R-15
S07B5 クルージング
銚子マリーナに来た。
東京を離れるほど有機的で不規則な曲線が増えて、終着点の海では再び水平線の直線になる。
風を遮るものが何もない海だ。冷えた空気が潮の香りを運び、容赦なく体温を奪う。片や地域の特産品、片や命を左右する熱量。割高すぎる押し売りでも相手が大自然となれば対抗策は限られる。兎田はコートの隙間を押さえて、風から身を守る。
約束の場所は明らかだった。遠目で明らかに船が並んでいる。海上にも、陸上にも。そのすべてが誰かの所有物だ。車を車庫に入れるのと同じく、船はマリーナに停泊する。
免許に十万円ほどと、船に四千万円ほど。それだけあれば誰でも船を持てる。
手を振る男が一人。声は風がかき消したか、最初から何も言ってないか。
普段と同じく背広姿の彼は竜胆辰臣、兎田がいるキャバレーやマンションの支配人にして、今日のクルージングの主宰者だ。
「支配人様、お待たせしました」
「よい。何か掴んだものでもあれば」
低い声が心地よく響く。掴んだものを挙げられない不甲斐なさが浮き彫りになる。
マリーナの係員の誘導に従い、船が太平洋へ出る。水平線が伸びて、水平線ではない線が縮む。大口が閉じていくようにも見える。
竜胆は涼しい顔で船を進めた。兎田は陸地を眺めた。
クルーザーが通った跡に白い泡が浮かんでは消える。クラゲだかレジ袋だか曖昧な影が流されていく。
「揺れるぞ」
竜胆が促すままに掴まり、少し大きな波を乗り越えた。陸にはない揺れ方も体幹と足の指に力を込めてやり過ごす。
クジラの潮吹きが陸の遠さを教えた。
竜胆はエンジンを切った。大海原で揺れるに任せて、念のために盗聴器を確認した。
風の音と、いくらかの水の音と、鳥の鳴き声。何もない空間でたった二人、開放的な閉鎖環境が仕上がった。
「竜胆様」
すでに準備はできている。兎田は目で口ほどに物を言った。
秘密の話が始まる。
「情勢の話から始めよう。端的に言うなら、破滅への道だ」
竜胆の声は風の中でもよく通る。昨今の世界を騒がせる諸々を兎田も理解している。メディアで見える範囲と、現地を歩いた誰かの声で。
世界中で様々な問題が渦巻いている。情報網の充実があらゆる問題を世界中に伝えて、それを読んだ人々が次の問題を起こす。時を重ねるごとに拡大した果てに今があり、これからも拡大は続く。竜胆はそれに一石を投じようとしている。
日本の福祉、北朝鮮のミサイル、中国深圳の戦略、台湾近海の軍事、ロシアの熱風、インドの人口、アフガニスタンの政争、アゼルバイジャン・アルメニア間の戦争、ロシア・ウクライナ間の戦争、スウェーデンの生活、ソマリアの内戦、ケニアの公共物、アメリカ北東部の利権運動、アメリカ南部の移民、ブラジルの疫病施策、地球温暖化、資源の枯渇。
竜胆はそれらの共通項を挙げた。複数の裏にある思惑でまとめて、思惑同士を再びまとめて、繰り返してひとつの結論へ向かう。
源が痩せ細るとか、過去の水準へ後退するとか、それらに竜胆の関心はない。
「私の目的は破滅の回避だ。実行のための手足を求めている。その一人が、兎田くんだ」
「世界平和を標榜なさるように聞こえますわ。いかに竜胆様とは言えど、大きすぎるようにも」
誰からでも何度でも言われ続けたであろう指摘だ。竜胆は声なく笑い、続く演説を始める。
「ああ、大きいな。頭だけでは精々が瞬きと恨み言しか出やしない。だから私は手足がほしい。全てと渡り合う手足が。手足を支える肘膝が。肘膝を動かす血液が」
「竜胆様には勝算がある、と」
「その通り。そして同等の武器はすでに世界中で飛び交っている」
「それは?」
「有機的ミサイルだよ」
いくつもの前提知識を要求する暗喩だが、兎田には意味する所がわかった。
ミサイルとは相互確証破壊だ。「お前が核を使ったら俺も核を使う」とお互いに構えて、構えた同士なら問題が小さいうちに手打ちにする動機になる。構えが一方だけなら優位も一方的になり、実質的に無条件の服従になる。北朝鮮で核実験を繰り返す理由だ。対等に渡り合える交渉力を持つために。
ミサイルとは発射台だ。安全な位置から一方的に攻撃する。世界中への影響力を持つには、生身での移動など遅すぎて話にならない。日本で何を動こうと、ブラジルの人には聞こえない。聞かせたいなら、届ければいい。届ける手段となる推進力は一般には高額な燃料だが、安く奪う手段がある。間借りだ。
有機的とは人間だ。どんな機械よりも幅広い環境で動き、自己修復と自己複製と自己保存を自己判断で実行する。人間は道具を使う能力を持ち、同時に道具ではない故の制約を受ける。道具を破壊しても構わないが、人間を破壊するのはコストが大きい。原子力発電所は停めるだけでも十年かかるが、人間を停めるにはそれ以上の時間がかかる。
有機的とは文化だ。誰であっても侵してはならない領域があり、領域を投げ出せばやがて自分たちへも牙を剥く。人間は生きていくために新たな領域を作る。生まれ育ってから学び続けた常識は変わらない。ある者はキリストを、ある者はアラーを、ある者は八百万を、ある者は亡骸を。隣人を信頼する。隣人を警戒する。隠し事はいけない。隠し事は誰にでもある。掃除は高貴な仕事だ。掃除は下賎な仕事だ。主人は男の役目だ。主人は女の役目だ。マッチョが魅力だ、優しさが魅力だ、淑やかさが魅力だ、奔放さが魅力だ。異なる互いを尊重し合うには、人間は弱すぎる。異なる文化に触れ合えば、人間には礫圧が生まれる。優れた数人だけなら馴染めるかもしれない。忍耐強い者なら強引にでも衝突を防ぐ役目を担える。彼らの目が届かない所で、凡庸な多数が問題を起こし続ける。
「ですが竜胆様、鉱脈は一体? 既存のそれぞれは中国とロシアとベラルーシあたりで押さえつくされていますが」
「その通り。ではどこから持ち出すか。君もよく知る存在だよ。灯台下暗し、と言うやつか」
竜胆は満足げに、得意げに、今回の見せ場を語った。
「鉱脈は、君だ」
兎田を送り込む。正確には、同類を集めて送り込む。各地に支部を作り、新たな人材を獲得し、必要な場所へ派遣する。
「外見で惹き寄せ、話術でターゲットへ取り入り、秘密を盗み出したり始末したり、と。ハニートラップ専門の組織ですか」
「部門だ。他の部門をいくらでも増やせるよう、最初の手がほしい。そのひとつが君だよ、兎田卯月くん」
竜胆は他の部門の例を挙げた。漫才師、バーテンダー、福祉団体、運送業、メイド、印刷業、作家、演劇団、手品師、化学研究者、時計職人。兎田と同じフロアに住む全員と、さらに別のどこかだ。竜胆なら加えて、挙げなかった奥の手がいくつもある。
「私の役目は教育も多そうですわね。ちょうど練習もさせていただいて」
「話が早くて助かる。見込み通りだ」
「資金源は?」
「世界中から」
巻き上げろ。金を自分で払うのは貧乏人の発想だ。金は持つ者が払う。一の金があれば、それで百の金を盗める。自分の手元には、元手となる一だけがあれば事足りる。
「竜胆様、そのお話」
「答えは」
竜胆は遮った。言葉は繕える。必要なのは筋が通るものだ。
「行動で聞く。四月に客船でのパーティがある。それまでの三ヶ月間で心残りをすべて清算するといい。しばらく日本には戻れないぞ」
兎田は口を結び、全身で頷いた。
「ご期待ください、竜胆様」
クルージングは帰るまで続く。これから長く共にする相手との親睦を深めた。
やがて使う日が来る。