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作者: こむらまこと
1-5. 横浜某所 菊池明の自宅
 横浜海上防災基地から徒歩30分ほどの閑静な住宅街に佇む、鉄筋コンクリート造の独身者向け公務員住宅。それが、菊池明と水晶の現在の住まいである。
 深夜。1Kの間取りの大部分を占める半個室型の小さなベッドの中で、水晶はじっと息を潜めて明が深い眠りに沈むのを待ち続けていた。
 夕食を終えてピアノ演奏を楽しんだ後、おやすみの挨拶を交わして床につく。共に暮らし始めたばかりの頃こそ互いにぎこちなさが感じられたものの、5ヶ月以上が経過した現在では、1日の大半を職場で過ごすふたりにとっての貴重な時間となっていた。
(うん、大丈夫そうね)
 水晶は、人ならざる式神ゆえの鋭敏な感覚によって明の熟睡を確信すると、ベッドの出入り口にかかるレースのカーテンからそろそろと頭を突き出した。
 ベッドとは反対側の壁際に寄せられた敷布団の上では、分厚い毛布にくるまった明が静かな寝息を立てている。
(明様……)
 あらゆる緊張から解放されたあるじの安らかな寝顔に、見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感にも似た気まずさを覚えてしまう。
(明様が、私が寝ている間に全ての身支度を済ませているのに気がついたのって、いつだったかしら。私は、私の主である御方に、こんなにも気を遣わせてしまって……)
 水晶は、黒々としたつぶらな瞳をギュッと閉じた。それから、今度は怒ったような顔になって目を見開くと、暗い部屋の中のとある一点を睨みつける。
(今は、それを考える時じゃないわ。一体どういうつもりなのか、何がなんでも今夜中に聞き出してみせるんだから!)
 そう固く決心すると、家の形をした小さなベッドから音を立てずに飛び出した。
 カーテンの隙間から月明かりが差し込む室内を移動して、明の枕元に置かれたフルメタルのGショック――妖刀・〈水薙ミズナギ〉の正面に着地する。
 ピンク色の海鳥の脚を丁寧に畳んで正座して、深々と息を吸い込むと、何の前置きもなしに強烈な思念の塊を〈水薙〉にぶつけたのだった。
〈水薙! どうして明様とお話ししてくれないの!? いつまでダンマリし続けるつもりなのよ!!〉
〈…………〉
 1秒、2秒、3秒。何も知らずに健やかに眠り続ける人間の主のすぐ横で、式神の少女と妖刀が、超感覚を駆使した無言のせめぎ合いを繰り広げる。
 その結果、のは妖刀の方だった。
「ッ!」
 フルメタルのGショックが、青白い光を放ちながら妖刀としての本来の姿を取り戻した。
 龍の文様が刻まれた金属製の柄に、直刃すぐはと呼ばれる直線状の波紋が浮かんだ反りの無い刀身。一点の曇りも無く磨き上げられた刀身は、つねならざる刀らしく、ほのかに青い光を反射している。
 水晶が固唾を呑んで見守る中、〈水薙〉から青白い光が立ち昇ると、ぼんやりとした人の形を形成し、カメラの焦点を合わせるように細部を浮かび上がらせていく。
「水薙……」
 水晶の目の前に、いかにも不機嫌そうな顔をした成人男性が姿を現した。
 すらりとした長身に、短く整えられた美しい銀髪。月明かりに浮かび上がるその面立ちは眉目秀麗という言葉がふさわしく、ライトベージュのスラックスと白色のワイシャツという現代的な服装が、男の洗練された佇まいを一層引き立てている。
 水薙は、足元でぐっすりと眠っている自分の持ち主を険悪な目つきで見下ろすと、水晶に向かってぶっきらぼうな第一声を発したのだった。
「こいつはさとい。ここでは気取けどられる恐れがある。どこか、ふたりきりで話ができる場所を知らないか?」



 鉄筋コンクリート造の独身者向け公務員住宅の近辺には、そこそこ広めの緑豊かな公園が存在する。
 日中は人々の憩いの場として親しまれているその公園も、夜ともなれば野良猫たちの集会場へと変貌する。その事を、水晶は近隣に住む小さな生き物や妖たちから聞いて知っていた。
「こんばんは、ムカゴさん」
「これはこれは、水晶じゃないか」
 常夜灯が照らす公園の一角。水薙を引き連れた水晶が声をかけたのは、サビ模様のオスの猫又だった。
 ムカゴと呼ばれた猫又は、裂け目が入った片耳をピンと立てると、水晶の背後に立つ水薙をまじまじと見つめる。
「夜に来るとは珍しいのう。それに、その御仁ごじんは……」
「ムカゴさん、お願いがあるのです」
 水晶は胸の前で両翼を揃えると、ベンチの上でくつろぐムカゴに対してペコリと頭を下げた。
「このひとと、ふたりだけで話がしたいのです。その間、周りを見張っていてもらえないでしょうか」
「ふうむ」
 ムカゴが、わさわさとヒゲを動かしながら水晶と水薙を見比べた。それから、のっそりと起き上がってグンと伸びをすると、地面に飛び降りて2本の尻尾をゆるゆると振ってみせる。
「夜は長い。儂らのことは気にせず、気の済むまでとことん話すとよかろう」
 おっとりとした声でそう言うと、常夜灯の明かりが届くギリギリのところまでトコトコと歩き、水晶たちに尻を向けて座った。
「ありがとうございます、ムカゴさん」
 水晶は礼を述べると、さっきまでムカゴが座っていたベンチに腰を下ろした。
「さあ、水薙。あなたの話を聞かせてちょうだい」
「…………」
 水薙は、その場に突っ立ったまま周囲に視線を巡らせた。
 常夜灯の明かりが照らす範囲には、十数匹の野良猫たちが思い思いに寝そべっている。どの個体も水晶や水薙には全く興味を示しておらず、妖であるムカゴにしても、水晶の頼み通りに周囲を警戒してくれている事が見て取れた。
「フンッ」
 水薙は面白くなさそうに鼻を鳴らすと、渋々といったていで水晶の横に腰を下ろした。
「…………」
「…………」
 ふにゃあ……
 水薙が逡巡し、水晶が根気強く待つそのかたわらで、1匹の野良猫が呑気に欠伸をかます。水薙は、てんで空気を読む気のない野良猫をジロリと見やると、観念したように吐息を漏らした。
「結論から言う」
 氷のように冷たい眼差しが、水晶の瞳を鋭く突き刺す。
「俺は、人間と馴れ合うつもりはない。例えそれが、俺の持ち主であったとしてもだ」
「もっと、はっきり言ってよ」
 水晶は、顔の横に付いたトビウオのヒレをピンと緊張させると、色素の薄い水薙の瞳を負けじと睨み返した。
 水薙は、そんな水晶の視線を冷静に受け止めると、重々しい声で、己の揺るがない決意を宣言したのである。
「あいつが、菊池明が生涯を終えるその瞬間まで、ひと言たりとも口を利くつもりはないという事だ」
「そんなの!」
 反射的にベンチから立ち上がった水晶だったが、すかさず言葉を継ごうとしたところで、強烈な耳鳴りが頭の中にこだました。
「うっ……」
 水晶は、よろよろと数歩後ずさりした。水薙が青白い眼光を発しているのを認めたものの、それを最後に、水晶の視界は完全にもやのようなものに覆われてしまう。
〈何をするの!?〉
〈今から、俺の過去を教えてやる。俺とお前なら、この方法が手っ取り早いだろう〉 
 水薙の思念が、明瞭な言葉として頭の中に響いた。凍てつくようなその声に、水晶はぞくりと首筋を粟立たせる。
 問い返す言葉を思いつくより先に、何かの像が靄の中にゆらゆらと浮かび上がってきた。
〈……鞘?〉
 それは、龍の透かし彫細工が施された絢爛豪華な鞘だった。その極めて特徴的な文様や表面の彩色などから、水晶はすぐに、とある可能性に思い至る。
〈これって、もしかして〉 
〈そうだ。あいつは、俺を収めるための鞘として、俺と同時期に造られた〉
 ほの暗い水薙の声が、頭の中にひたひたと響く。
〈俺たちは、ふたりでひとつだった。刀身である俺が荒御魂あらみたまならば、鞘であるあいつは和御魂にぎみたま。あと数年もすれば、そうなるはずだったんだ!〉
 鞘の像が、粉々に砕け散った。
〈あれは……〉
 波が引くように靄が消え去ると、今度は、夜のしじまに激しく燃え上がる社殿が水晶の目に飛び込んでくる。
〈ひょっとして、水薙が奉られていたおやしろ? どうして、こんな事に!?〉
〈手引していた者がいたんだ〉
 水薙が、仄暗い声に怒気を滲ませた。
〈御神体として人目に触れぬよう厳重に管理されていた俺たちの存在を教え、人手が少ない時間帯を狙って襲うように、賊をそそのかした〉
〈そんな……〉
 水晶が絶句する間にも、神の依代たる美しい刀と鞘が、押し入った賊たちの手によって乱雑に掴み上げられ、盗み出されてしまう。 
 炎上する社殿が無残にも崩れ落ちる場面を最後に、映像は賊たちのねぐらへと切り替わった。
 焚き火を囲んで車座になった男たちは、口から唾を飛ばしながら、戦利品の分配について激しく言い争っている。
〈卑劣で愚鈍な人間の中でも、更に下等な部類だったからな。些細なきっかけでいさかいを起こし、いとも簡単に殺し合う。人間の醜い本性というものを、俺はこの時に学ばせてもらったのだ〉
 水薙が説明している間にも、賊たちはやおら立ち上がり、得物を振り上げてかつての仲間たちに襲いかかる。
〈あっ……〉
 パキッ、ボキッ。
 興奮状態に陥った賊たちに足元を注意する余裕などあるはずもなく、繊細な透かし彫細工の脆い鞘は、幾重にも踏みしだかれて呆気なくその命を終えてしまった。
 その一方、得物を弾き飛ばされて地面に伏した賊が、目と鼻の先に直刀が放り出されているのを見つけてしまう。
 賊は、環状の透かし彫細工が付いたその直刀を手に取ると、雄叫びを上げながら他の賊の胸に突き立てた。
〈――――!〉
 ポタッ、ポタッ。
 生温かい液体が、美しく磨き上げられた刀身をぬるりと伝い落ちる。たったこれだけで、神の依代たる直刀が宿していた霊性は、跡形もなく消失してしまった。
〈神の依代として人間に造られ、捧げられた。だが、その人間が! 俺を血で穢し、あいつを殺したんだ!〉
 血に濡れそぼった刀身が、赤い光を帯びた。
 異変を察知した賊が直刀を地面に投げ捨てると同時に、直刀から光が立ち昇って男の姿を形成する。
〈水薙……〉
〈血が、怒りが、憎しみが、完成間近だった俺の自我の、最後のひと押しになった。気がつくと俺は、人の姿形を現した上で、俺自身を振り上げていた〉
 直刀の切先きっさきがあわや賊に振り下ろされるというところで、映像はプツンと途切れた。
「…………ッ」
 視界が晴れ、水薙の思念に支配されていた感覚が、常夜灯が照らす夜の公園に引き戻される。
「これで理解できただろう」
 水薙が、冷ややかに水晶を観察しながら語りかけてきた。
「俺にとって、人間が嫌悪すべき対象でしかないという事を。そして、それはあいつも例外ではないのだ」
「…………」
 水晶は瞼を伏せると、今し方見せつけられた水薙の過去を始めから順を追って振り返ってみる。
(なんて、むごたらしい……)
 仮に、これが人間の少女だったら、まるで異なる反応を示しただろう。ある者は怯え、ある者は泣きじゃくり、とりわけ心が弱い者であれば、恐怖に我を失っていたかもしれない。
 だが、水晶は違った。見た目こそ少女の姿をしていはいるが、元々は戦勝神・毘沙門天の護法童子として、悪鬼羅刹を滅ぼす事を使命として創造された存在である。そんな水晶にとって、水薙の悲惨な過去は真摯な眼差しをもって正視すべき対象であり、目を背けて拒絶するなどもっての外だったのだ。
「水薙」
 朝露のように儚く透き通った声が、水晶の口から滑り出た。
「とっても、とっても辛くて苦しくて、悲しかったのね。そして、それをずっとずっと、独りで抱えていたのね」
「お前……」
 水薙の目に、狼狽の色が浮かんだ。それから、唇を引き結んで顔を俯かせる。
「ねえ、本当の事を教えて」
 水晶が、水薙の表情を伺いながら訊ねた。
「水薙は、明様が嫌いなの?」
「それは、さっき」
 さっき言ったはずだと答えようとした水薙だったが、水晶の潤んだ瞳を見て口ごもってしまう。
 そして、溜め息を吐いて腕組みすると、いかにも嫌々といった顔で白状した。
「そうだ、その通りだ。少なくとも、嫌いには思っていない。だから、困ってるんだ!」
「そっか。それなら良かった」
 水晶は、この話題についてそれ以上追及しようとはしなかった。代わりに、居住まいを正して水薙に向き合うと、かねてより話し合いたいと望んでいた問題を切り出す。
「ねえ、水薙。一度だけで良いからさ、明様とお話ししてよ。明様が水薙との関係で悩んでいる事くらい、あなただって知っているでしょう?」
「それは出来ない」
 それが心からの頼みである事を知りながら、それでも水薙はにべもなく拒絶しようとする。
「今夜の事を、お前の口から伝えてもらうというのは」
「それはもう、今までだってやってきたじゃないの。あの結界を創った時だって――」
 数ヶ月前、明がこの妖刀に〈水薙〉と名付けた直後から、水晶は密かに水薙からの思念を受け取っていた。それは、「思念の内容についてはもちろん、こうして水晶と思念でやり取りしているという事自体も絶対に明に教えないように」というひどく一方的なものだったが、そこに切実なものを感じていた水晶は、事情が判明するまでは水薙の気持ちを尊重することに決めたのだった。
 とはいえ、〈大水薙結界〉の構築を明に提案した際は、流石に水薙とのやり取りについて言及しないわけにはいかなかったのであるが。
「でも、明様はとってもお優しい方だから、どうして結界の構築に水薙の協力を得られたのか、今日までずっと聞かずにいてくれてるのよ」
 〈大水薙結界〉について話した際の、明の驚いたような顔を思い出し、水晶はつぶらな瞳に涙を滲ませる。
「嫌だ、もう嫌だよ。これ以上、明様の優しさに甘えたくないよ……」
「な、泣くな! まるで、俺が悪いみたいじゃないか!」
 ポロポロと涙を零す水晶に、水薙があたふたとベンチから立ち上がった。しかし、水薙とて己の意思を曲げるわけにはいかず、話し合いは膠着状態に陥ってしまう。
 そんなふたりに救いの手を差し伸べたのは、あのサビ模様の猫又だった。
「おふたりさんや」
 ムカゴが、2本の尻尾を揺らしながら、おっとりと話に割って入ってきた。
「なるべく聴くまいと努めてはいたのじゃが、どうしても耳に入ってしまってのう」 
「盗み聞きとは良い趣味だな」
 水薙が、蔑みの目でムカゴを見下ろした。
「流石は、いやしい妖といったところか」
「止めてよ、水薙!」
 水晶が、怒り顔になって叫んだ。
 しかし、当のムカゴは、水薙の失礼極まりない物言いに動じることなく、引き続きおっとりした声でこんな提案をする。
「お前さん、人間がやる手紙というものをしたためてみるのはどうじゃろうか。あれなら、言葉や思念を交わさずとも、お前さん自身の気持ちを直接伝える事が出来ると思うんじゃが」
「それ、すっごく良いと思う!」
 ムカゴの提案に、水晶が顔を輝かせて水薙を見た。
「それなら、すばるさんの所に行きましょう! 昴さんはね、お絵描きが趣味で、人間の文字も書けるのよ。紙とペンも持ってるし、妖が文字を書く方法も教えてくれるはずよ!」
「あの付喪神!? どうして」
 どうしてこの俺が、と言おうとした水薙だったが、ここでもまた、水晶の潤んだ瞳にひるんでしまう。
(こいつにだけは敵わないな)
 水薙は、自分を見つめる瞳からさり気なく視線を外すと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事をした。
「今回だけは付き合ってやる」
「やったあ! ありがとう、ムカゴさん!」
 かくして、水晶と水薙は急遽、白灯台の付喪神であるすばるを訪れることとなった。なお、その際、赤灯台の付喪神である北斗が横槍を入れてくるという一幕があったのだが、それはまた別の話である。
 こうして、式神の少女と妖刀の互いに譲れぬ話し合いは、ひとまずの決着を見せたのだった。



 それから数時間後。明は敷布団の上に座ったまま、水薙からの手紙を何度も何度も読み返していた。
「『俺は、お前たち人間と馴れ合うつもりは毛頭無い。だからお前も、俺の事は単なる道具として認識し、扱うように』、か。寂しい気もするけど、それがお前の意思なら仕方無いよな」
 明はポツリと呟くと、何事も無かったかのように枕元に収まっているフルメタルのGショックを見やり、再び手紙に視線を落とす。
 手紙には、昨晩の水晶とのやり取りから始まり、水薙が神の依代として造られた事や相方である鞘を失った事、更に、蘇芳との出会いや龍神の宝具となるに至った経緯などが便箋十数枚に渡って綴られていた。
(昴さんに、お礼を言わないとだな)
 明は、便箋を丁寧に折りたたんで封筒に戻すと、鍵付きの貴重品箱に大切に仕舞った。
「水薙」
 夜明け前の薄暗い部屋の中、鈍く光るフルメタルのGショックを手に取ると、柄にもなく手のひらの上に乗せて話しかけてみる。
「俺とは話さなくたっていいからさ。水晶とは、これからもずっと仲良くしてやってくれよな」
 水薙からの返事はない。その事に全く落ち込まないと言えば嘘になるが、それでも明は、水晶と水薙が自分の預かり知らぬところで心を通わせていたという事実に頬を緩ませる。
(さてと。水晶が起きるまでに全部済ませねえと)
 明は、家の形をした小さなベッドの中から寝息が聞こえるのを確認すると、残された時間内で全ての身支度を済ませるべく急いで部屋を後にした。



※ ※ ※



 龍神・蘇芳の住まう龍宮城には、世にも珍しい八つの頭を持つウツボの門番がいる。
 門番と言うといかにも物々しく聞こえるが、実際のところは蘇芳の寛大なる措置によって用意された形ばかりの地位であるため、今日までその実力を発揮する機会もなく、平穏な龍宮城で自由気ままに遊んで過ごす日々を送っている。
「…………?」
 夜明け前のこと。門の前でそぞろ這っていた八頭ウツボ・八重桜は、何者かの気配を感じて八つの鎌首をもたげた。
 視線の先、龍宮城の前に広がる龍宮庭園の向こうから、人魚らしき影がゆっくりと近づいてくる。
「きゅ……?」
 八重桜は首を傾げた。気配そのものには間違いなく憶えがあるのに、その外見は八重桜が知るものとはいささか異なっていたからである。
 ウェーブのかかった腰よりも長い白髪に、褐色の肌。下半身はクジラの形態をしており、顔を除いた全身の肌が緩やかな曲線状の入れ墨で覆われている。
 そして、頭から尾ヒレまでの長さは優に2メートルを超えていた。
「――八重桜よ」
 人魚が、ややしわがれた声で呼びかけてきた。
 金色こんじきの瞳が、幽世の深い海の底で、夜空に浮かぶ銀河のような輝きを放つ。
「この龍宮城の主に火急に伝えよ」
 人魚は、まるで女王でもあるかのように超然と八重桜を見下ろすと、尊大な口振りでこう言い放ったのだった。
「どこの馬の骨とも知れぬ傲岸不遜な人魚が、手土産のひとつも持たずに参ったとな」
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