37話:異常な学園生活②
夕暮れの訓練場は、秋の風に冷え始めていた。
剣戟の音が途切れるたび、落ち葉が舞い上がる。エアリス王女とカナタ・ストンケインの口論は、周囲の生徒たちを遠巻きに凍りつかせていた。
鋭い視線と皮肉の応酬が飛び交う中、木陰に立つラスティとエクシアは、まるで他人事のようにそれを眺めていた。
「随分と仲が悪いらしい」
ラスティが呟くと、エクシアは金色の髪を風になびかせながら静かに応じた。
「勝手に決められた婚約者。その裏を知らなければ好青年でしょう。彼を反発するのは子供だわ」
その声は、氷のように澄んでいた。ラスティがからかうように続ける。
「意外とトゲがあるね。エクシアは第二王女のこと嫌いかい?」
エクシアは一度だけ、ゆっくりと瞬いた。
「どちらかといえば」
言葉は短く、しかしその奥に、底知れぬ重さがあった。
「自らの幸福を知らず、ただ与えられたものに反発する。私達からすれば何様のつもりだ、と言いたくなるわ。裏ではその婚約者が悪魔と繋がっていたとしても」
風が強くなった。エクシアの瞳に、かつての光景がよぎる。焼け落ちる村。血と肉片に塗れた地面。母の断末魔。妹の小さな手が、肉塊へと変えられていく瞬間。
家族ごとコミュニティを追放され、その先の末路。
ロイヤルダークソサエティは『人類全体の最終的な幸福』の大義のもと彼女のすべてが踏みにじられた。あのとき、彼女には何も与えられなかった。家族も、未来も、明日すら。ただ奪われただけ。それなのに。
目の前の第二王女は、生まれたときからすべてを与えられながら、それを踏みつけ、拒み、壊そうとしている。
高貴な血。
護られるべき立場。
婚約者という名の立派な盾。
どれもこれも、エクシアが一度として手にできなかったものばかりだった。羨ましいとは思わない。憎いとも、違う。ただ、理解できない。
どうして、与えられたものを、そんなに簡単に捨てられる?
どうして、失う痛みを知らないくせに、失ったふりをできる?
どうして、あんなに眩しい場所に立ちながら、目を背けられる?
エクシアの指が、無意識に手を握りしめた。
爪が掌に食い込む。痛みは、もう感じない。痛みなど、とっくに慣れてしまった。だからこそ、胸の奥に渦巻くこの感情が、名前を持たない。怒りではない。嫉妬でもない。
ただ、深い、深い違和感。与えられた幸福を拒む者と、すべてを奪われた者。同じ世界にいながら、決して交わらない二つの運命。
エクシアは静かに息を吐いた。
青い瞳は、なおもエアリスを射抜いていた。
(あなたは……何を、そんなに嫌っているの?)
青色の瞳が、遠くのエアリスを見据えたまま細められる。
「彼女を守るのは、憂鬱だわ」
「頑張ろう、私もいる」
「ええ、そうね」
その声は、風に溶けるように小さかった。翌朝、学園の中庭は騒然としていた。朝の陽射しを浴びて立つエアリス第二王女は、いつもの高慢な笑みを浮かべながら、堂々とラスティの前に立っていた。周囲の生徒たちが息を呑む中、彼女ははっきりと告げた。
「付き合ってほしいのだけれど」
一瞬の静寂。そしてざわめきが爆発した。ラスティは驚いた様子もなく、ただ静かに首を傾げた。
「どういうことかな。こんな私に第二王女様が惚れる要素があるとは思えないわ」
「昨日のエクシアさんとの戦い見たわ。基礎を忠実に守った素晴らしい剣よ」
「ありがとう。それが決め手?」
「ええ、魔力によるブーストに頼らず、純粋な技術を磨く人は少ないわ。だからこそあなたを選んだ。容姿は合格点よ」
「ふむ、なるほど。分かった、付き合おうか」
その瞬間、エクシアの胸に熱いものがこみ上げた。殺意。しかし同時に、冷たい疑問が湧き上がる。
(第二王女……何を考えているの?)
噂は学園中を駆け巡った。たちまち毒に変わった。
「エルフの美少女と第二王女を両天秤にかける最低男」
「死ねばいいのに」
廊下ですれ違うたび、鋭い視線がラスティの背中に突き刺さる。意すら込められたそれに、ラスティはただ苦笑するだけだった。
学園の廊下は、朝の鐘が鳴り終えた後もざわめきを孕んでいた。
「エルフのエクシアと第二王女を両方抱く最低男」
その言葉は、壁に這う蔦のように、瞬く間に校舎の隅々まで広がった。ラスティが歩くたび、視線が突き刺さる。
男子生徒の憎悪、女子生徒の軽蔑、教師たちの冷ややかな溜息。
鋭い、熱い、殺意に近い感情が、矢のように彼を貫いていく。ラスティはいつもの調子で、肩をすくめて受け流すだけだった。だが、そのすぐ後ろを、わずかに遅れて歩くエクシアは違った。
金髪を揺らし、凛とした足取りで進む彼女の横顔は、完璧なまでに無表情。しかし、青い瞳だけが――誰にも気づかれぬほど、ほんのわずかに揺れた。揺れるたび、胸の奥で何かが軋む。
(ラスティは……悪くない。気にらないわね)
視線はラスティに向けられている。けれど、その刃は確かにエクシアにも届いている。
「エルフのエクシアと」
「エルフの」
「エルフ」
その一語が、胸に小さな棘のように刺さる。かつて、肉塊にされた同胞たちの顔が、脳裏をよぎる。奪われた故郷。焼かれた森。踏みにじられた誇り。それでも、ラスティに拾われた日から、彼女はエクシアとして生きてきた。
主の剣となり、主の影となり、主だけを見つめて。それなのに。
今、この瞬間、学園中の人間は、彼女を最低男の女の一人に貶めている。
主を汚し、同時に自分をも汚している。
(私は……ラスティのものなのに)
青い瞳が、一瞬だけ、鋭く細められた。怒りではない。悲しみでもない。ただ、深い、深い違和感と――どうしようもない、独占欲。ラスティが角を曲がる。エクシアも、その背中を追うように歩を進めた。視線がまた飛んでくる。
今度は、はっきりと彼女にも向けられた。
「エルフの女も大概だよな」
小さな呟きが、風に乗って届く。エクシアの足が、一瞬だけ止まった。青い瞳が、ゆっくりとその声の主を見据える。
一瞬で、相手は顔を背けた。怯えたように。エクシアは再び歩き出す。表情は変わらない。けれど、胸の奥で、小さな炎が音を立てて灯った。
(ラスティには、私だけでいい。それ以外は……いらない)
廊下の先、ラスティが振り返る。
「エクシア、これも任務だ」
「ごめんなさい」
エクシアは静かに微笑んだ。青い瞳は、もう揺れていなかった。ただ、深く、深く、ラスティだけを映していた。
上級貴族専用個室の食事室は、廊下の喧騒を完全に遮断していた。重厚な扉を閉めると、まるで別の世界。燭台の炎がゆらめき、銀器が鈍く光を反射する。壁には先王の肖像が睨みを利かせ、静寂が圧すように重い。
テーブルを挟んで、ラスティとエアリスは向かい合っていた。ラスティはいつもの無表情。エアリスは、肘をテーブルに乗せ、頬杖をつきながら、どこか退屈そうにフォークを弄んでいる。
「本気で貴方と恋人になる気はないわ」
最初に口を開いたのはエアリスだった。声は低く、まるで他人事のように。
「だろうね。君はそういうタイプだ。大方、婚約者のカナタ先生への当てつけかな」
ラスティはグラスを傾けながら、さらりと返す。
「よく分かっているじゃない。理解ある犬は好きよ」
エアリスの唇が、皮肉に歪む。
「そうか、私はそこまですきじゃない」
「金ならあげるわよ」
「いいや、借りとしていつか返してもらうよ。こちらとしてもエアリス第二王女の近くにいれるのは嬉しい誤算だ」
その一言で、エアリスの動きが止まった。フォークが皿に軽く触れ、澄んだ音が響く。彼女の眉が、ゆっくりと寄る。怪訝そうに、まるで目の前の少年を初めて見るように。
「君は、テロリストに狙われている。しかもこの世で最強のテロリストだ」
静かに、しかしはっきりと告げる。エアリスはグラスを置き、視線を合わせたまま答える。
「ロイヤルダークソサエティ? 例の輪廻転生の世界法則を破壊するとか何とか言ってるカルト組織」
ラスティの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
「知っているか?」
「第二王女ともなればね。国に貢献する代わりに色々と要求してくる面倒な組織ね。思想も世界法則とか意味不明なものだし。そういうのは宗教国家で勝手にやってほしいわ」
「テロ行為を見過ごしているのか」
「証拠がないし、そもそも被害が少ない。隠しているのでしょうけど、結果だけ見れば国にとって有益な組織という評価よ」
「ふぅん」
エアリスは小さく息を吐き、ラスティをまっすぐに見つめた。その瞳は、もう退屈そうではなかった。探るように。測るように。まるで、目の前の少年がどれだけの深さを持っているのか、底を探っているかのようだった。
「何か意味ありげね。やつらの裏でも知ってるの? なんなら手を貸してあげましょうか?」ラスティは微笑んだ。それは、いつもの曖昧で、何も語らない笑みだった。「いや、結構。こっちは好きにやるから、君も好きにやればいいさ」
静寂が、再び部屋を満たす。燭台の火がゆれ、二人の影が壁に大きく揺れた。エアリスはしばらくラスティを見つめていた。そして、ふっと息を吐く。
「……面白いわ、貴方」
小さな呟きは、銀器の音に紛れて、誰にも届かなかった。食事が終わり、夕闇の迫る校舎裏をラスティが歩いていると、茶髪の好青年が現れた。
「やぁ、少し時間いいかい?」
カナタ指導先生。
エアリスの婚約者であり、学園の剣術教師。
「構いませんよ」
二人は近くの喫茶店に入った。暖かなランプの灯りの下で、カナタが微笑む。
「誘ったのは私だからね。私が払うよ。そもそも先生だし」
「ありがとうございます。それでなんの用ですか?」
「エアリスの恋人役は辛くないかい?」
「さぁ、何とも。まだ1日目なので」
「そうか。君の価値観が知りたいな。この世界についてどう思う?」
ラスティの瞳が一瞬、鋭さを帯びた。
(アーキバス絡みか? 探りを入れられた?)
警戒するが、カナタは穏やかに語り始めた。
「私は今の世界をバランスの取れた世界だと思っている。貧富の差や、幸せと不幸がある程度釣り合いが取れている。しかし、それでも未完成な世界だ」
「世界が完全ではないのは当たり前では?」
「もちろん、そうだとも。しかし、それを諦めてしまっては行けないと思う。夢を抱き、光を目指して進んでいく。それによって現状の閉塞を打破する」
「しかし誰もが光を目指せるわけじゃない。挫けたり、折れたりする者もたくさんいると思います」
「だろうね。だからこそ、今苦しんでいる人を救う必要があるのさ」
カナタの今苦しんでいる人を救う必要があるのさという言葉は、彼の思想の最も鋭い刃だった。この世界において救いとは、通常、輪廻転生の次回に持ち越されるものだ。
今は貧しく苦しんでいても、次の転生で報われるかもしれない。今は病に伏していても、次の人生では健康な体を得られるかもしれない。だから多くの者は「今」を耐え抜くことで、次の生に希望を繋ぐ。だがカナタは、それを許さない。彼は知っている。
次の転生で報われる保証など、どこにもないことを。
前世でどれだけ徳を積んだところで、次の器が幸福寄りになるかどうかは、ただのくじ引きにすぎない。
逆に、今の苦しみに耐えた努力が次の生で必ず報われるという約束もない。
実際、歴史は何度も証明している。
善人が次の生でまた善人として報われることなど、ほとんどない。むしろ、苦しみは連鎖し、悲劇は繰り返されることのほうが多い。だからこそカナタは言う。
次の生で救われるかもしれない、という甘い幻想を、誰にも信じさせてはならない。今、目の前で泣いている子を救わなければならない。今、病で死にかけている母親を救わなければならない。
今、奴隷として鞭打たれている者を救わなければならない。
次の生に先送りにして、努力を促す世界法則の救いは、救いではない。それはただの放置だ。カナタにとって救うとは、輪廻転生の枠組みそのものを否定する行為だった。
世界法則は苦しみと幸福の総量を常に一定に保とうとする。だから誰かを救えば、どこかで同等の苦しみが生まれる。
誰かが幸福になれば、必ずどこかで同等の不幸が産み落とされる。それでもカナタは救う。たとえ世界が新たな犠牲を要求しようとも、
たとえその代償が自分に返ってこようとも、今、この瞬間の苦しみを、ただの一人でも減らしたい。それが彼の信念であり、同時に、彼がロイヤルダークソサエティの深部に身を置く理由でもあった。
人類全体の最終的な幸福という大義名分が、どれだけ多くの今を犠牲にしてきたか。彼はその矛盾を、誰より深く知っている。だからこそ、今苦しんでいる人を救う必要があると、静かに、しかし決して揺るがずに語る。
それは、ロイヤルダークソサエティの理想に対する、最も静かで、最も鋭い反逆だった。
「輪廻転生の世界法則ですか?」
「知っていたか。君もロイヤルダークソサエティに興味が?」
「どちからといえば歴史ですかね。神の代替わりよる世界の変革は面白い話です」
「もし、君が神になるとしたら、どんな世界が良い?」
ラスティは少しだけ遠くを見るような目で答えた。
「……それぞれ相性が良い人に出会える世界、ですかね。少なくとも、平和で平穏な世界を目指しますよ」
「なるほど。貧富の差は差別は無くならない。だからせめて己に共感してくれる人と出会える世界を望むか。興味深いな。君とは仲良くなれそうだ」
二人が語り合った世界の在り方は、この大陸に古くから伝わる輪廻転生の世界法則によって、根底から規定されている。
神はその世界で生まれた超越者に打倒され、その度に世界はリセットに近い変革を受け、文明は興り、滅び、また興る。
歴史書に記される属性主義、、罪罰包容、全者同化、無限回天などの時代も、すべて神の代替わりが引き起こした波の名残にすぎない。
ロイヤルダークソサエティは、この仕組みこそが人類を永遠に苦しめ続けている元凶だと信じている。
神による法則で、死んだあと転生するたびに世界が振り子のように振れ、貧富も、幸福も、不幸も、すべてが強制的にバランスを取らされる。
誰かが極端に幸福になれば、必ずどこかで同等の不幸が生まれる。誰かが権力を握れば、必ず同等の抑圧が別の場所で発生する。
それが今の世界法則である輪廻転生。だからこそ、誰もが永遠に救われない。富を得た貴族は次の転生で乞食に落ち、乞食は次の転生で王になるかもしれない。しかしそのどちらもが、結局は同じ苦しみの輪の中で回り続けるだけ。愛する者を失う悲しみも、裏切られる痛みも、病に侵される恐怖も、すべてがバランスを取るために必然的に生まれる。
ラスティが望んだ相性の良い人に出会える世界は、この法則を根底から否定する願いだった。貧富も地位も運命も固定されたままでもいい。差別も戦争も消えなくていい。ただ、せめて魂が本当に響き合う者同士が、偶然ではなく、必然として出会える世界にしてほしい。
神のルールによって引き裂かれず、バランスを取るために無理やり離されず、ただ一度きりの人生でこの人だと確信できる相手と、巡り会える世界。
それは、輪廻転生の法則を破壊しなければ決して叶わない、究極の反逆だった。
カナタが「興味深い」と呟いたとき、彼の瞳に宿った光は、単なる共感ではなかった。同じ反逆者を見出した、静かな興奮だった。
この世界は、誰かを救うために誰かを必ず犠牲にする。だからこそ、誰かを本気で救いたいと思う者は、必ず世界そのものと敵対する。
二人が握手を交わしたその瞬間、喫茶店のランプがわずかに揺れた。世界が小さく息を呑んだかのように。
「どうかな、ラスティくん」
「こちらも、エアリス第二王女の盾をする世間体があるので、カナタ先生とは仲良くしておきたいです」
二人は固く握手を交わした。夜風が冷たく、街灯の下で二人の影が重なり、そして別れた。