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作者: 桐谷 碧
アラームで目が覚めると、まずはスマートフォンを探した。大抵は枕の下に潜り込んでいるのだが、やはり今日も同じ場所に俺の相棒は隠れていた。眠りにつく直前までイジっていたのに、いつの間にその場所に移動したのか分からない。兎にも角にもコイツがいなければ一日は始まらない。デジタル社会の犠牲者と言えばまさにそうなのだろう。
「アレクサ、おはよ」
 相棒に向かって話しかけると、誘拐犯が使うボイスチェンジャーのような無機質な女の声で「はい」と返事が返ってきた。同時にベットの横のカーテンが自動で開き、リビングのテレビがつく。さらにカウンターキッチンの上にあるアレクサ本体がなにやら喋りだした。
『七月二十一日、水曜日、只今の時刻は午前十時三十五分、本日の日本橋人形町の天気は晴れ、最高気温は三十二度、最低気温は二十五度――』
 設定した地域の天気予報がながれる。俺は布団から這い出ると寝室からリビングを抜けて洗面所に向かい、鏡の裏からコンタクトレンズを取り出して片方ずつ装着した。相棒同様こいつが無ければ何もできない、というか何も見えない。
 そのまま歯を磨いて顔を洗う、目やにが溶けて洗い流される感覚が好きだったが今日はあまり付着していない。目やにのメカニズムとは一体何なのだろう、気にはなっているがわざわざ調べたことはなかった。
 視界がクリアになるとキッチンに向かう、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してグラスに波々と注いだ。一気に全て飲み干すとソファに腰掛ける。ここまでの一連の動きが朝起きてからのルーティーンだ。テレビに目を向けるとメジャーリーグの中継が映し出されていて、スタメンの発表をしている。今日もお目当ての日本人選手は出場しているようだ。
『ブブブブブブッ』
 ガラスのローテーブルに置いてある相棒が小刻みに震えている、液晶画面を見ると顧客の名前が表示されていた。
「クソがッ!」
 声に出す事で多少怒りが紛れる。今日日、連絡手段に電話を使用する馬鹿が信じられなかった。なぜコイツらは自分が電話する時に、都合よく相手も電話に出る事ができる状態だと思うのだろう、いや、馬鹿だからそんな事も考えていないに違いない。もちろん電話にはでない、相棒を放っておいてテレビに視線を戻した。
 三十分ほど全く姿勢を変えないまま、テレビを眺めているとお腹が鳴った。相棒を手に取りデリバリーのアプリを開く。十一時を過ぎたのでランチの配達を行う店舗が幾つも表示されている。家から最も近いチェーンの珈琲ショップで、ホットドッグとアイスコーヒーを注文した。歩いて一分の距離にあるので買いに行った方が早いのだが、着替える手間を考えると躊躇われる。十分も経たずにインターホンが鳴った。
「どーも、配達館ですー」
 何も答えずにエントランスのオートロックを解錠する、一分後再びインターホンが鳴る。今度は玄関の方だ。
「馬鹿がっ!」
 アプリの設定で置き配にしている上に、玄関の扉には置き配OKの札が掛かっている、そこまでやってやっているにも関わらず、一定の割合でインターホンを鳴らす馬鹿がいるのだ。A地点からB地点に物を運ぶだけの仕事、いや、これを仕事と呼んで良いのだろうか。子供のお使いレベルだろう。高校生がアルバイトで稼働しているのならば分かる。しかし見た所、ほとんどが四十過ぎの中年男だ。彼らはまさかこれで生計を立てているのだろうか。ファストフードの前でタバコを吸いながら待機している非常識な彼らならば、あるいは無い話でもない。
「置いといてください」
 それだけ言うとインターホンの通話終了ボタンを押した、この生産性のないやり取り、時間を一瞬無駄にした上に気分が悪い。玄関まで商品を取りに行くと紙袋に入った商品がポツネンと置かれていた、素早く回収して玄関のドアを閉める。 
 遅めの朝ごはんを食べて、ダラダラとソファの上でメジャーリーグの中継を見ていた。終わる頃には大抵、午後の二時過ぎになっている。重い腰を上げて書斎に置いてあるデスクの前に座り、パソコンを開く。先程電話してきた顧客からメールでメッセージが入っている。どうやらホームページの更新依頼のようだ。だったら初めからメールにしろ、と心のなかで毒づくと、さっさと仕事を終わらせた。
 夕方までには全ての仕事を片付けた。六時からはプロ野球を見なければならない。パソコンを閉じてスーパーに行く準備をしているとインターホンが鳴った。特に何かを注文した記憶がないので液晶ディスプレイに映る人物を確認して、ギョッとした。
 冗談じゃなかったのかよ――。
 昨日、ファストフードで話しかけてきた長い黒髪、白いオーバーオールの女の子が画面の向こうに立っていた。昨夜と全く同じ格好だ。俺は立ち尽くしたまま、数秒その場で考えてから無視することにした。いないと分かれば諦めて帰るだろう。もう一度鳴ったインターフォンを無視すると、再び鳴ることはなかった。安心した所で家を出る。一階の駐輪場から自転車にまたがり、マンションから出た所でいきなり声をかけられた。
「あー! 海斗くーん。佐藤海斗くーん」
 ちょっ、フルネームで呼ぶな。俺は急いで辺りをキョロキョロと見渡したが、同じマンションの住人はいないようだった。
「なんで居留守使ってるのよー」
 白いオーバーオールを来た女の子がマスク越しにほっぺたを膨らましている、やはりかなり若い。おそらく高校生だ。
「ちょっ、えーっと――」
 昨日、名前を聞いたような気がしたが思い出せない。
「ひどーい忘れてるー。美波だよ、星野美波」
 そうだ、そうだ、綺麗な名前だなと関心した記憶がある。
「ごめん、ごめん、で、星野さん」
「美波でいいよ」
 その言葉は無視して続けた。
「えーっと、星野さんは、一体何のご要件で?」
 敢えて丁寧な言葉遣いを使うことで無関係な人間を装うが、マンションの前には誰もいなかった。
「何って、一緒に野球観ようって言ったじゃん」 
 それは、あなたが勝手に言っただけで、こちらは一言も了承していない。そもそも、なんで部屋番号が分かったのだ。疑問に思って考えていると彼女は察したように答えをくれた。
「昨日、海斗くんがこのマンションに入ってから電気が付いた部屋を確認したの、六階の一番端っこ」
 このマンションはワンフロアに八部屋、つまり601か608。郵便受けからちょいと手を入れて601の郵便物を漁る、佐藤の名前を確認してからインターホンを押したと彼女は説明した、なぜか得意げだ。
「君ねえ、それは犯罪じゃないかなあ」 
 昨日、帰り道が一緒だと言って付いてきた彼女に名前を聞かれて、咄嗟に答えてしまった事を後悔した。
「だって、連絡先聞くの忘れちゃったから」
 全く悪びれた様子もないままに、彼女はオーバーオールのポケットに手を突っ込んだ。チケットを二枚取り出して俺の眼前に突きつける、プロ野球のチケットだ。
「じゃーん、指定席のSだよ、奮発しちゃった」
 頭をフル回転させて今の状況を整理した。選択肢は二つ。彼女に付き合って今から東京ドームまで野球を観に行く。もしくは彼女のことはすっかり無視してスーパーに向う。今日は海鮮チゲ鍋を作る予定だ。真夏にエアコンを全開にして、熱々のチゲ鍋をビールで流し込む。最高の贅沢だ。脳内会議の結果、答えはいとも容易く導き出された。
「じゃあ、俺はこれから用事があるんで」
 自転車にまたがり、右手を軽く上げてペダルを漕ぎ出そうとした時だった。
「死んでやる……」
「へ?」
「お小遣い、全部使ってチケット買ったのに、ドタキャンされて、もう死んでやるー!」  
 デカいデカい、声がデカい――。
「ちょ、ちょっとちょっと、死ぬって大袈裟だな」 
 少女はその場にしゃがみ込むと顔を覆って泣いている、が、どうも演技のような、嘘泣きのような気がする。しかしこのまま立ち去ることもできずに戸惑っていると唐突に声をかけられた。
「佐藤さん、こんにちは」
 マンション管理人のババアがそこに立っていた。やけに馴れ馴れしく住人に話しかけてくる五十絡みの管理人は、噂話が大好きなスピーカーだ。コイツに何か掴まれたら、マンション中の人間に共有されてしまう恐れがある。しかし、いつもこの時間帯にはいない筈だがどういうことだ、心拍数が急激に上がるのを感じた。
「お財布を忘れちゃって、もう、嫌ねえ、年取ると」
「そうでしたか」
「あたしも、良く忘れ物するんですよー。まだ若いのにー」 
 いつの間にか、横に立っている彼女が管理人のババアと喋りだした。目を見たが赤くはなっていない。やはり嘘泣きだったか。
「こちらは佐藤さんの……妹さんかしら?」
 管理人は彼女をつま先から頭まで、じっくりと観察してから言った。俺はこのマンションに一人暮らし、ならば彼女と勘繰られるのが普通だろう。しかし、俺は理由わけあって二十六歳と年齢を偽っている。二十六歳の連れとしては彼女は若すぎる。ゆえに導き出された答えが妹と言うことなのだろう。
「ぜんぜんちがいま――」
「そうです! これから一緒に野球を観に行くんですよ、な」
 彼女に同意を求めると笑顔でウンウンと頷いている。
「あら、仲の良い兄弟ねえ」
「そうなんですよ、ハハハ、では」
 管理人のババアに別れを告げると、俺は彼女の手を引いて、逃げるようにその場を立ち去った。
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