残酷な描写あり
File:5 氷の眼の少年
30分ほどかけてパトカーは滑るように進み、真新しい綺麗な建物が並ぶ閑静な住宅街へとやってきた。
パトカーは住宅と住宅の間、砂利を敷き詰めた広いスペースへ自動でバックし、安全に止まってみせると『おつかれさまでした』、と女性の声が車内に響く。
蕗二がエンジンを切り、パトカーを降りた。
「で、ここ何処だ?」
『井上基一の自宅でございます。』
A.R.R.O.W.と呼ばれていたAIの声に振り返ると、片岡が携帯端末を起動させていた。眉間の皺をさらに深くした蕗二は、欠伸を隠そうともしない芳乃を睨みつけた。
「おいコラ、チビ助。なんでここなんだよ。三好豊を第一参考人にするべきだろ」
「だったら、もう他の刑事さんが行ってると思います。ですから、逆にノーマークの人物にしました」
「……意外と考えてんだな」
「刑事さんこそ、なんで思いつかないんですか。馬鹿ですか? ああ、単細胞でしたね」
「んだと!」
「ああもう喧嘩しないでください!」
太い身体を蕗二と芳乃の間に捻じ込んで、竹輔は二人を引き剥がした。
「でぇ? その人のお家どこ―?」
「井上邸は、あの白い家のようだよ。」
片岡に指差され、その方角へ蕗二を先頭に歩く。新築なのだろうか、外装は綺麗だ。が、玄関には飛んできたのだろう落ち葉やチラシ、空き缶などのゴミが目立つ。大理石の表札に目をやると、確かに井上と黒い文字で掘り込まれている。
「オークションオーナーだったか、それ本当か?」
「さあ、でも一軒家は並じゃあ買えないですよ」
「それもそうか」
蕗二は門をくぐり抜け、ドアの前に立ち、竹輔に目配せする。頷いた竹輔はインターフォンを押した。間延びした音が響くが、反応はない。もう一度竹輔が押すと、やっと返事があった。
「朝からすみません。警視庁のものですけども……」
蕗二は物音に警戒する。警察と聞いて、裏から逃げる場合も十分ある。
だが、それは杞憂に終わった。玄関の擦りガラスの向こう、人影が蠢き鍵の開く音と共にドアが開いた。
「なんですか、いきなり」
若くも無く老けてもいない中年の男だ。ポロシャツにスラックスと身なりは整っているが、少し伸びた髭と跳ね回る髪の毛から寝起きのような印象にも取れた。その髪の間から、不釣合いな青いフープピアスがチラつく。
蕗二はそれから目をそらすように、スーツの胸元から警察手帳を引き出し、男に見えるように掲示した。
「井上基一さんですね。私、警視庁の三輪と申します。今しがた、荒川区で事件がありまして。貴方が昨日現場周辺を通りかかったようなので、何か気づいたことは無いかなと参考に伺いました」
井上は胡散臭そうに蕗二を見ていたが、やがて考えるように唸り、首を振った。
「いや、そこは通ってない」
「嘘はよくありませんね。昨日の午後23時08分に、通りましたよね」
蕗二の口調は穏やかながら、威嚇するように低い。それに井上はたじろいで、目を泳がせた。額には汗が浮かんでいる。蕗二は思わず口角を上げそうになった。
一発目で当たりとは、ツイてるな。
井上が僅かに震える声を出した。
「私は、何も知りません……た、たまたま、そう、コンビニに行ったんですよ」
「あんまりふざけないでもらえますか」
一層低くなった蕗二の声に、突如井上がドアを閉めようとした。が、それを予測していた蕗二はドアに脚を引っかけ阻止する。血の気を引かせ、焦る井上が許しを請うように蕗二を見上げた。
「証拠は、ないんだろ」
「ええ、ですから署でお話を聞かせてくださいますか」
しかし、井上は不意に片頬で笑ってみせた。
「任意だろ? じゃあ拒否だ。連れて行きたいなら証拠を出してみろよ、糞ポリ共!」
打って変わった態度に、蕗二は歯を食いしばって舌打ちを堪えた。
無駄に知識つけやがって。
井上の言うとおり、任意同行はあくまで任意。逮捕礼状などがない場合、拒否されれば引くしかない。人権を守るためだ。それがたとえ≪ブルーマーク≫でも。
だが、井上は確実に黒だ。ここで引けば、必ず証拠隠滅を図られ、再び辿り着くまでに時間がかかる。そうなればまた被害者が増えてしまう。それは絶対に阻止しなければ。
「じゃあ、警察さん。帰ってくださ……」
「出せばいいんですね」
張られた声。振り向くと、芳乃が静かにこちらを見据えていた。
「証拠、出したらいいんですね?」
「んだと、ガキ」
蕗二を押しのけ、止める間もなく井上は門の向こうに佇む芳乃に詰め寄る。
息がかかるほど近くで威嚇する井上だったが突然血相を変え、一歩下がった。その肩の向こう、顔色一つも変えていない目尻の垂れた少年の顔が見えた。無事だったかと安心したのも束の間、蕗二の背筋は凍った。初めて会ったときのように、芳乃の眼だけがまるで別物で、深く暗い真っ黒な穴が開いていた。全てを飲み込もうとする不気味な穴がゆっくりと瞬く。そして瞼で蓋をされ、目を伏せた少年が小さな溜息をついた。
「あんまりやりたくないんだけど……」
独り言のように呟き、今度はわざとらしい溜息をついた。そして、大きく息を吸い込んだかと思うと、まるで水中に飛び込むように右手で鼻を摘み、目を瞑った。
一体何をしてるんだ。
と、芳乃の黒い目から開放された井上の体が横にそれた。そのまま走り出そうとする井上に、蕗二は手を伸ばす。長い腕は井上の後ろ襟を掴み引き寄せると、手一本で井上の両腕を絡めとり、腕で首を固定した。井上は逃げようと大きく身体を動かすが、まるで石像のように蕗二は動かない。
「もういいだろ、お前ら帰れよ!」
「せっかく出てきてくれたんだ、もうちょっと付き合ってくれよ?」
「う、訴えるぞ! 離せ!」
動きが激しくなる井上に、竹輔は片岡と野村を背に、蕗二に加勢すべく身構える。
大きな呼吸音。
それに蕗二が目だけを向けると、顔を上げた芳乃が、鼻から手を離した。
ゆっくりと瞼を持ち上がり、黒い眼が露わになる。見開かれた芳乃の眼は、さきほどのような黒い穴ではなく、触れれば凍りつくんじゃないかと錯覚させられるほど、冷たい光を孕んでいた。
「井上さん。あなたはオークションオーナーでしたよね」
眼と同じ、冷たい声に井上は動きを止めた。
「片岡さん、この人の経営状況はどうなってますか?」
突然話を振られた片岡は、慌てて端末に話しかける。返事はすぐにあった。
『はい。経営状況ですが、ここ数ヶ月赤字が続き、月に10回以上開かれていたオークション会は半減。取引先とも、契約を切られています。』
「ストレスの発散。経営が上手く行かず、憂晴らしに人を殺したんですね? 野村さん、二人の死体、同じもので殴られていましたか?」
またしても突然話を振られた野村は、必死に思い出そうとこめかみを指で押さえる。
「えっと……一人目の方は棒っぽいやつでぇ、二人目は丸っぽいやつだと思うよぉ?」
動きを止めていた井上の背が湿り始め、小さく息を呑む音が聞こえた。それに芳乃の眼が細まる。
「一人目は、荒川の下にいた孤独なホームレス……彼が持っていた金属バットですか。それで殴った。弱いもの虐めは、さぞかしすっきりしたでしょう。でも、打ち所が悪かったんでしょうね、偶然にもその人は死んでしまった。あなたは焦った。大慌てで家に帰り、道具をそろえて、川の茂みの、あの場所で解体し、……そのまま捨てた。最初は怖かったですよね。見つからないか、毎日びくびく怯えながら過ごした。でも一週間経っても、死体は見つからなかった。そしてあなたは、こう思ったんです。もっと人を殺したいって」
淡々と紡がれる言葉に寒気を覚え、蕗二は全身に鳥肌を立てた。
「あの感覚が忘れられないあなたは、次の犯行を考えた。今度はもうちょっと、粋のいい人間を殺してみたいと思った。だから、殺害計画まで立てて、死体処理方法もちゃんと調べてそして。……森さんを殺したんですね? で、ある動物に死体処理をさせようとした」
ふと一歩。芳乃が井上に顔を近づけた。
「肉を食べるといえば、ライオン? ワニ? もっと小さいですね? いのしし……」
まるで心を覗くように、芳乃は井上を見つめる。芳乃の口が小さく開いた。
「豚」
井上は大きな悲鳴を上げ、仰け反った。蕗二は共々ひっくり返りそうになり、思わず拘束を外すと井上は地面に尻を打ちつけた。それを見下ろした芳乃の眼はさらに温度を下げる。
「貴方はオークションつながりで、養豚場をやってる友達の豚に、死体を食べさせたんだ。豚は悪食として有名ですからね。でも、豚は予想以上に死体を食べなかった。だから、仕方なくそのまま、あそこに捨てた。一人目が見つからなかったからと安心して……」
「そ、そんなの、でっち上げだ! しょ、証拠出してみろよ!」
唾を巻き散らし吼える井上に、あくまで芳乃は静かに言葉を続ける。
「焦らないでください。竹輔さん」
名前を呼ばれた竹輔が、身体を縮ませながら小さく返事する。芳乃の腕が持ち上がり、真っ直ぐ伸ばされる。その人差し指が道を指差していた。
「この道を進んで、あの角を右に曲がったら、突き当りを左に行ってください。そこにある、一番手前のゴミ袋を開けてください」
竹輔と、「私も手伝おう」と片岡も走り出した。慌しい足音が遠ざかる中、芳乃が静かに口を開いた。
「二人目の被害者、森さんの殺害方法を言い忘れていました。あれは、石を頭にぶつけたんですよね? 靴下に、川原で拾った大きな石を詰めて振り下ろした。だから、丸い物で殴ったような痕ができたんだ。石は荒川に投げ捨てたらもう見つからない。でも、言ったところで穴だらけの犯行です」
先ほどより大きな足音を立てて、竹輔と片岡が興奮した様子で戻ってきた。途端、野村が口を手で覆い、蕗二の喉が引きつった。
「今日、この地区は燃えるゴミの日です。でも、回収時間まで確認しなかった。貴方は死体と同じように証拠の処理も甘く考えて、自ら墓穴を掘ったんですよ」
高く掲げられた竹輔の手には灰色の靴下が握られている。その爪先は赤黒く染まっていた。
「まだ、聞きたいですか?」
静かに呟かれた芳乃の声は、絶対的に逃れようの無い威圧感を持っていた。
「は、な、なんなんだお前は……」
井上が怯え震えている。それを芳乃は裁きを下す神のように、凍えた瞳で見据えた。
「……ぼくは、あなたが見て聞いて感じたこと全部、視えるんです」
井上の身体から力が抜けた。腕を前につくと、そのまま崩れるように背を丸め、唸るように泣き始めた。それを蕗二は他人事のように見つめ、ふと芳乃へ視線を移すと、芳乃はまだ井上を見つめているが、額に拳を押し当て、酷く苦しげだった。
「お前、心が読めるのか」
蕗二の呟きに芳乃が気だるげに視線を揚げた。が、すぐにそらされ、弱々しく頭を振った。
「違います、そんな、良いものじゃ……」
「どういう」
「蕗二さん」
肩を叩かれ、蕗二は弾かれたように顔を上げる。片耳に無線機をはめた竹輔が井上を手で指した。
「応援、15分ほどで到着するようです」
頷き、竹輔と共に蹲った井上を脇から抱える。だらりとぶら下がる井上の腕を見て、手錠を取り出そうと後ろ手にポケットを探った。指先に硬く冷たい感触を感じた瞬間、芳乃の冷たい瞳を思い出し、振り返る。しかし、芳乃はすでに踵を返していて、その背に片岡と野村が話しかけたところだった。
本部に身柄を拘束し聴取してみると、ずるずると白状した井上の動機や殺害方法など、芳乃が当てたものと完全に一致していた。共犯者を突き止め、事件の全容を捜査会議で報告していると、気が付けば腕時計の短針は4の文字を指していた。
「なあ、竹。昼飯食いっぱぐれてる気がするのは、気のせいか……?」
「いえ、完全にタイミング逃してますよ、これ。でも、あの三人はもっとキツイと思います……」
ベンチと自動販売機の並ぶ、簡易休憩所を覗く。案の定、並んだベンチに三人はぐったりと腰かけていた。
「皆さんお疲れ様でした。捜査はこれで終わりです」
「うへぇ、やっとねぇ! 私もう疲れたぁ」
「容疑者を捕まえてからが大変だとは……やれやれ、ドラマとは違うのだね。」
「そりゃあ、これから裁判やら何やらあるしな。そういう後始末は俺らがやるから」
ふと、蕗二はまだベンチに座っている芳乃に近寄る。芳乃は足元から視線をはずさない。疲れているようにも、物思いに耽っているようにも見える。うなだれた旋毛の正面に立つと、やっと視線だけが上げた。
「なんですか、もう終わったんなら帰っていいですか」
「突っかかる元気はあるみたいだな」
一瞬心配した俺がアホみたいだ。
芳乃の隣に無理やり座ると、舌打ちされた。だが、それに構う余裕は俺には無い。
「……まさか本当に逮捕できるなんてな……自分でも信じられない」
そう言った自分の言葉にびっくりした。
そうだ、今日一日信じられないことが起こった。異動先は偽者。憎き≪ブルーマーク≫と組めと言われ、ヤケクソで指揮官をとってみれば、まさかのダークホース。手綱を握るどころか振り回されて、気がつけば全てが終わっていた。あっという間だった。だが、濃厚すぎた。一瞬で10年ぐらい年取った気分だ。
もう一度溜息をついた蕗二の反対、三人を挟んだ端に腰かけた竹輔が気の抜けた声を上げた。
「あ、でも、これから仕事増えちゃいそうですね」
「え?」
「ほら柳本警視長が言ってたじゃないですか、【特殊殺人対策捜査班】は早期逮捕するための部署だって。できちゃったんですから、解散はないだろうなぁって」
「しくったあああ! まんまとハメられたあのくそ狸いいいいいい!」
廊下に響き渡る大声で叫んだ蕗二は仰け反った。背もたれの無いベンチは蕗二を受け止められるはずもなく、バランスを崩した勢いそのまま後ろに倒れこむ。鈍い音を立てて床に頭と肩を打ちつけた蕗二のかろうじてベンチに引っかかっていた脚を、止めとばかりに芳乃は蹴り落とした。
「痛ぇな、何しやがる!」
「はめられたのはこっちですよ。解散できると思って協力したのに、さらに面倒なことになったじゃないですか! サギですよサギ!」
「うっせぇ! 俺もお前と組みたくねぇよクソ餓鬼!」
「こっちだって土下座されたって願い下げですよ!」
「んだとぉ!」
掴み合いになる二人を、竹輔は子供の取っ組み合いを見ているかのように楽しげに笑った。
「僕はドラマみたいで楽しかったんですけどね。できるなら、もう少し皆さんとお仕事がしたいです」
「うん私もぉ、せっかくだしー?」
「私も賛成だよ。【特殊殺人対策捜査班】……なにか略称が欲しいところだね。」
「ほしいほしい! 超イケイケな名前つけよー!」
十分後。五人の騒ぎに、労いに来るはずだった菊田が庶務課に呼び出され、蕗二は菊田から説教されたのは、言うまでもない。
**開幕のフラワーシャワー** 【了】