14.101号室、お招きにあずかる 2
家族団らんの中に混じる息子と同年の女子。
状況だけでみるなら、ひたすらに気まずい。そのはずなのだが、御束家は実に友好的に接してくれた。
さらに言うと、アリヤの母である御束有乃は皓子の母と顔見知りであったらしい。このときに初めて、皓子は自分の母の若い頃の姿を見た。
大学でゼミが一緒だったと語った有乃は、「お式の写真があるのよ。吉祥さんから聞いてたから、ずっと話したかったの」と言った。
(お母さん……この人が)
皓子の家に、父母の写真はない。
吉祥が写真嫌いだからというのもあるが、皓子の母の織本ひかりの写し絵はすべて父の大門に持って行かれたそうだ。稀に見る大恋愛の末に結婚したのだと吉祥からも聞いている。
今も尚、きっと父の傷は治っていないのだろう。そう皓子は思っている。
黒目黒髪で、ほんわかとした雰囲気の女性が幸せそうに微笑んでいる。隣の背の高い色男はぎこちなく笑っているが、その顔は皓子が見たことのないほど明るく見えた。
もっとも、父である大門と顔を会わせることは、皓子の物心ついてから一度もないのだが。
時折の連絡と、不定期な贈り物ばかりで、性格さえつかみかねている。しかもチョイスが皓子好みではないごてごてした高級品がほとんどで、メッセージも判子押しのようなテンプレート。なんだかなあと皓子は思うばかりであった。
なお、吉祥が電話をとる度に怒りのボルテージを上げて切るため、最近は声すら聞いていない。
「皓子ちゃんは、ひかりさんと似ているのね。雰囲気がそっくり」
なんて返したら良いのかわからなくて、小さく頭を下げる。
似ていても似ていなくても、皓子には実感がわかない。
皓子に母の記憶はない。ないが、懐かしそうに隣の席に座るマロスと笑みを交わす有乃の姿に、こんな暖かな夫婦の時間が両親にもあったのだろうかと思えた。
「大門さんとのことは、聞いているの。お父さん……マロスが吉祥さんのアパートにお邪魔することになったときに、聞いて。ああ、えっと、なんといったらいいか」
「いえ、いいんです。聞けてよかったですから」
「……良い子……!」
また瞳をうるませて有乃は言葉を詰まらせた。そっと横からマロスが差し出したハンカチを受け取り、目元を抑えている。
「ひかりさんも、本当に、ほんっとうに、貴女のように可愛らしい人で、ほんわかしてて。そう、そうね、思わず安心できちゃうくらいな感じの良い子で……あの男に何度怨嗟を送ったことか!」
「え、ええ」
マロスは有乃の肩を抱いてあやしている。どうしたらいいのかと横のアリヤにヘルプを求めてみるが、「俺もわかんない」とだけ返ってきた。
有乃の話が始まってから、なるべく無を心がけてアリヤは食事を進めている。
確かに、仲睦まじい夫婦の様子を目の前にして部外者である皓子がいるのは息子としてもなんともいえない心地になるだろう。
「だから、私、今とても嬉しいの。ひかりさんの娘で、吉祥さんの孫である貴女に会えて。それにマロスだけでなくアリヤともご縁があるなんて」
小さく嗚咽まで響く。何故かマロスまでも目元をうるませている。
唯一、アリヤだけが冷静にそれを見ており、並べられた豪華な料理をほおばってお茶で流し込んだ後、しらっと言った。
「そう言って、皓子ちゃんの外堀埋めようってのはよくないんじゃない」
「……ところで皓子ちゃん、うちの不肖の息子とのお付き合いはどのくらいかしら?」
泣き顔が嘘のように、にこりと笑った有乃は皓子にたずねてきた。こそりとアリヤは皓子に聞こえるくらいの声量で「こういう人だから、あんまり気にしないで」と囁いた。
さあ、さあ。
言外の視線に促される。写真を置いて、皓子は失礼にならないように畏まって答えた。
「今年の四月からです」
「二人でお出掛けとかした?」
「ええと……一度、でしょうか。あ、あとは余所へ出かけるときにお付き合いいただきました」
「まあ、それだけなの?」
「はい、お泊まりで」
「お泊まりで!?」
隣で吹き出す音がした。食卓に音を立てて手をついたアリヤが血相を変えている。
「皓子ちゃん! 言い方!」
「えっ? あっ! ち、違います。あの、決してそんな意図はなく」
言ってから、誤解を招く発言だったと息を飲んでしまった。
慌てて否定をすれば、有乃は途端に目をつり上げて「アリヤ!」と名を呼んだ。
「あなたまさか、ひかりさんの娘の……! こんな純粋なお嬢さんにまで遊びで手を出したり」
「してない! してないから! ちゃんと選んでる」
「そんなとこまでお父さんに似なくてよろしい! 今だってマロスの元パトロンだか昔の女だかがマウントをとってくるってのに!」
「は、初耳だよ有乃!?」
大混乱である。
考えなしにした不用意な発言は、ときにこのような混乱をもたらすのだと身をもって知ってしまった。
「大体、皓子ちゃんはそういうのじゃなくて」
「真面目なお相手?」
「だから、普通に、健全に遊んでるだけだから。変な想像しないで。皓子ちゃんに失礼だし、第一今は控えてるから」
「え……でも、御束アリヤの会での今月会報誌にはあなたの食事デート話題匂わせが」
「ほんとやめてその広報誌焼却して。どうして親が俺のファンクラブ入ってんのまじでやめて」
内容はともかく和気藹々と言い合う御束家に、呆気にとられつつも、どこかおかしく見えてくる。
アリヤは有乃にくってかかるし、マロスはあたふたしながら有乃にどんな人だったかとたずねている。有乃は男二人をいなして皓子に向かって心配そうに目配せをする始末。
「皓子ちゃん、うちの男共は一見アレなんだけど、根は……根は良い子なの。くれぐれもよろしくお願いするわね」
「ああもう、母さんも父さんも騒ぐなら帰って。迷惑だ」
「有乃、ちょっと私も話したいことがあるから、一度」
「ええ? 私まだ皓子ちゃんとお話したいのだけど」
「いいから!」
マロスがきりっとした顔で有乃を立たせると、アリヤがその後ろに回って背中を押す。
アリヤの部屋の奥、ダイニングと寝室を隔てるドアまで歩くと、紋章が空に浮かび出た。
外国の文字のような、だがどの国の文字にもあてはまらないような文字が円となって動き出す。白い光が神々しく漏れ出し、マロスが有乃の肩を抱いて進めば二人の姿は光の粒となって消えていった。
それを大きく息を吐いて見送ったアリヤが、頭をくしゃくしゃと掻いた。
「……本当に、うちの親がごめんね」
疲れた声音で言ったアリヤに、皓子は首を振る。
「あ、いや。ぜんぜん。素敵なご両親だと思うな」
「変な、の間違いでしょ」
「ううん。仲良くてうらやましいくらい」
光の文様はすっかり消え、元通りになった。
それを確認したアリヤは、安心した様子だ。元の席に戻って、皓子を見ながら肘をついた。有乃がいたら「態度が悪い」なんて言われそうな仕草だが、おかまいなしにだらけた様子を見せている。
「こんなはずじゃなかったんだけどなあ」
「どんなはずだったの?」
「うーん……」
アリヤは口元を手のひらで隠して、もごもごとさせている。
ふてくされて、流し目にこちらを見る様子は気怠げで色っぽいが、先ほどの御束一家の様子を目にしたあとだと雰囲気も半減している。なんだか普通の男の子が機嫌を損ねているだけの微笑ましさがある。
「俺にも、わかんないや」
ぽつりと呟かれた言葉に、皓子は目を丸くした。本当に、真実そう思っているといわんばかりの、呆然とした声。
アリヤがわからないのでは、皓子にだってわかりはしない。変なことを言うと、おかしさがこみあげた。
「ん、んふ、ふふ……」
堪えていたつもりだが、笑いがこぼれる。一度漏れ出した笑い声はとまらず、声を殺して笑えばアリヤがむっと皓子を睨んだ。
「皓子ちゃん、ちょっと」
「ご、ごめん。ふ、ふふふ、おかしく思えちゃって、つい」
「おかしいとこなかったでしょ」
「それが、んふふ、おかしくて」
「なにそれ」
言いながら笑っていれば、呆れたようにアリヤも小さく笑った。いつもの作った風でもない、自然なものだった。
ひとしきり笑った後、ほどよく力が抜けたのが功を奏したのだろう。
緊張も薄れて、用意された食事を和やかに会話をしながら平らげる。聞けば料理は有乃だが、マロスの手も入っているという。もっぱらサラダ千切る係だよ、と言われて想像してみてまた笑う。
「本当に、素敵なお父さんとお母さんだねえ」
「……まあ、うん」
「アリヤくんは幸せだね」
「それを言うなら、皓子ちゃんもだよね」
「え? そうかな」
「そうだよ」
長い指先を一つ一つ折り曲げながらアリヤが言う。
「頼りになる保護者に安全な家。何より変わった人たちと面白おかしく過ごすことができる環境。恵まれてるし、幸せじゃない?」
「……うん」
じわじわと嬉しさが灯る。
単純に父母がいないことをいうのではなく、現状の皓子がいる環境を指してそう言ってくれたことが、嬉しかった。
机に置いている写真の母よりも、きっと皓子は幸せに笑うことができるはずだ。
「本当だね。幸せだと、思う。うん、しあわせだあ」
口元が緩む。ふわふわ浮き立つ気持ちのままで呟いた。
それを見たアリヤは、ぱちりと一度二度長い睫毛に縁取られた目を瞬かせた。それからすこしだけ間を置いて「でしょう」と優しく肯定した。
うん、とうなずいて皓子は席を引いて立った。
どうしてか、くすぐったいような心地が襲ってきたからだ。
「あの、片付け、手伝うね」
「いいよ。今日は無理に招いたし」
「私の気が済まないから。流し使って良いかな」
「そう? それなら、甘えちゃおうか。よろしく」
許可が出たので、さくさくと片付けを始める。残った物は菜箸をつかって形を整えて一つに集め、空いたお皿を流し台に置いていく。万屋荘の各部屋の台所のつくりは基本的に同じだ。
「手際良いね」
「うちでしてるから」
「へえ」
冷蔵庫に物をしまったアリヤは、感心した風に声を上げた。
スポンジを手に取ってつけ置きしたものから順々に洗えば、あらかた片付けが終わったのか近づいてくる。
洗剤の匂いではない、甘い香りがして手元から目線を上げると、近い位置にアリヤは立っていた。
「……洗い物かわろっか」
「え? もう終わるよ。何かまずいことしちゃった?」
「いや、あー……ちょっと待って」
ふらりと離れたアリヤは寝室のドアを開けて消えると、またすぐに戻ってきた。
皓子が洗い物を終えているのを確認してから、手にハンドタオルと小さなチューブを渡してきた。お洒落なパッケージのハンドクリームだった。
「それ、あげる。ダブったから」
「ええ!?」
(お、お高そう!)
父の贈り物に比べれば手が届きそうで届かないくらい。いやみに感じないセンスのよい品物だ。
手のひらにのせたまま動かない皓子に、アリヤはにこりと微笑むとハンドクリームのチューブをつまんでみせた。
「なんだったら、塗ってあげようか」
「それは、ちょっと、さすがに」
「そう? 残念」
なんだか反応を見て楽しまれている。
見上げれば、楽しそうな様子のアリヤと目が合った。
茶色と緑が混じった夏の庭みたいな瞳が明かりに反射して光っている。緩やかに細められた眼差しは柔らかく皓子に向けられ、思わず視線をそらしてしまった。
その行動がお気に召したのか、アリヤはことさら丁寧に皓子の手に添えてハンドクリームを戻す。
それからまた視線を合わせようと体を動かしてきたところで、空気を裂くように着信音がした。
初期設定そのままの音に、アリヤの体が止まる。
ポケットを探って携帯端末を取り出し、画面を数度なぞってまた戻す。
するとまた、着信が鳴る。
アリヤが眉をひそめてまた端末を取り出す。今度は電話らしい。また数度操作して戻そうとすれば、再び。
「ごめん、ちょっと」
「ううん、いいよ。そろそろおいとましようと思ってたから」
「あ……うん」
「お邪魔しちゃうといけないから」
「いや、邪魔とかそんなことは」
なおも着信音は鳴り響いている。
苦笑いのままでアリヤが端末を操作した。
「今日はありがとう。またね、アリヤくん」
「こちらこそ。またね」
手を軽く振れば、アリヤもまた手をゆっくり動かして振り返した。すこし渋りながら携帯端末を耳元に当てたので、皓子は軽く会釈してから部屋を辞した。
(写真は……いっか)
父母の写真を持ち帰れるだろうかと思ったが、そもそもこれは有乃のもので皓子のものではない。何より、写真嫌いの吉祥の目に触れたら、どうなることやらわからない。
それに、アリヤの言葉の通り今の環境で十分に皓子は幸せだ。在りし日の両親は一目見ただけで満足した。
(なんだか、得しちゃったなあ)
まさか皓子の両親を、アリヤの母が知っているとは思わなかった。
不思議な縁もあるものだ。いや、これも万屋荘にかけられた呪い効果だろうか。あれこれと考えながら、皓子は自分の家へと戻るのだった。