40話:異常な学園生活④
屋上のフェンスは錆びかけていて、風が吹くたびに軋む音がした。午後の陽射しは少し傾き、雲がゆっくりと流れていく。コンクリートの床に敷いたシートは、学園の購買で買った安物のブルーシート。
その上に、二人の弁当箱がぽつんと置かれている。
ラスティの分は、今日も空いたままだ。エクシアは膝を抱えるように座り、腰まで届くプラチナブロンドの髪を風に任せていた。長い髪の毛先が、時折シートの端を撫でる。
彼女は箸をゆっくりと動かし、ラスティが昔作ってくれたハンバーグの味を思い出していた。
あのときの味が、今でも舌に残っている。
あのときの、ラスティの横顔が、今でも瞼の裏に焼き付いている。エアリスは銀髪を耳にかけ、紅い瞳を伏せて、自分の弁当を突っついていた。箸が卵焼きを割る音だけが、妙に大きく響く。
彼女は時々、ちらりとエクシアを見る。そして、すぐに目を逸らす。長い沈黙のあと、ようやくエアリスが口を開いた。
「……ラスティは?」
エクシアは答えなかった。ただ、静かに海苔巻きを口に運び、ゆっくりと噛んだ。その仕草の一つ一つが、まるで祈りのように丁寧だった。
「また、どこかに行ったの?」
エアリスは自嘲気味に笑う。
「ほんとに……あいつって、どこにいるのかわからないわね。何を考えてるのかわからない。私のこと、どう思ってるのかも……わからない」
彼女の声が、少し震えた。エクシアはようやく顔を上げた。サファイアブルーの瞳が、まっすぐにエアリスを見つめる。
「……あなたは、彼のことをどう思ってるの?」
エアリスは息を呑んだ。
紅い瞳が揺れる。
「……わからない」
声が掠れた。
「好きな人間の分類なのかもしれない。でも、信じられない。全部が嘘みたいで……あいつは紳士なくせに何も教えてくれない。会話のすべてが偽物に思える。本気で言ったのか、冗談だったのか、それすらわからない……どうしたらいいかわからない」
彼女は膝を抱えて、顔を埋めた。銀髪が肩から滑り落ちる。エクシアは静かに、でも確かに言った。
「……私は、彼のすべてが好きよ」
声は低く、深く、誓いのようだった。
「嘘も、本気も、演技も、素の部分も」
演じる姿も、世界の闇と戦う姿も。
「彼がどんなに遠くに行こうと、どんなに深く隠れようと、私は追いかける。彼が望むなら、世界を焼き払うことも厭わない。彼が望まないなら、永遠に影のままでいることも厭わない……私は、彼の剣であり、彼の影であり、彼のすべてでありたい」
エアリスが顔を上げた。驚きと、困惑と、どこか羨ましさが混じった目で、エクシアを見つめる。
「どうして……そんな簡単に言えるの?」
「簡単じゃないわ」
エクシアは小さく、でも確かに微笑んだ。それは、彼女が滅多に見せない、本物の、柔らかな微笑みだった。
「でも、私はもう決めたの。彼がどこへ行こうと、何をしようと、私はついていく。たとえそれが、自己狂愛への道だとしても。たとえそれが、無限の果てだとしても。私は、彼の傍にいる。それが、私の選んだ世界であり、自らの属性」
エアリスの瞳が、大きく見開かれた。
「……たぶん、私には、そんな風に思えないわね」
彼女は呟くように言った。
「好きな人がいたとして、他者を信じられない。他者の言葉、全部が本当みたいで、全部が嘘みたいで。私のこと、どう思ってるのか、聞いてみたいのに、聞けない。
……バカみたいな自己矛盾」
エクシアは静かに首を振った。
「あなたは、自分をちゃんと見てるから苦しいのよ」
「…………」
風が吹いた。
二人の髪が、銀とプラチナが絡み合うように揺れた。エアリスは、ぽつりと呟いた。
「……この世界って、輪廻転生で、苦しみと幸福の総量は変わらないんでしょ」
「ええ」
「次の生に希望を繋げって……そんなの、納得できない。
私は何か大層なものになりたいわけじゃない。ただ、自分の剣で、誰かを守りたい。かっこよくなんてなくていい。凡人の剣は嫌い。だけど持てる全てで姉に勝ちたい。私を見下すやつらを見返したい。それが、あたしの“今”なの」
エクシアは、静かに頷いた。
「……私は、彼と対話して、彼と和解して、彼と永遠に歩みたい」
彼女の声は、祈りのようだった。
「たとえそれが、世界法則を破壊することになっても。
たとえそれが、自業自得の許容量を越えることになっても。私は、彼の傍にいる。それが、私の望むすべてだから」
エアリスは、息を呑んだ。
「……そんなに、彼が好きなんだ」
「ええ」
エクシアは、迷いなく答えた。
「彼は、私の世界の中心だから」
長い沈黙が落ちた。やがて、エアリスが小さく笑った。
「……私と貴方じゃ、やっぱり住む世界が違うわね」
「そうね」
エクシアも、静かに微笑んだ。
二人は、同時に弁当箱の蓋を閉じた。屋上の空は、どこまでも青く、どこまでも遠かった。ラスティがいないこの場所で、二人の想いは、交わることなく、ただ確かに、強く、胸の奥で燃え続けていた。風が再び吹き始めた。
銀とプラチナの髪が、静かに、静かに、揺れ続ける。屋上の空は、茜と群青が溶け合う時間へと移り変わり始めていた。西の空に沈む太陽が、フェンスの錆びた鉄を赤く染め、風は少しずつ冷たさを増していく。
ブルーシートの上には、食べ終わった弁当箱が二つと、空になったペットボトルが転がっている。
ラスティの席は、今日もぽっかりと空いたままだった。エアリスは膝を抱えたまま、銀髪の先を指でくるくると巻きながら、ふと、ずっと胸にあった疑問を口にした。
「……ねえ、エクシア」
「なに?」
「人格属性って……結局、どういうものなの? 世間だと太陽属性だの対話属性だのって言われるけど、正直、よくわからない。私みたいな凡人に、そんな大層なもの、関係あるの?」
エクシアは、風に揺れるプラチナブロンドの髪を耳にかけ、静かに、でも確かな声音で語り始めた。
「人格属性は、その人の魂が最も深く向かう“方向性”よ。願いが極限まで純化されたとき、それが“属性”と呼ばれる力を生み出す。一度でも“究極”に達した者の記録は、人類史の深奥に永遠に刻まれる。たとえその人が消えても、同じ願いを抱く者には、属性補正として力が降り注ぐ。過去の誰かが太陽属性に至り、今のあなたに似ているなら“太陽属性”の加護が微かに宿る。それが、人類が少しずつ強くなっていく理由の一つ」
エアリスは目を丸くした。
「……つまり、生まれたときから決まってるってこと?」
「違う」
エクシアは首を振る。
「属性は“存在する”。でも、それに従うか、拒むか、受け入れるか、壊すかは、あなたの自由。天が示した道を歩むのもいい。自分で新しい道を切り開くのもいい。どちらも、あなた自身が選ぶことよ」
エアリスは唇を噛み、視線を落とした。
「……私は太陽属性とか対話属性とか言われるけど……正直、似合わないって思う。正義の怒りとか、対話と和解とか、そんな立派なもの、私みたいな、ひねくれてて、姉と比べてばかりで、素直に生きれない人間に、そんなの、似合わないわ」
彼女の声は、震えていた。
エクシアは、静かに微笑んだ。
「太陽属性の本質は、“知ること”と“一人で決めないこと”。あなたはいつも、自分を卑下しながらも、ちゃんと他人の気持ちを知ろうとしてる。姉さんの気持ちも、ラスティ君の気持ちも、私みたいな得体の知れないエルフの気持ちだって、ちゃんと向き合おうとしてる。それが、太陽属性や対話属性に近いって言われる理由よ」
エアリスは、ぎゅっと拳を握った。
「……でも、私のは、そんな立派な理由じゃない」
声が掠れる。
「ただ……知りたいだけ。何を考えてるのか、どこにいるのか、私のこと、どう思ってるのか。全部、全部知りたくて……知りたくて、頭がおかしくなりそうで……それだけなの。今の私は何なのか、ちゃんと人と関わって知りたい」
エクシアは、静かに頷いた。
「……私は、運命属性かもしれないって言われることがある」
彼女は、遠くを見つめながら呟くように続けた。
「愛しい誰かと出会えること。相性の良い同士を邂逅する属性……私は、もう出会ってしまった。ラスティと、出会ってしまったから」
エアリスが、はっと顔を上げた。
「……それが運命ってこと?」
「違う」
エクシアは、はっきりと首を振る。
「私は選んだの。彼と出会って、彼を知って、彼を愛して、この想いを、永遠に抱き続けるって。運命属性だろうと対話属性だろうと、関係ない。私はただ、彼の傍にいたい。彼が笑うなら、私も笑う。彼が泣くなら、私も泣く。彼が世界を焼き払うなら、私はその炎の中にでも立つ。それが、私の選んだ道だから」
風が吹いた。
プラチナと銀の髪が、絡み合うように揺れる。エアリスは、ぽつりと呟いた。
「……私は、どんな属性でもいい」
紅い瞳が、まっすぐにエクシアを見据えた。
「世界のことが、もっと知りたい。それが、私の願いだから。たとえそれが、太陽属性にならなくても、対話属性にならなくても、なんにもならなくても……あたしは、あたしで、歩いてく。凡人の剣で、凡人のまま、私の道をちゃんと歩んでいきたい」
エクシアは、静かに微笑んだ。
「……それでいいわ」
「え?」
「属性なんて、ただの道しるべにすぎない。大事なのは、あなたが何を望むか。あなたが、どこへ向かおうとするか。あなたが、誰を想って剣を振るうか」
長い、長い沈黙が流れた。やがて、エアリスが小さく笑った。
「……毎回思うわ。私と貴方ては、住む世界が違うって。これで何度目?」
「そうね」
エクシアも、静かに微笑んだ。
「でも……」
エアリスは、夕暮れの空を見上げた。
「それが悪いことではない」
「……ええ」
エクシアは、迷いなく答えた。
「私は、彼の影として。あなたは、あなたの剣で」
屋上の空は、深い茜に染まり、星が一つ、また一つと瞬き始めた。二人の影が、長く、長く、地面に伸びていく。風が止んだ。
静かな、静かな、夕暮れだった。どこか遠くで、鐘の音が鳴った。お昼休み終了のチャイム。でも、二人はまだ、屋上にいた。言葉はいらない。
ただ、想いだけが、そこに確かにあった。