10.(1)
マチルダさんの左目から、涙がぽろりと落ちた。
「……ちぇー、やっぱり、思った通りだったわ」
小さい声だったが、はっきり聞こえた。
口調は変わらない。雰囲気も仕草も特に変わらない。
でも、マチルダさんの記憶は戻った。
彼女の横に立っていたトリオはびくりと翼を動かしたが、そのまま動きを止めた。アリアはマチルダさんにかけより、後ろにいる僕の方をちらりと見てから、マチルダさんを抱きしめた。
「良かった。思い出して」
「うん……無事、会えた。年、ますます離れちゃったわ」
「私のこと思い出してくれたなら、何でもいいよ」
しばらくそのままだったが、アリアは離れ、マチルダさんは立ち上がり、アルバートさんを見た。アルバートさんは軽く頷き、杖で何回か床を叩いた。マチルダさんは口元を抑え、頷いた。トリオはその様子を眺めている。
「記憶を戻したことで二人とも体力が落ちているな。少し、回復させる」
アルバートさんは、一旦、アリアに距離を取るように言った。アリアはこちらに小走りで戻ってきた。頬がさっきよりもピンク色だ。
それからアルバートさんは、トリオは台の上、マチルダさんをその横に立たせた。一羽と一人の側で口元を小さく動かした後に、杖をあげた。キラキラとした光がマチルダさんを包む。マチルダさんは目を大きくして、頷いた。
彼女のはきはきした声が響く。
「上手くいってるようで良かった。アルバートさん、何から何までありがとうございます。あなたのおかげだわ」
「いやいや、あなたの考えに添えて良かったよ。まだまだこれからだ」
「そうですね。これからが大事」
軽くため息をつくマチルダさん。
その立ち振る舞いは、僕からは少し距離は離れているけど、今までのただひたすら明るい彼女とは何かが違うとは思った。
世界を救った勇者。英雄。救世主。大魔法使いニルレン。
僕は、彼女の過去の様々な肩書きの理由を理解した。
そんな彼女はトリオを見て目を伏せた。
「トリオ……わたし……」
彼女がトリオの名前を呼ぶのを初めて聞いた。トリオはゆっくりと返した。
「……記憶が戻って良かった」
顔を赤くした彼女は突如、トリオを掴んだ。
「ぎゃっ! な、何するんじゃ!」
彼女はトリオの首を絞め……でなく、強く抱きしめていた。多分。
抱擁なのか。多分。
きっと?
「ぎゃっ……!」
結婚間近だった恋人達の二百年越しの再会は、つぶされている黄緑色の鳥の悲鳴で始まった。
なんだこれ。
一応最初は微笑ましく見守ろうと思ったが、悲鳴も小さくなり、さすがにトリオが危ないので、アルバートさんと僕で彼女を押さえつけ、アリアが左手でトリオを抜き取り僕に渡してきた。
僕がトリオを受け取るのを確認してから、アリアは右人差し指で彼女の額をはじいた。でこぴんだ。
「落ち着いて! ……どっちで呼ばれたい? ニルレン? マチルダ?」
彼女は目を大きく開き、口元に手を添えた。
「うーん……。何か、ニルレンは恥ずかしい……マチルダがいいわ……」
マチルダさんは今の名前を取った。
「うん、とりあえず、深呼吸しようね。マチルダ」
「うぅ、やっぱり相変わらずしっかりしてるわよね。アイラ」
呼びかけられた彼女は首を振った。
「アリアがいい」
「分かったわ。アリア。……あ、あの、本当にごめん。トリオ」
「……とりあえず、水くれんかのぅ。苦しい」
僕はトリオに水筒の水をわたした。そのままでは飲めないため、コップにストローをさして。
一息ついた後、トリオはぺたんこになった羽毛を軽く振って戻していた。
マチルダさん、妙に直情的なのは変わらないのか。
トリオが落ち着き、再び僕の肩にのってから、マチルダさんは頬をかきながら言った。
「はい。で、わたし、ニルレンでしたー」
僕たちは全員で頷いた。うん知ってる。
マチルダさんは僕たちの反応をぐるりと見た。
「そうよね! どう考えてもそうよね。おとといとか昨日とか、トリオとユウ君もの凄く中途半端な反応だし! これ絶対そうだけど、何か言っちゃいけないことのかなって、さすがに察してたわよ!」
マチルダさんはぶんぶんと両腕を振った。
僕は全く悪いことをしていないと思うので、なんだか八つ当たりされていることについて理不尽さを感じる。しかし、本当にマチルダさんはマチルダさんのままだった。
様子がおかしいところも、凛としたところも変わらない。
「でも、あれなんですね。僕、記憶が戻ったら人格がニルレン寄りになるのかと思ったけど、マチルダさんのままなんですね。見かけは同じでも性格が全然違うってトリオが言ってましたけど」
トリオにべったべたに甘えるマチルダさん。想像がつかないので、怖いもの見たさでちょっとみてみたかった。
うーん、といいながら、マチルダさんは腕組みをした。
「あれなのよね。記憶が戻るって色々あると思うけど、わたしの場合は過去にあったことを思い出したのよ。例えるなら、先月の夕飯思い出したみたいな。だから、マチルダのままなのかしらねぇ」
記憶喪失について、随分身近な話題で例えてくれた。
「そもそもなんで、性格変わってるんですか? 同じ人間なのに」
「え、うーんと、最初は確かに少しはおとなしくしてた気がするけど、師匠のところで、自由に暮らしてたからかしら? 短槍使うにあたって、おとなしくなんかしたら負けちゃうし……」
おとなしくても魔王は倒してるけど。
しかし、マチルダさんのお師匠さんってもの凄く面倒見が良くて優しいんだろうな。良い人に拾われて良かったね。と思った後に、アリアから注釈が入る。
「実際のところ、今の方が活きはいいけど、個人の振れ幅の範囲だよ。トリオさんに対する態度が違うのと、単にトリオさんの目が曇ってるか曇ってないかの差だよ」
「何失礼なこというちょる!」
馬鹿にされたトリオは怒った。それには取り合わず、片側だけ口角を上げたアリアが、マチルダさんの側で聞いた。
「……トリオさんとの関係は思い出してるの?」
頬を上気させて、生き生きとマチルダさんを見つめる彼女を見て、僕は苦笑いした。
そうか、こういう感じでいじってたのか。アリア。気持ちは分からなくないけど、すっごい性格悪いな。
マチルダさんは表情をこわばらせ、座り込んだ。
「待って! それ! 覚えてるけど! 待って! 突然戻ったから、まだ心の整理がついてない!」
物凄く早口で言っている。
この慌てっぷりについて、学校の女子を思い出した。教室の隅にいる僕に気付かずに、好きな人について話し合っていたあの時にそっくりだ。交際経験のある二十代女性のはずなのに、その落ち着きはない。
彼女の性格のせいなのか、突然記憶が戻ってそこにいる鳥が自分の婚約者だったことを思い出したからなのか。僕は記憶喪失になったことがないし、彼女もいたことがないからよく分からない。
ちなみに、学校の女子の話には僕の名前はなかったよ。とほほ。
それはともかく、慌てたマチルダさんの様子に、トリオも当然抗議する。
「おい、それ、こっちも気まずくなるからやめい!」
言われたマチルダさんは、しゃがんだ状態から力なさげにトリオを見上げる。
「うぅ、ちゃんとその辺りも真摯に考えるつもりはあるわよぉ。ちゃんと。誤魔化す気も、なかったことにする気もないわ」
「……それはありがたいが、それよりも、もっと話さなきゃいけないことがあるな」
語気を落ち着かせたトリオはゆっくりとアリアを見つめる。
「アリア」
僕は息をのみこんだ。
「マチルダの記憶が戻ったところで、アリアに聞く。この時代に、ここまで連れてきて、アリアはワシに一体何をさせようとしているんじゃ?」
アリアは、トリオでなけばできないことをさせようとしている。
そのために、トリオの存在を、本来の姿ではない気付かれない状態で、この神殿のこの部屋に連れて来た。
それが、僕とトリオの仮説だった。
「……ちぇー、やっぱり、思った通りだったわ」
小さい声だったが、はっきり聞こえた。
口調は変わらない。雰囲気も仕草も特に変わらない。
でも、マチルダさんの記憶は戻った。
彼女の横に立っていたトリオはびくりと翼を動かしたが、そのまま動きを止めた。アリアはマチルダさんにかけより、後ろにいる僕の方をちらりと見てから、マチルダさんを抱きしめた。
「良かった。思い出して」
「うん……無事、会えた。年、ますます離れちゃったわ」
「私のこと思い出してくれたなら、何でもいいよ」
しばらくそのままだったが、アリアは離れ、マチルダさんは立ち上がり、アルバートさんを見た。アルバートさんは軽く頷き、杖で何回か床を叩いた。マチルダさんは口元を抑え、頷いた。トリオはその様子を眺めている。
「記憶を戻したことで二人とも体力が落ちているな。少し、回復させる」
アルバートさんは、一旦、アリアに距離を取るように言った。アリアはこちらに小走りで戻ってきた。頬がさっきよりもピンク色だ。
それからアルバートさんは、トリオは台の上、マチルダさんをその横に立たせた。一羽と一人の側で口元を小さく動かした後に、杖をあげた。キラキラとした光がマチルダさんを包む。マチルダさんは目を大きくして、頷いた。
彼女のはきはきした声が響く。
「上手くいってるようで良かった。アルバートさん、何から何までありがとうございます。あなたのおかげだわ」
「いやいや、あなたの考えに添えて良かったよ。まだまだこれからだ」
「そうですね。これからが大事」
軽くため息をつくマチルダさん。
その立ち振る舞いは、僕からは少し距離は離れているけど、今までのただひたすら明るい彼女とは何かが違うとは思った。
世界を救った勇者。英雄。救世主。大魔法使いニルレン。
僕は、彼女の過去の様々な肩書きの理由を理解した。
そんな彼女はトリオを見て目を伏せた。
「トリオ……わたし……」
彼女がトリオの名前を呼ぶのを初めて聞いた。トリオはゆっくりと返した。
「……記憶が戻って良かった」
顔を赤くした彼女は突如、トリオを掴んだ。
「ぎゃっ! な、何するんじゃ!」
彼女はトリオの首を絞め……でなく、強く抱きしめていた。多分。
抱擁なのか。多分。
きっと?
「ぎゃっ……!」
結婚間近だった恋人達の二百年越しの再会は、つぶされている黄緑色の鳥の悲鳴で始まった。
なんだこれ。
一応最初は微笑ましく見守ろうと思ったが、悲鳴も小さくなり、さすがにトリオが危ないので、アルバートさんと僕で彼女を押さえつけ、アリアが左手でトリオを抜き取り僕に渡してきた。
僕がトリオを受け取るのを確認してから、アリアは右人差し指で彼女の額をはじいた。でこぴんだ。
「落ち着いて! ……どっちで呼ばれたい? ニルレン? マチルダ?」
彼女は目を大きく開き、口元に手を添えた。
「うーん……。何か、ニルレンは恥ずかしい……マチルダがいいわ……」
マチルダさんは今の名前を取った。
「うん、とりあえず、深呼吸しようね。マチルダ」
「うぅ、やっぱり相変わらずしっかりしてるわよね。アイラ」
呼びかけられた彼女は首を振った。
「アリアがいい」
「分かったわ。アリア。……あ、あの、本当にごめん。トリオ」
「……とりあえず、水くれんかのぅ。苦しい」
僕はトリオに水筒の水をわたした。そのままでは飲めないため、コップにストローをさして。
一息ついた後、トリオはぺたんこになった羽毛を軽く振って戻していた。
マチルダさん、妙に直情的なのは変わらないのか。
トリオが落ち着き、再び僕の肩にのってから、マチルダさんは頬をかきながら言った。
「はい。で、わたし、ニルレンでしたー」
僕たちは全員で頷いた。うん知ってる。
マチルダさんは僕たちの反応をぐるりと見た。
「そうよね! どう考えてもそうよね。おとといとか昨日とか、トリオとユウ君もの凄く中途半端な反応だし! これ絶対そうだけど、何か言っちゃいけないことのかなって、さすがに察してたわよ!」
マチルダさんはぶんぶんと両腕を振った。
僕は全く悪いことをしていないと思うので、なんだか八つ当たりされていることについて理不尽さを感じる。しかし、本当にマチルダさんはマチルダさんのままだった。
様子がおかしいところも、凛としたところも変わらない。
「でも、あれなんですね。僕、記憶が戻ったら人格がニルレン寄りになるのかと思ったけど、マチルダさんのままなんですね。見かけは同じでも性格が全然違うってトリオが言ってましたけど」
トリオにべったべたに甘えるマチルダさん。想像がつかないので、怖いもの見たさでちょっとみてみたかった。
うーん、といいながら、マチルダさんは腕組みをした。
「あれなのよね。記憶が戻るって色々あると思うけど、わたしの場合は過去にあったことを思い出したのよ。例えるなら、先月の夕飯思い出したみたいな。だから、マチルダのままなのかしらねぇ」
記憶喪失について、随分身近な話題で例えてくれた。
「そもそもなんで、性格変わってるんですか? 同じ人間なのに」
「え、うーんと、最初は確かに少しはおとなしくしてた気がするけど、師匠のところで、自由に暮らしてたからかしら? 短槍使うにあたって、おとなしくなんかしたら負けちゃうし……」
おとなしくても魔王は倒してるけど。
しかし、マチルダさんのお師匠さんってもの凄く面倒見が良くて優しいんだろうな。良い人に拾われて良かったね。と思った後に、アリアから注釈が入る。
「実際のところ、今の方が活きはいいけど、個人の振れ幅の範囲だよ。トリオさんに対する態度が違うのと、単にトリオさんの目が曇ってるか曇ってないかの差だよ」
「何失礼なこというちょる!」
馬鹿にされたトリオは怒った。それには取り合わず、片側だけ口角を上げたアリアが、マチルダさんの側で聞いた。
「……トリオさんとの関係は思い出してるの?」
頬を上気させて、生き生きとマチルダさんを見つめる彼女を見て、僕は苦笑いした。
そうか、こういう感じでいじってたのか。アリア。気持ちは分からなくないけど、すっごい性格悪いな。
マチルダさんは表情をこわばらせ、座り込んだ。
「待って! それ! 覚えてるけど! 待って! 突然戻ったから、まだ心の整理がついてない!」
物凄く早口で言っている。
この慌てっぷりについて、学校の女子を思い出した。教室の隅にいる僕に気付かずに、好きな人について話し合っていたあの時にそっくりだ。交際経験のある二十代女性のはずなのに、その落ち着きはない。
彼女の性格のせいなのか、突然記憶が戻ってそこにいる鳥が自分の婚約者だったことを思い出したからなのか。僕は記憶喪失になったことがないし、彼女もいたことがないからよく分からない。
ちなみに、学校の女子の話には僕の名前はなかったよ。とほほ。
それはともかく、慌てたマチルダさんの様子に、トリオも当然抗議する。
「おい、それ、こっちも気まずくなるからやめい!」
言われたマチルダさんは、しゃがんだ状態から力なさげにトリオを見上げる。
「うぅ、ちゃんとその辺りも真摯に考えるつもりはあるわよぉ。ちゃんと。誤魔化す気も、なかったことにする気もないわ」
「……それはありがたいが、それよりも、もっと話さなきゃいけないことがあるな」
語気を落ち着かせたトリオはゆっくりとアリアを見つめる。
「アリア」
僕は息をのみこんだ。
「マチルダの記憶が戻ったところで、アリアに聞く。この時代に、ここまで連れてきて、アリアはワシに一体何をさせようとしているんじゃ?」
アリアは、トリオでなけばできないことをさせようとしている。
そのために、トリオの存在を、本来の姿ではない気付かれない状態で、この神殿のこの部屋に連れて来た。
それが、僕とトリオの仮説だった。