよりも遥かに危険視されている。
蘇芳は小さくため息をつくと、ダツの姿をしたそれを法螺貝に戻して、何も言わずに潮路に向かって放り投げた。潮路も、心得たとばかりに何も言わずに法螺貝を受け取ると、一礼してその場を下がった。
蘇芳は、ごろりとラタン調の寝椅子の上で寝転がると、脇に置いていた金色の拳銃を取り上げた。
「やはり、本物を頂戴しておけば良かったのう」
顔の前に掲げて細部をくまなく観察しながら、独り言ちる。
拳銃に限らず、己の神霊力で模造した物など、味気ないことこの上ない。それが、蘇芳の考えだった。
だから蘇芳は、ことあるごとに現世に干渉する。
幽世と、そして己が持ち得ぬ未知なる何かを求めて。
「蘇芳様。そのような人間の武器を入手されて、どうなさるおつもりですか」
脇に控えていた黒瀬が、蘇芳に問いかけた。
「ううむ」
蘇芳が、拳銃を見つめたまま小さく唸る。
「もしや、必要になるやも知れぬという気がしてのう」
「はあ」
掴みどころの無い回答に、黒瀬はよく分からぬまま相槌を打つしかない。
蘇芳が、今度は拳銃を黒瀬に向かってポイッと放り投げた。
「黒瀬よ。それの使い方を学んでおけ」
「……かしこまりました」
黒瀬は金の拳銃を懐に収めると、何ひとつ問返すことなく一礼した。この主が、なんの脈絡もない命令を側近たちに出すことなど、何も今に始まったことではない。
黒瀬は再び一礼すると、あれこれ具体策を練りながら広間を後にした。
「あーあ」
独り広間に残った蘇芳は、頭の後ろで腕を組んで軽く目を瞑る。
『蘇芳様! 今日はね、宇宙の図鑑を持ってきたの!』
幼いまりかが、蘇芳の前で嬉しそうに宇宙の話をしている。
『――だからね、宇宙の形はね、ボールじゃなくてドーナッツなんだって』
自身の知りうる限りの言葉を駆使して、蘇芳を相手に熱烈に説明するまりか。
『それでね、それでね』
そして、満天の星空のようなキラキラとした瞳を向けて、こう言ったのだ。
『宇宙って、海にとっても似てると思うの!』
蘇芳が目を開いた。花鳥風月の天井画が、いつもと変わらぬ姿で蘇芳を見下ろしている。
(描き直させるのも一興かもしれぬな)
そんな思いつきを気ままに漂わせながらゆっくりと上体を起こすと、小さく何かを唱えた。
蘇芳の前に、漆塗りの小箱が出現する。
螺鈿細工の施されたそれには、蓋が無かった。というより、開け口がどこにも無い。
これは、蘇芳にしか開けられぬ小箱。何人もその中身を奪うことが叶わぬ、龍神の宝具。
蘇芳はその箱を開けようとして、そして止めた。
(何度確かめたところで、分かることなど何も無い)
蘇芳は、その箱の中身を知っている。そして、そこから何ひとつ痕跡が読み取れないことも。
蘇芳は小箱を消し去ると、再び目を瞑った。
(龍神という存在の、なんと小さきことか)
幾千ものさざ波が、蘇芳の内部でこだまする。
その波音に耳を傾けながら、蘇芳は今日も、独りまどろむ。
「ちょっと失礼します」
夕方に事務所を訪れた時の陰鬱な気分が蘇るも、放置するわけにもいかないため、すぐに応答する。
「――ええ、成功しました」
明は極めて簡潔に、任務の達成を報告する。
「――それについては、改めて説明します。では、一旦失礼します」
明は、半ば強引に話を切り上げて電話を切ると、スマホをマナーモードに設定した。
「あの、大丈夫なのですか」
「ええ、俺は平気です。それより、朝霧さんこそ大丈夫なのですか」
気遣わしげに訊ねたまりかに、明も同じく気遣わしげに問い返す。
(本当は速攻で戻るべきなんだけどな)
懐に隠した拳銃を制服の上から押さえて、その重厚な感触を確認する。本音を言うと、不祥事の後始末を見事にやってのけたのだから、この程度は許して欲しいという思いもあった。
「もちろん大丈夫ですよ。むしろ、このままここで解散する方が、もやもやが残って平気じゃない気がしますから」
きっぱりと言い切ったまりかに、明は何故か安心感を覚える。
「そうですか。俺も一緒です」
明の返答に、まりかも安堵の表情を浮かべた。
「それでは、事務所の方へ」
こうして、菊池明は再び、朝霧海事法務事務所に足を踏み入れることとなった。今度は、朝霧まりかの歓迎の意と共に。
「ごめんなさい、こんなものしか用意できなくて」
「十分です」
まりかの勧めで応接用ソファに腰掛けた明は、2Lペットボトルの麦茶による歓待を受けた。
「あ、自分でやります」
グラスに麦茶を注ごうとするまりかを制して、自分で好きな分だけ注いで飲むことにする。ちなみに、糖分補給用にと菓子類も勧められたが、それはさすがに固辞した。
「まず、朝霧さんと龍宮城との関係についてですが」
「はい」
グラス2杯分の麦茶を飲み干すと、明は最も重要な話を切り出した。
「やはり、あまり人に知られない方が良いと思うんです。それこそ、海異対の室長や、他の室員たちにも」
「そう、ですよね」
明の意見に、まりかは自身の認識の甘さを大いに痛感し、意気消沈する。
まりかとしては、海異対の室長が蘇芳と接見することを許されたのであれば、その部下である明を龍宮城に案内しても差し支えは無いという考えでいた。しかし、海異対室長が蘇芳から一定の信頼を得ているという点のみをもって、まりかと龍宮城の親密な関係性を知られても構わないと無意識のうちに判断していたのは、極めて不用心であったと言わざるを得ないだろう。
「ふん、言わんこっちゃない」
しょげ返るまりかの横では、カナがマイペースにジュースとお菓子を飲み食いしている。そのカナの姿は、菊池明との初対面から現在まで、一貫して人魚ではなく人の姿のままである。
要するに、明のことを警戒していたのだ。それはまりかにも分かっていたのだが、それに同調しようという発想までには至らなかった。そして、カナは敢えてそれを口にしなかったのだろう。まりかに、自身の甘さについて身をもって思い知らせるために。
(今回ばかりは、カナに何を言われても言い返せないわね)
「それでは、龍宮城には俺独りで赴いたという設定にしておきましょう」
「ええ、それでお願いします」
心の裏側では意気消沈しつつも、それを表情に出すことはなく、明との口裏合わせを順調に進めていく。
「朝霧さんは、あくまで龍神についての情報を提供したに過ぎないこと。そして、朝霧さん自身についても、浄霊師としての能力に突出した点は見られなかったと、過小評価して報告しようと思います」
「ごめんなさい、菊池さんに嘘をつかせてしまうことになりますね」
「良いですよ、このくらい」
謝るまりかに、明は少し強めの口調で返す。
実際のところ、室長に対して虚偽の報告をすることについて、明はそこまで罪悪感を感じていなかった。
(室長は、俺にこの事務所を探らせようとしたんだな)
海異対室長の真の目的は、朝霧まりかの霊的な能力や技術を見極めることにあったのだろう。いつ頃から朝霧海事法務事務所の存在を把握していたのか知らないが、今回の拳銃紛失事案は、室長にとっては絶好のチャンスだったに違いない。
(そうやって意図を明かさずに人を動かそうとするの、良くないですよ)
朝霧まりかは、自身にまつわる重要な秘密を開示するリスクを厭わず、手を差し伸べてくれたのだ。部下を駒のように動かす上司よりも優先すべきなのは、当然の話だった。
「では、そういうことで」
打ち合わせを終え、明は3杯目の麦茶をグラスに注ぐ。そろそろ自重すべきとは思いつつも、激しい霊力の消耗による疲労と喉の乾きには勝てなかった。
「そういえば、菊池さんって何歳なんですか」
ふいに、まりかが質問してきた。
麦茶で喉を潤していた明は、一旦グラスから口を離して簡潔に答える。
「25歳ですけど」
「えっ、もしかして同い年?」
「え?」
明の身体が固まった。そろそろと麦茶が残ったグラスをローテーブルに置いて、まじまじとまりかの顔を見つめる。
「え、じゃあ朝霧さんも25歳?」
「そうよ?」
それがなんだとでもいうように、まりかは小さく首を傾げる。
対する明は、脳天を雷が直撃したかのような衝撃に襲われていた。
(そ、そんな。最低でも2歳は年上だと思ってたのに!)
朝霧まりかが自分と同い年であること。菊池明にとってそれは、まりかが龍宮城と親密な関係を築いていたことなどよりも、遥かに衝撃的な事実だった。
「あの、何か」
「い、いえっ、その」
怪訝そうに訊ねるまりかに、明は慌てて手を振ってみせる。
「ほほう。もしや、まりかが老けてでも見えたのかのう」
お菓子を頬張りながら、カナが意地悪く指摘した。
「ちょっと、カナ」
「ち、違いますっ」
明は、即座に否定した。
「す、凄いなと思ったんです。たった1人で事務所を経営して、仕事をこなして。しかも、幽世にもあんなに馴染んでて」
それから、と声を小さくして付け加える。
「俺なんかよりも、よっぽど立派ですよ」
言い終えてから、明は身体が熱くなるのを感じた。
(お、俺は一体何を言ってるんだ!)
明は赤面しながらも、おそるおそる顔を上げてまりかの反応を伺う。
まりかは、澄み切った瞳で不思議そうに明を見つめていた。
その曇りなき眼を向けたまま、まりかが口を開く。
「菊池さんだって、十分に凄いと思いますよ」
「へっ?」
思いも寄らぬ声かけに、間の抜けた声が明の口から漏れ出る。
おもむろに、まりかは髪に挿していた簪を手に取った。
「〈夕霧〉」
その名を口にするや否や、1本の美しい杖が出現する。
「これって」
驚愕のあまり、明は思わず立ち上がっていた。
「ええ。夕方にカナの前で出したのが、この〈夕霧〉です」
微笑を浮かべて、〈夕霧〉の表面を優しく撫でる。
「私の成人祝いを兼ねて、この衣装と共に蘇芳様がお贈り下さった、とても大切な杖なんです」
まりかが、明を真っ直ぐに見つめた。
「菊池さん。菊池さんさえ良ければ、私と友達になってくれませんか。同じ龍神の宝具を持つ者として、他の人たちとは分かち合えないことも、菊池さんとなら分かち合えると思うんです」
「……」
それは、紛れもなく心からの申し出だった。
明は胸を打たれて、無言のまま、まりかを見つめ返す。
対するまりかは、平静を装いながらも、実際はかなりの緊張で手に汗を握っていた。
(これは、完全に私のエゴだわ。それでも)
まりかは、伊豆大島でのカナとの出会いを思い返す。
『自惚れるなよ、小娘。世界は驚異と神秘に満ちておる。それを、ゆめゆめ忘れぬことだ』
それから、エリカがカナに話したという言葉も思い浮かべる。
『まりかのこと、よろしくね』
そして最後に、先ほど龍宮城で蘇芳がため息混じりに語った言葉を噛み締める。
『全く、お前という娘は。もう少し他人に頼るということをせんか』
(きっと私は、私と似たような現世の存在と、新たな関係を築くべきなんだわ)
まりかは、浄霊師や呪術師などのいわゆる同業者たちとの横の繋がりを、全く持っていなかった。
まりかの両親は、まりかのその人生において、幽世の存在たる怪異や妖たちとの関わりを避けることが不可能であることを知った時、1つの決断を下した。龍宮城を始めとする幽世とまりかとの交流を積極的に支える一方で、現世の人間社会においては、怪異や妖という要素を完全に排除した「普通の」人間関係を構築させるように努めるという方針を採ったのだ。
心身を鍛えるためとして杖道を習わせたのも、まりかがフルートを始めるきっかけとなったリトミック教室に通わせたのも、「健全な」人間社会との接点を娘に持たせるという目的が根本にあった。そのため、現世の人間社会で、浄霊師や呪術師といった幽世とのあわいに存在するような人間と娘が接触するような事態は、徹底的に避けるようにしてきたのである。
そういうわけで、自分と同程度の霊力や技術を持つ人間との交流を持った経験が、まりかには全く無かった。そして、それが必要であると考えることも無かったのである。
(でも、ちゃんと考えてみると、確かに欲しい気がしてきた。幽世絡みの深い話が出来る友達が)
もう、子供時代はとっくの昔に終わったのだ。両親の愛情という名の軛から解き放たれた今、同じ龍神の宝具を持つ人間と知人以上の関係になることは、むしろ自然な事のように思えた。
(それに、意外と優しい所もあるみたいだし)
蘇芳のお墨付きを得ていることを別にしても、菊池明は十分に信頼に足る人物であると、まりかは判断していた。
水槽の金魚たちに対して丁寧に接したことや、多聞丸の安全を真っ先に確保したこと。そして、あのウツボの怪異を見事な手腕で救ってみせたこと。そのどれもが、彼の善性を示していた。
(迷惑、かしら)
不安に駆られたまりかは、〈夕霧〉をギュッと握り込む。2秒と経過していないはずの時間が何十倍にも引き伸ばされたような錯覚に陥り、心臓の脈打つ音が、妙に大きく耳元で響くような感覚を覚える。
「……まさか、先を越されちまうなんて」
全く予期していなかった言葉が、まりかの耳に届いた。
その真意を掴みかねて、まりかは問いかけるように、少し眠たげな形をした明の目を覗き込む。
明が、スッと背筋を伸ばした。
「今回のことは、海上保安官としてだけではなく、いや、それ以上に、俺個人として、とても恩義を感じています」
眠たげな目の中の、確固たる決意を映した瞳が、蛍光灯の光を受けてチカチカと瞬く。
「もしも、朝霧さんが海の怪異――海異のことで助けが必要になったときは、俺に連絡してください。必ず、助けに行くと約束します」
そこまで話したところで、急に語気を弱めて、つっかえつっかえ言葉を押し出していく。
「……つまり、その。平たく言えば、朝霧さんの提案通りに、その、友達になる、ということなのかなと」
言い終わると、気まずそうに視線を横に逸らしてしまう。
「ふふっ」
そして、そんな明の素直でない態度に、まりかの強ばっていた心がすっかりと和んだ。
「それじゃあ、改めまして」
まりかは〈夕霧〉を簪に戻して髪に挿すと、すっくと立ち上がった。
「私の名前は、朝霧まりか。まりかって呼んでくれて構わないわよ」
つられて明も立ち上がると、小さく咳払いをして手を差し出した。
「菊池明だ。よろしく」
「うん、よろしくね」
まりかが握手をしようと手を伸ばす。
パシンッ。
「っ!?」
「ちょっと!」
カナが、明の腕を思いっ切り叩いた。
「わしは認めんぞ」
ギザ歯をギリギリと動かしながら、あからさまに明を威嚇してくる。
「カナ! あのことはもう良いでしょう!」
まりかが両手を腰に当ててカナを見下ろす。
それでも尚、カナは明を睨み続ける。
「龍神が認めても、このわしは断じて認めん!」
「だからもう、止めなさいよ!」
心底うんざりしたという顔で、まりかが額に手を当てた。
(ひょっとして、この子は何かとんでもない勘違いをしているんじゃないのか?)
自分に対するカナの異常な警戒っぷりに、明は段々とむかっ腹が立ってくるのを感じる。
いくら相手が子供でも、ここまで好き放題言われてはさすがの明もたまったものではない。
明は、今度は芝居がかった仕草で大きく咳払いをした。
「それじゃあ、俺からもはっきりと言わせてもらう」
先ほどまでとは違う低めの声に、カナは唸り声を収めた。まりかも、不安そうな顔で明を見つめる。
(少し下品な言い方になるけど、この際仕方が無い)
明は覚悟を決めて息を吸い込むと、ゆっくりと区切るようにして、その事実を口にしたのだった。
「俺は! 女性の裸を見ても、なんとも思わねえんだよ!」
しいんと、その場が静まり返った。
まりかとカナが、ポカンとした表情で明を見ている。
と思った、次の瞬間。
「だったらなんじゃーい!」
カナが拳を振り上げて叫んだ。
「お前さんが何をどう感じるかなど、関係無いんじゃあ!」
「ちょっ!?」
カナが、叫びながら明に飛びついた。
ブレザーの裾をギュッと掴んで、明を見上げてニヤリと笑う。
「脱げい」
「へ?」
「お前さんも脱ぐのじゃ。それでチャラにしてやる」
「はあ!?」
とんでもない提案に、明は愕然としてカナを見下ろした。
そのあどけない顔に浮かぶのは、とても子供とは思えぬような、凶悪な笑み。
(な、なんなんだこの子は!)
「一体何を言ってるのよ!」
まりかが、カナを明から引き剥がそうとカナの肩を掴む。
「むう、これはどうやって外せば良いのじゃ」
カナはまりかには構わず、華奢な腕をブレザーの下に滑り込ませてベルトに手をかけようとする。
「止めろ! 俺にだって少しは羞恥心というものがあるんだ!」
明は必死で、ブレザーの裾を押さえて抵抗を試みる。この期に及んでもなお、カナの細腕を掴んで力任せに引き剥がすような、乱暴なやり方をする気にはなれなかった。
「カナ様!」
「お止め下さい!」
いつの間にか、3人の金魚たちも加勢していた。水かきの付いた小さな手でカエル顔のフードを引っ張る姿には、非常に健気なものがある。
「止めなさいって、言ってるでしょー!」
かくして菊池明は、海事代理士・朝霧まりかと、後にその正体が人魚であると知ることになる、老獪な少女・カナと、運命的な出会いを果たしたのだった。
(さて、どうにか室長を納得させねえとな)
カナに制服を引っ張られながら、明は陰鬱な気分が再び湧き上がってくるのを感じる。
明の右手首で、フルメタルの腕時計がその身を微かに震わせた。未だ微弱なその自我は、しかし、確実に意識を外界へと向け始めている。
「彼」が、新たな主に何を想うのか。それを明が知ることになるのは、当分先の話であった。
深夜。月明かりが、まりかの寝顔を柔らかく照らしている。
カナが、薄い敷布団の上でむくりと身体を起こした。タオルケットを押し退けて立ち上がると、まりかが深い眠りに落ちていることを確認し、そっと扉を開けて寝室を出る。
玄関を抜け、階段を上り、月の光が煌々と降り注ぐ屋上に出る。昼間のこともあったため、その華奢な身体にはきちんと腰布を付けている。
「……」
無言のまま、片手を前に伸ばす。
手のひらの上に、法螺貝が出現する。
カナは法螺貝を耳に当てると、その声に耳を傾けた。
ザザアアン……
ザザアアアン……
浜辺を打ち寄せる波音が、法螺貝の中で幾千回もこだまする。
しばらくの後、カナの片眉がぴくりと動いた。
耳から法螺貝を離すと、しかめっ面で睨みつける。
「『時期はいつでも良いから絶対にまりかに知られぬように独りで龍宮城に来い』じゃと? なんでわしが、そんな七面倒臭いことをせにゃならんのじゃ! お主が来れば良かろう!」
カナは法螺貝を強く握ると、その腕を目一杯後ろに引いた。
法螺貝が、蒼白い光を放つ。
ぎゅいん。
光が、槍のような形に変化する。
深夜の屋上で、カナが大声で叫んだ。
「めんっ! ど、くさいっ!」
ヒュンッ。
海に向かって、思いっ切りそれを投げる。
それは、蒼い残像を残しながらあっという間に象の鼻桟橋の海面に辿り着くと、溶けるようにして幽世の海に消えていった。
「さーて、寝るかい」
カナはボリボリと頭を掻きながら、扉を開けてのそのそと階段を降りる。
(だーれが行ってやるものか)
そして、大あくびをして玄関の扉に手をかける頃には、綺麗さっぱり法螺貝のことを忘れてしまった。
結局、カナが単独で龍宮城に赴くのは、何ヶ月も後のこととなる。
蘇芳の武骨な手が、カナの放ったそれを掴んだ。
それを見た潮路が、ただでさえまん丸な目を更に丸くする。
「おやおや。カナ様は、とても血気盛んなお方であられますね」
「やれやれ」
元は法螺貝だったはずのそれを見て、蘇芳が小さく首を振った。
「メンドクサイッ! メンドクサイッ! メンドクサイッ!」
蘇芳の拳の中で、細長い形をした魚が、壊れた蓄音機のように同じ言葉を延々と繰り返し叫んでいる。
「よりによって、ダツを投げつけてくるとは」
ダツは、非常に危険な魚だった。くちばしのように細長く伸びたその口は、人間の身体など容易に貫通してしまうくらいには鋭く尖っており、漁師などからはサメなどよりも遥かに危険視されている。
蘇芳は小さくため息をつくと、ダツの姿をしたそれを法螺貝に戻して、何も言わずに潮路に向かって放り投げた。潮路も、心得たとばかりに何も言わずに法螺貝を受け取ると、一礼してその場を下がった。
蘇芳は、ごろりとラタン調の寝椅子の上で寝転がると、脇に置いていた金色の拳銃を取り上げた。
「やはり、本物を頂戴しておけば良かったのう」
顔の前に掲げて細部をくまなく観察しながら、独り言ちる。
拳銃に限らず、己の神霊力で模造した物など、味気ないことこの上ない。それが、蘇芳の考えだった。
だから蘇芳は、ことあるごとに現世に干渉する。
幽世と、そして己が持ち得ぬ未知なる何かを求めて。
「蘇芳様。そのような人間の武器を入手されて、どうなさるおつもりですか」
脇に控えていた黒瀬が、蘇芳に問いかけた。
「ううむ」
蘇芳が、拳銃を見つめたまま小さく唸る。
「もしや、必要になるやも知れぬという気がしてのう」
「はあ」
掴みどころの無い回答に、黒瀬はよく分からぬまま相槌を打つしかない。
蘇芳が、今度は拳銃を黒瀬に向かってポイッと放り投げた。
「黒瀬よ。それの使い方を学んでおけ」
「……かしこまりました」
黒瀬は金の拳銃を懐に収めると、何ひとつ問返すことなく一礼した。この主が、なんの脈絡もない命令を側近たちに出すことなど、何も今に始まったことではない。
黒瀬は再び一礼すると、あれこれ具体策を練りながら広間を後にした。
「あーあ」
独り広間に残った蘇芳は、頭の後ろで腕を組んで軽く目を瞑る。
『蘇芳様! 今日はね、宇宙の図鑑を持ってきたの!』
幼いまりかが、蘇芳の前で嬉しそうに宇宙の話をしている。
『――だからね、宇宙の形はね、ボールじゃなくてドーナッツなんだって』
自身の知りうる限りの言葉を駆使して、蘇芳を相手に熱烈に説明するまりか。
『それでね、それでね』
そして、満天の星空のようなキラキラとした瞳を向けて、こう言ったのだ。
『宇宙って、海にとっても似てると思うの!』
蘇芳が目を開いた。花鳥風月の天井画が、いつもと変わらぬ姿で蘇芳を見下ろしている。
(描き直させるのも一興かもしれぬな)
そんな思いつきを気ままに漂わせながらゆっくりと上体を起こすと、小さく何かを唱えた。
蘇芳の前に、漆塗りの小箱が出現する。
螺鈿細工の施されたそれには、蓋が無かった。というより、開け口がどこにも無い。
これは、蘇芳にしか開けられぬ小箱。何人もその中身を奪うことが叶わぬ、龍神の宝具。
蘇芳はその箱を開けようとして、そして止めた。
(何度確かめたところで、分かることなど何も無い)
蘇芳は、その箱の中身を知っている。そして、そこから何ひとつ痕跡が読み取れないことも。
蘇芳は小箱を消し去ると、再び目を瞑った。
(龍神という存在の、なんと小さきことか)
幾千ものさざ波が、蘇芳の内部でこだまする。
その波音に耳を傾けながら、蘇芳は今日も、独りまどろむ。