残酷な描写あり
第14回 絶望を知る 希望を悟る:5-2
「十回だか九回だかの人生を地上で送る間に、〈世界狼〉はある女に惚れたんだ。十回を通して一人だけなのか、十回の間に何人かいたのか、恋人や伴侶だけじゃなく友人や子供も含むのか、っつう細けえことは知らんが」
人間の十回分も生きていれば、そういう相手は何人かできそうだ。
「十回だか九回だかの人生を終えて元に戻ったとき、その女は天界が自分を懐柔するために送り込んだのかと考えて、〈世界狼〉は荒れた。だが、全然そんなことはなくて、その女は純粋に偶然出会っただけで——だから、死んだ後は普通に生まれ変わって、つまりもういないってことを知って、また荒れた」
胸が締めつけられるのをセディカは感じた。あの世にすらいない——とは、想像したことがなかった。
「それで天は〈世界狼〉に、地上で生まれ変わったその女をみつけたら、望むままにどんな加護でも祝福でも与えてやるって約束をしたんだと。……みつけてやるわけじゃねえところが狡ぃよな」
途方もない話だ。それとも、神獣には人間が思うより現実味のあることなのだろうか。広い広い世界で、たった一人を——もしくは何人かを、捜すとは。
「結局、〈慈愛天女〉の目論見通りになったわけさ。人間として生きる間に地上に思い入れができて、それが地上のどこにあるかはわからなくなって……おかげで、地上を滅ぼせなくなった。実質的に天も滅ぼせなくなった。天が滅びりゃ、地上だって堪ったもんじゃねえからな。そもそも地上を滅ぼしたくて大地を食ってたわけでもねえが」
体のいい人質だ、と狼は鼻で笑った。
「それから〈世界狼〉は、地上に見合った体で地上を巡っては、愛した女だか親友だか子供たちだかを捜してるんだと。みつけたところで、また死ぬからな。相手が一生を終えるまで添い遂げたら、またやり直しだ」
それを、続けるのだろうか。時の流れの中で、想いが薄れ、愛が褪せてはいくことはないのだろうか。出会うたびに、共に過ごすたびに、新たになっていくものだろうか?
「親父が言うにはな。俺も狼なら、天に逆らってでも戦うときが来るかもしれんし、天に媚びてでも守りたいものができるかもしれんとさ」
「それが、トシュのお父様にとってはトシュのお母様だったの?」
「さてな。あの夫婦のことはわからん」
「……トシュにとっては、ジョイド?」
短い沈黙を挟んで、トシュはほっと息を吐いた。
「どうしてそう思った」
「ジョイドがいないときに話すから」
なるほどな、と苦笑めいた呟きが返る。
「逆だと思うがなあ。あいつの方が、俺を狼嫌いなやつらから守ろうと必死だ」
狼の青年は一般論めかした。
「あいつは、妖怪の中でも上流の血を引いててな——力の強さとかいうより、身分的な意味でな。あいつの身内の中には、俺みたいなやつがあいつとつるむのが気に食わんっつうやつもいるわけさ」
人間と変わらん、と吐く。
「だから、俺はおまえみたいなやつは率先して助けることにしてんだ。あいつの身内がいちゃもんをつけてきたときに、実績で殴り返せるようにな」
それが天の神々を指すとは、無論、セディカは想像もしない。
「あいつのためだよ。あいつが胸を張って、俺を相棒だと言えるようにだ。それが親父の言う、天に媚びてでも守りたいってことかもしれんわ、確かに」
話すうちに開いていた目を、セディカは再び、そっと閉じた。
「いいな」
自分にそうした友はいなかった。
無論、誰かが自分にとってそうした友にならなかったということは、自分も誰かにとってそうした友にならなかったということだ。とはいえ、トシュとジョイドだって、努力だけで互いをみつけたとは思われない。最初の奇跡が、幸運が、あったに違いないのだ。
「おまえはまだ十三だろ。俺があいつに会ったのは十五、六のときだぜ」
憐れむでもたしなめるでもなく、そんな指摘が来た。
「十三のときは……。十二のときに初めて、親父の息子だってんで退治されかけてな」
「退治?」
はたと目を開けて、身を起こす。
「それで、十三のときは荒れてた。荒れた勢いで何かやらかしてたら、今度こそ本当に退治されてたかもしれん。そしたらジョイドには会うこともなかった」
狼はただ寝そべっていた。当時の怒りや恐れを蘇らせる風はなかった。
「そりゃ、誰にでもジョイドが現れるわけじゃねえが。真っ当に生きてりゃ、現れたときに堂々と手を取れるってわけだ」
こちらを向かない頭の後ろをしばしみつめてから、少女は再び毛皮の中に上半身を投げ出した。
「いい話だったわ」
社交辞令ではなかった。口元は自然と綻んでいたし、目を瞑って耳を塞いで全てを遮断したいような気持ちはいつの間にか去っていた。
どんなに恐ろしい人間がいようとも、どんなに残酷な人間がいようとも。同じこの世にトシュとジョイドもいて、——しかも、今、セディカはその庇護の下にある。
打ちのめされる必要など、ない。
「……嫌いだなんて言ってごめんなさい」
「あん? ……ああ、三味のことは悪かったよ」
嫌いだと喚いたのはその一回だけではなかったはずだけれども、トシュはそのときに限定した。
「虎どのに直接気に入られれば有利になると思ったんだけどなあ。そうそう魂胆通りにゃいかねえな」
あれも自分のためだったかと、少女は苦笑した。今さらそんな種明かしをしてくるなんて——嫌いだとは言わないけれど、狡い。
人間の十回分も生きていれば、そういう相手は何人かできそうだ。
「十回だか九回だかの人生を終えて元に戻ったとき、その女は天界が自分を懐柔するために送り込んだのかと考えて、〈世界狼〉は荒れた。だが、全然そんなことはなくて、その女は純粋に偶然出会っただけで——だから、死んだ後は普通に生まれ変わって、つまりもういないってことを知って、また荒れた」
胸が締めつけられるのをセディカは感じた。あの世にすらいない——とは、想像したことがなかった。
「それで天は〈世界狼〉に、地上で生まれ変わったその女をみつけたら、望むままにどんな加護でも祝福でも与えてやるって約束をしたんだと。……みつけてやるわけじゃねえところが狡ぃよな」
途方もない話だ。それとも、神獣には人間が思うより現実味のあることなのだろうか。広い広い世界で、たった一人を——もしくは何人かを、捜すとは。
「結局、〈慈愛天女〉の目論見通りになったわけさ。人間として生きる間に地上に思い入れができて、それが地上のどこにあるかはわからなくなって……おかげで、地上を滅ぼせなくなった。実質的に天も滅ぼせなくなった。天が滅びりゃ、地上だって堪ったもんじゃねえからな。そもそも地上を滅ぼしたくて大地を食ってたわけでもねえが」
体のいい人質だ、と狼は鼻で笑った。
「それから〈世界狼〉は、地上に見合った体で地上を巡っては、愛した女だか親友だか子供たちだかを捜してるんだと。みつけたところで、また死ぬからな。相手が一生を終えるまで添い遂げたら、またやり直しだ」
それを、続けるのだろうか。時の流れの中で、想いが薄れ、愛が褪せてはいくことはないのだろうか。出会うたびに、共に過ごすたびに、新たになっていくものだろうか?
「親父が言うにはな。俺も狼なら、天に逆らってでも戦うときが来るかもしれんし、天に媚びてでも守りたいものができるかもしれんとさ」
「それが、トシュのお父様にとってはトシュのお母様だったの?」
「さてな。あの夫婦のことはわからん」
「……トシュにとっては、ジョイド?」
短い沈黙を挟んで、トシュはほっと息を吐いた。
「どうしてそう思った」
「ジョイドがいないときに話すから」
なるほどな、と苦笑めいた呟きが返る。
「逆だと思うがなあ。あいつの方が、俺を狼嫌いなやつらから守ろうと必死だ」
狼の青年は一般論めかした。
「あいつは、妖怪の中でも上流の血を引いててな——力の強さとかいうより、身分的な意味でな。あいつの身内の中には、俺みたいなやつがあいつとつるむのが気に食わんっつうやつもいるわけさ」
人間と変わらん、と吐く。
「だから、俺はおまえみたいなやつは率先して助けることにしてんだ。あいつの身内がいちゃもんをつけてきたときに、実績で殴り返せるようにな」
それが天の神々を指すとは、無論、セディカは想像もしない。
「あいつのためだよ。あいつが胸を張って、俺を相棒だと言えるようにだ。それが親父の言う、天に媚びてでも守りたいってことかもしれんわ、確かに」
話すうちに開いていた目を、セディカは再び、そっと閉じた。
「いいな」
自分にそうした友はいなかった。
無論、誰かが自分にとってそうした友にならなかったということは、自分も誰かにとってそうした友にならなかったということだ。とはいえ、トシュとジョイドだって、努力だけで互いをみつけたとは思われない。最初の奇跡が、幸運が、あったに違いないのだ。
「おまえはまだ十三だろ。俺があいつに会ったのは十五、六のときだぜ」
憐れむでもたしなめるでもなく、そんな指摘が来た。
「十三のときは……。十二のときに初めて、親父の息子だってんで退治されかけてな」
「退治?」
はたと目を開けて、身を起こす。
「それで、十三のときは荒れてた。荒れた勢いで何かやらかしてたら、今度こそ本当に退治されてたかもしれん。そしたらジョイドには会うこともなかった」
狼はただ寝そべっていた。当時の怒りや恐れを蘇らせる風はなかった。
「そりゃ、誰にでもジョイドが現れるわけじゃねえが。真っ当に生きてりゃ、現れたときに堂々と手を取れるってわけだ」
こちらを向かない頭の後ろをしばしみつめてから、少女は再び毛皮の中に上半身を投げ出した。
「いい話だったわ」
社交辞令ではなかった。口元は自然と綻んでいたし、目を瞑って耳を塞いで全てを遮断したいような気持ちはいつの間にか去っていた。
どんなに恐ろしい人間がいようとも、どんなに残酷な人間がいようとも。同じこの世にトシュとジョイドもいて、——しかも、今、セディカはその庇護の下にある。
打ちのめされる必要など、ない。
「……嫌いだなんて言ってごめんなさい」
「あん? ……ああ、三味のことは悪かったよ」
嫌いだと喚いたのはその一回だけではなかったはずだけれども、トシュはそのときに限定した。
「虎どのに直接気に入られれば有利になると思ったんだけどなあ。そうそう魂胆通りにゃいかねえな」
あれも自分のためだったかと、少女は苦笑した。今さらそんな種明かしをしてくるなんて——嫌いだとは言わないけれど、狡い。