1-4. 横浜海上防災基地 海洋怪異対策室
赤レンガ倉庫のすぐ隣に位置する「横浜海上防災基地」には、巡視船艇専用の大型桟橋が存在する。
その桟橋の突端で、〈門〉を通り抜けた菊池明と水晶を待ち受けていたのは、上司である九鬼龍蔵の仏頂面だった。
「室長!?」
「九鬼さん!」
「そろそろ戻る頃かと思って、待っていただけだ」
何故ここにいるのかという明の問いを見透かしたように、九鬼が眉ひとつ動かさずに答える。
「それで、伊良部はどうした?」
「それが……」
明は気を取り直すと、梗子と黒瀬の手合わせの結果や、梗子が黒瀬と師弟関係を結んだ事などを報告する。
「――というわけで、伊良部さんは黒瀬さんに琉球古武術を教えているところです」
「うむ、そうか」
九鬼は、何とも言えない複雑な面持ちで頷くと、夕焼け色に染まる横浜の海を一瞥した。
「明日になっても出勤してこなかったら、様子を見に行った方が良さそうだな」
「ですね。幽世で過ごす時間が長くなれば長くなるほどほど、時間の感覚が現世とずれていくと言いますから」
「その場合は、俺が龍宮城に行ってくる」
「よろしくお願いします」
話すべきことを全て話してしまうと、ふたりは海洋怪異対策室が入る事務棟を目指して歩き出した。
「村上さんは、今日は直帰でしたっけ」
「ああ。魔術師協会に寄って、そのまま帰ると言っていた」
「そうですか」
たったこれだけで、明と九鬼の会話は終了してしまった。
(気まずい……)
水晶を従えた明は、九鬼の斜め後方を歩きながら、数百メートル先の事務棟に到着するまでの数分間をいかにして乗り切るべきかについて、懸命に頭を振り絞る。
三浦の海で発生した牛鬼と濡女の一件や、東京湾における無線交信妨害事件を経た事により、明は九鬼への態度を若干ではあるが軟化させていた。また、九鬼が部下に対して突き放すような接し方をするのはそれなりの理由があるらしいという話を、最近になって梗子から聞いたりもしている。
(けどよ、もう少しくらいどうにかならねえのかなって、俺は思うんだよな)
白地に青色のS字マークが印象的な巡視船の横を通過しながら、明は九鬼との共通の話題をどうにか見つけ出そうとする。
(そうは言っても、室長の趣味とか休日の過ごし方とか、何も知らないんだよな。室長は、自分からはそういう話をしないし、たまに村上さんが……。そうだ、村上さんの話をしよう)
散々苦心した挙句、結局は先ほど話題に上ったばかりの村上の話でこの場を繋ぐことにしたのだった。
明は、足を早めて九鬼の隣に並ぶと、さり気ない風を装って九鬼に話しかけた。
「村上さんって、凄いですよね。人当たりが良いし、陸上部署だけじゃなくて船にも顔が広いし。海異対に居てくれて良かったのはもちろんですけど、そもそも海保に入ってくれた事からして、結構な奇跡なんじゃないかって気がします」
「村上が海保に来たのは、俺が勧誘したからだ」
「えっ?」
驚きのあまり、明は足を止めて九鬼の顔を見上げた。
少し遅れて足を止めた九鬼は、燃え盛るような強い西日を受けながら、低い声で村上との出会いを語り始めた。
「15年近く前の話になる。当時、六管区で勤務していた俺は、海洋怪異対策室の創設にあたっての人材確保のため、業務の合間を縫って瀬戸内海の港や島々を訪れていた――」
九鬼が村上と出会ったのは、瀬戸内海のとある島に存在する造船所だった。怪異や妖の対処に長けた船員がいるという噂を聞きつけた九鬼は、船の長期整備のために折良くドッグハウスに滞在していた村上の元を訪れ、海洋怪異対策室の構想や、海や船という特殊な環境に適応できる呪術師や浄霊師を探している事を、世間話を交えつつ説明したという。
「呪術師や浄霊師を務められる程に高い霊力を持ちながら、幽世と関わらず、普通の職業人として生きている。そんな、かつての俺のような人間が、よりにもよって同じ海事の世界に他にも居たのかと、不思議な心持ちがしたものだ」
とはいえ、当時の村上には海保への興味も船員を辞める意思も無かったため、九鬼はその場で名刺を渡してしまうと、それきり村上のことは忘れてしまった。
「だから、それから数年後に同じ海上保安官として村上と再会した時は、本当に驚いた。よもや、ごく形式的なものに過ぎなかった俺の勧誘が、あいつの人生を変えてしまうとはな。もっとも、結果として村上は、海異対に欠かせない人材となったわけなのだが……」
西日がますます強くなる中、九鬼が一段と声を低くする。
「あの時、村上に声をかけた事が本当に良い事だったのか。今でも時々、俺は考えてしまう」
「…………」
九鬼が、ハッと我に返ったように明を振り向いた。それから、すぐにばつの悪そうな顔になって視線を逸らす。
「急に変な話を聞かせてしまって、すまない」
「いえ、そんな」
九鬼による唐突な述懐が終わると、ふたりはどちらともなく歩き出した。そして、それきり言葉を交わすことなく、夕闇が迫る桟橋を後にしたのだった。
九鬼が三本部に赴き、一ノ瀬と渡辺が定時に帰宅すると、海洋怪異対策室には明と水晶、それから、榊原楓だけが残った。
「――という話を、室長から聞いたんですけど。あんな風に急に心情を吐露されても困るというか、どう受け止めたら良いのかよく分からなくて」
溜まっていた書類仕事を片付けた後、明はスティックシュガー2本分の甘いコーヒーをかき混ぜながら、先ほどの九鬼とのやり取りについて、先輩である楓に相談していた。
「せやなあ」
楓は、ティーバックの紅茶が入ったインサートカップをデスクの上に置くと、何かを考え込むように額に手を当てた。それから、意を決したように顔を上げると、他言無用と前置きした上で、九鬼と村上の間に起きたとある出来事について打ち明けたのである。
「野分と那智が、あないな事になってしまったすぐ後の話なんやけどな。室長に、那智を鎮めるまで村上さんを足止めするように頼まれたんや」
「足止めというと……」
「『理由は言えないが、とにかく村上にあれを見せるわけにはいかない』って。かなり切羽詰まった声で言われたもんやから、何も聞き返さずにその通りにしたんやけど――」
言われた通りに磯場の手前で村上を押し留めた楓だったが、理由を説明しないわけにもいかなかったため、楓は問われるままに、野分と那智の悲劇的な顛末や九鬼の指示についてなど、ありのままを話したという。
その結果として、九鬼と村上の間柄は、何週間にも渡って殺伐としたものになってしまったという訳だった。
「なんだか、村上さんが怒ってた理由が分かった気がします」
楓の話が終わると、明は合点がいったという気持ちで頷いた。
何故、その光景を村上に見せてはいけなかったのか。その具体的な理由は分からないにしても、何かしらの事情を村上が抱えているだろう事は楓に知られてしまったわけであり、それが村上にとって不本意であろう事は、明にも容易に想像できてしまった。
「つまり、あの状況に自分の体験を重ねてしまうような、そういった何か村上さんが抱えているのかもしれない。そういう事ですよね」
「うちも、詳しい事情は何も知らへんけどな」
「…………」
しばらくの間、楓も明も、横で話を聞いていた水晶も、あの夜を追想しながらそれぞれの思いに沈む。やがて、楓が紅茶を啜って小さく息を吐くと、湿っぽくなった空気を打ち消すように楽観的な表情を浮かべた。
「まあ、菊池君なら大丈夫やと思うけど。室長にも村上さんにも、今までと同じように接すればええよ。向こうの方がうちらよりも人生経験豊富な大人なんやし、部下が上司同士の関係に対して、変な気を遣う必要なんかあらへんから」
「ですね。そうします」
「ただなあ」
楓はインサートカップから指を離すと、胸の前で両手の指を組んで思案げに動かす。
「人の心をそのまま映し出し、時には具現化さえする幽世に出入りするうちらの仕事は、僅かな心の乱れが容易に命取りになってしまう。当然、村上さんもその程度は心得とるはずやけど、何事にも絶対なんて言葉はあらへんのも確かや」
「…………」
「村上さんが、何かしら脆弱な部分を抱えている事。それを頭の片隅に置いておくくらいは、うちらもしておいた方がええと思うわ」
そこまで話すと、楓は椅子から立ち上がって首筋を伸ばしつつ、夜食を買うために最寄りのコンビニに行くと告げた。
「榊原さんは、まだ残業ですか」
「仕事はもう終わったんやけど、せっかくやから梗子を待ってみよう思って。室長も、本部から戻ったらまだ仕事するとか言っとったし、菊池君と水晶は先に帰ってもええよ」
いかにも先輩らしい気さくな笑顔でそう言うと、財布を片手に颯爽と部屋を去ってしまった。
「楓様……」
楓が消えた部屋の出入口を見つめながら、水晶が憂いを帯びた声で呟いた。
明や梗子よりは心理的な距離があるものの、楓もまた水晶の創造主のひとりであり、水晶にとっては親や上司的な存在になる。また、人ならざる式神であるが故に、明には感じ取れない何かを察知しているのかもしれない。
(第二海堡から戻った後、高熱で何日も寝込んでたからな。気丈に振る舞ってはいるけど、大雄山での修行の成果が通用しなかった事が堪えてないはずがない)
明は、水晶と同じ方向を見つめながら、自分が楓についてほとんど何も知らないという事実について改めて考えてみる。
(榊原さんに関してはそれなりに噂があった気がするけど、あんまり、というか全然興味無かったから、全部右から左に受け流してたんだよな)
明は、楓のデスクに置きっぱなしになった、まだ何も書かれていない護符用の奉書紙に視線を転じた。
(12歳の頃から家業をこなしてたって言ってたけど、今はどうなってんだろ。榊原さんも、全然自分の話をしないからな)
京都の小さな神社を生家とする楓が、いかなる経緯を経て海保に入ったのか。地元から遠く離れた横浜の地で、どのように余暇を過ごしているのか。以前の明なら、ふと疑問に思う瞬間はあっても、あえて訊ねようとまでは思わなかっただろう。
仕事の特性上、時に命を預け合う事があるとはいえ、所詮は職場の人間であり、詰まるところは他人である。他人の事情に、必要以上に踏み込むべきではない。それが、水晶と出会う前の明の考えだった。
けれど、今は違う。
踏み込む事に、躊躇いを感じている。
「どうしましたか、我が主よ」
「いや、何でもない」
明は、心配そうにこちらを見つめる水晶に、ゆるりと笑いかけた。
「榊原さんの言う通り、今日はもう帰ろう。伊良部さんは妖の血を引いてるんだし、俺らが余計な心配しなくたって大丈夫だよ」
軽い調子で喋りながら、更衣ロッカーから黒色のオーバーコートを取り出して身支度を始める。
「それに、そろそろジュースを買い足そうと思ってたところだし。スーパーが閉店する前に行かないと」
「あっ……」
明の言葉に、水晶がほんのりと頬を上気させた。
(明様、私のために毎日毎日……)
自分の好物を1日も欠かさず用意してくれている明への申し訳なさと嬉しさが、水晶の小さな胸の中に同時に押し寄せる。
しかし、肝心の明はというと、そんな水晶の心の機微に気が付くことなく、普段通りに帰宅の準備を進めていく。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい、我が主よ!」
ふたりは廊下を抜けて防災基地の玄関口を出ると、赤レンガ倉庫の時期尚早なクリスマス・イルミネーションを横目に、ジュースを入手すべくスーパーへの道を急いだのである。
その桟橋の突端で、〈門〉を通り抜けた菊池明と水晶を待ち受けていたのは、上司である九鬼龍蔵の仏頂面だった。
「室長!?」
「九鬼さん!」
「そろそろ戻る頃かと思って、待っていただけだ」
何故ここにいるのかという明の問いを見透かしたように、九鬼が眉ひとつ動かさずに答える。
「それで、伊良部はどうした?」
「それが……」
明は気を取り直すと、梗子と黒瀬の手合わせの結果や、梗子が黒瀬と師弟関係を結んだ事などを報告する。
「――というわけで、伊良部さんは黒瀬さんに琉球古武術を教えているところです」
「うむ、そうか」
九鬼は、何とも言えない複雑な面持ちで頷くと、夕焼け色に染まる横浜の海を一瞥した。
「明日になっても出勤してこなかったら、様子を見に行った方が良さそうだな」
「ですね。幽世で過ごす時間が長くなれば長くなるほどほど、時間の感覚が現世とずれていくと言いますから」
「その場合は、俺が龍宮城に行ってくる」
「よろしくお願いします」
話すべきことを全て話してしまうと、ふたりは海洋怪異対策室が入る事務棟を目指して歩き出した。
「村上さんは、今日は直帰でしたっけ」
「ああ。魔術師協会に寄って、そのまま帰ると言っていた」
「そうですか」
たったこれだけで、明と九鬼の会話は終了してしまった。
(気まずい……)
水晶を従えた明は、九鬼の斜め後方を歩きながら、数百メートル先の事務棟に到着するまでの数分間をいかにして乗り切るべきかについて、懸命に頭を振り絞る。
三浦の海で発生した牛鬼と濡女の一件や、東京湾における無線交信妨害事件を経た事により、明は九鬼への態度を若干ではあるが軟化させていた。また、九鬼が部下に対して突き放すような接し方をするのはそれなりの理由があるらしいという話を、最近になって梗子から聞いたりもしている。
(けどよ、もう少しくらいどうにかならねえのかなって、俺は思うんだよな)
白地に青色のS字マークが印象的な巡視船の横を通過しながら、明は九鬼との共通の話題をどうにか見つけ出そうとする。
(そうは言っても、室長の趣味とか休日の過ごし方とか、何も知らないんだよな。室長は、自分からはそういう話をしないし、たまに村上さんが……。そうだ、村上さんの話をしよう)
散々苦心した挙句、結局は先ほど話題に上ったばかりの村上の話でこの場を繋ぐことにしたのだった。
明は、足を早めて九鬼の隣に並ぶと、さり気ない風を装って九鬼に話しかけた。
「村上さんって、凄いですよね。人当たりが良いし、陸上部署だけじゃなくて船にも顔が広いし。海異対に居てくれて良かったのはもちろんですけど、そもそも海保に入ってくれた事からして、結構な奇跡なんじゃないかって気がします」
「村上が海保に来たのは、俺が勧誘したからだ」
「えっ?」
驚きのあまり、明は足を止めて九鬼の顔を見上げた。
少し遅れて足を止めた九鬼は、燃え盛るような強い西日を受けながら、低い声で村上との出会いを語り始めた。
「15年近く前の話になる。当時、六管区で勤務していた俺は、海洋怪異対策室の創設にあたっての人材確保のため、業務の合間を縫って瀬戸内海の港や島々を訪れていた――」
九鬼が村上と出会ったのは、瀬戸内海のとある島に存在する造船所だった。怪異や妖の対処に長けた船員がいるという噂を聞きつけた九鬼は、船の長期整備のために折良くドッグハウスに滞在していた村上の元を訪れ、海洋怪異対策室の構想や、海や船という特殊な環境に適応できる呪術師や浄霊師を探している事を、世間話を交えつつ説明したという。
「呪術師や浄霊師を務められる程に高い霊力を持ちながら、幽世と関わらず、普通の職業人として生きている。そんな、かつての俺のような人間が、よりにもよって同じ海事の世界に他にも居たのかと、不思議な心持ちがしたものだ」
とはいえ、当時の村上には海保への興味も船員を辞める意思も無かったため、九鬼はその場で名刺を渡してしまうと、それきり村上のことは忘れてしまった。
「だから、それから数年後に同じ海上保安官として村上と再会した時は、本当に驚いた。よもや、ごく形式的なものに過ぎなかった俺の勧誘が、あいつの人生を変えてしまうとはな。もっとも、結果として村上は、海異対に欠かせない人材となったわけなのだが……」
西日がますます強くなる中、九鬼が一段と声を低くする。
「あの時、村上に声をかけた事が本当に良い事だったのか。今でも時々、俺は考えてしまう」
「…………」
九鬼が、ハッと我に返ったように明を振り向いた。それから、すぐにばつの悪そうな顔になって視線を逸らす。
「急に変な話を聞かせてしまって、すまない」
「いえ、そんな」
九鬼による唐突な述懐が終わると、ふたりはどちらともなく歩き出した。そして、それきり言葉を交わすことなく、夕闇が迫る桟橋を後にしたのだった。
九鬼が三本部に赴き、一ノ瀬と渡辺が定時に帰宅すると、海洋怪異対策室には明と水晶、それから、榊原楓だけが残った。
「――という話を、室長から聞いたんですけど。あんな風に急に心情を吐露されても困るというか、どう受け止めたら良いのかよく分からなくて」
溜まっていた書類仕事を片付けた後、明はスティックシュガー2本分の甘いコーヒーをかき混ぜながら、先ほどの九鬼とのやり取りについて、先輩である楓に相談していた。
「せやなあ」
楓は、ティーバックの紅茶が入ったインサートカップをデスクの上に置くと、何かを考え込むように額に手を当てた。それから、意を決したように顔を上げると、他言無用と前置きした上で、九鬼と村上の間に起きたとある出来事について打ち明けたのである。
「野分と那智が、あないな事になってしまったすぐ後の話なんやけどな。室長に、那智を鎮めるまで村上さんを足止めするように頼まれたんや」
「足止めというと……」
「『理由は言えないが、とにかく村上にあれを見せるわけにはいかない』って。かなり切羽詰まった声で言われたもんやから、何も聞き返さずにその通りにしたんやけど――」
言われた通りに磯場の手前で村上を押し留めた楓だったが、理由を説明しないわけにもいかなかったため、楓は問われるままに、野分と那智の悲劇的な顛末や九鬼の指示についてなど、ありのままを話したという。
その結果として、九鬼と村上の間柄は、何週間にも渡って殺伐としたものになってしまったという訳だった。
「なんだか、村上さんが怒ってた理由が分かった気がします」
楓の話が終わると、明は合点がいったという気持ちで頷いた。
何故、その光景を村上に見せてはいけなかったのか。その具体的な理由は分からないにしても、何かしらの事情を村上が抱えているだろう事は楓に知られてしまったわけであり、それが村上にとって不本意であろう事は、明にも容易に想像できてしまった。
「つまり、あの状況に自分の体験を重ねてしまうような、そういった何か村上さんが抱えているのかもしれない。そういう事ですよね」
「うちも、詳しい事情は何も知らへんけどな」
「…………」
しばらくの間、楓も明も、横で話を聞いていた水晶も、あの夜を追想しながらそれぞれの思いに沈む。やがて、楓が紅茶を啜って小さく息を吐くと、湿っぽくなった空気を打ち消すように楽観的な表情を浮かべた。
「まあ、菊池君なら大丈夫やと思うけど。室長にも村上さんにも、今までと同じように接すればええよ。向こうの方がうちらよりも人生経験豊富な大人なんやし、部下が上司同士の関係に対して、変な気を遣う必要なんかあらへんから」
「ですね。そうします」
「ただなあ」
楓はインサートカップから指を離すと、胸の前で両手の指を組んで思案げに動かす。
「人の心をそのまま映し出し、時には具現化さえする幽世に出入りするうちらの仕事は、僅かな心の乱れが容易に命取りになってしまう。当然、村上さんもその程度は心得とるはずやけど、何事にも絶対なんて言葉はあらへんのも確かや」
「…………」
「村上さんが、何かしら脆弱な部分を抱えている事。それを頭の片隅に置いておくくらいは、うちらもしておいた方がええと思うわ」
そこまで話すと、楓は椅子から立ち上がって首筋を伸ばしつつ、夜食を買うために最寄りのコンビニに行くと告げた。
「榊原さんは、まだ残業ですか」
「仕事はもう終わったんやけど、せっかくやから梗子を待ってみよう思って。室長も、本部から戻ったらまだ仕事するとか言っとったし、菊池君と水晶は先に帰ってもええよ」
いかにも先輩らしい気さくな笑顔でそう言うと、財布を片手に颯爽と部屋を去ってしまった。
「楓様……」
楓が消えた部屋の出入口を見つめながら、水晶が憂いを帯びた声で呟いた。
明や梗子よりは心理的な距離があるものの、楓もまた水晶の創造主のひとりであり、水晶にとっては親や上司的な存在になる。また、人ならざる式神であるが故に、明には感じ取れない何かを察知しているのかもしれない。
(第二海堡から戻った後、高熱で何日も寝込んでたからな。気丈に振る舞ってはいるけど、大雄山での修行の成果が通用しなかった事が堪えてないはずがない)
明は、水晶と同じ方向を見つめながら、自分が楓についてほとんど何も知らないという事実について改めて考えてみる。
(榊原さんに関してはそれなりに噂があった気がするけど、あんまり、というか全然興味無かったから、全部右から左に受け流してたんだよな)
明は、楓のデスクに置きっぱなしになった、まだ何も書かれていない護符用の奉書紙に視線を転じた。
(12歳の頃から家業をこなしてたって言ってたけど、今はどうなってんだろ。榊原さんも、全然自分の話をしないからな)
京都の小さな神社を生家とする楓が、いかなる経緯を経て海保に入ったのか。地元から遠く離れた横浜の地で、どのように余暇を過ごしているのか。以前の明なら、ふと疑問に思う瞬間はあっても、あえて訊ねようとまでは思わなかっただろう。
仕事の特性上、時に命を預け合う事があるとはいえ、所詮は職場の人間であり、詰まるところは他人である。他人の事情に、必要以上に踏み込むべきではない。それが、水晶と出会う前の明の考えだった。
けれど、今は違う。
踏み込む事に、躊躇いを感じている。
「どうしましたか、我が主よ」
「いや、何でもない」
明は、心配そうにこちらを見つめる水晶に、ゆるりと笑いかけた。
「榊原さんの言う通り、今日はもう帰ろう。伊良部さんは妖の血を引いてるんだし、俺らが余計な心配しなくたって大丈夫だよ」
軽い調子で喋りながら、更衣ロッカーから黒色のオーバーコートを取り出して身支度を始める。
「それに、そろそろジュースを買い足そうと思ってたところだし。スーパーが閉店する前に行かないと」
「あっ……」
明の言葉に、水晶がほんのりと頬を上気させた。
(明様、私のために毎日毎日……)
自分の好物を1日も欠かさず用意してくれている明への申し訳なさと嬉しさが、水晶の小さな胸の中に同時に押し寄せる。
しかし、肝心の明はというと、そんな水晶の心の機微に気が付くことなく、普段通りに帰宅の準備を進めていく。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい、我が主よ!」
ふたりは廊下を抜けて防災基地の玄関口を出ると、赤レンガ倉庫の時期尚早なクリスマス・イルミネーションを横目に、ジュースを入手すべくスーパーへの道を急いだのである。