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作者: こむらまこと
第32話 海難0527〈五〉
 機関エンジンが完全に停止し、電力の供給も途絶えた船内は、ひどく薄暗い。事務室や食堂の丸い船窓から射し込む僅かな光が、船の通路に掲示された「あかとき丸」の図面を、かろうじて判読可能な状態にまで浮かび上がらせている。
「うちの十字法が効かんとなると、かなり大掛かりな術を使う必要がありそうやわ」
 図面とは反対側の壁に背中を預けて腕を組み、かえでが小さくため息をつく。
「スキュラは西洋の怪異ですし、ひょっとすると技の相性が悪かったのかもしれませんね」
 墨汁が染み込んだ刷毛を布で拭き取りながら、あきらが思いついた考え述べてみる。
「気い遣わんでもええ、と言いたいところやけど。確かに、それは一理あると思うわ。うちも、西洋の怪異に対処した経験は数える程しかあらへんし」
「それにしたってよ。あのスキュラ、やけに強すぎねえか?」
 ウェークを抱えたままの梗子きょうこが、眉根を寄せて楓に問いかけた。
「それに、今回は他にも色々と不自然な点が多いぜ。あの海坊主にしたって、どうしてスキュラと一緒に出てくるんだよ」
「梗子は、あの海坊主がスキュラと関係ある思っとるん?」
 今度は楓が、小さく首を傾げて梗子に問い返す。
「スキュラと一緒に出てくるなら、カリュブディスやろ」
「それはそうなんだけどよ。ただ、なんつうか」
 梗子が、ぶるりと肩を震わせた。
「あの海坊主から、やけに気持ちの悪い視線を感じてよ。前に見かけたヤツは、あんな風にジットリとした目で人間を見たりなんかしてこなかったぜ」
「そんなに、俺達のことを見てたんですか?」
「すっげー見てた!」
 訝しげな明に対し、梗子が強く断言する。
 そんな梗子の様子を見て、楓が悩ましげに額を指で叩いた。
「梗子がそう言うなら、何かしらあるんやろな。ただ、早急に対処すべきはやっぱりスキュラや。海坊主のこととかは、無事に帰還してから皆で考えた方がええ」
「まあ、そうだな。室長も村上さんも、そういうこと考えるの得意だしな」
 楓の意見に、梗子は釈然としない気持ちを残しつつ、一応の納得を示した。
「そいで、菊池君」
 楓が、額を叩いていた指を止めた。
 腕を下ろして、真剣な表情で明を見つめる。
「ものは相談なんやけど」
 楓の視線が、明の右手首に注がれる。
(来たか)
 明は小さく頷くと、右手首の腕時計にそっと触れ、本来の姿を現すように強く念じた。
 数秒後、一際明るい光を放って、フルメタルのGショックがその形を大きく変化させる。そのまま明の両手に収まったかと思うと、そこには一振の直刀ちょくとうが出現していた。
 明は両手で柄を握って、その美しい刀身を真っ直ぐに立てた。
「こいつを使って、スキュラに対抗するということですよね」
「話が早うて助かるわ」
「やっぱり、何度見てもすげえ刀だな」
 梗子と楓はもちろんのこと、持ち主である明自身も、久々に本来の姿をとった龍神の宝具を、ついまじまじと眺め回してしまう。
 反りのない刀身に、同じく反りのない短い切先きっさき直刃すぐはと呼ばれる、単純な直線状の美しい波紋。柄は金属製で、文様化された龍の姿が彫り込まれており、柄の先に付けられた環状の透かし彫り細工も同様に龍の姿をしている。
「なして、赤い光を反射しとるんやろな」
「何度か聞いてはみましたが、はっきりとした答えが返ってきたことはまだ無いですね」
「やっぱり、何かしら怒ってるんじゃねーの」
 この直刀が特別なのは、単に龍神から授けられたからというだけではない。この直刀には、微弱ではあるものの、確固たる自我が存在しているのだ。
「もし、こいつを使うとしたら」
 気を取り直して、明が本題に立ち返る。
馬頭ばとう観音の力を借りれば、おそらくスキュラを打ち破れると思います」
「確か馬頭観音っていうと、『明王』のひとつ上、『菩薩』に属する存在だったな」
 馬頭観音は、その名が表す通り煩悩を馬のようにむさぼり食い、恐ろしい憤怒の形相で悪を打ち砕く力を持つとされる。位が高い分、その力の行使に必要な霊力は「明王」のそれよりも遥かに多くはなるが、明ならどうにか耐えられるレベルではある。
「せやな、馬頭観音ならいけそう思うわ。うちも援護するつもりやし」
 ここで楓が、探るような目つきになって明を見つた。
 明は、ピリついた緊張が背中を伝うのを感じながらも、目を逸らすことなく次の言葉を待ち構える。
「菊池君は、スキュラを斬ることについて、どう思っとる?」
「榊原さん」
 明は立てていた直刀を倒すと、刃の先をそっと左手で支えた。
 仄かに赤い光を反射する刀身に目を走らせる。
「龍神・蘇芳との誓いの話はしましたよね。この刀に、一滴たりとも血を吸わせてはならないという、誓いの話を」
 あの日の光景を思い浮かべながら、親指でそっと、その冷ややかな刀身を撫でてやる。
「この誓いを額面通りに受け止めるなら、『血を吸わせることさえしなければ、どんな使い方をしても良い』という解釈も可能となるでしょう。でも」
 明は顔を上げると、意を決して、何週間もの間ずっと考え続けてきたことを口にした。
「俺には、それが正しいことだとは思えないのです」
 蘇芳が、それとは知らせずに明を試した、あの「退治」騒動。仮に、孔雀明王真言によって凶暴化の原因を取り除くのではなく、それこそ馬頭観音真言によって怪異そのものの存在を浄化し、消滅させていたとしたら。
 果たして蘇芳は、明をこの直刀の主であると認めていただろうか。
(認められなかったというだけなら全然マシだ。あの時、少しでも対応を間違えていたら、あの龍神に何をされていたか分かったもんじゃない)
 浄化だの退治だの、耳触りの良い言葉を使ったところで、その実態は「殺す」ということに他ならない。例え直接的に血を吸わせないにしても、この直刀をいわゆる「血なまぐさい」用途に使うことに関して、明はどうしても不安が拭えずにいる。
 そして何よりも、この直刀には、紛れもないひとつの意思が宿っているのだ。
「もしかすると、俺の考え過ぎなのかもしれません。血に濡れさえしなければ、その他の点については一切頓着しないという可能性も十分にあると思います。それでも」
 明は再び直刀を立てて持つと、薄暗がりの中で赤く妖しく光る刀身と向かい合う。
「こいつ自身の意思をはっきりと確認するまでは、平和的な解決のみに使用範囲を留めておきたいんです。というわけで、申し訳ありませんが今回は使えません」
 そうきっぱりと言い切ってはみたものの、あまりの気まずさに楓や梗子の顔を見ることができない。
(臆病って、思われるだろうな)
 今まで述べてきたことは、間違いなく明の本心である。持ち主の責任として、少しでも直刀の意思に反する可能性があることは、例え相手があの九鬼龍蔵だったとしても断固として拒絶するつもりでいる。
 他方、怪異や妖に対して人間側が一方的に断罪し、手を下すことについて、常日頃から割り切れない思いを抱いていることもまた事実だった。そして、楓も梗子も、そうした明の脆弱な部分を、まず間違いなく見抜いている。
 そんなわけで、この2人から肯定的な言葉が出てくるなど、全く思ってもみなかったのだ。
「俺は良いと思うぜ」
「へ?」
 予想外の言葉に、思わず間の抜けた声を出してしまう。
「ただでさえ扱いが難しいと言われる、龍神の宝具だぜ? しかも、自我まで持ってるときた。慎重すぎるくらいがちょうど良いんじゃねえの」
 梗子のあっけらかんとした口調に、明は思わず脱力しそうになる。
 続けて、楓が静かに口を開く。
「龍神の宝具は、定められた持ち主にしか扱えん言うもんな。持ち主である菊池君が使えん言うんやったら、うちらとしてはその意思を尊重するしかあらへん」
 それから、呆気に取られた様子の後輩を見て、少しだけ表情を緩めた。
「うちも、駄目元で聞いてみただけやから。他の策を考えればいいだけの話や」
「すみません。ありがとうございます」
「ええって」
 明は直刀の柄を軽く叩くと、先ほどまでの腕時計の形に収まるよう念じた。間を置かずに、光を放ってシュルシュルと明の右手首に巻き付き、普段通りのフルメタルのGショックが姿を見せる。
「……」
 3人の間に、沈黙が降りた。
 明はそっと、先輩2人の様子を伺ってみる。
 梗子は、通路の壁に掲示された「あかとき丸」の図面を眺めていた。万が一、スキュラが船内に進入した時のことを考えて、逃走経路や出入口を把握しているのだろう。
 一方の楓は、顎に手を当てて熱心に思案に耽っている。知識も経験も豊富な彼女のことだ。とっくに解決策は見出していて、あとは具体的な手順を詰めるだけという段階に入っているのかもしれない。
(それでも、このまま何も代案を出さないわけにはいかない)
 明は、薄暗い通路の床を眺めながら唇を噛み締めた。楓の頼みを拒絶したことを全く責められなかったことが、却って気まずさを膨れ上がらせている。
(何でもいい、とにかく考えるんだ)
 そうは言っても、知識も経験も劣る自分が、楓の案を上回る策を捻り出すのは容易ではない。
 とすると、ここは自分以外の誰かの行動からヒントを得るのが近道かもしれないなどと考えてみる。
(室長なら、あのスキュラ相手に独りでも余裕なんだろうな)
 明は、自分が苦手とする九鬼の姿を思い浮かべた。
 その性格や考え方、仕事上の方針については同調できない部分が多いものの、怪異や妖への対処に関して言えば、反発どころか憧憬の念すら感じているというのが、実は正直なところだったりする。
(初めて会って最初の2分半くらいは、確かに良い印象しか無かったんだよなあ)
 汲めども尽きぬ豊潤な霊力に、怪異に関する豊富な知識。加えて、体術にも優れているときている。明には一生追いつけない存在であると断言出来た。
 その広大すぎる彼我の実力差にゲンナリしつつも、つい最近、九鬼が披露して見せた技について何気なく思い返してみる。
(簡易的であるとはいえ、その辺の浅瀬を泳いでた魚に、特に呪文を唱えるでもなく霊力を注いでやるだけで式神を作っちまうなんて。一体どれだけ――)
 明は、大きく目を見開いた。
 通路の壁から背中を離すと、全力で頭を回転させてその思い付きを検証する。
「――式神」
 小さく呟いた明に、梗子と楓が何事かと目を向ける。
 明は、楓を真っ直ぐに見つめると、のめり込むような勢いでその提案を口にした。
「榊原さん。3人で強力な式神を作って、戦力に加えることはできませんか」
「っ!」
 藪から棒な提案に驚いたのか、楓が愕然とした表情を浮かべた。明は構わず、その思いつきを熱心に話し続ける。
「2人以上の霊力が注がれた式神は、足し算ではなく掛け算、場合によってはそれ以上の、化学反応とでも呼ぶべき量と質の霊力を得ると聞いたことがあります。戦力が1人増えるだけでもスキュラへの対処に余裕が生まれますし、策の選択肢もかなり増えるのではないかと……榊原さん?」
 ようやく明は、楓の様子がおかしい事に気がついた。
 誰がどう見ても、完全に上の空状態である。
「あの、榊原さん」
 不安を感じた明が、そっと楓に呼びかける。
 しかし、明が自分を呼ぶ声を、楓は聞いてはいなかった。
 楓は呆然と宙に視線を彷徨わせながら、あの夏の日の蝉の鳴き声を耳にしていた――。
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