第31話 海難0527〈四〉
「さてと」
ひとしきり歓談した後、梗子がグンと伸びをして大きく息を吐いた。それから、暴露甲板の手すりに歩み寄り、数km先に横たわる陸地を睨みつける。
梗子と楓、そして明の3人がこの座礁船に残った理由。それはもちろん、事故の原因となった怪異について調査するためだった。
事故発生から何時間も経過した現在、その怪異がどこか別の海域に去ってしまった可能性も十分に考えられる。しかし、もしそうだったとしても、怪異の正体に関する手がかりの1つや2つは持ち帰らなければならない。
そうでなければ、海洋怪異対策室の存在意義など無いに等しいのだ。
「上原氏の話をそのまま信じるなら、あの海岸沿いをうろついてるってことになるよな」
「伊良部さん、まさか行くつもりですか?」
梗子の言葉に、同じく陸地を眺めていた明が慌てた様子で訊ねる。
「それが一番手っ取り早いだろ? 時間も限られてることだし、俺がちょちょいと泳いできてやるよ」
梗子が明を見上げた。頬骨の辺りが爬虫類の鱗となっているその顔には、何故か不敵な笑みが浮かんでいる。
「それ、単に梗子がもうひとつの姿で泳ぎたいだけやろ」
そんな梗子に対し、楓が呆れ顔でツッコミを入れた。
すると、梗子がいかにも面倒臭そうな顔をして楓に言い返す。
「別に良いじゃねえか。もう何週間もろくに泳げてねえんだよ。それに、俺がやった方が早いのは事実だろ?」
「いくら梗子が強力な『異形』や言うたって、職務中に単独行動なんかさせられへんわ。少しくらい、危機管理官庁の職員としての自覚を持った方がええんとちゃうの」
「ったく。年下のくせに、楓はうっせえな」
「梗子はまだ子供みたいなもんやろ」
航行不能となった船の上で口喧嘩を始める、梗子と楓。明はその様子を横から大人しく見守りながら、渡辺隼人が何故か得意げな顔で話していたことを思い出す。
『伊良部さんと榊原さんみたいなコンビのことは、ケンカップルと呼ぶのですよ!』
明としては、この2人は言うほど喧嘩もしていないし、それ以前にカップルでは無いのではという感想を抱いている。
(それでも、喧嘩ができる程度に仲が良いのは間違いないよな)
口喧嘩といっても、特に険悪な雰囲気にはなっていない。むしろ、この2人からは互いに対する確かな信頼を感じ取ることができる。
(それは全然良いんだけど、ちょっと2人の世界に入りすぎじゃないか)
すっかり忘れ去られた形となった明だったが、間に割って入るのも悪いと考え、白波が立つ海を眺めながら大人しく待つことにした。
もし、何も知らない者がこの状況を見たら、先輩2人が周囲への警戒を後輩に任せきりにして、つまらぬ言い争いに没頭していると捉えたかもしれない。しかし、梗子も楓も、何ひとつ怠ってはいなかった。
「っ!」
「菊池君!」
「はい!」
突如として訪れた異変に、3人が同時に気がついた。
風が止み、陽光が遠ざかり、一切の音が世界から消失する。
世界が、幽世へと塗り変わっていく。
「あれは……」
明が、陸地とは反対方向に足を踏み出した。梗子と楓もすぐ後に続く。
カカンッ、カンッ。
靴と金属製の甲板が触れ合う音が、座礁船の上で小さく不気味に響く。
「あれは、海坊主ですね」
手すりの前に3人で横並びになり、沖合に出現したその巨大な怪異を凝視する。
「確かに、海坊主だな。久々に見たぜ」
「2人とも見たことあるん? うちは初めて見たわ」
「いえ、実際に見るのは俺も初めてです」
海坊主。言わずと知れた、海の怪異。天を衝くような釣鐘型の巨体に、墨汁で塗りつぶしたような黒一色の中で爛々と光る2つの巨大な目玉。数多の水死者たちの無念が寄り集まって形成された怪異であると言われており、何もせずに船を見ているだけのこともあれば、船の行く手を阻み、沈没させようとすることもあるらしい。
しかし、近年の航海、造船技術の発達によって水死者が激減したためか、海坊主の目撃例は減少の一途を辿っている。三管区に限らず他の海異対でも、海坊主を見たことがない人間の方が多いというのが実状だった。
「海坊主が女性に化けた話って、聞いた事ありますか?」
明が、一応の警戒として数珠を取り出しながら、先輩2人に意見を求める。
それに対し、海坊主に視線を固定したまま、楓が小さく頷いてこう答えた。
「怪異や妖に絶対なんてことはあらへんけど、あれが人間の女に変化する手間をかけるいうのは、なんか違う気いするわ。梗子はどう思う?」
「あー、うん。そんだな……」
楓から話を振られた梗子が、何故か歯切れの悪い返事をする。
海難事故の現場になんの前触れもなく出現した、絶滅危惧種の巨大な怪異。ほんの束の間、気を取られてしまうのは無理からぬことだろう。
その僅かな隙をついて、それはやってくる。
さっきまで3人がいた陸地側の手すりに、形は良いが酷く血色の悪い女の手が置かれた。
手すり越しに3人の姿を認めると、嬉しさに口角を歪めて舌なめずりをする。
「ん?」
「どうした、菊池君?」
「いえ、ちょっと」
明が、仄かに赤い光を反射する腕時計を楓に見せた。
「今、振動したような気がして。こんなこと初めてです」
「ふうん、なんでやろな」
それが、手すりを飛び越えた。
暴露甲板の幅は、20mにも満たない。2秒と経たずに、獲物を牙にかけられるはず。
最初の獲物、人間の男は、未だに背中を向けたまま。
その首に、鋭い獣の牙を食い込ませて、思いっ切り噛みちぎる。
はずだった。
「ギャアッ!」
「っ!?」
「なっ!?」
すぐ背後で上がった悲鳴に、明と楓が同時に振り向いた。
まず、梗子の背中が目に入った。青く光る黒褐色のショートヘアが、梗子の動きに合わせて大きく揺れ動いている。
それから、梗子の向かいで大きく顔を歪ませている女の姿を認める。
一糸まとわぬ上半身に、大きく波打つ豊かな髪。
そして。
「スキュラ!」
「スキュラだと!?」
下半身に目を向けた2人が、同時に叫んだ。先程までの気の緩みは一瞬で吹き飛び、即座に臨戦態勢をとる。
魚の形をした下半身に、腰から伸びる6つの獣の頭。上半身は壮絶なまでに美しい女の造形をしているが、彫りの深い整った顔立ちには隠しきれない凶暴さがありありと滲み出ていた。
海の怪物、スキュラ。かつて、地中海を中心に生息していた、西洋の怪異。その性質があまりに残忍であることから、およそ50年前、某国の討伐機関により地中海から一掃されてしまったという。
しかし、その一大掃討作戦の網目を掻い潜った少数のスキュラが、新天地を求めて世界中の海へと散っていってしまったらしい。国際海事機関が実施した調査によると、各国の公式記録に残っているだけでも、過去数十年で10件以上の目撃、遭遇例が確認できるとのことだった。
「キサマァ、混血か!」
スキュラが、梗子に向かって憎々しげに吐き捨てた。血のような赤い瞳をした大きな目が、幽世の侘しい景色の中で毒々しい輝きを放っている。
「ヴゥ…」
「ギギ…」
女の腰の位置では、犬や狼の顔を歪に潰したような造形をした6つの獣の頭が、唸り声を上げて涎を垂らしながら梗子を睨みつけている。
そんな刺し殺さんとでもするかのような複数の強烈な視線をものともせず、梗子は静かな口調でこう問いかけた。
「この船を座礁させたのは、お前か?」
いつの間にか手の中に出現させていた得物を、ピタリとスキュラに突きつける。
「だったらナンだよ!? よくも粗末な板切れなんかで、このアタイを殴りやがったなァ!?」
スキュラは梗子の質問を否定するでもなく、ほっそりとした腕を振り回して喚き散らす。美しい見た目に反して、その言葉遣いにはおおよそ上品さというものが感じられない。
「板切れじゃねーよ。『ウェーク』っていう、立派な名前があるんだよ」
ウェークは、沖縄の言葉で木造舟の櫂を意味する。全長の半分弱が細長い板、つまりはブレードとなっており、武器として用いるために本来の用途よりも周縁部分を薄く削って軽量化を計っていた。
「名前なんざどうでもイイんだよっ!」
十分な余裕が感じられる梗子の返答に、スキュラはますます逆上する。
(聞くなら、今しか無さそうだ)
明はギュッと数珠を握り込むと、梗子の後ろから思い切ってスキュラに話しかけてみた。
「スキュラ。ひとつだけ聞いてもいいか」
明の声を聞いた途端、スキュラの表情が一変した。
艶めいた笑みを口元に浮かべると、ねっとりと絡みつくような目つきで明の全身を舐めまわす。
「ウフフ。なんだい、坊や?」
その不気味な視線と、わざとらしい猫なで声に、明は身の毛もよだつようなおぞましさを覚える。それでも、臆することなくスキュラを見返すと、少々唇を湿してからこう問いかけた。
「何故、人間を惑わして船を座礁させるなんてことをしたんだ」
「なんだァ、そんなことかい」
スキュラが恍惚とした表情を浮かべて己の身を掻き抱くと、ふるりと豊満な乳房を震わせた。
「生命力に溢れた屈強な海の男たちが、荒れ狂う海に放り出され、岩礁に身体を引き裂かれるんだよ。そんなの、コーフンするに決まってるじゃないかァ」
そう言って明に流し目を向けると、紫色の唇をねっとりと舐めてみせる。
(ああ、そうだった)
明は、目の前で身をくねらせる女を眺めながら、己の中に残っていた怒りが急速に醒めていくのを感じた。
怪異や妖に、人間の倫理観など通用しない。怒りの感情など、抱くだけ無駄。というより、この場合は邪魔でしかない。
怪異と言葉を交わしたことにより、この危機的状況にあって明は冷静さを取り戻していく。
「フフフ。気に入ったよ、坊や。細っこいのはあんまり好みじゃないんだケド、アンタを喰うのは最後にしてやる。喰いながら、アタイとゆっくりお喋りしようじゃないか」
女は、整った顔に似合わぬ下卑た笑い声を立てると、今度は楓に視線を移す。
「女のコもまあ趣味じゃないけどサ、久々の食事だからね。最初にペロリと平らげてやるよ」
最後に、梗子に視線を戻した。獰猛な表情を取り戻し、思いがけず白く輝く美しい歯列を剥き出しにしてこう叫ぶ。
「混血のガキは、肝臓だけ取り出したら、残りは切り刻んで魚の餌にしてやるよ!」
「この2人には、指一本触れさせない」
梗子の、固い決意を込めた声が、静まり返った暴露甲板上に響き渡った。
その凛とした気高い姿に、スキュラはひたすら憎悪を増幅させていく。
「仲間の前で、無様に臓物をぶちまけて泣き喚くがイイさ!」
女の叫び声と同時に、6つの獣頭がやかましく梗子に吠えかかる。
そして、少女の引き締まった肢体を引き裂こうと、6つの顎が一斉に襲いかかった。
痛いほどの静寂に満ちた、幽世の海。浅瀬に乗り上げた巨大な船の上で、青白い光が、流水紋のごとき美しい弧を描いている。
「ギャンッ」
「ギャイン!」
梗子がウェークを振るう度に、獣たちの口から無様な鳴き声がまろび落ちる。
「一体なんなんだ、その澄ましたような体捌きは!」
かつて自分が対峙したどのような術者たちとも違う梗子の武術に、スキュラは思わず声を荒らげる。
(何度見ても、梗子の琉球古武術は凄いわあ)
武術や格闘技には全く興味が無い楓であるが、目の前で繰り広げられる見事な攻防には流石に感嘆せずにはいられない。
琉球古武術。沖縄で独自の発展を遂げてきた、多彩な武器術を含んだ実践的要素の強い武術。そして、いくつか存在する流派のうち梗子が師から受け継いだのは、かつて琉球王家に秘密裏に伝えられてきた特別な流派だった。
1対1の格闘ではなく、戦場において単独で多人数を相手取ることを想定した技術体系となっており、その思想の出発点からして他の武術や格闘技とは一線を画している。また、体術と武器術が同一の術理によって組み立てられ、武器の種類ごとの「型」というものが存在しないことも大きな特徴のひとつとなっている。
「ギャウンッ」
「ギェン!」
膝を曲げず、踵やつま先で着地をする独特の歩法と、予備動作なく歩みと同時に繰り出される一撃必殺の技。幼少時から鍛え抜かれ洗練された梗子の体捌きは、流麗でこそあれ、武術や格闘技らしい派手さや激しさといったものは全く感じられない。
その動きは、さながら舞。
それに加え、梗子の妖力を帯びたウェークが放つ青白い燐光が軌跡を描くことにより、昏い幽世にあってそこだけが、美しい夢幻の時を刻んでいるかような錯覚を起こしてしまう。
しかし、そんな梗子の独壇場は、短時間のうちに終わりを告げることとなった。
「梗子!」
「っ!」
楓の合図に、梗子はすかさず脇に飛び退いた。
その梗子のすぐ横を、光でできたロープ状のものが一直線に飛んでいく。
「ギャアアアアア!」
スキュラが絶叫した。上半身はもちろん、6つの獣頭、それから魚の形状の下半身に至るまで、その全身が光るロープ――羂索によって雁字搦めに締め付けられている。
「不動金縛法か、えげつねえな」
羂索が強く食い込んだ肌から紫色のうっすらとした煙が立ち上るのを見て、梗子は軽く顔をしかめる。
「やっぱり、やるのか?」
梗子が、技を放ったばかりの楓に視線を転じた。
(ああ、こりゃ本気だな)
その姿を見てすぐに、聞くまでもなかったことだと悟る。
「このまま放逐するには、スキュラはあまりにも危険過ぎる。中途半端に妖力を削いだところで、船乗りを惑わす欲求が無くなるとも思えへん」
苦悶の表情を浮かべるスキュラから目を離さずに、楓が淡々とした声で答えた。その全身は燐光を帯び、その瞳には揺らめく焔がうっすらと映っている。
燐光によって陰影が消えたその顔からは、いかなる感情も伺えない。
「うちが、ここで終わらせたる」
「分かった。任せる」
重々しい響きを持ったその言葉に、梗子は小さく頷いた。構えを解いて、ウェークを抱き込むような形で腕を組み、黙って成り行きを見守ることとする。
(神憑り状態の楓って、なんかちょっとコワいんだよな)
厳密に言えば、今の楓はあくまで擬似的な神憑り状態でしかないのだが、妖の血を引く梗子からすると、畏怖の感情を起こさせるにはこれだけでも十分だった。
菊池明が、真言や陀羅尼を詠唱することにより神仏の力を借りるのに対し、榊原楓は、神仏と自身が同一の存在であると想念し、神仏の力を己のものとして行使することを試みる。
上原に用いた息吹法然り、難易度が高い分、その発揮する効力は絶大なものとなる。凶暴かつ残忍な西洋の怪異であるスキュラを完全に滅することも、「神憑り」の楓ならば十分に可能であると思われた。
「『臨』」
一切のまばたきなしにスキュラを見つめながら、楓が胸の前で印を結び始める。
「『兵』・『闘』・『者』」
「アギャアアアッ!」
唱え、印を結ぶごとに、光り輝く羂索がますます強くスキュラの身体を締め上げていく。
「『皆』・『陳』・『列』」
「ア゛アアアッ!」
スキュラの悲鳴が、凄惨さを増していく。
「『在』・『前』!」
楓が、九字の詠唱を終えた。
間を置かずに片手で刀印を結び、空中に「勝」の字を書いて九字に一字を加えた「十字法」となす。
「『吾に当たる者は死し、吾に背く者は滅ぶ』」
楓の瞳でゆらめく焔が、静止した。
「『――急々如律令』!」
火焔が、スキュラの全身を包み込んだ。
迦楼羅炎。あらゆる不浄を焼き尽くす、清らかな炎。
その中心で阿鼻叫喚する女から、楓も梗子も、決して目を背けることはない。哀れむでもなく、かといって嗤うでもなく、ただただ静かに、女が灰燼と帰すのを見届けようとしている。
そして、時間にして、およそ1分が経過した頃。
「……なんか、長くないか?」
梗子が、訝しげな表情で呟いた。
それから、チラリと楓の顔を盗み見る。
「……」
楓の目に、不安の色が浮かんでいた。
そろりそろりと、片手をマントの中に伸ばそうとしている。
(おいおい、こりゃヤバいんじゃねえの)
梗子が、ウェークを構え直した。
ウェークを向けた先で、火焔が徐々に沈静化していく。
やがて、全身が黒い煤にまみれたスキュラの姿が浮かび上がった。身体のあちこちから、プスプスと熾火が燻るような音と煙が立ち上っている。
「……ンフフフフ」
スキュラが、下を向いたまま肩を震わせた。
6つの獣頭は、不気味なほどの沈黙を保っている。
「オマエたち」
女が、顔を上げた。煤まみれになった美しい顔の中、血の色をした大きな瞳が、怨嗟の念によって邪悪な輝きを放っている。
「ラクに死ねると思うな、産まれてきたことを後悔するほどの地獄を味わ――ギャアアアッ!」
楓が、3枚の護符を放った。スキュラの全身に電流のようなものが走り、その動きを一時的に封じ込める。
「梗子、仕切り直しや!」
叫びながらスキュラに背を向けようとしたところで、梗子の様子がおかしいことに気がつく。
「どうしたん? 撤退や言うとるやろ!」
「楓の十字法が効かねえなら」
スキュラを見つめたまま、梗子が口走る。
「俺がやるしか」
「梗子!」
楓が、一際大きな声で叫んだ。
「その技と力は護るためだけに使うって、自分で言うとったやないの!」
梗子が、楓を見た。
「かえで……」
楓の切羽詰まった表情が、暴走しかけていた梗子の闘争本能を宥めていく。
「伊良部さん! 榊原さん! 早くこっちへ!」
背後から、明が2人を呼ぶ声が聞こえた。
梗子と楓が振り向くと、船橋へと続く階段から、明がひどく焦った様子でこちらを見つめている。
「すまねぇ。行くぞ」
少し俯き加減で謝りながら、梗子が駆け出した。楓は何も言わずに梗子のすぐ後に続く。
「2人とも船橋へ!」
階段を降りたところで、明が2人を待ち受けていた。
明は先に2人を通すと、殿となって船橋の出入口へと駆けていく。
「待ちやがれェ!」
スキュラが、護符の拘束を解いた。
怨嗟の叫び声を上げながら暴露甲板上を一気に移動すると、ひらりと手すりを超えて飛び降りる。同時に、梗子と楓が船橋に駆け込んだ。
スキュラと、ドアの取っ手を握った明の視線が空中でかち合う。
「やっぱりまずはオマエだァ!」
女は煤まみれの顔を喜色満面に歪めると、涎を垂らしながら一直線に明に突撃しようとした。
明は素早く船橋に入ってドアを密閉する。
(こんなドア、すぐに壊してやる!)
女は勢いのまま、6つの獣頭にドアを破壊するように指令を出す。
そして、真ん中の獣頭がドアに触れた途端、全身を槍で貫かれたような衝撃が走った。
「アギャアアアアッ!」
何度目になるか分からない絶叫を上げながら、慌ててドアから距離をとる。
「あンのガキ共……どこまでもやってくれるじゃないかァ」
ドアと、ドアからはみ出して描かれたそれを見て、女は怒りが突き抜けたことによる引きつった笑みを口元に浮かべる。
そこには、八方位と天地を守護する、十二天の梵字マンダラが描かれていた。
ひとしきり歓談した後、梗子がグンと伸びをして大きく息を吐いた。それから、暴露甲板の手すりに歩み寄り、数km先に横たわる陸地を睨みつける。
梗子と楓、そして明の3人がこの座礁船に残った理由。それはもちろん、事故の原因となった怪異について調査するためだった。
事故発生から何時間も経過した現在、その怪異がどこか別の海域に去ってしまった可能性も十分に考えられる。しかし、もしそうだったとしても、怪異の正体に関する手がかりの1つや2つは持ち帰らなければならない。
そうでなければ、海洋怪異対策室の存在意義など無いに等しいのだ。
「上原氏の話をそのまま信じるなら、あの海岸沿いをうろついてるってことになるよな」
「伊良部さん、まさか行くつもりですか?」
梗子の言葉に、同じく陸地を眺めていた明が慌てた様子で訊ねる。
「それが一番手っ取り早いだろ? 時間も限られてることだし、俺がちょちょいと泳いできてやるよ」
梗子が明を見上げた。頬骨の辺りが爬虫類の鱗となっているその顔には、何故か不敵な笑みが浮かんでいる。
「それ、単に梗子がもうひとつの姿で泳ぎたいだけやろ」
そんな梗子に対し、楓が呆れ顔でツッコミを入れた。
すると、梗子がいかにも面倒臭そうな顔をして楓に言い返す。
「別に良いじゃねえか。もう何週間もろくに泳げてねえんだよ。それに、俺がやった方が早いのは事実だろ?」
「いくら梗子が強力な『異形』や言うたって、職務中に単独行動なんかさせられへんわ。少しくらい、危機管理官庁の職員としての自覚を持った方がええんとちゃうの」
「ったく。年下のくせに、楓はうっせえな」
「梗子はまだ子供みたいなもんやろ」
航行不能となった船の上で口喧嘩を始める、梗子と楓。明はその様子を横から大人しく見守りながら、渡辺隼人が何故か得意げな顔で話していたことを思い出す。
『伊良部さんと榊原さんみたいなコンビのことは、ケンカップルと呼ぶのですよ!』
明としては、この2人は言うほど喧嘩もしていないし、それ以前にカップルでは無いのではという感想を抱いている。
(それでも、喧嘩ができる程度に仲が良いのは間違いないよな)
口喧嘩といっても、特に険悪な雰囲気にはなっていない。むしろ、この2人からは互いに対する確かな信頼を感じ取ることができる。
(それは全然良いんだけど、ちょっと2人の世界に入りすぎじゃないか)
すっかり忘れ去られた形となった明だったが、間に割って入るのも悪いと考え、白波が立つ海を眺めながら大人しく待つことにした。
もし、何も知らない者がこの状況を見たら、先輩2人が周囲への警戒を後輩に任せきりにして、つまらぬ言い争いに没頭していると捉えたかもしれない。しかし、梗子も楓も、何ひとつ怠ってはいなかった。
「っ!」
「菊池君!」
「はい!」
突如として訪れた異変に、3人が同時に気がついた。
風が止み、陽光が遠ざかり、一切の音が世界から消失する。
世界が、幽世へと塗り変わっていく。
「あれは……」
明が、陸地とは反対方向に足を踏み出した。梗子と楓もすぐ後に続く。
カカンッ、カンッ。
靴と金属製の甲板が触れ合う音が、座礁船の上で小さく不気味に響く。
「あれは、海坊主ですね」
手すりの前に3人で横並びになり、沖合に出現したその巨大な怪異を凝視する。
「確かに、海坊主だな。久々に見たぜ」
「2人とも見たことあるん? うちは初めて見たわ」
「いえ、実際に見るのは俺も初めてです」
海坊主。言わずと知れた、海の怪異。天を衝くような釣鐘型の巨体に、墨汁で塗りつぶしたような黒一色の中で爛々と光る2つの巨大な目玉。数多の水死者たちの無念が寄り集まって形成された怪異であると言われており、何もせずに船を見ているだけのこともあれば、船の行く手を阻み、沈没させようとすることもあるらしい。
しかし、近年の航海、造船技術の発達によって水死者が激減したためか、海坊主の目撃例は減少の一途を辿っている。三管区に限らず他の海異対でも、海坊主を見たことがない人間の方が多いというのが実状だった。
「海坊主が女性に化けた話って、聞いた事ありますか?」
明が、一応の警戒として数珠を取り出しながら、先輩2人に意見を求める。
それに対し、海坊主に視線を固定したまま、楓が小さく頷いてこう答えた。
「怪異や妖に絶対なんてことはあらへんけど、あれが人間の女に変化する手間をかけるいうのは、なんか違う気いするわ。梗子はどう思う?」
「あー、うん。そんだな……」
楓から話を振られた梗子が、何故か歯切れの悪い返事をする。
海難事故の現場になんの前触れもなく出現した、絶滅危惧種の巨大な怪異。ほんの束の間、気を取られてしまうのは無理からぬことだろう。
その僅かな隙をついて、それはやってくる。
さっきまで3人がいた陸地側の手すりに、形は良いが酷く血色の悪い女の手が置かれた。
手すり越しに3人の姿を認めると、嬉しさに口角を歪めて舌なめずりをする。
「ん?」
「どうした、菊池君?」
「いえ、ちょっと」
明が、仄かに赤い光を反射する腕時計を楓に見せた。
「今、振動したような気がして。こんなこと初めてです」
「ふうん、なんでやろな」
それが、手すりを飛び越えた。
暴露甲板の幅は、20mにも満たない。2秒と経たずに、獲物を牙にかけられるはず。
最初の獲物、人間の男は、未だに背中を向けたまま。
その首に、鋭い獣の牙を食い込ませて、思いっ切り噛みちぎる。
はずだった。
「ギャアッ!」
「っ!?」
「なっ!?」
すぐ背後で上がった悲鳴に、明と楓が同時に振り向いた。
まず、梗子の背中が目に入った。青く光る黒褐色のショートヘアが、梗子の動きに合わせて大きく揺れ動いている。
それから、梗子の向かいで大きく顔を歪ませている女の姿を認める。
一糸まとわぬ上半身に、大きく波打つ豊かな髪。
そして。
「スキュラ!」
「スキュラだと!?」
下半身に目を向けた2人が、同時に叫んだ。先程までの気の緩みは一瞬で吹き飛び、即座に臨戦態勢をとる。
魚の形をした下半身に、腰から伸びる6つの獣の頭。上半身は壮絶なまでに美しい女の造形をしているが、彫りの深い整った顔立ちには隠しきれない凶暴さがありありと滲み出ていた。
海の怪物、スキュラ。かつて、地中海を中心に生息していた、西洋の怪異。その性質があまりに残忍であることから、およそ50年前、某国の討伐機関により地中海から一掃されてしまったという。
しかし、その一大掃討作戦の網目を掻い潜った少数のスキュラが、新天地を求めて世界中の海へと散っていってしまったらしい。国際海事機関が実施した調査によると、各国の公式記録に残っているだけでも、過去数十年で10件以上の目撃、遭遇例が確認できるとのことだった。
「キサマァ、混血か!」
スキュラが、梗子に向かって憎々しげに吐き捨てた。血のような赤い瞳をした大きな目が、幽世の侘しい景色の中で毒々しい輝きを放っている。
「ヴゥ…」
「ギギ…」
女の腰の位置では、犬や狼の顔を歪に潰したような造形をした6つの獣の頭が、唸り声を上げて涎を垂らしながら梗子を睨みつけている。
そんな刺し殺さんとでもするかのような複数の強烈な視線をものともせず、梗子は静かな口調でこう問いかけた。
「この船を座礁させたのは、お前か?」
いつの間にか手の中に出現させていた得物を、ピタリとスキュラに突きつける。
「だったらナンだよ!? よくも粗末な板切れなんかで、このアタイを殴りやがったなァ!?」
スキュラは梗子の質問を否定するでもなく、ほっそりとした腕を振り回して喚き散らす。美しい見た目に反して、その言葉遣いにはおおよそ上品さというものが感じられない。
「板切れじゃねーよ。『ウェーク』っていう、立派な名前があるんだよ」
ウェークは、沖縄の言葉で木造舟の櫂を意味する。全長の半分弱が細長い板、つまりはブレードとなっており、武器として用いるために本来の用途よりも周縁部分を薄く削って軽量化を計っていた。
「名前なんざどうでもイイんだよっ!」
十分な余裕が感じられる梗子の返答に、スキュラはますます逆上する。
(聞くなら、今しか無さそうだ)
明はギュッと数珠を握り込むと、梗子の後ろから思い切ってスキュラに話しかけてみた。
「スキュラ。ひとつだけ聞いてもいいか」
明の声を聞いた途端、スキュラの表情が一変した。
艶めいた笑みを口元に浮かべると、ねっとりと絡みつくような目つきで明の全身を舐めまわす。
「ウフフ。なんだい、坊や?」
その不気味な視線と、わざとらしい猫なで声に、明は身の毛もよだつようなおぞましさを覚える。それでも、臆することなくスキュラを見返すと、少々唇を湿してからこう問いかけた。
「何故、人間を惑わして船を座礁させるなんてことをしたんだ」
「なんだァ、そんなことかい」
スキュラが恍惚とした表情を浮かべて己の身を掻き抱くと、ふるりと豊満な乳房を震わせた。
「生命力に溢れた屈強な海の男たちが、荒れ狂う海に放り出され、岩礁に身体を引き裂かれるんだよ。そんなの、コーフンするに決まってるじゃないかァ」
そう言って明に流し目を向けると、紫色の唇をねっとりと舐めてみせる。
(ああ、そうだった)
明は、目の前で身をくねらせる女を眺めながら、己の中に残っていた怒りが急速に醒めていくのを感じた。
怪異や妖に、人間の倫理観など通用しない。怒りの感情など、抱くだけ無駄。というより、この場合は邪魔でしかない。
怪異と言葉を交わしたことにより、この危機的状況にあって明は冷静さを取り戻していく。
「フフフ。気に入ったよ、坊や。細っこいのはあんまり好みじゃないんだケド、アンタを喰うのは最後にしてやる。喰いながら、アタイとゆっくりお喋りしようじゃないか」
女は、整った顔に似合わぬ下卑た笑い声を立てると、今度は楓に視線を移す。
「女のコもまあ趣味じゃないけどサ、久々の食事だからね。最初にペロリと平らげてやるよ」
最後に、梗子に視線を戻した。獰猛な表情を取り戻し、思いがけず白く輝く美しい歯列を剥き出しにしてこう叫ぶ。
「混血のガキは、肝臓だけ取り出したら、残りは切り刻んで魚の餌にしてやるよ!」
「この2人には、指一本触れさせない」
梗子の、固い決意を込めた声が、静まり返った暴露甲板上に響き渡った。
その凛とした気高い姿に、スキュラはひたすら憎悪を増幅させていく。
「仲間の前で、無様に臓物をぶちまけて泣き喚くがイイさ!」
女の叫び声と同時に、6つの獣頭がやかましく梗子に吠えかかる。
そして、少女の引き締まった肢体を引き裂こうと、6つの顎が一斉に襲いかかった。
痛いほどの静寂に満ちた、幽世の海。浅瀬に乗り上げた巨大な船の上で、青白い光が、流水紋のごとき美しい弧を描いている。
「ギャンッ」
「ギャイン!」
梗子がウェークを振るう度に、獣たちの口から無様な鳴き声がまろび落ちる。
「一体なんなんだ、その澄ましたような体捌きは!」
かつて自分が対峙したどのような術者たちとも違う梗子の武術に、スキュラは思わず声を荒らげる。
(何度見ても、梗子の琉球古武術は凄いわあ)
武術や格闘技には全く興味が無い楓であるが、目の前で繰り広げられる見事な攻防には流石に感嘆せずにはいられない。
琉球古武術。沖縄で独自の発展を遂げてきた、多彩な武器術を含んだ実践的要素の強い武術。そして、いくつか存在する流派のうち梗子が師から受け継いだのは、かつて琉球王家に秘密裏に伝えられてきた特別な流派だった。
1対1の格闘ではなく、戦場において単独で多人数を相手取ることを想定した技術体系となっており、その思想の出発点からして他の武術や格闘技とは一線を画している。また、体術と武器術が同一の術理によって組み立てられ、武器の種類ごとの「型」というものが存在しないことも大きな特徴のひとつとなっている。
「ギャウンッ」
「ギェン!」
膝を曲げず、踵やつま先で着地をする独特の歩法と、予備動作なく歩みと同時に繰り出される一撃必殺の技。幼少時から鍛え抜かれ洗練された梗子の体捌きは、流麗でこそあれ、武術や格闘技らしい派手さや激しさといったものは全く感じられない。
その動きは、さながら舞。
それに加え、梗子の妖力を帯びたウェークが放つ青白い燐光が軌跡を描くことにより、昏い幽世にあってそこだけが、美しい夢幻の時を刻んでいるかような錯覚を起こしてしまう。
しかし、そんな梗子の独壇場は、短時間のうちに終わりを告げることとなった。
「梗子!」
「っ!」
楓の合図に、梗子はすかさず脇に飛び退いた。
その梗子のすぐ横を、光でできたロープ状のものが一直線に飛んでいく。
「ギャアアアアア!」
スキュラが絶叫した。上半身はもちろん、6つの獣頭、それから魚の形状の下半身に至るまで、その全身が光るロープ――羂索によって雁字搦めに締め付けられている。
「不動金縛法か、えげつねえな」
羂索が強く食い込んだ肌から紫色のうっすらとした煙が立ち上るのを見て、梗子は軽く顔をしかめる。
「やっぱり、やるのか?」
梗子が、技を放ったばかりの楓に視線を転じた。
(ああ、こりゃ本気だな)
その姿を見てすぐに、聞くまでもなかったことだと悟る。
「このまま放逐するには、スキュラはあまりにも危険過ぎる。中途半端に妖力を削いだところで、船乗りを惑わす欲求が無くなるとも思えへん」
苦悶の表情を浮かべるスキュラから目を離さずに、楓が淡々とした声で答えた。その全身は燐光を帯び、その瞳には揺らめく焔がうっすらと映っている。
燐光によって陰影が消えたその顔からは、いかなる感情も伺えない。
「うちが、ここで終わらせたる」
「分かった。任せる」
重々しい響きを持ったその言葉に、梗子は小さく頷いた。構えを解いて、ウェークを抱き込むような形で腕を組み、黙って成り行きを見守ることとする。
(神憑り状態の楓って、なんかちょっとコワいんだよな)
厳密に言えば、今の楓はあくまで擬似的な神憑り状態でしかないのだが、妖の血を引く梗子からすると、畏怖の感情を起こさせるにはこれだけでも十分だった。
菊池明が、真言や陀羅尼を詠唱することにより神仏の力を借りるのに対し、榊原楓は、神仏と自身が同一の存在であると想念し、神仏の力を己のものとして行使することを試みる。
上原に用いた息吹法然り、難易度が高い分、その発揮する効力は絶大なものとなる。凶暴かつ残忍な西洋の怪異であるスキュラを完全に滅することも、「神憑り」の楓ならば十分に可能であると思われた。
「『臨』」
一切のまばたきなしにスキュラを見つめながら、楓が胸の前で印を結び始める。
「『兵』・『闘』・『者』」
「アギャアアアッ!」
唱え、印を結ぶごとに、光り輝く羂索がますます強くスキュラの身体を締め上げていく。
「『皆』・『陳』・『列』」
「ア゛アアアッ!」
スキュラの悲鳴が、凄惨さを増していく。
「『在』・『前』!」
楓が、九字の詠唱を終えた。
間を置かずに片手で刀印を結び、空中に「勝」の字を書いて九字に一字を加えた「十字法」となす。
「『吾に当たる者は死し、吾に背く者は滅ぶ』」
楓の瞳でゆらめく焔が、静止した。
「『――急々如律令』!」
火焔が、スキュラの全身を包み込んだ。
迦楼羅炎。あらゆる不浄を焼き尽くす、清らかな炎。
その中心で阿鼻叫喚する女から、楓も梗子も、決して目を背けることはない。哀れむでもなく、かといって嗤うでもなく、ただただ静かに、女が灰燼と帰すのを見届けようとしている。
そして、時間にして、およそ1分が経過した頃。
「……なんか、長くないか?」
梗子が、訝しげな表情で呟いた。
それから、チラリと楓の顔を盗み見る。
「……」
楓の目に、不安の色が浮かんでいた。
そろりそろりと、片手をマントの中に伸ばそうとしている。
(おいおい、こりゃヤバいんじゃねえの)
梗子が、ウェークを構え直した。
ウェークを向けた先で、火焔が徐々に沈静化していく。
やがて、全身が黒い煤にまみれたスキュラの姿が浮かび上がった。身体のあちこちから、プスプスと熾火が燻るような音と煙が立ち上っている。
「……ンフフフフ」
スキュラが、下を向いたまま肩を震わせた。
6つの獣頭は、不気味なほどの沈黙を保っている。
「オマエたち」
女が、顔を上げた。煤まみれになった美しい顔の中、血の色をした大きな瞳が、怨嗟の念によって邪悪な輝きを放っている。
「ラクに死ねると思うな、産まれてきたことを後悔するほどの地獄を味わ――ギャアアアッ!」
楓が、3枚の護符を放った。スキュラの全身に電流のようなものが走り、その動きを一時的に封じ込める。
「梗子、仕切り直しや!」
叫びながらスキュラに背を向けようとしたところで、梗子の様子がおかしいことに気がつく。
「どうしたん? 撤退や言うとるやろ!」
「楓の十字法が効かねえなら」
スキュラを見つめたまま、梗子が口走る。
「俺がやるしか」
「梗子!」
楓が、一際大きな声で叫んだ。
「その技と力は護るためだけに使うって、自分で言うとったやないの!」
梗子が、楓を見た。
「かえで……」
楓の切羽詰まった表情が、暴走しかけていた梗子の闘争本能を宥めていく。
「伊良部さん! 榊原さん! 早くこっちへ!」
背後から、明が2人を呼ぶ声が聞こえた。
梗子と楓が振り向くと、船橋へと続く階段から、明がひどく焦った様子でこちらを見つめている。
「すまねぇ。行くぞ」
少し俯き加減で謝りながら、梗子が駆け出した。楓は何も言わずに梗子のすぐ後に続く。
「2人とも船橋へ!」
階段を降りたところで、明が2人を待ち受けていた。
明は先に2人を通すと、殿となって船橋の出入口へと駆けていく。
「待ちやがれェ!」
スキュラが、護符の拘束を解いた。
怨嗟の叫び声を上げながら暴露甲板上を一気に移動すると、ひらりと手すりを超えて飛び降りる。同時に、梗子と楓が船橋に駆け込んだ。
スキュラと、ドアの取っ手を握った明の視線が空中でかち合う。
「やっぱりまずはオマエだァ!」
女は煤まみれの顔を喜色満面に歪めると、涎を垂らしながら一直線に明に突撃しようとした。
明は素早く船橋に入ってドアを密閉する。
(こんなドア、すぐに壊してやる!)
女は勢いのまま、6つの獣頭にドアを破壊するように指令を出す。
そして、真ん中の獣頭がドアに触れた途端、全身を槍で貫かれたような衝撃が走った。
「アギャアアアアッ!」
何度目になるか分からない絶叫を上げながら、慌ててドアから距離をとる。
「あンのガキ共……どこまでもやってくれるじゃないかァ」
ドアと、ドアからはみ出して描かれたそれを見て、女は怒りが突き抜けたことによる引きつった笑みを口元に浮かべる。
そこには、八方位と天地を守護する、十二天の梵字マンダラが描かれていた。