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作者: 桐谷 碧
19
目が覚めて夢と現実の狭間を彷徨っていると、居間の方から味噌汁の香りが漂ってきた。首だけ動かして横を見れば、お母さんがスウスウと寝息を立てて眠っている。だとすればお婆ちゃんしかいない。年寄りの割に夜型の祖母は、毎朝十時過ぎまで寝ているから珍しい。左手で枕元を探りスマートフォンで時刻を確認すると【八月三十一日(火曜日)五時十四分】と表示されていた。泣いても、笑っても今日で最後だ。
 タオルケットを剥いで体を起こし、匂いに釣られる夢遊病患者のようにフラフラと居間に向かって歩く。今時珍しい畳の和室に置かれた丸いテーブルはやけに厚みがあり、その上には味噌汁に白飯、お新香と鯵の開きといった、ど定番の和朝食が二人分並んでいる。
「あら、凪沙。起きたの?」
 台所から顔を出したお婆ちゃんは、その手に冷奴を持っていた。
「うん、いい匂いしたから」
「そりゃ良かった。一緒に食べよう」
「ママは?」
「あの子は、こんな早くに起きてきやしないよ」
「そっか」
 私は薄い座布団の上に正座してから「いただきます」と言って味噌汁を一口飲んだ。
「美味しー」
「出汁からとってるからね、最終日くらい凪沙とご飯食べたくてさ」
 毎朝五時三十分には家を出て、帰ってくるのは夜遅く。考えてみれば、お婆ちゃんとコミュニケーションを取る時間があまり無かった事を、いまさらながら反省する。
「ごめんね……」
「なにがだい?」
「友達とばっかり遊んでて、せっかくお婆ちゃん家来てるのに」
「何言ってるの、若い子はお友達とか彼氏と、毎日一緒にいたいものだろ? それに凪沙が泊まりに来てくれるだけでお婆ちゃん嬉しいから。来年も再来年も、ずっとずっと来ていいんだよ」
 お婆ちゃんは私の病気を知らない。私に来年や再来年が来るか分からない事を、お婆ちゃんはまだ知らない。付けっぱなしのテレビでは、アナウンサーが学生たちにマイクを向けている。「夏休みは何をして過ごしましたか?」などと聞かれて、日焼けした女の子が笑顔で答えていた。
 羨ましいなあ――。
 同年代の女の子達はこれから楽しい事が沢山あって、素敵な人と出会って子供を産んで、その子がまた子供を産んだらお婆ちゃんになるんだ。
 ねえ、羨ましいよね? お姉ちゃん。
 いやいや、と、私は被りを振った。お姉ちゃんは他人を羨むような卑しい人間じゃないと考えを改める。そうだ、私だって素敵な人に出会えたし、楽しい時間も過ごしてきた。もし、海斗くんに出会えなければ、この世界にただ絶望していたと思う。酷い人生、呪われた運命だったと落胆して、残された寿命を無駄に過ごしていたに違いない。だからありがとう。海斗くんと会わせてくれた事を感謝しています。天国でお姉ちゃんに会えたらそう言おう。お姉ちゃんはきっとまた、私の髪を優しく撫でてくれるはずだから。
「ごちそうさま、行ってくるね!」
 木造二階建ての古家を出ると、早朝の爽やかな空気が肺をいっぱいに満たしてゆく。生きている実感を感じて切なくなるけれど、私は前を向いて歩き出した。通い慣れた道のりがキラキラと新鮮に感じる。もう見ることのない景色をしっかりと堪能するように、ゆっくりと目に焼き付けながら進んだ。
 いつものようにラジオ体操をして、すでに朝食を食べた事は内緒にして蕎麦を食べた。ここのかき揚げ蕎麦も食べ納めだと思うと泣きそうになるけれど、しっかりおつゆまで飲み干してから丼をカウンターの上に乗せた。
「ありがとう、また来てねー」
 おばちゃんが片言の日本語で破顔した。ああ、だめだ。何気ない日常の一つ一つに涙腺が崩壊しそうだ。
「うん」
 私は嘘を付いた。すっかり嘘をつく事に慣れた自分が嫌になる。でも、それも今日までだから。本当に今日で全てを終わらせるから。もう少しだけ許してください。神様。お願い。
 二人で少し散歩をしてから海斗くんの家に戻った。今日の海斗くんは口数が少なくソワソワしている。仕方がない、美波は今日を最後に一年間いなくなる。そして来年の七月二十一日に、凪沙の体を借りて現れると海斗くんは信じているのだから。好きな人に一年も会えないなんて寂しいだろうな、それが一生続くなんてありえない。海斗くんには素敵な女の子、例えばめぐさんみたいな人と幸せな人生を歩んでほしい。心からそう願う。
 十時前になると「ちょっと出掛けてくる」と言って海斗くんは外出していった。入れ替わりでハッシーがニヤニヤしながらリビングに入ってくる。
「なーに、ニヤけてんのよ?」
 カウンターキッチンの中で私は訝しんだ。
「いえ、別に」
 すっかり通常メンバーと化したハッシーは、リュックを下ろしてパソコンを取り出すと、ローテーブルに広げた。
「コーヒー飲む? インスタントだけど」
「あ、すんません。頂きます」
 電気ケトルにミネラルウォーターを注いでボタンを押してから、マグカップを二つ取ってコーヒーの粉を入れる。ハッシーは食い入るようにパソコン画面を見ていて、その目は真剣そのものだ。
「なんで、前の職場じゃダメだったのかなぁ」
 私はコーヒーカップをパソコンの横に置いてからハッシーの前に座った。ハッシーはパソコンの横から顔を出して「え?」と、呟く。
「気がきくし、手先も器用。覚えも早いって海斗くんが言ってたよ」
 本人には絶対に言うなと釘を刺されているけれど。
「え! まじすか? 兄貴が俺の事を? いや、嬉しいっすねー。でも、なんでっすかねえー。前の上司はとにかく威圧的で、自分の事を馬鹿にした目で見てました。社内でも橋本は使えない、みたいな空気感があって、毎日そんな場所にいると自分はダメなんだ、クズなんだみたいに本当に思えてくるんですよね」
 なるほど、それゆえ他人への誹謗中傷だったわけか。
「でもさ、海斗くんだって、ちょー上からじゃん」
「たしかに。でも兄貴は本心では馬鹿にしてないっすよ。目を見れば分かるんですよねー。小さい頃から人の顔色ばっか窺いながら生きてきましたから」
「え、私はどうかな、どんな目してる?」
 身を乗り出して目を見開き、ハッシーを見つめた。ハッシーはパソコンを少し横にずらして正面から私を見つめてくる。
「何か大きな隠し事をしている……」
「へ?」
「それでいて確固たる決意のような、そんな強い意思を感じますね」
 何者だコイツは。占い師としても成功するんじゃないか。と、少し身を引きながら苦笑いしているとハッシーは続けた。
「あとは、すごい美少女っすね、めぐみさん程じゃないけど」
 話題がそれて私はホッと胸を撫で下ろした。
「ハッシーはめぐさんとどーなの? 進展あったの」
 再び身を乗り出してハッシーに詰め寄ると、彼は優雅な動作でコーヒーに口を付けた。
「先日、映画に行きましたよ。二人でね」
「えー! 本当に? すごいじゃん! なんで、なんでハッシーと?」
「な、なんでって、失敬な」
「だって、めぐさんは海斗くん一筋だと思ったからさ」
「兄貴にはお嬢がいるじゃないっすか! それにあの二人は絶対にくっつきませんよ」
「え、なんで? お似合いの二人だと思うけどなぁ」
 そう。私よりもずっとお似合いの二人だ。
「兄貴にそっちの気が無いっすからね、いや、僕にもありませんでしたよ! 至ってノーマルです。まあ、当面のライバルは高梨氏っす」
 そっちの気? ノーマル? ライバルは師匠? 話の筋が見えなくて混乱していると、ハッシーは訝しげな顔をコチラに向けた。
「もしかして、知らないんすか?」
「な、なにを?」
 動揺を悟られないように、ゆっくりとマグカップを口に付けた。
「めぐみさんは男っすよ」
 口に含んだコーヒーを勢いよく目の前に噴き出すと、ハッシーの顔がコーヒーまみれになる。私はそのまま固まり地蔵のように動けなかった。
「ちょ、何してんすか!」
 彼は自分の顔よりもパソコンにかかったコーヒーを自らのシャツで拭っている。呆然と動かない私を横目にハッシーはタオルを取ってきて、テーブルとパソコンを入念に拭いていた。パソコンが問題なく起動する事を確認すると、やっと自分の顔を拭って落ち着いた。
「あ、ハッシーごめん」
「おっそ! 反応おっそ!」
「え、ハッシーは最初から知ってたの?」
 めぐさんが男。あの天使のように美しい彼女が男。しかし、それなら性格良し、ルックス良しのめぐさんに言い寄られても、ずっと拒んで来た海斗くんの言動に説明が付く。もちろん多様性が進んだ現代社会において、男女以外のカップルなんて幾らでもいるが。
「ちょっと待って! ハッシーは分かった上で好きなの?」
「いや、だからー。最初は分からなかったすけど、話してるうちにそうかなーって。で、兄貴に尋ねたらそうだよって。アッサリと」
 私は何回も会っているのにまったく分からなかった。
「びっくりしましたけど、それでも好きなんすよねー。いや、むしろ会う度にどんどん好きになっていきます。もちろん、最初はあの美しい容姿に惹かれたことは否めませんよ。でも、それはキッカケ、好きな部分の一つであって、今は彼女の全てを愛しています」
 キッパリと言い切ったハッシーに、私は拍手を送っていた。男性にこんなに想われて、嬉しく思わない女の子はいないと思う。めぐさんは性別が男でも、内面は女の子なんだから。
「え、あれ? じゃあ師匠は?」
「高梨氏は男としてめぐみさんに好意を寄せてます。だから、ライバルなんす」
 凄まじい三角関係がいつの間にか完成していた。だけど、これで美波がいなくなった海斗くんを支えてくれる彼女候補がいなくなってしまった。海斗くんからすれば余計なお世話だと思うけれど、今の私にはみんなの幸せを願う事しか出来ない。みんなが生きる未来の世界に私は多分いない。いや、初めからみんなの中に存在するのは美波であって凪沙じゃない。凪沙がいなくなって困る人間、哀しむ人間がこの場所にはいないと思うと胸がギュウっと締め付けられた。
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