第21話 犬吠埼沖糧食盗難事件〈一〉
葉桜が新緑へと移り変わろうとする、麗らかな昼下がりのこと。海の怪異〈海異〉の謎を携えて、ひとりの客人が朝霧海事法務事務所を訪れた。
「どうぞ」
応接用ソファに腰掛けた客人の前に、穏やかな香りを漂わせる湯呑が静かに置かれる。
「これは、知覧茶ですな」
客人は両手でそっと湯呑を持ち上げると、深く皺が刻み込まれた目尻を下げ、小さく口元を綻ばせた。
「お好きでいらっしゃると、父から聞いておりました。もう少し時期が遅ければ、新茶をお出しできたのですが」
「そういえば、もうそんな時期ですか」
客人は感慨深そうに呟くと、整った所作で湯呑みを口に運ぶ。
(良かった。上手く淹れられたみたい)
ホッと息をついて表情を緩ませる老紳士を眺めながら、朝霧まりかは密かに胸を撫で下ろした。
この老紳士こと今井竹虎氏は、横浜市に籍を置く大手海運会社の代表取締役であり、同時に、まりかの父・朝霧利雄の古い知人でもある。いかにも厳つい名前とは裏腹に、綺麗に整えられたグレイヘアとブラウンのオーダースーツという出で立ちからは、紳士然とした物腰の柔らかさと人当たりの良さを感じることができる。
まりかは、どことなく父と似た雰囲気を持つこの老紳士に親しみを感じつつも、内航海運というこの国の物流の要を何十年にもわたって担ってきた超重要人物であるという事実を思い起こし、くれぐれも粗相の無い対応をせねばと一層気を引き締めた。
「それでは、本題に入るとしましょう」
今井氏は、小皿に盛られた個別包装の茶菓子には手を付けず、本革のビジネスバッグからファイルを取り出すと、ホチキス止めされた資料をローテーブルの上に置いた。
「お話は既に、秘書の松前からお聞きになっておられるでしょう。各海運会社から聞き取った被害状況は全て、こちらの資料に詳しく記載させていますので、どうぞお受け取り下さい」
「拝見します」
まりかは資料を手に取って、素早く全ページに目を通す。
「……船種、船籍、運航会社。どれも見事にバラバラですね。これだけ雑多な情報を集約するのは、かなり大変だったのではありませんか」
「その辺りは、松前が上手いことやっておりましたからな。もっとも、私も少々手を貸しましたが」
なんてことの無い顔で、さらりと言ってのける。
「ご謙遜を。それだけ内航海運業界において、今井様の存在が大きいということでしょう」
「それに、松前も優秀ですからな」
やけに秘書の働きを強調する今井氏に、まりかは思わず笑みをこぼす。
「その松前さん、一度お会いしてみたいものです」
まりかは半ば本心からの言葉を返すと、再び資料に目を落とした。
今井氏の秘書である松前氏からまりかが連絡を受けたのは、およそ3日前のことである。
『犬吠埼冲を通過する商船から、怪異らしき存在により食糧が盗まれる事案が多発している』
犬吠埼は、関東平野の最東端、銚子半島に位置する太平洋に突出した岬である。そしてこの犬吠埼の沖合は、貨物船やタンカーなどの商船が昼夜を問わず行き交う海上交通の要所となっている。
調査によると、犬吠埼沖を通過する商船から食糧が盗まる事案が確認できたのは、この数ヶ月間に限定されるとの事だった。1回に盗む量はそこまで大したことが無いらしいのだが、それでも、大切な船の食糧が盗まれているという事実に変わりは無い。
そういうわけで先日、事態を重く見た各運航会社や船主たちが一堂に会した。そこで顔を突き合せて相談した結果、今井氏が業界を代表して朝霧海事法務事務所に解決を依頼することになったというのが、今回の経緯である。
ちなみに、業界内において今井氏は、自由人としても有名だった。現に「たまには独りで出歩きたい」というだけの理由で、誰一人同伴させずに単独で事務所を訪問している。そしてこの後は、「松前に内緒で」日本郵船歴史博物館に足を運ぶつもりであるとの事だった。
「……これだけ詳細に整理してまとめていただけて、とても助かりました。松前さんに、私が礼を言っていたと伝えていただいてもかまいませんか」
「ええ、松前も喜ぶことでしょう」
「ありがとうございます」
今井氏に軽く頭を下げて、まりかは資料の最終ページに目を落とす。
そこには、被害に遭った全ての商船の位置が、赤丸によって地図上に記されていた。
まりかは、地図上のある一点をじっと見つめる。
(もしかしたら、もう分かっちゃったかも)
資料から顔を上げると、こちらを探るように見つめる今井氏と目が合った。まりかは、怪異の正体について閃きがあったことなどおくびにも出さず、今井氏に向かってニッコリと笑いかける。
「ご安心ください。今日明日というわけにはまいりませんが、週明けには良い結果をお伝えできるように努めさせていただきます」
断固としたまりかの言葉に、今井氏が少しだけ気圧されたような表情を浮かべた。しかし、すぐに柔和な笑みを取り戻すと、居住まいを正して真っ直ぐにまりかを見つめる。
「さすがは、利雄さんの娘さんだ。頼りにしていますぞ」
「っ!」
父の、娘。
今井氏の口から出た言葉に、まりかは胸がいっぱいになる。
「はい! お任せ下さい!」
こうしてまりかは、何ヶ月にもわたって船員たちを悩ませている、犬吠埼冲糧食盗難事件に挑むこととなったのだった。
「……とは言ったものの、どうするのが一番良いのかしらね」
今井氏を見送って茶器を片付けた後、すぐに資料を片手にデスクに戻って頭を悩ませ始める。
「止めて欲しいと伝えたところで、素直に聞いてくれるとも思えないし」
資料に記載されている報告を熟読しながら、まりかは小さくため息をついた。
今回の事件を引き起こした犯人の正体については、既に見当がついていた。現地に足を運ぶまでは断定できないが、それでも、まず間違いないだろうと踏んでいる。
問題は、どうやってその犯人を説得するかだった。
「怪異や妖って、本当に人間の食べ物が好きよねえ」
何杯目になるか分からないコーヒーを啜りながら、水槽内で悠然と泳ぐ金魚たちを見るともなしに眺める。ついでに、コンビニで買ったティラミスを上の階でパクついているであろう人魚の顔も思い浮かべてみる。
あの人魚にスイーツ禁止令など出そうものなら、大いに不満を噴出させてビル中をしっちゃかめっちゃかに荒らしてくれるに違いない。
まりかは椅子の背もたれに背中を預けると、くるりと椅子を回転させて海側の窓に身体を向けた。
そこにあるのは、いつもと変わらぬ横浜港の景色。
ランドマークタワーに、観覧車。スイカだのメロンだのと散々な呼び方をされているホテルの建物に、赤レンガ倉庫。そのすぐ近くには、海上保安庁の巡視船が停泊している。
(あ、そういえば)
ここでまりかは、菊池明の存在を思い出した。
(あそこは海保が管理してる施設なんだし、ひょっとしたら何か参考になる話が聞けるかもしれない)
まりかはスマホの画面を操作して、明の連絡先を呼び出そうとする。彼なら、こちらのメッセージに気がつき次第、すぐに反応を返してくれるだろう。
まりかが、最初の文字を打ち込んだ時だった。
「わっ!?」
静かな事務所内に、固定電話の大音量が鳴り響く。
「え、まさか」
こういう時のまりかの勘は、非常によく当たる。
まりかは、妙なスリルに胸をドキドキさせながら、そっと受話器を取り上げた。
「どうぞ」
応接用ソファに腰掛けた客人の前に、穏やかな香りを漂わせる湯呑が静かに置かれる。
「これは、知覧茶ですな」
客人は両手でそっと湯呑を持ち上げると、深く皺が刻み込まれた目尻を下げ、小さく口元を綻ばせた。
「お好きでいらっしゃると、父から聞いておりました。もう少し時期が遅ければ、新茶をお出しできたのですが」
「そういえば、もうそんな時期ですか」
客人は感慨深そうに呟くと、整った所作で湯呑みを口に運ぶ。
(良かった。上手く淹れられたみたい)
ホッと息をついて表情を緩ませる老紳士を眺めながら、朝霧まりかは密かに胸を撫で下ろした。
この老紳士こと今井竹虎氏は、横浜市に籍を置く大手海運会社の代表取締役であり、同時に、まりかの父・朝霧利雄の古い知人でもある。いかにも厳つい名前とは裏腹に、綺麗に整えられたグレイヘアとブラウンのオーダースーツという出で立ちからは、紳士然とした物腰の柔らかさと人当たりの良さを感じることができる。
まりかは、どことなく父と似た雰囲気を持つこの老紳士に親しみを感じつつも、内航海運というこの国の物流の要を何十年にもわたって担ってきた超重要人物であるという事実を思い起こし、くれぐれも粗相の無い対応をせねばと一層気を引き締めた。
「それでは、本題に入るとしましょう」
今井氏は、小皿に盛られた個別包装の茶菓子には手を付けず、本革のビジネスバッグからファイルを取り出すと、ホチキス止めされた資料をローテーブルの上に置いた。
「お話は既に、秘書の松前からお聞きになっておられるでしょう。各海運会社から聞き取った被害状況は全て、こちらの資料に詳しく記載させていますので、どうぞお受け取り下さい」
「拝見します」
まりかは資料を手に取って、素早く全ページに目を通す。
「……船種、船籍、運航会社。どれも見事にバラバラですね。これだけ雑多な情報を集約するのは、かなり大変だったのではありませんか」
「その辺りは、松前が上手いことやっておりましたからな。もっとも、私も少々手を貸しましたが」
なんてことの無い顔で、さらりと言ってのける。
「ご謙遜を。それだけ内航海運業界において、今井様の存在が大きいということでしょう」
「それに、松前も優秀ですからな」
やけに秘書の働きを強調する今井氏に、まりかは思わず笑みをこぼす。
「その松前さん、一度お会いしてみたいものです」
まりかは半ば本心からの言葉を返すと、再び資料に目を落とした。
今井氏の秘書である松前氏からまりかが連絡を受けたのは、およそ3日前のことである。
『犬吠埼冲を通過する商船から、怪異らしき存在により食糧が盗まれる事案が多発している』
犬吠埼は、関東平野の最東端、銚子半島に位置する太平洋に突出した岬である。そしてこの犬吠埼の沖合は、貨物船やタンカーなどの商船が昼夜を問わず行き交う海上交通の要所となっている。
調査によると、犬吠埼沖を通過する商船から食糧が盗まる事案が確認できたのは、この数ヶ月間に限定されるとの事だった。1回に盗む量はそこまで大したことが無いらしいのだが、それでも、大切な船の食糧が盗まれているという事実に変わりは無い。
そういうわけで先日、事態を重く見た各運航会社や船主たちが一堂に会した。そこで顔を突き合せて相談した結果、今井氏が業界を代表して朝霧海事法務事務所に解決を依頼することになったというのが、今回の経緯である。
ちなみに、業界内において今井氏は、自由人としても有名だった。現に「たまには独りで出歩きたい」というだけの理由で、誰一人同伴させずに単独で事務所を訪問している。そしてこの後は、「松前に内緒で」日本郵船歴史博物館に足を運ぶつもりであるとの事だった。
「……これだけ詳細に整理してまとめていただけて、とても助かりました。松前さんに、私が礼を言っていたと伝えていただいてもかまいませんか」
「ええ、松前も喜ぶことでしょう」
「ありがとうございます」
今井氏に軽く頭を下げて、まりかは資料の最終ページに目を落とす。
そこには、被害に遭った全ての商船の位置が、赤丸によって地図上に記されていた。
まりかは、地図上のある一点をじっと見つめる。
(もしかしたら、もう分かっちゃったかも)
資料から顔を上げると、こちらを探るように見つめる今井氏と目が合った。まりかは、怪異の正体について閃きがあったことなどおくびにも出さず、今井氏に向かってニッコリと笑いかける。
「ご安心ください。今日明日というわけにはまいりませんが、週明けには良い結果をお伝えできるように努めさせていただきます」
断固としたまりかの言葉に、今井氏が少しだけ気圧されたような表情を浮かべた。しかし、すぐに柔和な笑みを取り戻すと、居住まいを正して真っ直ぐにまりかを見つめる。
「さすがは、利雄さんの娘さんだ。頼りにしていますぞ」
「っ!」
父の、娘。
今井氏の口から出た言葉に、まりかは胸がいっぱいになる。
「はい! お任せ下さい!」
こうしてまりかは、何ヶ月にもわたって船員たちを悩ませている、犬吠埼冲糧食盗難事件に挑むこととなったのだった。
「……とは言ったものの、どうするのが一番良いのかしらね」
今井氏を見送って茶器を片付けた後、すぐに資料を片手にデスクに戻って頭を悩ませ始める。
「止めて欲しいと伝えたところで、素直に聞いてくれるとも思えないし」
資料に記載されている報告を熟読しながら、まりかは小さくため息をついた。
今回の事件を引き起こした犯人の正体については、既に見当がついていた。現地に足を運ぶまでは断定できないが、それでも、まず間違いないだろうと踏んでいる。
問題は、どうやってその犯人を説得するかだった。
「怪異や妖って、本当に人間の食べ物が好きよねえ」
何杯目になるか分からないコーヒーを啜りながら、水槽内で悠然と泳ぐ金魚たちを見るともなしに眺める。ついでに、コンビニで買ったティラミスを上の階でパクついているであろう人魚の顔も思い浮かべてみる。
あの人魚にスイーツ禁止令など出そうものなら、大いに不満を噴出させてビル中をしっちゃかめっちゃかに荒らしてくれるに違いない。
まりかは椅子の背もたれに背中を預けると、くるりと椅子を回転させて海側の窓に身体を向けた。
そこにあるのは、いつもと変わらぬ横浜港の景色。
ランドマークタワーに、観覧車。スイカだのメロンだのと散々な呼び方をされているホテルの建物に、赤レンガ倉庫。そのすぐ近くには、海上保安庁の巡視船が停泊している。
(あ、そういえば)
ここでまりかは、菊池明の存在を思い出した。
(あそこは海保が管理してる施設なんだし、ひょっとしたら何か参考になる話が聞けるかもしれない)
まりかはスマホの画面を操作して、明の連絡先を呼び出そうとする。彼なら、こちらのメッセージに気がつき次第、すぐに反応を返してくれるだろう。
まりかが、最初の文字を打ち込んだ時だった。
「わっ!?」
静かな事務所内に、固定電話の大音量が鳴り響く。
「え、まさか」
こういう時のまりかの勘は、非常によく当たる。
まりかは、妙なスリルに胸をドキドキさせながら、そっと受話器を取り上げた。