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作者: 桐谷 碧
16
マスクをしていても分かる。意地悪そうなパッチリ二重に細身の長身、気怠そうな雰囲気、間違いない。私は急いで彼の真後ろに並び直した。彼は行列が中々進まない事に対する苛つきを、右足をタンタン鳴らす事でアピールしている。小さな舌打ちを繰り返しながら時折、首を伸ばしてレジの方を睨み付けてはブツブツと文句を言っていた。
『こっわー』
 口の中で呟きながら次の展開を考えた。どうする? どうする私。なんて話しかければ良いのだろう。何が正解で、何が不正解なのか見当もつかない。もしかしたら正解なんて無いのかも知れない。列は中々前に進まない。これだけ並んでいるのに、呼ばれてから何を注文するか悩んでいる若い女に、海斗くんの機嫌が益々悪くなるのが、背中から発せられるオーラで分かった。
 なんの作戦も思い付かないままに、列は無情にも短くなっていくと、私の焦りを悟ったように、海斗くんの前で注文している中年の女性は、ゆったりとしたスピードで丁寧に注文し、小銭を一枚ずつトレーに並べ始めた。
「チッ!」
『ひぃぃぃぃ』
 馬鹿でかい舌打ちに、自分の事じゃないと分かっていても身を引いた。海斗くんは乱暴にズボンのポケットに手を突っ込むと、画面を横にして何かを見ている。私は背伸びして彼の肩越しに画面を覗き込むと、そこにはプロ野球の中継が映し出されていた。小さいが巨人対ヤクルトである事は確認できる。気がつくと私は、自然に話しかけていた。
「どっちが勝ってます?」
 海斗くんは振り向くと、ギョッとしたように目を見開いて私を見た。だけど、すぐに質問の意味を理解して返事をくれる。さっきまでの緊張が嘘のように私は言葉が出てきた。
「一緒に野球観に行きませんか?」
 注文をキャンセルしてから、海斗くんを追いかけて言うと、彼は「は?」と怪訝そうな顔をしてから歩き出した。
「野球、好きなんですよね?」
 しかし、私は怯まない。勝手に横を並走して歩く。
「え、ああ、まあ」
「じゃあ、行きましょう」
「いや、はあ……」
 海斗くんは迷惑そうに帽子を深く被り一礼すると、大股で歩き出した。
「星野美波です!」
 もしかしたら、お姉ちゃんの名前を覚えているのではないか? そんな期待を込めて自己紹介をすると「あ、佐藤海斗です」と彼は遠慮がちに答えただけだった。そんなやり取りをしていただけで、直ぐに海斗くんのマンションに到着してしまった。
「じゃ」
 彼が首だけで挨拶をする。
「また、明日ねー」
 私は海斗くんを笑顔で見送ってから、マンションを見上げた。すでにチラホラと明かりが灯っている。動体視力を集中させて、マンション全体が見えるように位置を調整する。すると、およそ一分後。マンションの一部屋に明かりがついた。カッと目を見開き、下から数を数えるとそこが六階だと判明した。六階の左端。ブツブツと念仏を唱えるように口ずさみながら、入口とは別にある郵便受けの前に立った。当たり前だが名札は付いていない、仕方なく六〇一の箱に小さな手を突っ込むと、あまり小まめに回収していないのだろう、中には紙の束が乱立していた。私は人差し指と中指を駆使しして、紙を何枚か引っ張り出すと、その中に一通封筒が混じっていて、あまり上手じゃない文字で『佐藤海斗様』と宛名が記されていた。私は唇の端を上げた。これで、いつでも突撃出来る。逃しはしないわ、佐藤海斗くん。「ククク」と不敵な笑みを浮かべると、私はやっと家に帰る事にした。

「人形町?」
「うん」
 マクドナルドを食べ損ねた私は、家に帰るとパパと一緒にママの作ったカレーを食べていた。朝早くから何処に行っていたの、と聞かれて正直に答えると、二人は不思議そうに顔を見合わせる。
「人形町って水天宮がある、あの人形町?」
 ママが私のお茶碗にご飯のお代わりをよそいながら聞いてきたけれど、それが何の事だか分からなかった。
「凪沙が産まれる前と、産まれてからも行ったよな?」
 パパがママに確認すると、懐かしそうに頷いた。どうやら人形町には水天宮と言う、有名な安産祈願の神社があるらしい。
「何しに行ったのよ」
「ちょっと友達と……」
 ママは「ふーん」と、少しだけ訝しんだ様子で私の顔を覗き込んできた。
「人形町からだと、お婆ちゃん家も近いわね」
「え、そうなの?」
「歩いて二十分くらいかしら」
 神田にあるお婆ちゃんの家はママの実家で、中学生まではお正月に毎年遊びに行っていた。いや、お年玉をねだりに行っていた。それにしても海斗くんの家とお婆ちゃん家が、そんなに近いとは気が付かなかった。
「そーなんだ……」
 私はカレーのスプーンを口に入れたまま考えた。赤羽から人形町は決して遠くはないが、徒歩で通えるのならそれに越した事はない。交通費の節約にもなるし、何より海斗くんと一緒にいられる時間が増えるではないか。
「明日からお婆ちゃん家に泊まっても良い? 夏休みの間だけ……」
「え? そりゃあ、お婆ちゃんが大丈夫なら構わないけど、どうしたの急に」
「うん、なんて言うか、気分転換?」
 不登校の娘に、二人は決して無理をさせようとしない。それどころか、私の願いは出来る限り叶えようと努力してくれるのを知っていて頼むと案の定、ママは「分かった、お婆ちゃんには電話しとくから」と言って微笑んだ。
 部屋に戻りベッドに寝転ぶと、スマートフォンでプロ野球のチケットを購入出来るウェブサイトにアクセスをした。咄嗟に口から出た誘い文句に海斗くんは戸惑っていたけれど、拒否はされなかった。と思う。指定席はまだ少しだけ空いていて、折角だから一番良い席をネットで予約した。
 話しかけてみると思ったよりも海斗くんは怖い人じゃなくて、小説に出てくる妄想の主人公より愛想は無いけれど、声は想像よりも低く、それなのに優しさを感じる不思議な声色の人だった。明日はコンビニでチケットを受け取り、夕方にマンションまで迎えに行こう。目を瞑り明日の事を妄想していると、自分が社会のレールから弾き出された、人生の落伍者である事を忘れられた。
 本当は知りたかった。同じように大切な家族を突然奪われた彼が、どんな生き方をしているのか。私と同じようにレールを外れていたならば、少しは自分への慰めになると卑しい思考が脳裏を掠めたのも確かだし、傷を舐め合う相手を、ただ欲していたと言われても反論は出来ない。お姉ちゃんが認めた人ですら耐えられないのならば、私が逃げ出したのも道理じゃないかと、自分に言い訳をしたかったのかも知れない。
 それなのに海斗くんと出会い、海斗くんと過ごした夏休みは私に沢山のものを与え、奪っていく。だって海斗くんが好きになったのは凪沙じゃなくて、作り物のヒロインなのだから。最初はそれでも構わないと思った。少しずつ欲が出てきて、凪沙を見て欲しいと思うようになった頃、海斗くんの心に入る隙間なんてもう無かった。
 もしも、奪うために与えたのなら神様。あなたはすごく意地悪ですね。でも、彼に出会えなければ私はもっと不幸せでした。だからありがとう、意地悪な神様。ありがとう。
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