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作者: NO SOUL?
残酷な描写あり R-15
9.― JIU WEI ―
9.― JIU WEI ―
 秋風に運ばれる空気は、日増しに冷たくなっていく。マンションの吹き曝しな屋上では肌寒いぐらいだった。日本に来た時はまだ、蒸し暑い日もあったのに。四季の変わり目を感じる。
 CrackerImpからの連絡は一週間以上なかった。彩子さんも忍者の行方を追ってくれている。私に出来る事は今のところ、何もなかった。

「暇だな……」

 言葉が漏れる。今は待つしかないのだ、今の私に出来る事は、来るべき時に備えて意識を高めておく。――サイキックの意識を。
 空き缶を念動力で潰して丸めた球体を九つ、まず八つを動かす。滑らかにゆっくりと自分の周りを時計回りに。
 九つ目に手を伸ばす感覚で、九つ目の球体が浮かび上がり、他の球体と合流させる。私の感覚では、念動力は目に見えない九本の手だ。
 まだ家族で暮らしていた頃、自分の力の参考になればと思い、世界中のサイキック達が、力を使う際の感覚を纏めたレポート読んだ事がある。
 ある者は、一つしか動かせないが、その物体の質感と質量を正しく把握していれば何でも動かす事が出来る。私と同じ重さを感じるが、手に平に収まるサイズの物なら、単純な動きで数十個同時に動かせる者。
 睨み付けた物体に“燃えろ”と念じ続けて、実際に炎を生み出せる者もいれば、強い感情を抱き、発声や呼吸方によって衝撃波を放つ者もいるそうだ。
 その数々の感覚の中には共感できる部分もあるが、同じものはない。やはり私は“手と腕”を感じる。それは、人間の腕や手よりもか細くて長い、おぞましい妖怪の手。そんなイメージだった。
 九つの球体を限界まで自分の立っている場所から離す。この時も掴んである球体を、腕を伸ばして遠くへ運ぶ感覚だった。そして伸ばせば伸ばす程、物体の重さを感じる。五メートルぐらいでかなり辛くなってきた。
 九つの球体を傍へ戻し、今度は反時計回りに高速回転させる。タイミングと角度をずらして、九本の腕が球体を荒々しく振り回す。
 でも、ここまでは何時もと変わらない。こんな事は何年も前からやり続けている事だった。足元に転がるもう一つの球体を見つめる。回転させてた九つの球体を静止して浮かべておく。
 何を期待しているのか。あと一つ、動かせないものだろうかと、何年経っても諦めがつかない。何故、私には九つと言う決まりなのだろうか。
 これは生まれ持ったもので、そう言う物なのだと、諦めてみたり。いや、意外に出来るかもしれない。これを数年おきに繰り返している。
 足元の球体を自分の手で掴む。何時もの気まぐれなんかじゃない。今は本当に望んでいる。――もっと強くなりたい。
 高があと一つ、物体を動かせたとして、あの忍者に勝てるとは限らないし、今後の戦いでどこまで役に立つのかなんて分からないが、私は今、かつてない位に自分の力を高めたいと願っていた。
 しかし、そんな簡単な事じゃない。手にした球体を動かしたいと強く念じ続けていると、無意識に浮かしている球体の一つが解かれてしまい、地面に転がり落ちてしまう。やはり限界なのか。
 それでも、何故か諦めがつかなかった。それは強くなりたいと言う焦りから来るものとは違う、漠然とした予感の様なもので、今まで感じた事のない感覚だ。私は確かに――変化しつつある。
 しかし、その変化を知るのは、今日ではないようだ。全ての球体を一ヶ所に集めて、念動力を解除した。手に持っていた球体もそこへ置く。
 陽がが落ちるのも早くなってきたな。屋上から見える新旧様々な高層ビルは逆光で真っ黒に染まっていた。
 母は自分自身の持つ力と、どう向き合っていたのだろうか。弟のジャラもサイキックの兆候がある事は、母から聞いていた。ジャラがどんな能力を持っていたのかを知らない。
 母も私も同じ、物体を操れる念動力だったが、完全に同じではなかった。例のレポートには遺伝する様に同じ能力を持つ以外にも、全く違う能力を持つ者が生まれる事例も多く存在していると記されていたが。サイキックの事に関してはお手本なる者がいないので全てが手探りなのがもどかしい。知らない事ばかりで気が滅入る。
 今日も何も得られずに終わってしまうのか。そんな白けた気分に陥っていると、携帯端末から通知のアラームが鳴る。彩子さんからのメールだった。今夜は帰れそうにないと言う内容のメール。何時もの事だ。
 癪だな、もやもやしたまま今日を消化するのは。





 気晴らしになればと思い、出掛けてはみたが結局、此処へ吸い寄せられてしまう。重々しい門前から溢れでるネオンの光。また輝紫桜町に来てしまった。
 彩子さんに対して反抗心がある訳じゃない。やはりこの雰囲気が何処か、身体に馴染んでいる様な気がするのだ。叔父と過ごした香港の歓楽街の日々。
 門を潜り、輝紫桜町へ入る。そのまま、自然と右側の路地を見てしまう。ポルノデーモンはいなかった。尤も、いたところで、何がどうとなるものでもないだろうけど。ただ、もう一度会えるなら、改めて非礼を謝りたいと言う思いはあった。
 彩子さんの話では、今の輝紫桜町はヤクザ系の組織間でのいざこざが目立ち始めきて、警察も警戒態勢を取っているそうだ。以前と違い、警察の警備ドローンやオートマタが目に入る。
 まだ二十時を過ぎたぐらいなのに、歩道も車道も人で溢れている。行き交う人々の顔は、アルコールとネオンの明かりで赤みがかっていた。飲み屋や風俗店のキャッチがうろうろと巡回して人々を捕まえ、店の制服を纏ったスタッフが人混みを避けながら忙しなく走っている。
 そして、その喧騒を横目で鋭く達観する連中がちらほらいる。街に来る者と――街に住む者を明白に分けていた。
 やっぱり、よく似ている。叔父と暮らしていたあの街と。住んでいた古いマンション歓楽街の一角。うらぶれた食堂で食べる晩御飯が大好きだった。食べ終わる頃には、叔父は何時も酔っぱらっていたっけ。帰って後で介抱してやるのもワンセットで楽しい思い出となっていた。
 漆黒の九尾の狐となって、街を駆け抜けた。弱い自分じゃない、畏れられる自分になれる一時、ロクでもない連中を蹴散らす優越感。ちっぽけな満足感だ。
 派手な表通りから、左にある小さな通りに曲がってみと、小さな飲食店が雑多に密集していた。通りにガタガタになったテーブルを置いて、酒盛りをしている連中がいる。
 漂ってくる香辛料の香りは古今東西で、どこか懐かしさを感じる。こう言う雰囲気も、よく似ているな。
 飛び交っている言葉も様々で、日本語ではないものが沢山耳に入ってくる。この街は移民も多いらしい。
 後頭部から響く、やたらと野太く低いオートバイのエンジン音が迫って来た。
 車やバイクが通る道にしては、この通りは狭い。しかし、そんな事などお構いなしに、黒いバイクが迫って来て、私の元を過ぎて行くと、今度は進路を塞ぐように止まった。またトラブルになのだろうか。身体が強張る。
 バイクに乗っている男はエンジンを止めた。フルフェイスのヘルメットは、シールドもスモークで表情は一切見えないが、私を見ている事だけは確かだった。
 男はストラップを外してヘルメットを脱いだ。まさかとは思ったが、予感は的中した。――ポルノデーモン。
 髪を掻き上げてバイクを下りると、私の方へ近づいて来た。無表情で感情は読めない。会うのは数週間振りだが、以前よりも少しやつれている様な感じがした。身体にフィットしたレザージャケットのせいもあるが、細く華奢なラインをより際立たせ、目元には明らかな疲労が出ていた。
 話ができる距離まで来た。何か話すべきか、それを考える間もなくポルノデーモンは中指でピンッと私の鼻を弾いてきた。驚くよりも先に、じわりと伝わってきた痛みに、思わず両手で鼻を抑えた。

「ったく、夜は危ないから来るなっていったろ。話聞いてんの? それとも、頭と耳に、綿でも詰めてんの?」

 無表情ではなく、ポルノデーモンは呆れ返っていた様だ。指摘された事については、返す言葉もない。

「そんなに、この街に興味があるの? 物好きなヤツ……」

「どうして、私だって分かったの?」

 ポルノデーモンは私の事を睨みつつも、上の方に視線を移していた。それから間もなく何かがヒュッと横切った。
 飛行型の少し大きなドローンが、ポルノデーモンの隣で静止してゆらゆら浮いている。彼の私物の様だが、幾つものカメラやセンサーを搭載した物々しい雰囲気のドローンは、趣味の域を超えている様に思えるが。

「別に、見覚えのある綺麗な後ろ髪が見えたから。それに此処は俺の街だぜ。大体の事は……把握してる」

 浮いているドローンを鷲掴みすると、控え目なプロペラの駆動音が収まり、真っ赤にギラ付いていたセンサーの光も消える。まさか、あのドローンの映像に私が捉えられ、見つけたとでも言うのか。数百人と捉えるであろう人の中から私を。
 バイクのサイドバックを開いて、ドローンから長方形の部品を外してサイドバックへ入れると、スペアの部品をドローンへ装着させた。バッテリーの様だ。

「まさかとは思うけど、此処で働こうなんて考えてる訳じゃないよね?」

「そ、そんなワケ!」

「なら、この街に何をお求めで? 遊んであげもいいけど、俺は高いよ」

 バッテリーを交換したドローンを放り投げると、ドローンは瞬時に姿勢を修正して空高く飛び立って言った。
 この街に私が引き寄せられる理由は、どことなく懐かしさを感じると言う理由だけだ。本来なら、ロクでもない連中にも、男娼にも関わりたくはなかった。独りにして欲しいだけなのに。
 それにも拘らず、この男は今、色目とそれらしい仕草で未成年の、それも女の私に自分を買わないか、と提案してくるなんて、優しいところはあるが、モラルが欠如している。

「貴方、本当に女性ともするの?」

「何か問題でも?」

 ポルノデーモンは不快そうな表情をしながら、閉じていたレザージャケットの前を開けた。清潔感のある白いシャツ、広めのUネックから鎖骨を見せ付けている。
 そう言えば、最初に会った時に比べると、今日の服装は普通に男性的なものに感じる。あの露出の高い派手な格好は所謂、仕事用なのだろうか。

「だって、その……ゲイなのに」

 私が発した言葉と同時に、ポルノデーモンが再び近づいてきた。
 しまった、また。と思った時には、再び中指で鼻先を弾かれてしまった。今度は強めだ。収まってきてた痛みが増していき、苛付きを覚える。 

「俺が何時、ゲイです。ってアンタにカミングアウトした? 勝手に決めるな」

 私の鼻を弾いた中指を突き立てながら、ポルノデーモンが言った。すぐに言い返したいが、鼻にじわじわと滞留する痛みを抑えるのに、今は手一杯だった。

「なら、貴方はなんなの?」

「それを教えてやるほど、信用しちゃいないよ。俺は俺だよ」

 どうにか、話す事ができたが、その“俺”と言う者がよく分からないから、訪ねているのに。
 それすらも失礼に当たったと言うのだろうか。

「アンタから見れば、同性愛者なんてゲイかレズビアンの二択なんだろうね……でも、お生憎様、人間の心は複雑だよ。上っ面の情報で迂闊に口出しするのは馬鹿のやる事さ……」

 ポルノデーモンは煙草を取り出し、火を着けようとしてるが、ライターからは中々火が出ず、手こずっていた。
 彼の言う二択と複雑と言う言葉に、私は興味をそそられていた。

「どう言う意味?」

「お前はガキだって意味だよ」

 ライターからやっと出た小さな炎で、煙草に火を着けて、ポルノデーモンは吐き捨てる様に言った。以前も感じていたが、彼の煙草の煙はどこか柑橘類の様な変わった匂いも含まれていた。
 どうしたら、上手く話せるのだろうか。彼を傷付けるつもりはなくても、迂闊な言葉が漏れてしまう。すっかり謝るタイミングを失ってしまった。息苦しい沈黙が続く。

「ほら、付いて来な……」

 呆れはてた様な深い溜息を一つして、ポルノデーモンは踵を返した。バイクのハンドルに小さなドローンを置き、バイクのタイヤには、ガチャガチャと金属の固定具が独りでに駆動して、防犯ロックがかかった。

「気晴らしに来たんだろ? そんな顔してるぜ。気晴らし出来るとこ連れて行ってやるよ。それとも俺が怖いかい? 未成年さん」

 バイクのハンドル周りを小刻みに動く、スズメバチの様な形をしたドローンの赤い一つ目と目が合う。何も言わず、歩き出す彼の後を私も付いて行く。
 特に会話もなく、黙々と路地を歩く。左右の飲食店はどこも混み合って賑やかだった。建物にくっ付く赤錆びた立て看板も、ネオンの明かりで鮮やかに誤魔化されている。
 路上ではのんびりとシーシャを吸う人達が、怪訝そうに私達を見ていた。立ち込める煙を払い、ふとポルノデーモンの横顔が目に入った。
 無表情さが際立たせる、冷め切った目であっても、独特の色気の様なものを放っていた。軽口で不敵に挑発する時の雰囲気とは、また違う。
 意図して作られたものか、無意識の雰囲気なのか、何にしても人を引き付ける存在感があった。
 何処へ連れていかれるのか、検討もつかないが、ただ歩くだけのこの時間は、謝罪を切り出すなら良いタイミングかもしれなかった。

「あの……貴方に会えたなら、ちゃんと謝ろうと思っていたのに……また失礼な事を言ってしまって。ごめんなさい」

 私の目を物言わず見下ろすポルノデーモンと見つめ合う。その冷ややかながらも鋭い視線が、氷柱の様になって胸に突き刺さった気がした。

「そんなに変? 同性とセックスしたり愛したりするの?」

「変と言うかその……」

 改めて思う。何故、私はこの事について違和感や嫌悪に近いものを感じるのか。それが分からないから彼との接し方に困惑している事に。

「変だって感じるのはお前の考え? それとも誰かさんの入れ知恵?」

 彼の言う“入れ知恵”と言うのは世間一般の認識や、所謂、多数派の価値観の事を指しているのだろう。私が今日まで生きてきた中で積み重ねて来た認識が染み付いているから、彼の理屈に対して反発しようとしているのか。
 否定するまでに至っていないが、結局のところ同じだ。私の謝罪は軽くて――無知を晒していた。

「仮に素敵な同性が必死に気持ちを伝えてきた時、そのつまらない理屈だけで拒むの?」

 不意に彩子さんの姿が脳裏を過った。素敵な女性と言って思い浮かぶのは彼女しかいないが、想定した事もない話だ。問いかける彼の目から逃れる事が出来ない。かと言って答える事も出来ずに息が詰まりそうだった。

「性別によって色々違いはあるけど、心は大して変わらないよ。俺にはその程度の事で隔たりを持つ方が変だと思うけどね……」

 単純な様で複雑に思える。私が自分の当たり前を彼に突き付けて来た様に、彼の突き付ける当たり前が突き刺さる。腑に落ちるものはあるけど、心の何処かで受け入れられないものもある。
 確かな事は、私自身が何も分かっていない未熟な人間であると言う事だった。周囲の当たり前を疑いもせず、考える事もないまま時を過ごしていた。
 それはきっと悪ではないが――毒である事は確かだった。

「ま、俺は普通とか普通じゃないとか、考えたり、知る間もなかったけど……そうこうしてる間に、収まりの良いところに収まったってだけなのかもね……」

 ポルノデーモンは立ち止まって、最後の根本まで吸い切った煙草を足元に捨ててブーツで潰した。

「着いたよ、先に行きなよ」

 目の前には高さ五メートル程の、狭くもなく広くもない、レンガ造りのトンネルがあった。いやに自慢げな笑みを浮かべているが、このトンネルの先に何があるのだろうか。それほど距離はないトンネルだった。向こう側が開けているのも分かる。トンネルの中はイミテーションのランプが左右交互に吊るされ、ガラスの中のライトは揺らめく炎の動きを演出していた。
 トンネルを抜けて、視界一杯に広がったのは、大きな広場だった。真っ白な石畳が一面に広がり、その中央には二十メートルを超えていそうな大樹が聳えていた。
 大樹は季節的な事もあり、葉もほとんど落ちていて、薄いピンク色のイルミネーションで飾り付けられ輝いていた。
 とても立派で大きな広場だが、人はまばらで、私達を含めて十数人程度しかいなかった。それまで見て来た、雑多で猥雑な輝紫桜町の雰囲気は微塵もなく、正に別世界だった。

「とても、静かな場所……」

 思わず言葉が漏れた。そう、さっきまでの歓楽街の喧騒がここでは全くと言って程、なかった。不自然なまでの静寂に包まれている。聞こえるものと言えば、あの大樹の傍にある噴水の涼しげな音ぐらいだった。

「上を見てみな」

 ポルノデーモンに言われるまま、視線を上に移すと、パッと見た限りではわかり辛いが、この広場を覆う様に囲む建物と建物から、無数のワイヤーの様な物が張り巡らされていた。

「あのヒモみたいなのから、外から来る音と相反する周波数の音波が出てる。それが外の音とぶつかって相殺されて無音になるんだ。広場を囲む建物の壁にマイクを仕込んで、外から取り込んだ音はAIが絶えず予測しながら、あらゆる周波数に対応する。ちょっと凄いノイズキャンセラーさ」

 まるで自分が作ったかの様に得意げに、饒舌に話していた。さっきのドローンといい、この手の物が好きなのだろうか。今までのイメージとは違う一面だな。

「この桜は町興しの一環で遺伝子改良された品種なんだ。輝紫桜町の名前に合わせて紫の花が咲く様にね」

 ポルノデーモンはプラスチックのカップに入ったジュースと瓶ビールを持ってきた。カップに入ったジュースを私に渡し、この桜の大樹について話してくれた。広場の端にはリアカー式の小さな出店で買ってきたのだろう。
 瓶ビールの栓に歯をかけて栓を開けた。叔父もよく歯で栓を開けていたっけ。そう言うところに男性らしさを感じてしまう。

「紫色の桜が咲くの?」

「最初の二、三年は咲いてたらしいけどね。結局、普通の桜の色に戻った。数年に一回、紫が咲く事もあるらしいけど」

 紫色の桜の花びらか。桜らしさを感じられない印象だが、興味が沸いてくる。この大きく広がった枝から、この大樹が紫色一色に染まる光景と言うのは。
 カップの中のジュースを口にする、絞りたての果汁が炭酸水で割られていて、口一杯に爽やかな甘味が広がった。

「見た事ある?」

「この街に十四年いるけど、一度も見た事ない。見たいとも思わない」

 ビールを飲みながら、何処か遠い目をして、ポルノデーモンは言った。
 まるでイルミネーションの桜に、自身の十四年を重ねている様な、その暗紫色の目は、そんな目をしていた。
 口元は穏やかでも、やはり目は本心を表す。その目はこの街に対する愛着と、憎悪が入り混じった様な混沌とした感情。

「桜が咲く頃に、この街に住む人達だけのお祭りやイベントもこの広場でやる。何処にも行き場のない、はぐれ者達を祝福するお祭りさ。六月にはプライドフェスもやってカオスになる……」

 歓楽街で派手に遊ぶ為に来た者のであれば、此処は場違いな程に静かで穏やかな空間だ。街に住む人達の為の空間の様だ。

「ねぇ? 好きな色ってある?」

 ポルノデーモンは、唐突に私の手を引きながら訪ねてきた。急に手を握られた事と、意図の分からない質問に少したじろいでしまった。
 私の指にか細いけど強い大人の指が柔らかく絡まっていた。

「色? ブルーかな……」

 他にも好きな色はあるが、パッと思い付いたのは青だった。昔から弟の持ち物には青色が多く、私は決まって赤やピンクの物が多い事に不満があった事を不意に思い出した。

「桜を見てみな」

 ポルノデーモンは薄く笑みを浮かべて、視線を促す。振り返ると、それまで桜の花びらに似せた薄いピンク色のイルミネーションが、一面真っ青に輝いていた。
 淡い青から濃い青へ波打つ様に移り変わる桜の木に釘付けになる。

「綺麗……でも、どうやって?」

「それはヒミツ」

 何万色と色を変えられるイルミネーションライトなど、珍しい物でもないが、偶然とは思えない、ポルノデーモンが送ってくれたサプライズのトリックが少し気になった。
 偶然なんかではなく、間違いなくポルノデーモンが何かをしたのだ。一体どんな手を使ったのか。つくづく掴み所のない人だ。

「俺もブルーは大好きな色だよ、それとピンクとイエローも、これが今の俺の色。それを知るのに、随分と時間がかかった」

 桜の木は上からピンク、イエロー、ブルーの三色となり、色彩鮮やかに光輝いていた。
 何か意味のある組み合わせなのだろうか。この配色は単に好きな色、と言う訳ではなさそうだった――今の自分の色。

「LGBTQ+なんて、ただのガイドラインだけど、それのお陰で、俺は自分の事を少し許せる様になったんだ。この街は、売る者と買う者だけで成り立つ地獄だけど、人を見る目は“SOGIE”を共有してる。それがなんか、居心地が良い所もあってね……」

 今の私には、彼の言葉を黙って聞く事ぐらいしかできなかった。知らない言葉に知らない価値観。それらが蓄積されて生み出された答え。
 否定や肯定はおろか、理解すらできてない。ただ、そこには自分自身に向き合う強い者がいる。それを思い知る事ぐらいしかできなかった。
 そんな事を考えていると、不意にポルノデーモンの人差し指と親指が、私の鼻先に優しく触れた。薄い笑みと何処か妖艶な目付きで。なんて――綺麗な人なんだ。
 無意識に、そう感じてしまった。

「鼻が赤くなってる」

「あ、貴方のせいでしょ」

 会った時に、二回弾かれた鼻先を今は優しく擦られている。それが堪らなく恥ずかしく思えて彼の指を払ってしまった。
 しかし、ポルノデーモンの手は止まらない。遠慮も躊躇もなく、髪や頬に指を這わせてくる。鼓動が激しく脈打ち、ゾクゾクとした刺激が全身を駆け巡る。

「真っ直ぐな心のお前を見てると、分かって欲しくてムキになっちゃってさ。俺の我儘かな?」

 真っ直ぐな心。私の心が彼には見えているのだろうか。その辺の他人、或いは私のこれまでに人生の中で、出会った事のない不思議な魅力と感性を持った人。
 まるで悪魔の様な暗紫色の左目と、前髪に少し隠れた、憂いに満ちた右目との距離が少し縮まっていた。頬から首筋に伝う、か細い指先の感触。
 人に触れると言う事に慣れているだけじゃなく、気持ちすらも手玉に取られている様な、表現しようのない耐え難い感覚に、これ以上は抗えなくなりそうだった。

「ありがと! お陰で良い気晴らしになった!」

 ポルノデーモンと無理やり距離を取り、残っていたジュースを一気飲み干した。
 彼を直視する事が出来ない。顔から火が出そうなくらい恥ずかしく、そして高鳴っている鼓動を必死に抑えていた。私には刺激が強過ぎる。

「それは何より……。俺も思いの外、良い気晴らしになったよ。最近、色々と手詰まりを感じていて焦ってたけど、前へ進むって気になれた」

 私の慌てふためく様は、彼にとって予想通りの姿。ポルノデーモンは、また何時もの不敵な笑みと、少し冷めた様な目付きに戻っていた。桜の大樹の色が徐々に通常の桜色に戻っていく。

「なんか食ってく? この先に、イケてるインド人がやってるケバブ屋があるぜ」

 ケバブは食べた事がなかったけど、食べ物の話を聞いて腹の虫が疼いて来た。
 此処で食事を済ませようか、もう少しだけ、ポルノデーモンと話がしてみたい。私の知らない沢山の話を聞いてみたかった。そして私の話も少しだけ話したかった。
 彩子さんには言えない気晴らしを、この大歓楽街で、もう少しだけ満喫しよう。
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