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作者: 桐谷 碧
22
人形町から池袋まで出ると、西武線に乗り換えて練馬駅に降り立つ。練馬駅は路線の多さの割にはだいぶ田舎臭い駅舎だった。駅の周りもあまり発展しているとは言い難く、チェーン店と個人の居酒屋が乱立した統一性のない町並みだった。まあ俺が住むことは絶対にないだろう。スマートフォンの地図アプリを起動して校長から聞き出した住所を入力する。北口から徒歩で十分、大股で歩きだすと凪沙は小走りで付いてきた。喋らないと、まるで美波がそこにいるようだった。
 目当ての一軒家にはすぐ到着した。木造二階建て、築三十年といった所か。典型的な中流家庭が作り出す平凡な雰囲気が建物全体から滲み出ていた。しかし、ここには天使を自殺に追い込んだ悪魔が住んでいる、この家庭さえなければ美波は現在二十四歳になって仲間に囲まれ、幸せな人生を送っている筈だった。想像すると、この平凡な家が急に歪んで見えて悪魔の住処に相応しい禍々しいオーラを放っていた。

 
「こーゆー女って……」
 駅前に戻りチェーンの喫茶店で時間を潰していると、黙ってスマートフォンを操作していた凪沙が呟きスマートフォンをテーブルに置いた。画面には浅間が洒落たケーキの横でピースサインしている。
「承認欲求の固まりなんでしょうね。自分でアピールしないと、褒めて貰えるような特筆した部分が一つもない。哀れですよね、なんの特技もないのは彼女の責任じゃなくて、ただの遺伝なのに」
「なんだよ、そのブタの肩持つのか?」
「まさか。でも人間って生まれた時にカードを配られるじゃないですか」
 凪沙は色の薄くなったアイスティーに口を付けた。さっきからサラリーマンが通る度に、彼女を二度見していく。
「カード?」
「はい、ポーカーでも大貧民でも良いんですけど。配られた時点で勝敗は決まったようなものですよ。浅間みたいなブタはどんなに頑張ってもブタ。でも世の中にはいきなりフラッシュや、フルハウスの人もいるじゃないですか」
「自分はロイヤルストレートフラッシュだって言いたいのか?」
「冗談じゃありません。姉です」
 凪沙は肩をすくめて細い腕を組んだ。
「難関女子校に通う美少女、優しいパパにユーモアのあるママ。なにが不満なのか理解に苦しむな」
「妹の生まれた日に自殺する姉なんて嫌ですよ、それに完璧な姉を持つ妹なんて、どんなに手札がよくてもブタの人生です。しかも、いくら努力しても永遠に追いつけない」
 今日、誕生日なのか。と聞こうとしたがやめておいた。彼女にとってのその日は、大切な家族を失った悲しみの方が勝るだろう。当然だと思う。
「もう……いないからな」
「はい」
「くだらねえ。だから卑屈になって、世の中は敵だらけみたいな、暗い目してんのか」
「自分だってそうじゃないですか」
「俺は良いんだよ」
「両親を殺されたから……ですか?」
 口元まで持ってきたコーヒーカップがピタリと止まる。上目遣いで凪沙を睨みつけたが、彼女は目を逸らさない。
「なんで、知ってるんだ?」
 その話は、美波にしていない。
「あまり、姉を侮らない事ですね。さ、そろそろ待ち伏せしないと、獲物を取り逃しますよ」
「ちょ、まて」
 凪沙はさっさと席を立ち、返却口にトレーを戻した。時計を見ると午後六時、確かにそろそろ帰って来るかも知れない時間帯だ。
 再び浅間の実家に歩を進める。途中に狭い公園があるのでそこで待ち伏せする事にした。練馬駅から浅間の自宅に帰るならばこの公園の前を通るしかない。俺たちはロケットを模した滑り台の影に身を潜めて浅間を待った。はたから見たら薄暗い公園でイチャつく恋人同時に見えるだろう。
 住宅街で人気もない道で、一体これから何をするかまでは考えていない。無計画だ。とにかく浅間を一目見てやろうと思った。
 三十分ほどした所で公園に女が入ってきた。白いシャツに薄いピンクのフレアスカート、格好だけ見れば女子アナのような出で立ちだったが、顔を見て確信した。豚の様に上を向いた鼻、離れた目、浅間菜緒だ。
「あの女ですね」
「ああ」
 浅間はスマートフォンを耳にあて、誰かと話している。距離があり内容までは聞き取れない。ぷらぷらと公園内を歩きながら、時折り足元に転がる空き缶を蹴っていた。
 こいつを見た瞬間から頭に血が登った。血液が逆流し、心臓がバクバクと脈打っている。美波はもう夏休みだけしか現世に帰ってこれない、それだっていつまで続くかわからない。なのに自殺に追い込んだ張本人は、いけしゃあしゃあと公園内を闊歩している。生きている。
 インスタで楽しそうな笑顔を向ける浅間の顔を思い出して拳を握りしめた。遺影の前で微笑む美波父を思い出して胸が痛む。海斗くん、と呼ぶ美波の声が頭の中で再生される。高速道路で消えた両親、薄笑いを浮かべる野村賢治。頭の中で感情がメチャクチャになって、俺の中で何かが壊れて行く。
「来週? 行く行く、慶葉のOB会でしょ。久しぶりだよね」
 気がつくと浅間は滑り台の近くまで接近していた。俺たちには気が付いていないようで、やたらとカン高い声が公園内に響いている。
「マジ? 理沙が妊娠? ウケる。え? タカシ? まあ、なんとか。でも結婚はないかなー。スペック低すぎ。ちょっと笑いすぎでしょ。うん、分かった、また連絡するー。はーい」
 慶葉大学、結婚、子供。美波が生きていれば叶えるはずだった夢をなんでお前が。なんでお前らが。おかしいだろ、誰が聞いたっておかしいだろ。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
 凪沙の声が耳を通り抜けた。浅間は滑り台を離れ、その背中が遠ざかる。俺は走り出した。
 ――殺さないと。
 はやく殺さないと。じゃないと、あのブタが幸せになってしまう。それは駄目だ、駄目に決まってる。それは許されない。距離がどんどん縮まってきて、足音に気が付いた浅間がこちらを振り向いた。振り向きざま、俺は浅間の顔面に拳を叩き込んだ。鼻が折れる感触が伝わり、女は「ぎゅっ」と声を漏らし後方に弾け飛ぶ。仰向けに倒れた浅間に馬乗りになり、顔面を右手で掴み力を込めた。ミシミシと頭蓋骨が軋む音が聞こえてくる、コイツがいなければ美波は。美波は。コイツがいなければ。左手で右の手首を握り、さらにギリギリと締め付ける。このまま思い切り力を入れたら頭蓋骨が砕ける。殺せる。
「殺してやる!」
 女はすでに気絶していた。糞尿を垂れ流しているのか、酷い悪臭が鼻をつく。
「海斗くんだめ!」
 ふいに美波の声が聞こえて、誰かが俺の手を掴んだ。我に返り見上げると、目の前でポロポロと涙を流した凪沙が俺を見つめていた。全身の力が抜けた。「ハァハァ」と荒い呼吸を整えて、ピクリともしない浅間を見下ろす。既に事切れてしまったかと思ったが、辛うじて息はあった。
 騒ぎを聞きつけた住人が集まって来て、犬を連れた老人がコチラを伺っている。俺は凪沙に手を引かれて公園の裏口からその場を立ち去った。遠くにサイレンの音が聞こえくる頃には、すでにタクシーに乗り込み逃走した後だった。凪沙はずっと泣いていた。タクシーの中でも、タクシーが俺の自宅に着いても、ずっと泣いていた。
「なんで、凪沙が泣いてんだよ」
 ソファに座らせた凪沙は、まだ肩を上下させながら泣いている。ティッシュを箱ごと渡すと、三枚抜いて鼻をかんだ。
「だってお姉ちゃんの事、そんなに、ひっ、思ってくれて。私だってあいつのこと殺したいけど、でも、お姉ちゃんはきっと望んでないから、復讐なんて望んでないから」
「なんだよ、美波が疎ましいんじゃなかったのか?」
 意地悪な質問をしたなと思ったが、凪沙は首を何度も横に振った。こう見ると、凪沙は普通の十七歳の女の子だ。
「そうだよな、嫌いだったら夏休み。あげたりしないよな……」
 何気なく呟いた言葉に、凪沙が反応して顔を上げた。目が真っ赤に充血している。
「凪沙のおかげで美波に出会えた。感謝してる」
 今度は静かに頷いた。
 神様が、あまりに理不尽な美波の死を憂いて。仲の良かった妹の願いを叶えてくれた。だとしたら、俺は少しだけこの世界に希望を持てるかもしれない。救われるかもしれない。凪沙は着てきた制服に着替えて玄関に向かった。家まで送ると言ったが、大丈夫だと断られた。しかし、今朝出会った時とは別人のように柔らかい表情だ。
「凪沙」
「ん?」
「たまには、遊び来いよ」
「あ、浮気。お姉ちゃんにバラしちゃお」
 そう言って笑った凪沙の顔は本当に美波と一緒で、もちろん当たり前だけれど。それでもやっぱり嬉しかった。美波の存在を知る、この世にたった二人の人間。佐藤海斗と星野凪沙、俺たちがいれば美波はきっと帰ってくる。夏休みにまた、帰ってくる。そんな気がした。
「じゃあね」
「ああ」
 俺は少しだけ、本当に少しだけ、まじでちょっとだけ凪沙が来ることを期待したけれど。結局その日以降、彼女が現れる事はなく、あっという間に一年が過ぎた。そして、おそらく世界で一番夏休みを待ち侘びた俺は、遠足を楽しみにする小学生のように前夜、眠る事が出来なかった――。
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