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作者: 木立花音
私が、恋をした日
 小学校低学年の頃の私は、それはそれは、気持ちの弱い女の子だった。
 背が低くてやせっぽちだったこともあり、近所の男の子によくいじめられていた。
「まーた泣き出したぜこいつー」
「ちょっとからかうとすぐ泣くからおもしれーよなあ」
 そんなことを口々に言われ、たびたびちょっかいを出された。そういった、嫌な出来事があるたび逃げ込んだのが、自宅の側にあった児童公園だ。住宅街の真ん中にあるこの公園は、遊具がいくつかあるだけの、キャッチボールすらままならない手狭な公園ではあったが、春になるとソメイヨシノが満開になる風光明媚ふうこうめいびな場所でもあった。
 けれど、私が好きだったのは、桜の花よりもむしろ花壇のほうで。パンジー、マリーゴールド、サルビア等々。植えられている花の名前なんて、当時の私にはよくわからなかったけれど、色とりどりの花が咲き乱れるその花壇が、とかく私は大好きだった。

「う、ひっく……」
 男の子にからかわれた私は、その日も花壇の側にうずくまって一人で泣いていた。
 頬を伝い落ちる涙を指先で拭うと、目の前に水色のハンカチがそっと差し出される。
「ほら、これで涙拭いて」
 降ってきた声に顔を上げると、傍らに男の子が立っていた。
「……? ありがとう」
 彼は同じ町内に住んでいる同い年の男の子で、私が泣いているとこうしてよく来てくれるのだった。
 ハンカチを受け取って、零れる涙を拭う。
「泣いているとさ、幸せのほうから逃げていくんだって」
「幸せが逃げていく?」
「そう。だからね、辛いときこそ笑ったほうがいいんだって。うちのママが言ってた」
「笑うといいことあるの?」
「あるよ。なんかそういうことわざ? もあるんだって。だから、もう泣かないで」
 なぜだろう。彼が言うならきっとその通りなんだと、ごく自然にそう思えた。
 特別、彼がカッコよかったわけでもない。
 特別、彼から何かをもらったというわけでもなかった。
 それでも、これだけは言える。私をいじめている他の男の子とはまったく違う、優しい彼のことが私は大好きで。私の中で、彼の存在はずっと特別なものであり続けたのだ。あり続ける、はずだったのだ――

 そういった心ゆるびがたぶん私にはあって。
 だからこそ、数日後に彼から告げられた言葉の意味を、理解するまで多少の時間を要したのだ。
 その日の彼の服装は、白基調のどこか余所行きなもので。彼の家の前には、引越し業者と思しきトラックが停まっていた。
「お引越し?」
「うん、ぼくの親が、りこんすることになったんだ。それで」
 母親のほうについていくことになったので、遠くの町に引っ越すのだと、沈痛な面持ちで彼が言った。
 この日私は、人生で初めての失恋を経験した。この頃はまだ、自分の恋心をうまく自覚できていなかったとしても。

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