17.契約とそれから
迎え盆という名前の、大門の説教の場が終わった。
そのまますぐに帰るかと思ったが、大門は渋りに渋って皓子たちの家に居座った。
曰く、狼がそこに居るのに大人しく帰る男親がいるかとのことである。
狼と名指しで言われていたアリヤはというと、まだ皓子に触れられることに感動していた様子であった。目の敵同然に見られても、あまり気にしていない様子だったのが幸いだろうか。
アリヤもまた、母方の実家に行かないのかという皓子の質問には首を横に振った。
なんでも、「好きな子の一大事かもだから戻る」と言ったら、盛大に応援されたらしい。一大事というには大げさだが、そう言われると無理に帰れとも言えない。
そしてアリヤの手出しをしないという契約が消失したことを、水茂も知ったようで、ひどく心配された。
やれ、手を出されてないか。清らかか。貞操は無事か。
そこまで手は早くないはずと言おうとして、コテージの件を思い出して何も言えず、契約を結び直すかどうかと張り切られてしまって、それがまた一騒動であった。
なお、ゆっくり手を出しますということで妥協された。
アリヤはゆっくりという点で細かくどの点までOKかひどく真剣に聞いていた。大門も立ち会っての協議は、皓子が耐えられなくなって中断させてもらったくらいだ。
墓参りをして、いたって普通の迎え盆を澄まして、嫌がる大門を矢間が引き取りに来た。
仕事が溜まりに溜まっているらしい。
美貌なんてなかったかのように全力の抵抗をする大門を見送り、万屋荘の前で手を振る。この調子だとまたすぐにでも戻ってきそうである。
最後のほうなんて、「お前はよりどりみどりだろう。目の付け所は褒めるが、どうして皓子なんだ!」という娘を褒めているのか貶しているのかぎりぎりの言葉で皓子を抱きしめて抵抗していた。
しかし、大門の言う言葉ももっともだ。
黒塗りの高級車が遠ざかるのを眺めて、皓子は同じように見送りに出てきたアリヤに聞いてみることにした。
皓子が好きな人だときちんと言ってから、アリヤは最近はとくにご機嫌だ。
マロスゆずりの美貌のせいもあってか、ふとした拍子に空中に天使もかくやの神々しい光を呼び起こし、鐘の音が鳴る幻聴が聞こえるほどの浮かれっぷりである。
そんなに嬉しいのかと皓子もむずむずと喜ばしさに身をくすぐってしまう。
「アリヤくん」
「なに?」
声をかければ、アリヤは即座に柔らかな笑みで顔を向けてくる。
どこまでも甘やかで、ひたすらに愛おしそうな視線に躊躇いつつ、皓子は思った疑問を口にした。
「お父さんの言い分を借りちゃうんだけど、どうして好きになってくれたの?」
「どうしてって」
ぱちりと目を瞬かせて、アリヤはふっと息を吐いた。
視線を合わせて、皓子の風で乱れた髪を指先で遊びつつ直しながら、なんでもないように答えた。
「きっかけも意識も、たぶん、わりと最初から。俺のこと、ぜんぜん気にしてくれなくて、でも普通に心配してくれたり気を配ってくれたり、いろいろ誘ってくれて。皓子ちゃんが、俺の目を離せなくしたから」
「そうだった? 私、そんなつもりは全然」
「うん。そういうとこ。鈍くて、俺の気も知らないでさ。でも駄目なところも、良いところも、全部ひっくるめて好きだなあ、可愛いな、愛しいなとしか思えなくなっちゃったんだよね。欠点まで可愛いくてしょうがないとしか思えないの初めてだ。皓子ちゃんは?」
「えっ、私? ええ、ううん……ふとしたときに、アリヤくんいいなあ、好きだなあってつい思っちゃって、かなあ」
「はー……好き……」
感動したようにアリヤは言って、皓子を抱きしめてきた。
「あのね、でも、アリヤくん。私、そのアリヤくんみたいに経験豊富じゃないし、そんな魅力はあるかわからないのだけど」
「経験あったら、その相手を引くほど全力で殴ってるから、余計なことをせずに済んで安心してるよ。あと魅力は間違いなくあるから、これ以上出して俺の理性を試さないように」
「ええ……」
両肩に手を置いて言うアリヤは真剣そのものだ。
「すごく、認めるのも癪だけど……俺は、父さん譲りの、まあ、愛が大きい……多い、かな。そんな自覚はあって。というか、嫌々ながら最近気づいたんだけどね」
「愛が多い……」
(言い方からすると多くの人に愛を振りまくとかそういう?)
だがアリヤは至って真面目に、忠告でもするかのように皓子に静かに言う。
「これからも、めちゃくちゃ、皓子ちゃんのこと、しつっこいくらい、好きだって言うから、覚悟してて」
「え」
「愛想尽かされないように、様子見ながら、なるべく、たぶん、善処すると思う」
言葉尻に行くほど自信がなさそうな具合に変わっている。
苦汁を飲むように眉根を寄せたアリヤは、さも深刻そうである。
「母さんの辟易した様子を皓子ちゃんがするとは思えないけど、されたら多分寝込むから。それくらい好きだよ」
「う、うん。あの、私も好きです」
「本当? よかった!」
輝く笑みでぎゅうと抱きしめられる。
(本当に私に魅了とかそういうのないよね? 大丈夫だよね? あと変な物、食べさせられたりとか飲まされたりとかしてないよね?)
ついつい疑い深く見てしまうのは、しょうがない。
初めて出来た恋人が、恵まれに恵まれた、浮世離れしたとんでもイケメンなのだ。それに、こんなに皓子のことを思って気遣ってくれる。性格だって皓子にはすごくよくみえる。
だから、つい不安になってしまう。
好き好きと言われて抱きしめられて、皓子もそっと腕を回して考える。
(本当に、ここまで好きになってもらえたなら。いいかな……)
「皓子ちゃん考えごと? 何か、ある?」
見透かされたように至近距離で見つめられて、皓子はおずおずとうなずいた。
「あのね、アリヤくん。お願いがあるの」
快く頷いたアリヤに、皓子はそっと耳打ちをした。
「悪魔の孫と契約してくれる?」
アリヤの部屋に赴いて、ローテーブルにペンと真っ新な紙を広げる。
なんの変哲も無い白紙に手書きで要項を書いていく。
吉祥の契約の様子を見て覚えた、様式を一つ一つ丁寧に。
途中でアリヤが口を挟んで、書き換えたり二人で意見交換をしながら出来上がった契約書に名前を書く。
文章の言い回しこそ無骨で、無感情で、業務的なものだ。ただ、内容はいたってシンプルだった。
互いを好きでいる努力をする。気遣う。ちゃんと、愛すること。
さっと中身を見て、アリヤに差し出した。
「思った以上に本格的だね」
「あの、嫌ならやめてもいいよ」
「いや、俄然やる気出た。これがある限り、皓子ちゃんも安心して俺を思ってくれるでしょう?」
さらりとアリヤが名前を書くと、契約書はなぜか浮かんだ。
驚く間もなく、宙で綺麗に折りたたまれた契約書は皓子の手元に落ちた。
「これ、本当に効果ありそうだね」
「そうかも。本当に良かったの?」
「いいよ。ね、これでいい加減俺に誑かされてくれる?」
アリヤが近づいて、傍に腰を下ろす。契約書を掴んだ手を重ねられた。
エアコンも効いているのに、どんどんと熱くなる体温に、皓子はアリヤを見返してへらりと笑う。
「それ、本来なら私が言うべき言葉だねえ」
「じゃ、誘惑してよ」
体が近づく。
ゆっくりと寄る唇を合わせて、体を預ける。身を寄せて、擦り寄ってほうと息を吐く。
「アリヤくん、好き。またいっぱい、本音を聞かせてね」
「思ったこと垂れ流せとか、悪魔だね皓子ちゃん」
「悪魔の孫だもん。言えない?」
「ずっと本音を言ってるよ。それとも、もっと過激なの言わせたいの」
戯れて、指先を絡めてどちらともなく小さく笑う。
溶けたアリヤの眼差しには、同じような目をした皓子が映っていた。
***
まだ残暑が厳しいが、夏は明けて秋がやってきた。
ホームルームが終わり下校のチャイムが鳴る。受験についての話が飛び交う教室に、ざわざわとしたどよめきが起きた。
「めっちゃイケメンがいるんだけど!?」
興奮した声音に、ああ、と皓子は鞄に入れていた携帯端末を取り出した。
女子を筆頭にいかに整った容姿だったか、どういう感じだったかと詮索と情報が盛んに話題に上がっている。
男子もその人物を見たのか、女子に混じってやべえやべえという言葉が上がっている。
「こっこ。あんたいい加減絆されたの?」
端末のメッセージを確認していると、諏訪を迎えに来た忍原が皓子を横からのぞき込んでいる。
「アリヤからは浮かれた惚気がめちゃくちゃ来たけど、あいつの妄想じゃないよな?」
諏訪に至っては、ひどい言いようである。
諏訪とアリヤのメッセージトーク画面を見させてもらったことはなかったが、そんな有様なのだろうか。
「絆されちゃったというか」
両思いになった。正式にお付き合いもした。
言いかけたところで、皓子の名前が呼ばれた。
「織本さん、めっちゃイケメンが呼んでるよ!? 彼氏?」
興味津々のクラスメイトに苦笑いを浮かべる。
皓子の敵意や害意を向けられない体質をもってしても、この集中砲火の視線はいたたまれない。慌てて鞄を取って立ち上がる。
「あー」
「はあーん」
「二人とも、あの、またね」
幼馴染二人の生ぬるい視線を振り払って、皓子は端末をしまって早足で昇降口に向かう。
靴を履き替えて、未だにざわざわとした校門を抜けると、案の定だ。
「一途に彼女を思っている彼氏なので、お誘いはお断りします。あ、皓子ちゃん」
やっほ、と軽い調子で手を上げて挨拶されて脱力する。
メッセージに『早く終わったから、放課後デートしようね。迎えに行くから』という決定事項を送られてきたのである。確かに予定はなかったが、こうも急ではびっくりする。
皓子が現われると、囲まれて遠巻きに見られていたアリヤは、これ幸いと皓子の手を取って歩き出した。
「会いたくなって、皓子ちゃんのところに行きたいなあって思って道を聞いたら、みんな親切にこの高校まで案内してくれたんだ。運が良くてよかったな」
「そして私相手なら、やっかまれないし?」
「やだな。皓子ちゃんの力があれば、堂々と俺の彼女って自慢できるでしょ。こうして一緒に歩けるの、すごく良い」
アリヤが悪戯っぽく笑って、どこに行くと問いかけてくる。
きらきらと好奇心に瞳をきらめかせて、幸せを信じてやまない表情で、皓子の手を握って揺らす。
確かに、相手から見られはするがあれこれ言われないのはマシだろう。アリヤの言うとおり堂々と一緒に歩いて好きだと言い合えるのは、決して嫌ではない。
「そうだね。堂々とできるっていいかもねえ」
確かめるように握り返して、皓子も同意して笑った。
了