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作者: 桐谷 碧
「大丈夫! 海斗くん!」
 美波に左肩を揺すられてハッと我に返った。
「あれ? さっきの車……」
「ちょっと前に降りて行ったよ。海斗くん話しかけても全然、反応しないからびっくりするじゃん。どーしたの、考え事してた?」
「あ、ああ、ちょっとね」
「もう、初心者なんだからしっかりしてよね」
「悪い、気をつけるよ」
 迂闊だった。似たような車を見ただけで、こんなにも動揺するとは思わなかった。それだけ心の傷は深いと言うことか。だがそれで良い。それは復讐という名の炎を消す事なく、生涯維持できる事を意味するのだから。一方では他人の命を救う為に奔走し、一方では奪う為に心の刃を研ぎ澄ませていく。
「カオスだな……」
「え?」
「いや、何でもない」
 美波は訝しんだが、それ以上は何も聞いてこなかった。もっとも聞かれて答えられるような話でもない。しばらく沈黙が続き、チラと助手席を見ると美波はスマートフォンを横にして熱心に何かを見ていた。
「なに見てるんだ?」
「甲子園、いま良いとこ。逆転サヨナラのチャンス」
「ほんと野球が好きだな」
「苗字が浅倉だったら完璧でしょ?」
「字が違うだろ」
「字はコッチがいいの、海斗くんとお揃いだから」
 食い入るようにスマートフォンを凝視している。目は真剣そのものだ。
「ああー! サヨナラならずー」
 そう言って美波はスマートフォンをドリンクホルダーに突き刺した。
「ソフトボールやってたんだよな?」
「うん、中学の時に全国大会ベスト四」
 指を四本立ててコチラに向けている。自慢げな顔をしているに違いないので、敢えてそちらを向かなかった。
「高校でもやってるのか?」
「あ、うん……。まあね」
 歯切れの悪い返事だった。おそらく嘘をついている。美波は中学生の頃の話は流暢に語るが、高校時代の話に及ぶと口を噤んでしまう。やはり、九月一日に自殺する原因は、高校での問題に間違いない。夏休み明けの始業式、学校に行きたく無いから自殺する。単純だがこれが一番しっくりくる。 
「泣きながら甲子園の土を集めてる姿にグッとくるよね。男の子が人目を憚らずに泣くくらい、悔しいって中々ないでしょ?」
「まあ、確かにそうなのかもな」
 美波が自分の話を避けるように話題を戻したので、曖昧な返事になってしまう。
「海斗くんが泣く姿は想像できないなぁ」
「人を血も涙もない人間みたいに言うな」
「そうじゃなくて……」
 横目で助手席に目をやると、美波は俯いたままボソリと呟いた。
「海斗くんは強いから」
 そう言って顔を背けると、美波はしばらく窓の外を眺めていた。表情は伺えないが、なぜか泣いているような、そんな気がした。
 カーナビの案内が残り十分を切った辺りで海が見えてきた。今日は天気も良くて暑そうだ。しかし、ここに来て大変なことに俺は気が付いた。
「水着持ってないだろ?」
 海に来たいと言うのであれば、当然海に入るという事だと思っていたが、見た感じ水着が入っているようなカバンは持っていない。
「いいのいいの、海が見たかっただけだから。あっ、海斗くん……もしかして」
 助手席の美波がコチラを睨みながら、腕をクロスして胸を隠す仕草をしたので、俺は軽く鼻を鳴らした。
「やっぱり、そうなんだー。クールなフリして美波の体を狙っていたのね、スケベー」 
 今度は声に出して笑った。確かに美波の事は嫌いじゃない。毎日一緒にいれば情も湧いてくるだろう。
 しかし――。
 信号待ちになったので助手席に視線を送る。まったく凹凸のない平べったい体を性の対象として見たことはない。十七歳の小娘。いや、このくらいの年齢でも色気がある女子はいるものだ、単純に美波にはないだけだ、色気も胸も。
「ほら、胸見てるじゃーん」
「見るほど、ないだろ」
 前に向き直ってから発言すると、美波が大騒ぎして体を揺すってくる。危ないから止めてくれと、楽しそうにはしゃいでいると、まるで普通の高校生に戻ったような気がした、もっとも普通の高校生がどんな物なのかは俺には分からない、おそらく美波にも。

 目的地には二時間もかからないで到着した。車を駐めて車外に出ると、真夏の日差しが燦々と照り付けている。夏休みなので人も多いが、あまりファミリー層は見かけなかった。昔、家族で来ていた頃は小さな子供連れの親子が沢山いたような気がするが、子供の頃の記憶など当てにはならない。
 江ノ島に歩いて向う途中、弁天橋の下を見て驚愕した。信じられない量のゴミの山だ。主にペットボトルや空き缶、なにか食べ物が入っていたであろうプラスチック容器だが、橋の上からゴミを放り投げて捨てる人間がいることに虫唾が走った。 
「ひどいね……」 
 悲しげに呟いた美波の横顔をみて、少なくとも自分と同じ感想を抱いたことに安堵した。もとより彼女がここからゴミを投げ捨てる姿は想像できないが。すると目の前を歩いている男女二組のタンクトップを着た男が、食べていたホットドックの食べかけを橋から放り投げた。
「まじーよ、これ」
「おい、モラルねえなお前ー」
「え、ここゴミ箱じゃねえの?」 
 何がおかしいのか声を出して笑っている。恐ろしいのは一緒にいる女達も同様に笑っている事だった。コイツラは一体何を考えているのか、後ろ姿で偏差値が低そうな事は分かるが、いくら馬鹿でもゴミをゴミ箱に捨てる事くらいできないのだろうか。ここまで来ると怒りを通り越して唖然とした。
「ちょっとあんた! 今の拾ってきなさいよ」
 美波がタンクトップ男に後ろから声を荒らげた。思いがけない行動に戸惑い、俺は時間が止まったようにその光景を眺めていた。
「ああ! なんだお嬢ちゃん」
 タンクトップ男が振り向いた。想像よりもはるかに不細工で頭も悪そうだ。モラルのない奴にはブスが多い。俺の統計学は正しいと証明された。
「信じられない。こんな所からゴミを捨てるなんて、馬鹿なの?」
 うんうん、気持ちは分かるが、彼らは自分が馬鹿だと言う事も分からない位に馬鹿なのだよ。話しかけると馬鹿が感染るぞ美波。
「おいおい、何だコイツ? 江ノ島清掃委員会の会長さんか?」
 まったく面白くないが四人は大爆笑している。美波はマスクを外すと更に続けた。
「さっさと拾ってきなさいよ、チャッキーみたいな顔して」
 ぷっ、俺は思わず噴き出した。チャイルドプレイに登場する人形の化物に確かにタンクトップ男は似ていた、中々悪口のセンスがあるようだ。 
「おいおい、駄目だよ、年上のお兄さんにそんな口の聞き方をしたら。彼氏みたいに大人しくしてないと悪戯されちゃうよ」 
 タンクトップ男が美波に手を伸ばしたところで前に出た。顔面を無造作に掴むとギリギリと力を込める、男は両手を使って外そうとするが構わずに力を込めると、指先が頭蓋骨にめり込んでいく。
「テメエ、何してんだ!」
 もう一人の、モヤシのように細い男が騒いでいるので、空いている手で腕を掴んで力を入れた。女の様な叫び声を上げているが、通り過ぎる人達はチラッとこちらを伺うだけで我関せずと過ぎ去っていく。体格差がなければ二人までなら負ける気がしない、掴んでしまえば終わりだ。取り巻きの女は不安そうに様子を伺っている。
「このお嬢様が誰だか分かってるのか?」
 小声でタンクトップに囁いた、外そうとして頑張っていた両手は力を失いつつある。少しだけ緩めた。
「五代目浜辺組、浜辺豪鬼会長のお孫さんだ、お前ら大変な事をしてくれたな」
 掴んでいた腕を離してやると、こめかみにくっきりと痣が出来ている。モヤシの腕にも同様に指の跡があった。
「お前ら、どうけじめ付ける? 一緒に事務所にくるか。この業界も人手不足で若くて元気がある人間は大歓迎だ」
 二人に小声で話しかけると、みるみる顔が青ざめていった。
「勘弁してください」
 こめかみが痛いのだろうか、タンクトップ男は左手でしきりに擦りながら蚊の鳴くような声を出した。
「じゃあ掃除してこい、隅から隅まで」
「へ」
「今から、お前ら四人で綺麗にしてこい。お嬢が嘆いておられる」
「なんで俺らが……」
「てめーが汚したんだろうが!」
 怒りの形相で怒鳴りつけると、彼らはアッという間に散っていった。後ろを振り返ると美波は胸の前でパチパチと手を叩いている。
「海斗くんて、ヒーローみたいだね」
 今の一連のやり取りを見てヒーローを想像するとは、一体幼少期にどんなアニメを見てきたのだろうか。まあ、褒められて悪い気はしない。
 その後は、しらす丼を食べた後に汚い海に足だけ浸かり、心太を食べてから、律儀に言いつけを守っていたタンクトップ達を手伝って橋の下を綺麗に掃除した。すると、頼んだ訳でもないのにガラの悪そうな若者が続々と集まり、いつの間にか三十人くらいが総出で海岸の掃除をしていた。そんな事で不良を見直してやるほど単純でもなかったが、少しだけ感心したのは確かだ。
「綺麗になると気持ちいいっすね」
 汗を拭きながら話しかけてくるタンクトップがなぜか爽やかに見えた。 
「チャッキー。もうポイ捨てしたら駄目だからね」
 いつの間にか美波とも仲が良くなっている。
「お嬢、チャッキーは勘弁してくださいよ」 
 モヤシ達が笑っている。話してみれば割といい奴らなのかもしれないが、結局紙一重なのだろう。例えば俺に腕力、いや握力がなければ奴らは素直にゴミ拾いに興じる事はなかった。逆に美波が危険な目に遭っていた可能性だってありえる。結局は力に屈しただけだ。人は自分よりも強大な力に直面した時には受け入れるか、最後まで抵抗するかしかない。受け入れることで自分は負けたわけじゃない、コチラ側の人間だったのだと自分を納得させる事で心の平穏を保っているのだ。誰だって負けを認めるのは勇気がいる。冷静に考えると急激に冷めた。
「美波、行こうぜ」
 タンクトップ達と記念写真を取っている美波の手を引いて歩き出した。名残惜しそうに手を振っている彼女の純粋さが少しだけ羨ましい。
「いい人達だったね」
 助手席から満足そうに笑顔を向けた。すっかり最初に絡まれた事は忘れてしまったようだ。
「いい人は、橋桁からゴミを捨てたりしないだろう」
「そうだけどさ、もうチャッキーはやらないと思うよ」
「だと良いけどな」
 信じる心が大切だよ。と彼女は続けたが、自分には無理だな、美波のようにはなれない。と、心のなかで呟いた。
 今さっき、美波の手を引いた時。ほんの数分だが俺たちは手を繋いで歩いた。掻き乱される心を落ち付けようとしても、心臓の鼓動は早まるばかりで、手汗が美波にバレる前に俺は自分から手を離した。
 俺は美波が好きなのだろうか? 今まで本気で誰かを好きになった事など無いから分からなかった。普通の高校生なら美波の事で頭がいっぱいになり、世界の中心は美波であり、美波の一挙手一投足に歓喜したり落ち込んだりするのだろう。
 しかし俺は違う。もしもこの気持ちが恋心だとしても、どうする事も出来ない。想いを伝えることも、ましてや恋人になるなんて、これから人殺しになる男に出来る筈がない。人を一人殺す代わりに、一人を救う。それで良いじゃないか。それが美波にしてやれる唯一の事だと自らに言い聞かせた。
 帰りの車内では、美波の友人の話や部活動の話など、今まで聞き出せなかった情報を手に入れる事ができた。もちろん、自殺の理由まで聞くことは叶わなかったが、彼女が自殺をする原因を突き止める為に必要な、最低限の情報を聞けた事に満足した。
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