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作者: 木立花音
彼女が文壇をおりた日
 新河龍之介賞あらかわりゅうのすけしょう。通称、新河賞あらかわしょう。芸術性を備えた短編もしくは長編作品に与えられる文学賞であり、日本中の誰もが知っている文字通り文学界最高の賞だ。
 一月の半ばである本日。都内築地にある料亭にて、同賞の受賞作品が発表された。

 紀平小百合きへいさゆり。『一葉いちよう

 ノミネート作品は全部で五つ。そのなかで、『一葉』の作者である紀平が若干二十歳であるという話題性も相まって、彼女が今年の受賞最有力候補と目されていた。ある種予想通りの結果に、記者会見が行われる予定の別室で待機していた報道陣から、感嘆と驚きの声が混ざって上がる。
『今年の新河賞は、紀平小百合さんの『一葉』に受賞が決まりました。ただいま、受賞作の本を前方の机の上にお持ちします。紀平さんによる記者会見は――』
 慌ただしくなった記者たちの動き。
 テレビから流れてくる興奮した解説者の声。
「枕でも、したんじゃないですかねえ」
 ふうん、と呟いたあとにもれた後輩の無責任な発言を、先輩である別の男がいさめた。
「冗談でもそんなことを言うな。もし、偉い人の耳にでも入ったら後で大目玉をくらうぞ」
 とはいえ、そういった噂がまことしやかに囁かれていたのも事実なのだが。これもひとえに、紀平小百合の話題性が呼んだ根も葉もない噂話だろうが、と男は心中で思う。もっとも。
「そんなことはどうでもいいんだよ。世間が期待しているのは、史上最年少タイ記録で受賞をはたした新進気鋭の女流作家紀平が、記者会見でいったい何を語るかだ。一言一句、聞き漏らすなよ。メモの準備をしっかりしておけ」
「へいへい」

 それから三十分後。二人を始め、多くの報道陣が固唾を呑んで見守るなか、別室で紀平小百合の記者会見が始まった。
 ほどなくして、噂の紀平小百合が姿を見せる。彼女の写真はネット上にいっさい流出していなかったので、ミステリアスな美少女に違いない、などといった憶測を呼んでいたが、噂通りにして想像以上、との感想を記者たちは持った。
 ふんわりした、ボリューム感のあるショートボブ。整った輪郭線に収まる瞳は、くりっとしたアーモンド形。シックな紺色のワンピースに身を包んだ彼女は、たおやかな所作で指定された席についた。
「なかなか可愛いじゃないですか。これなら絵になる」
 カメラを構えた後輩の声に、「そうだな」と男が応える。この女となら寝てみたい、と下卑た感想を抱いたが、言わずに飲み干した。
「このたびは、新河賞という栄誉ある賞を受賞できたこと、大変光栄に思います」
 女性にしては低音なその声は、さらりと耳に届いて心地よい。見た目通り、落ち着いたトーンのいい声だ、と男は思う。
「写真ばかり撮ってないで、彼女の発言もちゃんとおさえとけよ」
 手帳にメモを走らせながら、男は隣の後輩にそう釘を刺した。
「わかってますって」
 だらしなく鼻の下を伸ばした後輩を横目に、本当にわかっているのだろうかと嘆息する。
 当たり障りのない内容で進行していった記者会見は、最後に行われた質疑応答の段になって、しかし、波乱の展開を迎えた。
「紀平さんは、次回作としてどのような作品を構想しておられますでしょうか?」
 これまた平凡な、三人めの記者の質問に対して、紀平は眉一つ動かさずにこう答えた。
「次回作はありません。なぜならば、私、紀平小百合は、本日をもって文壇を降りるからです」
 わき起こったどよめき。
 この日、日本中が、女流作家の一声に震撼した。

   ※

 衝撃の記者会見から一夜が明けた、自分の名前が見出しに載っている朝刊をデスクに置いて、コーラの入ったグラスを片手に書きかけの原稿に目を通した。原稿の文字を目で追っているうちに、眉根が自然と寄ってくる。
 誰かに批評してもらうまでもなく、受賞作を超える完成度には達していないとわかる。これじゃダメね。
 早起きをして、寝ぼけ眼を擦りながら苦心惨憺ひねり出した三千文字を、惜しげもなく全部消した。そもそも、もう書く意味すらないというのにと、書くことがルーチンワークになっている自分に苦笑い。
 やはり、あの作品に比肩するものはもう二度と自分には書けない。
 書けるはずが――ないんだ。
「ふう」
 ごく自然に落ちるため息。
 残酷な現実に打ちのめされながら、学生当時、いや、もっと幼かった頃の記憶を、私は思い出していくのだった。
「苦い思い出は、いつもコーラの味、か」

 ――紀平小百合、二十歳。スターダムをひと息に駆け上がり、一晩でただの人になった、元女流作家の名だ。

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