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作者: 栗一
残酷な描写あり
星見の山脈 2

 出発の二日前、アリアはルイスに事情を話し、星見の山脈へと旅立つことを伝えた。だから数日の間は剣の稽古は休むと。
 すると彼はこう言ったのだ。

「よければ、君の目的に私も協力させてほしい」

 ルイスほどの実力者が同行してくれるのは、かなり助かる。
 しかし、どうしてそこまでしてくれるのだろうか。アリアの使命は、ルイスには関係のないことなのに。

 そう尋ねると、ルイスは「これは可能性の話だが……いつか私のほうこそ君に力を借りねばならぬ日が来るかもしれないからね」と神妙な様子で言った。
 また、アリアの冒険を追うことが自分の目的の達成にも繋がっている気がすると。

「それに君は、共に『穢れに飲まれた竜』と戦った仲じゃないか。そんな戦友のためであれば、私は協力を惜しまないつもりだ」

 などということも言ったいた。
 相変わらず恥ずかしいセリフを臆面もなく言うものだが、それが彼の天然な性格から来ていることが最近はわかってきたから、嫌な気はしない。
 要するに――ルイスは純粋な男なのだ。



 かくしてアリアたちは、アウラの花弁を求めて「星見の山脈」を進んでいた。
 同行しているのはシスティナとルイス。旅慣れないアリアにとって、いずれも頼もしい仲間である。
 途中で聖花を使ってフローリアとの交信をしながら、その導きに従って山道を進み、時には道なき道を進んでいく。

 そうしているうちに、どんどん道は狭くなっていき、やがて切り立った崖の側面にわずかに足場があるだけというほどの悪路になった。

「うわ、ここを進むの……?」

 アリアは怖気付いて前へ足を踏み出せずにいた。足場は一人ずつなら十分に歩けるくらいの幅があるが、なにせすぐ隣は崖だ。ずるりと滑って足を踏み外したり、足場が崩れて谷底へ真っ逆様という想像が頭をよぎる。

「大丈夫だ、アリア」

 対するルイスは平気な顔をしていた。

「ただ真っ直ぐに歩けばいい。落ち着いていれば、そうそう落ちることはない」
「うん……」

 たしかに、そこが地上であれば真っ直ぐ歩くのは簡単だ。足を滑らせるなんて滅多にないし、道路に引かれた線の上であれば、これより細い幅であっても歩くことも難しくない。
 しかし。それが高所となると、話はまったく別になる。
 普段は簡単なことでも、わずかでも足をすべらせたら崖下へ真っ逆さまという状況で、うまく歩ける自信はない。
 アリアの背に、システィナが心配そうに声をかける。

「アリア……大丈夫ですか……?」
「……平気。行かなきゃいけないからね」

 システィナの前で、あまり弱いところを見せたくない。
 アリアは腹をくくり、恐る恐る足を前へと踏み出した。
 一歩、二歩、三歩と進んだところで、パラパラと崩れた石の欠片が谷底へと落ちていく。

「うぅ……」

 崖に手を付いて慎重に進んでいると、とつぜんルイスがアリアの腰に腕を回してきた。

「ひゃっ」変な声が出た。

「心配しなくていい。私が君を支えているから」

 ちかい近い。
 相変わらず整った顔でそう言うのだから、アリアはなんだか頬が熱くなった。

「だ、大丈夫だよっ……! 一人で歩けるから」
「そうか。無理はするなよ」

 しっかりした体つきのルイスに支えてもらえると、確かに少し安心するけど――これはこれで落ち着かないので、丁重に辞退した。



 崖路ほきじを進むうちに、水の流れる音がかすかに聞こえてきた。どこかに川があるのだろうか。
 それにしては激しい水音である。川というより滝のような音だ。
 気になったアリアが耳を澄ますと、水音に混じって、ぶぅぅぅん、という虫の羽音のような音が聞こえてきた。

「え、なに?」

 崖を支えにしながら、アリアは周囲を見回す。
 隣でシスティナが慌てて杖を構えた。

「魔物です! 近づいてきています!」

 ここで!? とアリアは愕然としながら、荷物を置いて剣を抜く。
 ルイスも同様に、背負っていた槍を手に持った。

「進むにも戻るにも、今からでは間に合わないか……まったく、嫌なタイミングで出くわしたものだ」

 現在アリアたちがいるのは、足場の悪い崖路。本当ならしっかりした足場のある場所でむかちたいところだが、ルイスの言う通りここからだと遠い。

「わたしが魔術で撃ち落とします……!」
「頼んだ、システィナ」

 羽音が徐々じょじょに大きくなり、やがてヘリコプターが近くを通ったように錯覚するくらいの大音量へと変わる。
 姿を現した魔物は、巨大なはちだった。
 背には一対の薄羽。けたたましい羽音はこれが鳴らしている。
 尻には槍のように大きな針。あれが毒針だとしたら、刺されたらひとたまりもないだろう。
 その全長は一メートルくらいあるのだから、見るからに危険な魔物だ。
 システィナが崖側へと杖を向けて、呪文を唱えた。

「アウラよ。万象たるマナよ、我が敵を射抜け……魔力の矢マジックミサイル!」

 杖に収束した青白い光が、矢となって巨大蜂に発射される。
 その数は三条。ちょうど向かってくる敵と同じ数だ。

 魔力の矢のうちの二つは正確に二匹の巨大蜂を追尾して撃退したが、残る一匹は残像を残すほどの素早さで急旋回をしたため、魔力の矢の狙いが外れてしまう。

「仕方がない、やるぞ!」ルイスが声を上げる。

 高速で接近してくる巨大な蜂に、アリアは「待って!」と心の中で叫んだ。
 こんな場所で魔物と戦うなんて、無茶にも程がある。

 手をこまねいているアリアの横で、ルイスが勇敢にも崖から手を離して両手で槍をしっかりと握りしめ、システィナに飛び掛かろうとしていた巨大蜂へと大きく振るった。
 がつん、と硬い手応えとともに蜂の体がひしゃげる。
 そのまま崖に叩きつけられた巨大蜂を、ルイスは槍で貫いた。
 飛ぶ力を失った蜂が、崖下へと落ちていく。

 向かってくる脅威をルイスとシスティナが撃退して、ほっとしたのもつか。ブルルルル……! と、またもや重機関銃のような羽音が鳴り響いた。
 巨大蜂が接近してくる。先ほどよりも数が多い。

魔力の矢マジックミサイル!」

 青い魔力の光弾が迫り来る巨大蜂を撃退しようと追尾するが、撃ち落とせたのは一匹だった。素早い動きによって回避されてしまう。
 しかも巨大蜂は外皮も硬いらしく、全力で魔力を込めた攻撃でないと撃退できない。よって魔術を行使するまでにも時間がかかり、誘導も甘くなる。

「接近戦になるぞ。アリア、気をつけろ」
「う、うん!」

 半ばパニックになりながらも、アリアは勇気を出して剣を構えた。
 崖から手を離すのは怖い。でも、やらなきゃやられてしまう。
 慣れない環境に戸惑うアリアだが、ルイスもシスティナも「無理はするな」という優しい言葉はかけなかった。そう悠長なことを言っていられる状況ではないからだ。

 巨大蜂が近づくだけで風が巻き起こる。まるでジェット噴射で飛んでいるようだ。
 昆虫が人間サイズになると、これほど威圧感があるのか。

「はああ!」ルイスが槍を突き出す。

 がきん! と切っ先は蜂の体をかすめたが、硬い外皮を削っただけだった。
 空中を高速で飛び回る蜂の芯を捉えて仕留めることは難しい。
 怯まずにルイスは、巨大蜂を殴りつけるように槍を振り回す。一撃で仕留めることはできなくても、衝撃を与えて弱らせることができればいい。
 野山で育ったルイスは、こういった悪路を動き回ることに慣れているのだろう。細く脆い足場の上で、素晴らしいバランス感覚だった。

 それに対してアリアの動きは精彩に欠けていた。
「えい、えい!」と懸命に剣を振るうが、どうしても腰が引けてしまう。
 そうしているうちに、巨大蜂の毒針がアリアへと迫る。

「うっ、く……!」

 小盾で受け流すパリィすることでなんとか防いだものの、反撃などできそうにない。
 まとわりつくように飛び回る蜂にアリアが苦心していると、

「アウラよ。万象たるマナよ、集いて刃となれ。魔力の剣フォースエッジ!」

 システィナの魔術の援護が入った。
 杖の先端から一筋の青い光が伸び、まるで大きな剣のように薙ぎ払う。
 魔力は硬い外皮を貫通し、飛び回る巨大蜂を谷底へと落とした。

「ありがとうシスティナ……うわあっ!」

 安心したのもつか、残る巨大蜂たちがアリアへと標的を絞って襲いかかってくる。
 蜂たちにそんな知能があるとは思えないが、まるで戦い慣れていない相手を見極めたかのようだ。

「アリア!」

 ルイスとシスティナの声が重なる。
 巨大な虫たちが少女に群がる様子は見た目にも凄惨なものだった。
 ルイスは槍を振るい、システィナも細身の剣を使って巨大蜂を振り払おうとしたが、素早い動きと硬い外皮に阻まれる。
 カマキリもそうだったが、近くで見る巨大な昆虫の顔はおぞましい。

 アリアも懸命に剣と小盾を振り回して蜂たちを追い払おうとするが、そのとき――。
 踏み出したほうの足元が、がらりと音を立てて崩れた。

「あっ……!」

 しまった。そう思った時には遅く、踏ん張りの効かなくなったアリアの体が崖のほうへと倒れる。
 ふわりとした浮遊感とともに、足元が軽くなる。
 次の瞬間、アリアは空中へと投げ出されていた。

「……っ!! アリア――!!」

 絶叫のようなシスティナの声。
 彼女の伸ばした手を掴もうとアリアも手を伸ばしたが、すでに届く距離ではなかった。
 落下していく。真っ逆さまに、崖の下へと。
 アリアを追いかけて飛び降りようとするシスティナを、ルイスが必死に止めているのが遠くに見えた。

 死ぬ――? こんなところで、使命も果たせないまま。
 恐怖を感じる余裕もなかったが、冷静でもなかった。無心のまま空中で手をばたばたと動かすが、意味を成さない。
 遠かった地面が、急速に近づいてくる。
 ざあざあという音が聞こえる。視界の端に、水が流れ落ちているのが見えた。
 もしかしたら、水に落ちたら助かるかもしれない。――この高さからでも?
 そんなことは考えていられない。

 一か八か、アリアは体を丸めた。せめて頭から落ちることはないように、背中を下にして、あとはぎゅっと瞼を閉じて運を天に任せた。

 直後、凄まじい衝撃が、アリアを襲った。
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