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作者: 桐谷 碧
17
次の日、美波は当たり前のように俺の家に来た。いつもの笑顔で、いつもの朝食を、いつものように三杯お代わりした。俺はと言えば一睡も出来ず、明け方ウイスキーを寝酒代わりに流し込み、やっと眠れたと思ったら美波がやってきて起こされた。俺は不貞腐れたまま朝食を食べ終えると、食器も片さないで寝室に戻った。美波はそんな俺を穏やかな目で見守っていて、それが余計に癇に障った。
 体をベッドに投げ出して寝転び、スマートフォンを手に取った。ヤフーニュースでも見ようと思ったらLINEアプリに未読通知が付いている。俺にメッセージを送るのは美波だけだ、慌てて開いて内容を確認する。
『わたしだ』
 高梨志乃だった。昨日の花火大会で強引にLINE交換したのを思い出した。思わず舌打ちが出る。アイコンの画像はめぐみとのツーショットで、髪の短い高梨志乃と恋人同士のように写っている。
『あんだよ』
 それだけ返すとすぐに既読が付いた。暇なようだ。
『美波とは、どうだ?』
 昨日の今日で何の話だ。と、訝しんだがすぐに『別に』と返信する。
『あの子は、良い子だな。大切にする事だ』
「チッ!」と部屋中に響き渡るほど激しく舌打ちをした。
『あいつは、俺の事なんて何とも思ってねえよ』
 普段ならば、こんな愚痴のようなメッセージを絶対に送らないと断言出来るが、今は誰かに言いたくて仕方ない。俺は美波がすでに死んでいる事や、九月一日に消えてしまうかも知れない事、それどころか親の仇である野村賢治すら頭の中から消え去っていた。美波が俺の事をどう思っているのか、端的に言えば好きなのか、だとすればどれくらい。そんな事で頭がいっぱいだった。
『相手が好きだから、お前も好きになったのか? それならめぐみで良いじゃないか』
 それはまた別の問題があるだろうが、と言い返したくなるがやめておく。代わりにメッセージの内容を熟考したが答えは出ない。
『珍しくお前が相手に興味を持っているのは、喜ばしい事だ。好きな人にイラついたり、疑心暗鬼になるのは普通の事だし当たり前だ。童貞ならではの健全なる青春を目一杯楽しんでくれたまえ』
 童貞は余計だろうが。俺はスマートフォンを枕に投げ付けようとすると、ブブブッと震えて手に振動が伝わった。高梨志乃からついでのように最後のメッセージが送られてきていた。
『昨夜、美波から連絡があった。海斗くんと喧嘩しちゃって落ち込んでいる。どうしよう×三、泣。慰めておいたから感謝しろ』
 それを早く言え。俺は急いで返信した。何を、どのように美波は言っていたのだ。そして、なんて慰めたのだ。すぐ隣の部屋にいる美波に直接聞けば良い話を、俺は遠く離れた同級生に問いただす。が、返ってきたのは美味そうな豚骨ラーメンの写真だけだった。
 訳がわからず、ベッドの上を転げ回りながら悶々としていると『コンコン』と寝室の扉が叩かれた。普段はトイレだって勝手に開けてくる美波が、上品に部屋をノックしているのだ。俺は飛び起きて姿勢を正すと、ベッドに腰掛けて足を組んだ。
「なんだよ」
 扉のむこう側へ、出来るだけぶっきら棒に言った。
「ちょっと話があるんだけど……」
 まさか、別れ話か。いにしえより伝わる男女の最終会議。一度始まったが最後、別れという名の終着駅に到着するまで終わらないと言う死の会議。みっともなく復縁を迫る男に対し、ゾウリムシを見るような冷めた目をした女。そんなドラマのワンシーンが脳裏に蘇る。
「な、な、なんの話だ……」
 俺は声が震えた。
「うん、ちょっと」
 聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない。逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ。
「佐藤海斗、行きます!」
 初号機に乗り込む碇シンジのように決意を固めた俺は、扉に手をかけて静かに開いた。美波は少し驚いて顔を上げた。長い髪をハーフアップにしている事に、今更気が付いた。昨日のめぐみのようなヘアスタイルだ。そのせいだろう、いつもより少し大人びて見えた。
「す、座るか」
 俺がダイニングテーブルを指すと、コクリと頷いた。音のない部屋に、カチカチと時計の針が秒針を進める音だけが響いている。美波は明らかに逡巡していて、万引きした事を親に咎められる、中学生のように小さくなっていた。
「高梨に、連絡したんだってな」
 沈黙に耐えられずに俺は水を向けた。
「あ、うん」
「な、何を話したんだ」
「海斗くんのこと……」
「あのバカなんだって?」
「海斗は捻くれてて、自己中で、ナルシストな癖に童貞で――」
 あの野郎。
「でも、良い奴だって」
 ほう。
「良い男は世の中に沢山いるけど、良い奴は意外と少ないんだって。ちょっと難しくて美波には分からなかったけど、海斗くんが褒められてるのは理解できた」
 グッジョブ高梨。
「でも、そんな海斗くんに甘えて……。幸せすぎて、本当の事が言えなくて。言ったら嫌われちゃう、だから少しでも先延ばしにして海斗くんを騙してた」
 実は他に男がいる事を、なのか。やはり、そうなのか。だから別れよう。そうなるのか。俺はガクガクと震え出す膝を、手で強引に止めた。美波は中々つぎの言葉を言えないでいる。口を真一文字に噤んでテーブルを見つめていた。
「死んでるの」
 突然、顔を上げて美波は言った。俺は「へ?」と間抜けな声をだしてから見つめ返す。
「星野美波はもう死んでるの、七年前の九月一日に自殺したの、だから……」
 だから美波は、その。もういないの、かな? と最後は俺に問いかけてきた。上目遣いで。遠慮がちに。
「えっと、知ってるけど」
「へ?」
 今度は美波が間抜けな声を出す。
「話ってそれ?」
「うん、そうだけど……」
 俺は天を仰いだ。安堵が一気に押し寄せて、先程までの不安を体中から追い払っていく。思わず「くっく」と笑い声が漏れた。勝手に妄想して突っ走り、自分を追い詰め独りよがり。自己中心的なナルシストとはよく言ったものだ。
「え、え。海斗くん知ってたの? なんで、どうして?」
 状況を飲み込めていない美波はテーブルを乗り出して質問してきた。俺はその距離感に照れて、椅子を少し引く。そして、美波が自殺をする理由を調べる為に、中学校の同級生や恩師に会って来た話をすると、感心したように終始頷いてみせた。
「すごーい。探偵みたい。名探偵海斗」
 海斗と怪盗がごっちゃになるから、俺の名は探偵には向いてない。
「まあな、つまり美波は幽霊なんだろ?」
 出来るだけ明るく、それが何だ、と言うニュアンスで俺は言った。
「ゆうれい……」
「そうだ、現世に未練。やり残した事があって成仏できない魂だよ」
「やり残した、こと?」
「ああ」
「ちょっと待って! じゃあさ、海斗くんは美波が幽霊? なのにプロポーズしたの? 恋人になったの? 花火に行ったり、海に行ったりしたの?」
「ん、ああ」
 海の時は、まだ知らなかったけど。
「本当にいいの?」
「ああ」
「戸籍ないんだよ」
「ああ」
「お化けだよ、怖くない?」
「ああ」
「そんなに、美波が好き……なの?」
「あ、ああ」
 最後の質問にだけ目を逸らした。けど、美波の顔が一瞬曇り、悲しそうな表情になるのを俺は視界の端に捉えて戸惑う。もっと喜んでくれるかと思っていた。
 美波はしばらく俯いたまま、何かを考えていた。次に発せられる言葉が怖くて耳を塞ぎたくなる。まるで大学入試の合格発表を待つ受験生だ。しかし、次に美波が口にしたのは意外な言葉だった。
「夏休みしか会えないよ」
「ああ、あ?」
 思いがけない方角からパンチが飛んできて、モロに頭にヒットしたような衝撃を受けた。言葉の意味を反芻しながら美波に問う。
「な、夏休みしか会えないって、どーゆー事だよ?」
 美波はキョトンとコチラを見ている。あっ、それは知らないんだ。名探偵の称号は剥奪ね。と考えているかどうかは分からない。
「う、うん、そうなの。この体、妹のだから返さないと」
 情報量が多くて頭が混乱した。サーバーがダウンするように思考回路が停止して正確な処理を完遂できない。ゆえに無能と思われようが聞くしかない。名探偵の称号は諦めた。
「ちょっと待て、わからない事が多すぎる。美波が自殺してから、今に至る経緯を教えてくれないか」
「あ、うん」
 覚悟はしていた。七年前に死んだ人間がこうして目の前にいるのだから、現実では考えられない超常現象、いや、心霊現象が起きているのだと。それでも美波の話に俺は驚愕して息を呑み、改めて美波がこの世にいないのだと思い知らされた――。

 美波が自殺して目を覚ますと。自殺したのに目を覚ますという表現が適切かどうかはさて置き。とにかく彼女は目を覚ました。そこは見慣れた天井ではなかったが、かと言って知らない天井でもなかった。体を起こして辺りを見渡す。どうして自分が妹の部屋で寝ているのか考えていると、母の声が扉の向こうから聞こえてきた。
凪沙なぎさー。ご飯できたわよ。いつまで寝てるのー」
 ああ、懐かしい母の間延びした声が優しく耳を撫でる。昔を思い出し、頬を涙が伝うのを指で拭うと違和感に気がついた。
「ちっさ!」
 目に映るその指が、手のひらが明らかに一回り小さい。慌ててタオルケットを剥いで全身をまさぐると、もともと小さな胸がさらに小さくなっていてため息をついた。
 急いでベッドから飛び起き、全身鏡に映る自分の姿をみて「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げた。そこには七歳年下の妹、凪沙の愛らしい姿があった。しばらく茫然と立ち尽くしていると母の呼び声が、再び家の中に響き渡る。今度はその声色に若干ながら棘が含まれていて、すこし怒っているのだと分かった。美波は混乱する脳内を一時停止してから凪沙の部屋の扉を開き、一階のリビングに向かって階段を降りた。
「夏休みだからって何時まで寝てるのー。はやく朝ごはん食べちゃいなさい。宿題だって終わらせないと、去年みたいに最後の方に慌ててもお母さん手伝ってあげないよ」
「うん、食べたらやるよ」
 とりあえず素直に応じると、母は美波のおでこに手を当てて「熱はないわね」と訝しんだ。首を傾げながら洗濯籠を持ってリビングを出る母が振り返り、コチラを一瞥する。「変ねえ……」と呟きまた首を折った。
 目玉焼きをつつきながら頭の思考回路を再起動させる。どうやら自分はいま妹の凪沙になっている事は理解した。しかしなぜそうなったのか、原因や因果関係を深掘りすることもなく、起きた事象をとりあえず受け止めた。壁に掛けられたカレンダーに目をやると、自分が自殺した年から一年が経過していて、つけっぱなしのテレビの端には七月二十一日と表示されている。つまり、今日から夏休みに入ったという事だ。
 洋風のリビングに不似合いな仏壇が置かれていた。箸を置いてその前に行くと、自分がコチラに向かって微笑んでいた。やっぱり美波は死んだのだと確信したところで絶望する事もなく、なんとかバレないようにしないと。そんな心配をしていた。
 朝食を食べ終えて食器を洗い、自部屋に戻る。うっかり自分の部屋に入ってしまい立ち尽くした。部屋は一年前と何も変わらない状態で保存してあって、主人の帰りを待つ忠実な犬を想起させる。壁には綺麗にクリーニングされた高校の制服が吊るされていて、指先で触れても埃一つ付いていなかった。
「ありがとう、ママ……」
 呟いてから凪沙の部屋に戻る。さっそく夏休みの宿題に取り掛かろうとランドセルを開くと、教科書の上に一際目立つ一通の封筒が紛れていた。白と紫のコントラスト、美波が選んだ浴衣の色だ。
 宛先に『おねえちゃんへ』と可愛らしい丸文字で記されている。自分宛なのだから見ても大丈夫だろうと、なんの躊躇いもなく中の便箋を取り出した。

  ――おねえちゃんへ。
 なぎさの体はどうですか? 不べんはありませんか?
 この手紙を読んでいると言うことは、なぎさのねがいが神さまにつうじたようでよかったです。
 夏休みだけは、かわいそうなお姉ちゃんに体をかしてあげます。だから夏休みの宿題、自由けんきゅう、読書かんそうぶんはやっといてね。
 PS 毎日日記をつけるのもわすれないで、なにがあったか分からないとこまるでしょ。  なぎさ

 普通の人間ならばこんな手紙を読んだら頭が混乱して、訳が分からなくなるだろう。しかし、星野美波は違っていた。
「凪沙……。ありがとう」
 と、妹の優しさに感謝しこそすれ、疑問を抱く事はついぞ無かった。凪沙の指示通り美波は粛々とノルマをこなし、急に優等生になった次女に疑いの目を向ける両親を欺くため、出来る限り凪沙の行動を真似した。そして、八月三十一日の十二時になると、美波は意識を失い凪沙に入れ替わる。そして、一年後の七月二十一日に少し背が伸びた凪沙の体に、美波は再び呼び戻された。

「それが今年で七年目、凪沙ちゃんも十七歳になりましたー。めでたし、めでたし」
 目の前の美波が小さく拍手している。俺は同調する事も出来ずに固まるしかなかった。この話は吉報なのか、それとも凶報なのかすぐに判断が付かない。
 まずはこの肉体が妹のものならば、外面上の美波は普通の人間という事になる。吉報
 しかし、体が妹なのだから目の前にいるのは美波ではなく妹の凪沙で、やはり美波はこの世にはいない。凶報
 夏休み限定で体を借りる事が出来るのならば、美波が成仏してこの世から消え去る心配はなくなった。吉報
 しかし、夏休み以外の期間は凪沙に戻るから会話はもちろん、会う事も難しい。凶報
「いやいや、待てよ! 夏休みが無くなったらどうなる?」
 大学生までは大丈夫なのか? 高校とは夏休みの期間が異なるはずだが。大学をクリアしたとしてその先はどうする。
「凪沙は少学校の先生になるんだって」
 ああ、なるほど。と、妙に納得してすぐに嫌な予感が頭を掠める。
「どうして夏休みなんだ?」
「それは、凪沙がそうお願いしたから……」
 本当にそうなのか? それならば問題はない。不憫な死を遂げた姉を憂い、自分の時間を分け与える優しい妹の願いが天に通じた。そんな救いのある話ならば、これからも美波は存在し続けるだろう。しかし、黄泉がえり、地縛霊、怨念。人間の魂がこの世に縫い止まる膨大なエネルギーとは、そんな人任せなフワフワした雲のように曖昧な物なのだろうか。もっと強烈な、やり残した事や、夢、復讐。そう言った強い信念、怨念だけが成仏を拒み、この世に留まる唯一の方法なのではないか。なぜか、そんな気がした。
「美波の家に行こう」
 美波の魂を現世に繋ぎ止めるなにか。そのヒントが欲しかった。絶対に美波を失いたくない、たとえ夏休み限定でも構わないから。俺はとにかく必死だった。
 今まで無かった物なのに、手に入れてしまうともう、それを失うのが怖くてたまらない。大切な人が出来ると言う事はすなわち、それを失う悲しみに耐える強さを手に入れなければならない事に、この時の俺はまだ気が付いていなかった。
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