そぼ降る雨と失恋の日
それから十年の月日が流れた。
時の流れとともに、彼のことをどれだけ好きだったのかと次第に気がつき、彼に想いを伝えられなかったことをこれでもかと悔いて、けれど、心の傷はやがて瘡蓋となって、中学生に進学した頃にはすっかりと忘れた。小学生の初恋なんて、まあそんなものだ。
高二の夏。
高校二年生という時期は、色々な意味で宙ぶらりんだ。一学期の半ばほどなのだからことさらで、先々の進路を考えるにはまだ早く、かといって、ゆるりと遊び惚けるのもそれはそれで無計画すぎるという時期。宙ぶらりんな時期だから、私の気持ちもどこか宙ぶらりんで。惰性で過ごしている毎日だった。
そんなわけで、この日も私は上の空で、これまた惰性で付き合っていた彼からの告白も、馬耳東風に聞き流していた。喫茶店の窓越しに響く、そぼ降る雨音と一緒に。
「え、いまなんて?」
梅雨入りしたのは先週の話。連日の雨で客足は鈍く、この日、私と彼の他に客はほぼいなかった。穏やかに流れていたクラシック音楽に浸っていた私の心は、「いや、だから」と続いた彼の声で、一気にアンダンテからアレグロにテンポを変えるのだった。
「小百合。悪いんだけど、今日限りで俺と別れてくれないか?」
「え、どうして?」
どうして、という質問も我ながら滑稽だと思う。理由を知ったら結末が変わるのか?
「他に好きな女ができたんだ」
ああ、なるほど、と即座に腹落ちした。
この間の彼の誕生日。一緒に祝うため約束を取り付けようとしたのに、用事があるからと断られた理由がそれかと。二人とも大好きだった恋愛小説が今夏実写映画化されるというのに、チケット取ろうか? という提案に彼が乗り気じゃなかったのもそれなのかと。相手は誰だろう? と一時思うが、失恋のショックがたいして大きくない自分を見つめ、喉元でつかえた疑問をそっと飲み干した。
「そっか……わかった。私に原因があったのかな?」
「いや……。浮気したんだから俺のほうが悪いんだろうけどさ、でも、でもさ」
「ん、なに?」
どうしてそんなに声が震えているの、と顔を上げると、真っ赤な顔を彼がしていた。
「なんで、そんなにさっぱりとした顔で言えるんだよ? 引き留めようとか思わないのかよ? 悔しいとか、そういった感情はないのかよ?」
「あー、うん」
別れたくない、と喚き散らすのが、一般的なオンナノコの反応なのか? 嫌だな、という感情がないわけでもないが、演技するのも違うしな。そもそも、そこまでするメリットが私にあるの? と思考が堂々巡りをするうち、「そういうところなんだよ!」と吐き捨てて、彼は店を飛び出していった。
追いかける気には、やっぱりなれなかった。
自棄酒というのは聞いたことがある。もちろんお酒なんて飲んだこともないので、今飲んでいるこれは差し詰め自棄コーラ、といったところか。
「コーラもう一つください」
通りがかりのウェイトレスに注文すると、さっきまでの定型スマイルはどこへやら。ギョっとした顔を向けられた。なんだか失礼。まだ六杯めだと思うのだが。
「体に悪いぞ」
脳内で呪詛を呟いていると、抑揚のない声が突然して背筋が伸びる。声、上からしたな、と顔を上げると、腰に手を当て私を見下ろしている男子高校生がいた。
紀平俊介十六歳。私の同い年の弟である。スパイキーヘアという逆立てた短髪がトレードマーク。痩身のわりに筋肉質ないわゆる細マッチョで、女の子にそこそこモテる。
そのわりに、色恋沙汰はまったく聞かない。女に興味がないのだろうか?
「いつからそこにいたのよ」
「いま来たばっかだっつーの。お前の背後霊かなんかでもあるまいし」
不満げに鼻を鳴らし、向かい側の席にどっかりと俊介が腰を下ろした。都合、七杯めとなるコーラを注文する彼に、なぜか私が罪悪感を覚える。
「なんかあったのか?」
片手で器用にスマホを弄りながら、そう聞いてくる。心配している口ぶりながら、視線はまったくこちらに向かない。
「別に」
「そうか。あったのか」
「何もないって言ってるのに」
画面から外れた目がこちらに向いた。
「あのなあ。なんにもない人間が、そんな不機嫌そうな声なんて出すか。それに、そのコーラだって六杯めだろ」
「ちょっと……! どうして六杯めだと知っているのよ。いまさっき来たばかりじゃなかったの!?」
辻褄が合わないと問い返すと、「あちゃー」と俊介が天を仰いだ。
「見え透いた嘘なんかついて……。で? いつから見ていたのよ?」
「自分の勝手な都合で縁を切りたがる男なんて、やめといたほうがいいよ」
「言われなくてもわかってるよ。悪いのは、浮気をしたアイツなんだし。それに、むしろ清々しているかも。これで、ゆっくり小説を書く時間が取れるし」
文章を書くことが、幼ない頃から好きだった。読書は、まあ――いきなり小説から読むはずもないし最初は童話とか絵本だったが――好きだったし、誰かに見せるわけでもない物語を、頭の中でつらつらと思い描いている人間だった。悪い言い方をすると中二病。あるいはネクラ。良い言い方をするとクリエイティブ。そういう感じの、目立たない女の子が私だった。クリエイティブ、なんて言われたことは一度もないが。
趣味がインドアだからして、愛想がいい性格でもないし尽くすタイプでもない。恋そのものはしてみたい、と思うが、思うだけだ。浮気をされても動じていないこの感情をろ過してみても、『恋』という名の欠片はたぶん出てこない。
うまくいっていないことはずっと前からわかっていた。原因は、間違いなく私にもあった。それがわかっているから、こうして苛々しているんだ。
「負け惜しみしているみたいに聞こえる」
「失礼だなあ……。そんなことないし。ほら、頭が切り替わったから、良いアイディアが降ってきた。実際、いま結構いい奴が書けてるんだよ」
間違いなく負け惜しみでしょ、と脳内にいるもう一人の自分が自分を嘲笑う。
「見透かされているんだよなあ……」
「何が?」
「あ、いや」
失恋をしたあの日から、私は本気で誰かを好きになったことがない。物語の中で恋を描き、それに憧れて、恋をしている自分を夢想しているだけにすぎない。好きでもないのにどうにかして好きになろうと藻掻いている様とか、踏み込んでいけない傍観者のような振る舞いを、きっとアイツにも見透かされていた。
わかってはいるが――どうしたら本物の恋が手に入るのか。そもそも、私は恋ができるのか?
「で? 今書いているのって恋愛小説でしょ? 恋愛体験がなくなって、執筆の手が止まっちまうんじゃないの?」
「そんなことはありません。私、想像だけで十分書けますから」
趣味が高じて、私が所属しているのは文芸部だ。妄想して物語を綴るのだってお手の物。自慢するようなことでもないけれど。
こっちはそこそこ自慢なのだが、昔から比較的男子にモテた。整った目鼻立ちと、背が低いながらもメリハリのある体型が主因だ。しかし、趣味が小説執筆と地味なのと、元来明るい性格でもないので付き合った男は二人だけ。しかも、両方に振られて終わるという体たらく――なのだか。
「どれ? 読ませてみてよ」
「どうしてあんたなんかに」
「読解力なら、俺のほうが上じゃん? 気になるところがあったら、批評してあげるよ」
「なにその上から目線……。ムカつくなあ」
書きかけの原稿を表示して、タブレットを俊介に差し出した。「どれどれ」と受け取って彼が文字を目で追い始める。上から下へ。瞳が素早く動く。
速読術と彼が自称するそれは、読視野が広く、一度に多数の情報を脳に取り込めるのだとか。もっとも、速いだけでは決してない。物語の要点を、正確無比に読み取るのだ。
この点においては、創作者としてかなりの才覚を秘めている彼だが、唯一にして最大の欠点がある。それは――
「うん。なかなかいいね。特に書き出しの一文が強く、そこから作品のテーマを見せるまでも迅速で、読者の気持ちを早いうちから掴んでくる。けれど」
「けれど……?」
ごくりと、生唾を飲んだ。
そこから始まったダメ出しのオンパレードは、実に耳に痛い言葉だらけで。自分でも納得のいく指摘なだけに、何一つとして言い返すことができない。
「な、なら! あんたが書いてみなさいよ!」
ようやくした反撃も、ふん、と鼻で笑われ一蹴された。
「俺にこんな文章が書けるわけないだろ。それはお姉も知っているはず」
そう。コイツは、致命的に文章力がないのだ。そこだけは、間違いなく私が勝っているのだが。
※
時の流れとともに、彼のことをどれだけ好きだったのかと次第に気がつき、彼に想いを伝えられなかったことをこれでもかと悔いて、けれど、心の傷はやがて瘡蓋となって、中学生に進学した頃にはすっかりと忘れた。小学生の初恋なんて、まあそんなものだ。
高二の夏。
高校二年生という時期は、色々な意味で宙ぶらりんだ。一学期の半ばほどなのだからことさらで、先々の進路を考えるにはまだ早く、かといって、ゆるりと遊び惚けるのもそれはそれで無計画すぎるという時期。宙ぶらりんな時期だから、私の気持ちもどこか宙ぶらりんで。惰性で過ごしている毎日だった。
そんなわけで、この日も私は上の空で、これまた惰性で付き合っていた彼からの告白も、馬耳東風に聞き流していた。喫茶店の窓越しに響く、そぼ降る雨音と一緒に。
「え、いまなんて?」
梅雨入りしたのは先週の話。連日の雨で客足は鈍く、この日、私と彼の他に客はほぼいなかった。穏やかに流れていたクラシック音楽に浸っていた私の心は、「いや、だから」と続いた彼の声で、一気にアンダンテからアレグロにテンポを変えるのだった。
「小百合。悪いんだけど、今日限りで俺と別れてくれないか?」
「え、どうして?」
どうして、という質問も我ながら滑稽だと思う。理由を知ったら結末が変わるのか?
「他に好きな女ができたんだ」
ああ、なるほど、と即座に腹落ちした。
この間の彼の誕生日。一緒に祝うため約束を取り付けようとしたのに、用事があるからと断られた理由がそれかと。二人とも大好きだった恋愛小説が今夏実写映画化されるというのに、チケット取ろうか? という提案に彼が乗り気じゃなかったのもそれなのかと。相手は誰だろう? と一時思うが、失恋のショックがたいして大きくない自分を見つめ、喉元でつかえた疑問をそっと飲み干した。
「そっか……わかった。私に原因があったのかな?」
「いや……。浮気したんだから俺のほうが悪いんだろうけどさ、でも、でもさ」
「ん、なに?」
どうしてそんなに声が震えているの、と顔を上げると、真っ赤な顔を彼がしていた。
「なんで、そんなにさっぱりとした顔で言えるんだよ? 引き留めようとか思わないのかよ? 悔しいとか、そういった感情はないのかよ?」
「あー、うん」
別れたくない、と喚き散らすのが、一般的なオンナノコの反応なのか? 嫌だな、という感情がないわけでもないが、演技するのも違うしな。そもそも、そこまでするメリットが私にあるの? と思考が堂々巡りをするうち、「そういうところなんだよ!」と吐き捨てて、彼は店を飛び出していった。
追いかける気には、やっぱりなれなかった。
自棄酒というのは聞いたことがある。もちろんお酒なんて飲んだこともないので、今飲んでいるこれは差し詰め自棄コーラ、といったところか。
「コーラもう一つください」
通りがかりのウェイトレスに注文すると、さっきまでの定型スマイルはどこへやら。ギョっとした顔を向けられた。なんだか失礼。まだ六杯めだと思うのだが。
「体に悪いぞ」
脳内で呪詛を呟いていると、抑揚のない声が突然して背筋が伸びる。声、上からしたな、と顔を上げると、腰に手を当て私を見下ろしている男子高校生がいた。
紀平俊介十六歳。私の同い年の弟である。スパイキーヘアという逆立てた短髪がトレードマーク。痩身のわりに筋肉質ないわゆる細マッチョで、女の子にそこそこモテる。
そのわりに、色恋沙汰はまったく聞かない。女に興味がないのだろうか?
「いつからそこにいたのよ」
「いま来たばっかだっつーの。お前の背後霊かなんかでもあるまいし」
不満げに鼻を鳴らし、向かい側の席にどっかりと俊介が腰を下ろした。都合、七杯めとなるコーラを注文する彼に、なぜか私が罪悪感を覚える。
「なんかあったのか?」
片手で器用にスマホを弄りながら、そう聞いてくる。心配している口ぶりながら、視線はまったくこちらに向かない。
「別に」
「そうか。あったのか」
「何もないって言ってるのに」
画面から外れた目がこちらに向いた。
「あのなあ。なんにもない人間が、そんな不機嫌そうな声なんて出すか。それに、そのコーラだって六杯めだろ」
「ちょっと……! どうして六杯めだと知っているのよ。いまさっき来たばかりじゃなかったの!?」
辻褄が合わないと問い返すと、「あちゃー」と俊介が天を仰いだ。
「見え透いた嘘なんかついて……。で? いつから見ていたのよ?」
「自分の勝手な都合で縁を切りたがる男なんて、やめといたほうがいいよ」
「言われなくてもわかってるよ。悪いのは、浮気をしたアイツなんだし。それに、むしろ清々しているかも。これで、ゆっくり小説を書く時間が取れるし」
文章を書くことが、幼ない頃から好きだった。読書は、まあ――いきなり小説から読むはずもないし最初は童話とか絵本だったが――好きだったし、誰かに見せるわけでもない物語を、頭の中でつらつらと思い描いている人間だった。悪い言い方をすると中二病。あるいはネクラ。良い言い方をするとクリエイティブ。そういう感じの、目立たない女の子が私だった。クリエイティブ、なんて言われたことは一度もないが。
趣味がインドアだからして、愛想がいい性格でもないし尽くすタイプでもない。恋そのものはしてみたい、と思うが、思うだけだ。浮気をされても動じていないこの感情をろ過してみても、『恋』という名の欠片はたぶん出てこない。
うまくいっていないことはずっと前からわかっていた。原因は、間違いなく私にもあった。それがわかっているから、こうして苛々しているんだ。
「負け惜しみしているみたいに聞こえる」
「失礼だなあ……。そんなことないし。ほら、頭が切り替わったから、良いアイディアが降ってきた。実際、いま結構いい奴が書けてるんだよ」
間違いなく負け惜しみでしょ、と脳内にいるもう一人の自分が自分を嘲笑う。
「見透かされているんだよなあ……」
「何が?」
「あ、いや」
失恋をしたあの日から、私は本気で誰かを好きになったことがない。物語の中で恋を描き、それに憧れて、恋をしている自分を夢想しているだけにすぎない。好きでもないのにどうにかして好きになろうと藻掻いている様とか、踏み込んでいけない傍観者のような振る舞いを、きっとアイツにも見透かされていた。
わかってはいるが――どうしたら本物の恋が手に入るのか。そもそも、私は恋ができるのか?
「で? 今書いているのって恋愛小説でしょ? 恋愛体験がなくなって、執筆の手が止まっちまうんじゃないの?」
「そんなことはありません。私、想像だけで十分書けますから」
趣味が高じて、私が所属しているのは文芸部だ。妄想して物語を綴るのだってお手の物。自慢するようなことでもないけれど。
こっちはそこそこ自慢なのだが、昔から比較的男子にモテた。整った目鼻立ちと、背が低いながらもメリハリのある体型が主因だ。しかし、趣味が小説執筆と地味なのと、元来明るい性格でもないので付き合った男は二人だけ。しかも、両方に振られて終わるという体たらく――なのだか。
「どれ? 読ませてみてよ」
「どうしてあんたなんかに」
「読解力なら、俺のほうが上じゃん? 気になるところがあったら、批評してあげるよ」
「なにその上から目線……。ムカつくなあ」
書きかけの原稿を表示して、タブレットを俊介に差し出した。「どれどれ」と受け取って彼が文字を目で追い始める。上から下へ。瞳が素早く動く。
速読術と彼が自称するそれは、読視野が広く、一度に多数の情報を脳に取り込めるのだとか。もっとも、速いだけでは決してない。物語の要点を、正確無比に読み取るのだ。
この点においては、創作者としてかなりの才覚を秘めている彼だが、唯一にして最大の欠点がある。それは――
「うん。なかなかいいね。特に書き出しの一文が強く、そこから作品のテーマを見せるまでも迅速で、読者の気持ちを早いうちから掴んでくる。けれど」
「けれど……?」
ごくりと、生唾を飲んだ。
そこから始まったダメ出しのオンパレードは、実に耳に痛い言葉だらけで。自分でも納得のいく指摘なだけに、何一つとして言い返すことができない。
「な、なら! あんたが書いてみなさいよ!」
ようやくした反撃も、ふん、と鼻で笑われ一蹴された。
「俺にこんな文章が書けるわけないだろ。それはお姉も知っているはず」
そう。コイツは、致命的に文章力がないのだ。そこだけは、間違いなく私が勝っているのだが。
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